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同床異夢と韜晦

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 中学二年生の私は、中間テストの前日、ふいに唇を奪われた。
「っ……」
 不意打ちだった。なんの予兆もなかった。あまりに驚き身動きが取れなかった。目をつむる暇もなかった。教室のなか、私とこの男、ふたりきり。下校時間。窓からさす目がくらむほどの赤い夕暮れ。優しく触れる唇の感触。血の味が伝わってきた。

「誰かに話したらチャンプを殺すよ」

 心臓が爆発しそうな私。そんなことはお構いなしで、穂積ほづみようはいった。というかおどされた。あまりに急展開過ぎてなにもついていけていないけれど、このキスのことを私が誰かに話すと、穂積ほづみはうさぎ小屋のうさぎ「チャンプ」を殺すらしい。
 私は硬直こうちょくするしかなかった。いまなにをされた? 意味がわからないし、理解が追い付かない。
 なぜキスされたのかわからなければ、なぜうさぎを殺そうとするのかもわからない。
 どういう意味でどういう意図なのか……。

 穂積ほづみが離れると、ふわり、いい匂いがした。
 口のなかに残る血の味。目にかかるほど長い穂積ほづみの髪が舞うように揺れて、私は思わず見とれてしまった。
 教室のドアが弱々しく閉まった。私は穂積ほづみに置いていかれた。
「なんだったんだよ……」

 帰り際、うさぎ小屋を見ると、チャンプがいなくなっていた。



 なんだったんだ、という感じで家に着いた。
 穂積ほづみ素行そこうがいい。成績もいい。人受けや顔もそう悪くはない。ただなにを考えているのかわからないところがある。親が厳しいらしく風紀を乱すようなことをしない。目が隠れるほど長い前髪の印象や、いつもマスクを外さないからか、また夏でも紺色の学生服をボタンの一番上までめて着ているからか、明るくは見えないけれど、私は嫌いじゃなかった。
 いい人だなと思うこともあった。ただプライドが高そうだといわれ女子からは人気がなかった。紳士的しんしてきな一面があることを私は知っていた。ニキビ跡を隠すためかマスクのしたにいつも絆創膏ばんそうこうを貼ったその男は、私と同じ飼育係の担当で、みんなに見つからないように、よくうさぎへご飯をあげていた。優しいんだなと思っていた。
 だからこそ「そのようなこと」をするだなんて、想像もしなかった。

『誰にも話してないよね?』

 部屋で勉強していると、そんなLINEが送られてきた。キスのことか、うさぎのことか、どちらだろうか。
 写真が添付てんぷされてきた。そこに写る穂積ほづみの手、一羽のうさぎと自宅のような部屋。つまり人質。
 どうやら本当にうさぎを誘拐ゆうかいしたらしい。
 すこし穂積ほづみの言葉が現実味を帯びる。怖さが増してくる。
 LINEが連投される。
『このうさぎって』
『解体してもいいかな?』
『うまそう』
 なにひとつ理不尽りふじんではないことがない。目的がわからない。殺す理由もわからない。食べたいのか、楽しみたいのか。それとも私をおどかしたいだけなのか。

 わからないまま、三時間、四時間。LINEが届き続けた。

 わからないのが怖かった。なにもわからない。私は明日の中間テストに備えて早く眠ろうとしていたのに、落ち着かない。それどころかどんどん切羽詰せっぱつまってくる。
 夕方から電話も鳴り始めた。私は電話に出ていない。そして誰にもそれを相談できていない。
 LINEはあいつからの通知が「九十九件プラス」だ。九十九件以上は省略しょうりゃくされて通知される。
 怖いけれど、知りたくもあって、不気味な発想をつき離そうとも思わなかった。血の味の正体が知りたかった。どういう発想で、なにがしたいのか。好かれているのか、嫌われているのか……。

 勉強の手が動かないまま三時になった。
 穂積ほづみはまだ送り続けてくる。私はなにも送り返せない。

 私はベッドのなかであいつのことを振り返った。眠れない。
 どうしてこんなことをしてくるのだろうか。
 チャンプが、私が、彼にいったいなにをしたというのだろう――。



