20 / 34
第二十話
しおりを挟む
茫然と亡者の如く立ち尽くすルークは、今までのナタリーとの思い出が一気に頭を駆け巡り、様々な感情が堰を切り、泣くでも騒ぐでも無く、静かに膝から崩れ落ちた。
目の前の肉塊は物を言わない。赤黒い血溜まりから小川のように血の線が流れる。辺りは鬼哭啾々とし、夜闇は真っ黒な葬式の幔幕のようである。
不意に、ルークの後ろから、
「姐さーん。姐さーん」
と言う声が聞こえる。彼方から人影がこちらに向かって近付いて来るが、ルークにはそれを見る元気も無かった。ただ魂の抜けた人の如く、茫然と死骸を見下ろしている。
やがて声の主である少女は、彼の元へと来た。そして、死骸を見るや否、
「姐さん、姐さんっ。どうしてっ」
と、慟哭して血に汚れるのも厭わず、それに縋り付いた。
姉さん、という言葉にルークが訝しんでいると、少女は、あなたがやったのね、と懐剣を抜いてルークに突いて掛かった。
ルークは、慌てて身を躱し、
「ち、違うよ。僕は旅人で、今通り掛かったんだよ。僕は君の友達を殺してなんていないよ」
「嘘だっ。何か証拠でもあるのっ」
「証拠になるかは解らないけど…」
と、ルークはおもむろに佩剣を抜いて見せた。夜の晦冥の中でも、閃々と眩い光を放つ彼の剣は、一点の血の跡も脂の曇りも無い。
純粋無垢の心の如く輝きを放つ剣を見、またルークの衣服に血の跡が無いのを見た少女は、ようやく疑いを解いた様子。だがその代わりに、夜の静寂を破る哀号を響かせた。
ナタリーのものより色の薄い紅髪を戴く少女は、姐さん姐さん、という言葉だけを繰り返し、滂沱に滂沱を加えたような涙に、自分の周りの土を濡らしている。
「ねえ君…その人はナタリーじゃないんだよね? 」
「ナタリーって誰? この人はあたしの姉みたいな人だよっ。この首飾りはあたしが作ったんだからっ」
「そうなんだ…ごめんね。僕がもう少し早く此処に着いていたら…」
と、ルークはまるで自分の身内の事のように悄然としている。彼も義父のような主人を亡くしているので、姉を理不尽に亡くした少女の悲哀に同情しているのだ。
少女は、肩を震わせながら頭を振り、あなたの所為じゃない、と言って先の狼藉を詫びた。
ルークは、ふと少女の姉を殺めた男を思い返した。背丈体格と云い、声と云い、紛れも無く彼の脳裏に焼き付くハーラ・グーロであった。
「ごめんっ。きっと君の姉貴分は、僕の知り合いだと間違われたんだ。此処に待ち伏せしていた奴が、紅髪だから人違いしたんだ」
「あなたが謝る事じゃない。それに…もう姉さんは帰ってこないんだから…」
と、少女はまたさめざめと泣き始めた。ルークは小一時間ばかり、傍らで何も言わず立ち尽くしていた。
やがて落ち着いたらしい少女は、泣き腫らした面で
「ごめんね…足を止めさせちゃって。あたしはルイーゼって言うの。あなたは? 」
「僕はルーク。ルーク・ブランシュ」
二人は互いに名乗り合った後、憐れなルイーゼの姉の肉片を拾い集め、教会の中庭で埋葬した。
事の行きがかり上、ルークはルイーゼに力を添えていたので、ナタリーの後を追うことは一時諦めねばならなかった。
――窓の外から痛烈な氷雨が吹き込み、木剣が火をほとばしらせる冬が来た。凛烈肌を破る寒気こそは、嫌が応にも生物の本能を呼び覚ます。無論、人間も例外ではなく、冬の剣術道場は、五体から焔も立つばかりな覇気横溢の剣士達が、氷のように冷たい床の上で凄絶な雄叫びを上げている。
此処はシェジーの街にある一道場。そして三百とも称される門弟の最下層に、数ヶ月前からルークもいた。ルイーゼに伴われて、此処の師範に入門を願い出た彼は、どういうわけかは解しないが、二つ返事で承諾された。
ルークは、初めて名師に教えを請える、と喜んでいたのだが、待っていたのは下働き。彼のような末輩、いや彼のみは、木剣を振るう、偶に試合の陪観を許されるの他、教えを願い出る事も許されなかった。
