手折らぬ獣と落つる花

山田まる

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 世界には、三種類の人間と、無数に枝分かれした一つの異物が存在する。
 正確には、その異物に対抗すべく、人類は三種に別れたのだ。

 異物の名を、『人外』と称するとしよう。
 『人外』とは、『人から外れたモノ』であり、『人ではないもの』の総称だ。

 もちろん人ではないからといって動物や植物であるわけでもない。
 人の形をしていても人に在らず、動物や植物の形をしていてもそうではない。

 そういった分類不可能なよくわからないものを総称して、『人外』とまとめているのだ。
 おそらく、人の形をして人の社会に溶け込み、人に近づいてから人に害を成すタイプのものが多かったからこそのその名称だろう。

 『人外』たちは、人を愛している。

 彼らの多くは人と関わらずに生きていけるだけの能力を有しているにも関わらず、不思議と人間に関わりたがる。
 だがそれは、無邪気さ故に残酷な子どものような愛だ。
 大好きな人形を力一杯へしゃげるほどに握りつぶす子どものように、好奇心故に昆虫の足をひとつひとつもいでいく子どものようなそれだ。

 『人外』たちの暴力的かつ猟奇的なまでの愛に対抗する形で人類が進化を遂げたのは、きっと当然のことだったのだろう。

 人の中に『人外』との混血が多く現れるようになったのも、きっと。
 『人外』たちの人に寄せる執着を『愛』と呼ぶのはその為だ。
 彼らは一として完成された強さを有していながら、人に執着する。
 そうして人類の中には、人でありながら『人外』の力のかけらを継ぐものたちが現れた。
 彼らは人の倫理観をもち、人として正しく人の中に混ざって生活するだけの共通の価値観を持ち、人類への同胞意識を抱きながらも、それでも『人外』の能力を発露させた。

 そんな彼らを、最初に『いばら』だとか『あざみ』と呼び始めたのは『人外』たちだった。
 戯れに手折ろうとした花に棘があった、というようなニュアンスで、呼び始めたのだ。
 自然とその呼び名は広がり、いつしか彼ら自身もまた『茨』と名乗るようになった。
 彼らは『人外』の及ぼす害から人を守るのと同時に、なんとかして共存をなしえないかと模索し始め―――人と、『人外』の混血が一気に進んだのはこの時期だ。
 大好きな人間とともに生きるためには多少の我慢が必要だと学んだ一部の『人外』たちは、人が定めたルールをある程度は受け入れるようになったのだ。
 さもなければ、人類の敵として『茨』に狩られるだけだ。

 しばらくの間、人類にあった区別は『茨』とそれ以外の二種だけだった。

 だが、人類と『人外』の混血が進むにつれてさらなる細分化が必要になった。
 次に名前を得たのは、『人外』の血を継ぐことなく存在する純粋な人間たちだった。
 それは、純然たる人間種と人と『人外』の混血の数の逆転を示す証左でもあった。

 めっきり数の減った彼らは、『花』と呼ばれた。

 そして残りの、『人外』の血を継ぎつつも異能を発露させることのなかった人々は『常緑とこみどり』と呼ばれるようになった。
 『茨』にも『花』にもならぬ常に変わらぬ『緑』であり、次世代の『茨』を育む可能性を秘めた『床』でもある。
 『茨』や『常緑』が『人』の血を取り込むことで『人外』への耐性を手に入れる方向に進化した新たな人だと言うのならば、『花』は人としての純度を保ちながら、それでも生き延びる方向に進化した新たな人だと言うことが出来るだろう。

 『花』は、『人外』に媚びることで共存を目指した人類の進化形だ。
 『人外』を強く魅了し、その子を孕むことで子孫を残していこうというのがその特性の一つだ。
 『花』は男女の性差なく、『人外』及び全ての人類の子を孕むことが出来る。
 そして、そんな『花』が産み落とす子は親の血を継いだ『茨』かもしくは『花』だ。
 『人外』を魅了し、その子を産み落とすという役割を果たしながら、自らの血統もその子どもの中に混ぜることにより、『花』は人類を存続させようとした。
 『花』は性的に成熟する年齢になると、自らの庇護者を求めてフェロモンを放つようになる。
 強い雄を求め、魅了し、その保護下に入ることで子を成し、育て、自らの血脈を絶やさぬようにとするのだ。
 その性質は、『人外』への耐性を手に入れたことにより『茨』同士、もしくは『茨』、『常緑』間で子を成すことが難しくなったその他の人類にとっても歓迎された一方で、『花』を天敵に媚び、子を産むことしか脳のない卑しい旧人類として蔑視するものたちもいる。

 それでも今日も「ひと」はたくましく生きている。
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