 翌日。豪雨。傘を折られてしまいそうなほどの強い風。恐怖を抱きながらも学校へ行った。寝ていなかった。というか寝かせてもらえなかった。足取りが重かったけれど、なんとか教室まで辿り着いた。
 まだ誰も教室には着いていなかった。早く中間テストを終えて、すぐにでも家に帰りたかった。願うことなら穂積ほづみに会わず、話しかけられず、なにごともなく過ごしたかった。
 雨風の音が窓ガラスを強く叩く。不穏ふおんを暗示しているように思えた。

 ニ十分もせず、穂積ほづみは教室へ現れた。

 からからと力なく開くドア。音でわかった。私はその音に、はたと穂積ほづみのほうを見る。
 一瞬目が合った。顎にマスクをして穂積ほづみは余裕の表情……。
 やばいと思って窓の外の風景を眺めた。土砂降りで窓の先はなにも見えなかった。
「なんで来たの」
 どうして来たの、面白いね。くらいの感じで話しかけられた。
 椅子いすに座った私は、毛先を雨に濡らした男に煽られている。
「なんでって……」
 混乱こんらんする私のことなどお構いなしに、男は私の目の前までやってきて、もう一度いった。
「なんで来たの?」
 あきれられているくらいの感じだった。私はどうしてそのようにいわれるのかがわからなくて、意味不明であったけれど、なんとなくそこには、切実せつじつそうなひびきがあったようにも思えた。
「テスト……受けに、きたんだよ……」

 おそるおそる私がそういうと、穂積ほづみは怒りの表情を浮かべていた。そう窓ガラスに写っていた。目を細くし、眉間みけんしわを寄せ、噛みつかれそうだった。

 私は怖くなって下を向いた。
 穂積ほづみはそのまま自分の席に座り、私にLINEを打ってくる。
『いいの? チャンプは』
 なおも私を脅そうとする穂積ほづみ
 雨音に包まれる教室。
 目を合わせない私たち。

 私は逃げ出したかった。一体どういうことなのか、穂積ほづみを質問責めにしたかったけれど、怖くてそれができなかった。昨日の放課後からずっと頭のなかでグルグル疑問が回ってそろそろ限界だった。今日穂積ほづみはチャンプをどうしてきたのだろう。まさか殺して来ていたりはしないだろうか。昨日のキスはなんだったのかさっきのはどういうことなのか私になにがいいたかったんだ私に学校に来ないで欲しいってこと!?

「……あ」

 私の頭のなかでなにかが繋がった。
 その瞬間、こんなLINEが届いた。
『帰ってくれよ』
 私はそのLINEに心を痛めた。



 ーー中間テストの一週間後。
 テストの結果が廊下に掲示された。私、清水明日哥あすかは学年で一位。穂積ほづみは二位だった。
 放課後、掲示板に貼りだされたその輝かしい功績こうせきを見ていると、穂積ほづみがゆっくりと近付いてきて、優しい笑顔を浮かべながらいわれた。
「よく来られたね。中間テスト」
 やけにあっけらかんとしていうので、よく来られたねじゃねーよ、と罵倒ばとうしてみせたかったけれど、また怖い穂積ほづみに戻られたくもないので言葉を飲んだ。
穂積ほづみくんさぁ……」
 一週間経って、私のなかには穂積ほづみを傷つけたくないという想いも芽生えていた。
 すでに全部わかっていた。本人からなにか説明を受けた訳ではないけれど、私には、私の想像について「たしかめ」をする時間が必要だった。
「いつうさぎを返したの」
「チャンプなら最初にLINEを送ったあと、すぐに返しに行ったよ」

 ということは、うさぎになにかしたかった訳ではなく、私を学校に来させないためだけに、私にキスをして、チャンプを家に連れ帰り、あんなLINEを送り続けていた訳だ……。