それのみならまだしも、入門してからというものの、石畳の拭き掃除、訪問客の取り次ぎ接待、食事の準備、荷担での水汲みに至るまで、道場の雑用に使用人の如くこき使われるのだ。
「冷たいなぁ…冷たい…」
氷柱のように冷え切った縄釣瓶を掴み、井戸から水を汲んでいたルークは、未だ慣れぬ業の為、あかぎれの目立つ両手に息を吹きかけていた。
おいっ、と言う怒鳴り声が聞こえる。ルークは、はっとして、
「あ、師範が起きたんだ。早くしないとっ」
と、水桶を持って危うげな足取りで向かっていった。これがその昔、すぐに涙を浮かべてナタリーに慰められ、望んで外に出ることが殆ど無かったルークかと思えば涙ぐましくもある。
やっと師範の元まで向かうと、頭の上から、
「この横着者の小僧っ。何故水を切らしておくのだっ」
と、寝起きの不機嫌に任せた師範の怒鳴りが聞こえた。しおらしい態度で謝りつつ、ルークが盆に水をなみなみと注いで、師範の前に差し出すと、何ぞ測らん、彼は盆を蹴りつけた。
ルークは、あっと言っただけで、次の一瞬には頭の上から冷水を全身に浴びせられていた。
烈寒の空気、浴びせられた氷の衣。ルークは、思わず身を震わせた。師範は、さも愉快そうに、
「寒いか、莫迦者っ。剣士たる者が、かような油断とは片腹痛い。早く汲み直して来いっ」
「わ、解りました」
と、ルークが急ぎ足に汲み変えた水を持って行くと、今度は師範の木剣が、唸りを上げて彼の頬を打ち据えた。うわっ、とルークは凍った石畳の上に叩きつけられた。
師範は、ルークの醜態を指差して嘲笑い、罵詈雑言を吐き散らして奥へ入ってしまった。こんな事が此処に来て以来絶えないのである。その上、理由は解しないが師範はルークを眼の仇にしていらしく、事ある毎に苛むのである。
ルークも流石に、悲痛の唇を噛んでいたが、雄敵コジロウ・ミヤモトの姿を脳裏に描いて、これも修行だ、と苛烈な仕打ちにも耐えているのである。
そんなある日、一人の剣客がこの道場を訪ねて来た。
滅多に他流試合の申し出を受け付けないこの道場で、珍しくその剣客と師範とが手合わせする事になった。余りに異例の沙汰に門弟達は驚き、後学の為に、と犇めき合った。
「一体誰なのだ。先生御自身が手合わせなさるとは」
「今、奥の部屋で先生と話しているらしいぞ」
「誰であっても、試合になれば解るさ、行こう」
様々な噂をしながら、門弟達は普段は稽古をする石畳の広場に集まった。ルークも、人垣の外から木に登って様子を見ている。
木剣の用意もすっかり整い、後は剣客を待つばかりである。やがて、師範と並んでやって来て、一同に立派な会釈をした一人の剣客。
ルークは彼の顔を見て、思わず木から滑り落ちそうになった。意外や意外。少なくともルークに取って、これ以上の意外は無い。
一同に会釈をした後、静かに床へ正座した者こそ、かのコジロウであったのだ。
黒漆の長髪に涼やかな眼元、痩身長躯の美丈夫。ルークの血相は物凄い緊張に沸き立ち、身体は岩の如く硬くなり、双眸だけ動かしてコジロウの姿を追っている。
叫ばずとも、狂わずとも、ルークの様子は尋常では無い。寂寞とした門弟達の中で、ルークは一人、恐るべき激情の炎に燃えているのだ。
勝負は進んで、高弟二、三人が鮮やかに打ち込まれ、道場の錚々たる面々を率いる師範までもが、さまで時を掛けずして、コジロウの精妙に敗れてしまった。
師範は、数ヶ月前のギョーム男爵領での真剣勝負の噂をかねてより聞いていたので、
「ああ、流石はコジロウ・ミヤモト。絶妙極まる神剣には恐れ入りました。どうでしょう、此処に残って我々に剣技を教えて下さらぬか」
「お言葉は有難く頂戴致します。しかし、拙者は流浪の身の上、未だに剣術未熟。どうして人に教えなど出来ましょうか。それに、今は一カ所に留まる気にはなりませぬ」
「それならば是非も無いが…ご出立の際には、また訪ねられよ」
「忝のうございます。ではご一同、失礼致す」
と、コジロウは平伏した後、静かに出て行こうとした。その時、諸人の耳を劈く一声が響いた。
待てっ、と言う大声に、一同は眼を見合わせて誰か誰かと狼狽え合う。ただしんと互いに息を飲んでいた、すると再び、
「コジロウさんっ。待って下さいっ」
と叫んで、夢中で躍り出して来た少年を、新人のルークであると知った一同は、この痴れ者、恥を知れ、と蝟集して彼を取り押さえ、さながら刃傷松の廊下の如くである。
ルークは、必死の形相で剣を確と握り、一勝負だけでも、と叫んで止まない。
つかつかと歩み寄ったコジロウは、彼をじっと見、
「彼をお離し下され。拙者と勝負がしたいと、かようなまでの形相。断るのも忍びないです」
と言った。
白皙蒲柳のルークを睨み付け、再び広場に立ったコジロウ・ミヤモト、峻烈な声を上げて曰く、
「ルーク・ブランシュ! 準備は良いであろうな! 」
「勿論っ。いつでもっ」
ルークも、肺腑を刺すような相手の声に負けじと大声を上げた。一念迸る所、自ずから凜々たる気概があって、恐怖心を覆い隠している。
しかしコジロウは、焦心するルークの出足を挫いて、
「違う! 身支度では無い、形の支度では無いっ。心の用意、即ち剣術修行は確かにしてきたのかと申しているっ」
「当たり前だっ。あなたの剣の所為で殺されたフロリアン様の恨み、僕の仇討ちの念が、この木剣にこもっているんだ」
「良し! その言葉忘れるなっ。仮借はせぬぞ、いざ! 」
双方は床を蹴って左右に分かれた。
コジロウは刀を中段に構え、拇で地面を噛む。ルークは、拝領の剣を片手に構え、じりじりと精魂を柄に絞って、乾坤一擲、必死以上の形相で詰め寄る。
鍛錬千磨の末に得た自得の構え、これはただ一念一心に燃える炎の剣とも言って良い。ルークの最念力がコジロウを破るか、コジロウの錬妙の剣技が彼を破るか、心ある者が見れば、この試合こそ、またとない大試合である。
目の前の肉塊は物を言わない。赤黒い血溜まりから小川のように血の線が流れる。辺りは鬼哭啾々とし、夜闇は真っ黒な葬式の幔幕のようである。
不意に、ルークの後ろから、
「姐さーん。姐さーん」
と言う声が聞こえる。彼方から人影がこちらに向かって近付いて来るが、ルークにはそれを見る元気も無かった。ただ魂の抜けた人の如く、茫然と死骸を見下ろしている。
やがて声の主である少女は、彼の元へと来た。そして、死骸を見るや否、
「姐さん、姐さんっ。どうしてっ」
と、慟哭して血に汚れるのも厭わず、それに縋り付いた。
姉さん、という言葉にルークが訝しんでいると、少女は、あなたがやったのね、と懐剣を抜いてルークに突いて掛かった。
ルークは、慌てて身を躱し、
「ち、違うよ。僕は旅人で、今通り掛かったんだよ。僕は君の友達を殺してなんていないよ」
「嘘だっ。何か証拠でもあるのっ」
「証拠になるかは解らないけど…」
と、ルークはおもむろに佩剣を抜いて見せた。夜の晦冥の中でも、閃々と眩い光を放つ彼の剣は、一点の血の跡も脂の曇りも無い。
純粋無垢の心の如く輝きを放つ剣を見、またルークの衣服に血の跡が無いのを見た少女は、ようやく疑いを解いた様子。だがその代わりに、夜の静寂を破る哀号を響かせた。
ナタリーのものより色の薄い紅髪を戴く少女は、姐さん姐さん、という言葉だけを繰り返し、滂沱に滂沱を加えたような涙に、自分の周りの土を濡らしている。
「ねえ君…その人はナタリーじゃないんだよね? 」
「ナタリーって誰? この人はあたしの姉みたいな人だよっ。この首飾りはあたしが作ったんだからっ」
「そうなんだ…ごめんね。僕がもう少し早く此処に着いていたら…」
と、ルークはまるで自分の身内の事のように悄然としている。彼も義父のような主人を亡くしているので、姉を理不尽に亡くした少女の悲哀に同情しているのだ。
少女は、肩を震わせながら頭を振り、あなたの所為じゃない、と言って先の狼藉を詫びた。
ルークは、ふと少女の姉を殺めた男を思い返した。背丈体格と云い、声と云い、紛れも無く彼の脳裏に焼き付くハーラ・グーロであった。