「ハァ……それでなに? 殴られたの?」
 私がそれをいうと、穂積ほづみはマスクの裏で吹き出すように笑って優しそうにいった。
「頭がいいだけじゃなくて想像力もあるんだね。っていうかそんなことまでわかってるんだ」
 私は穂積ほづみにはぐらかされないよう、彼の腕を引き、階段の踊り場まで連れていった。
 放課後のこの場所は死角になって人がこない。
 穂積ほづみは私にいわれて、シャツを捲り、その身体を見せた。
「ひどい……」
 やせ細った身体にはびっしりと痣があった。見ているだけでこちらが痛くなってくるような傷、傷、傷。だから穂積ほづみは学生服を脱がなかったようだ。
「ひょっとして、私が中間テストで一位を取るだろうって、穂積ほづみくんの親はわかってるの?」
「もちろん。毎日比べられるよ」
「……なるほどね」
 だから穂積ほづみは私のことを妨害ぼうがいしたかった。私がテストで一位を取ることがわかっていたから。私が登校しなければ自分が一位になることができ、穂積ほづみは親から虐待ぎゃくたいを受けずに済んだのだろう。
 私の胸中には申し訳ないくらいの気持ちがいてきてしまった。そもそも私も満点を取っている訳ではないし、私がいなかったからといって、ほかの誰かが穂積ほづみよりもいい点数を取ることもあるかもしれない。つまり穂積ほづみの努力次第といってしまえばそうなのかもしれないけれど、私が目のうえのたんこぶになってしまっているという事実は拭えなかった。
 同じようにテストで一位を取ることを志しているはずなのに、どうしてこんな風に違えてしまったのだろうか。それにこんなに嫉妬されているなんて全然考えていなかった。中間テストで一位が取れたことに対する名誉めいよはもちろんあるけれど、これほどまでに心残りがある学年一位は初めてだった。
「……え、じゃあ、あの……キスはなんだったの?」
「キスしとけば動揺して学校来ないかもしれないでしょ。全体的になに考えてるかわかんない男でいたいなぁって思ったら、キスしちゃうのが手っ取り早くてさ」
「は、はぁ!?」
「でも動揺したでしょ? 学校来るのも怖くなかった?」
 などといいながら穂積ほづみはボタンを閉め、私の動揺する表情に笑っていた。
 確かに動揺した。全然眠れなかったし、答案用紙を書く手が震えた。中間テストにベストを尽くせたとも思えなかったしドキドキしていた。
 しかしいま私が抱いているいらだちを汲み取っては貰えないものだろうか。
 それに、この気持ちをどうすれば……。

「……っ!」

 などと思っていると、また唇を奪われた。
 またもや可哀想な血の味。血の匂い。腰に手を回され逃がしてくれない。
 階段に差す西日が赤くて、穂積ほづみの顔がなにも見えなかった。
 遅れながら目をつぶる私。
 あぁ、やっぱり私のことが好きなのか。そう思うとすこし安心した。
 スマホの音。パシャ。

 ……パシャ?

「ちょっとなに撮ってる……」
「ねぇこの写真さ、この子を妊娠させましたって書いてお母さんにLINEしていい? そしたらお母さん卒倒そっとうして考え変わるかもしれない」
「……」
 クズの発想。ただこの男が悪い訳でもない。ほんとに妊娠する訳でもない。
 けれどもし、この男が虐待されていなければ、そもそもキスしてこなかったのか、それともキスの口実か。疑問が残る。私のことが好きなのか、それとも利用したいだけでどうでもいいのか。単に都合がいいだけか。甘えられているのか。
 正直ぶ男だったら殴り飛ばしているかもしれない。それに穂積ほづみの身になって考えると、私の想いなんて考える余裕などないのかもしれない。いずれにしても私は軽んじられているのだろう。
 けれど、私はこの行動力と発想力に、すこし興味があるかもしれない。
「……いいよ」
 腹は立ったけれど、私は穂積ほづみにそれを送ることを許可した。

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