「ごめんっ。きっと君の姉貴分は、僕の知り合いだと間違われたんだ。此処に待ち伏せしていた奴が、紅髪だから人違いしたんだ」
「あなたが謝る事じゃない。それに…もう姉さんは帰ってこないんだから…」
と、少女はまたさめざめと泣き始めた。ルークは小一時間ばかり、傍らで何も言わず立ち尽くしていた。
やがて落ち着いたらしい少女は、泣き腫らした面で
「ごめんね…足を止めさせちゃって。あたしはルイーゼって言うの。あなたは? 」
「僕はルーク。ルーク・ブランシュ」
二人は互いに名乗り合った後、憐れなルイーゼの姉の肉片を拾い集め、教会の中庭で埋葬した。
事の行きがかり上、ルークはルイーゼに力を添えていたので、ナタリーの後を追うことは一時諦めねばならなかった。
――窓の外から痛烈な氷雨が吹き込み、木剣が火をほとばしらせる冬が来た。凛烈肌を破る寒気こそは、嫌が応にも生物の本能を呼び覚ます。無論、人間も例外ではなく、冬の剣術道場は、五体から焔も立つばかりな覇気横溢の剣士達が、氷のように冷たい床の上で凄絶な雄叫びを上げている。
此処はシェジーの街にある一道場。そして三百とも称される門弟の最下層に、数ヶ月前からルークもいた。ルイーゼに伴われて、此処の師範に入門を願い出た彼は、どういうわけかは解しないが、二つ返事で承諾された。
ルークは、初めて名師に教えを請える、と喜んでいたのだが、待っていたのは下働き。彼のような末輩、いや彼のみは、木剣を振るう、偶に試合の陪観を許されるの他、教えを願い出る事も許されなかった。
それのみならまだしも、入門してからというものの、石畳の拭き掃除、訪問客の取り次ぎ接待、食事の準備、荷担での水汲みに至るまで、道場の雑用に使用人の如くこき使われるのだ。
「冷たいなぁ…冷たい…」
氷柱のように冷え切った縄釣瓶を掴み、井戸から水を汲んでいたルークは、未だ慣れぬ業の為、あかぎれの目立つ両手に息を吹きかけていた。
おいっ、と言う怒鳴り声が聞こえる。ルークは、はっとして、
「あ、師範が起きたんだ。早くしないとっ」
と、水桶を持って危うげな足取りで向かっていった。これがその昔、すぐに涙を浮かべてナタリーに慰められ、望んで外に出ることが殆ど無かったルークかと思えば涙ぐましくもある。
やっと師範の元まで向かうと、頭の上から、
「この横着者の小僧っ。何故水を切らしておくのだっ」
と、寝起きの不機嫌に任せた師範の怒鳴りが聞こえた。しおらしい態度で謝りつつ、ルークが盆に水をなみなみと注いで、師範の前に差し出すと、何ぞ測らん、彼は盆を蹴りつけた。
ルークは、あっと言っただけで、次の一瞬には頭の上から冷水を全身に浴びせられていた。
烈寒の空気、浴びせられた氷の衣。ルークは、思わず身を震わせた。師範は、さも愉快そうに、
「寒いか、莫迦者っ。剣士たる者が、かような油断とは片腹痛い。早く汲み直して来いっ」
「わ、解りました」
と、ルークが急ぎ足に汲み変えた水を持って行くと、今度は師範の木剣が、唸りを上げて彼の頬を打ち据えた。うわっ、とルークは凍った石畳の上に叩きつけられた。
師範は、ルークの醜態を指差して嘲笑い、罵詈雑言を吐き散らして奥へ入ってしまった。こんな事が此処に来て以来絶えないのである。その上、理由は解しないが師範はルークを眼の仇にしていらしく、事ある毎に苛むのである。
ルークも流石に、悲痛の唇を噛んでいたが、雄敵コジロウ・ミヤモトの姿を脳裏に描いて、これも修行だ、と苛烈な仕打ちにも耐えているのである。
そんなある日、一人の剣客がこの道場を訪ねて来た。
滅多に他流試合の申し出を受け付けないこの道場で、珍しくその剣客と師範とが手合わせする事になった。余りに異例の沙汰に門弟達は驚き、後学の為に、と犇めき合った。
「一体誰なのだ。先生御自身が手合わせなさるとは」
「今、奥の部屋で先生と話しているらしいぞ」
「誰であっても、試合になれば解るさ、行こう」
様々な噂をしながら、門弟達は普段は稽古をする石畳の広場に集まった。ルークも、人垣の外から木に登って様子を見ている。
木剣の用意もすっかり整い、後は剣客を待つばかりである。やがて、師範と並んでやって来て、一同に立派な会釈をした一人の剣客。
ルークは彼の顔を見て、思わず木から滑り落ちそうになった。意外や意外。少なくともルークに取って、これ以上の意外は無い。
一同に会釈をした後、静かに床へ正座した者こそ、かのコジロウであったのだ。
黒漆の長髪に涼やかな眼元、痩身長躯の美丈夫。ルークの血相は物凄い緊張に沸き立ち、身体は岩の如く硬くなり、双眸だけ動かしてコジロウの姿を追っている。
叫ばずとも、狂わずとも、ルークの様子は尋常では無い。寂寞とした門弟達の中で、ルークは一人、恐るべき激情の炎に燃えているのだ。
勝負は進んで、高弟二、三人が鮮やかに打ち込まれ、道場の錚々たる面々を率いる師範までもが、さまで時を掛けずして、コジロウの精妙に敗れてしまった。
師範は、数ヶ月前のギョーム男爵領での真剣勝負の噂をかねてより聞いていたので、
「ああ、流石はコジロウ・ミヤモト。絶妙極まる神剣には恐れ入りました。どうでしょう、此処に残って我々に剣技を教えて下さらぬか」
「お言葉は有難く頂戴致します。しかし、拙者は流浪の身の上、未だに剣術未熟。どうして人に教えなど出来ましょうか。それに、今は一カ所に留まる気にはなりませぬ」
「それならば是非も無いが…ご出立の際には、また訪ねられよ」
「忝のうございます。ではご一同、失礼致す」
と、コジロウは平伏した後、静かに出て行こうとした。その時、諸人の耳を劈く一声が響いた。
待てっ、と言う大声に、一同は眼を見合わせて誰か誰かと狼狽え合う。ただしんと互いに息を飲んでいた、すると再び、
「コジロウさんっ。待って下さいっ」
と叫んで、夢中で躍り出して来た少年を、新人のルークであると知った一同は、この痴れ者、恥を知れ、と蝟集して彼を取り押さえ、さながら刃傷松の廊下の如くである。
ルークは、必死の形相で剣を確と握り、一勝負だけでも、と叫んで止まない。
つかつかと歩み寄ったコジロウは、彼をじっと見、
「彼をお離し下され。拙者と勝負がしたいと、かようなまでの形相。断るのも忍びないです」
と言った。
白皙蒲柳のルークを睨み付け、再び広場に立ったコジロウ・ミヤモト、峻烈な声を上げて曰く、
「ルーク・ブランシュ! 準備は良いであろうな! 」
「勿論っ。いつでもっ」
ルークも、肺腑を刺すような相手の声に負けじと大声を上げた。一念迸る所、自ずから凜々たる気概があって、恐怖心を覆い隠している。
しかしコジロウは、焦心するルークの出足を挫いて、
「違う! 身支度では無い、形の支度では無いっ。心の用意、即ち剣術修行は確かにしてきたのかと申しているっ」
「当たり前だっ。あなたの剣の所為で殺されたフロリアン様の恨み、僕の仇討ちの念が、この木剣にこもっているんだ」
「良し! その言葉忘れるなっ。仮借はせぬぞ、いざ! 」
双方は床を蹴って左右に分かれた。
コジロウは刀を中段に構え、拇で地面を噛む。ルークは、拝領の剣を片手に構え、じりじりと精魂を柄に絞って、乾坤一擲、必死以上の形相で詰め寄る。
鍛錬千磨の末に得た自得の構え、これはただ一念一心に燃える炎の剣とも言って良い。ルークの最念力がコジロウを破るか、コジロウの錬妙の剣技が彼を破るか、心ある者が見れば、この試合こそ、またとない大試合である。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
追放された『ただの浄化係』、実は国中の魔石を満たしていた精霊姫でした〜今さら戻れと言われても、隣国のイケメン皇帝が離してくれません〜
ハリネズミの肉球
ファンタジー
「おい、城の噴水が止まったぞ!?」
「街の井戸も空っぽです!」
無能な王太子による身勝手な婚約破棄。
そして不毛の砂漠が広がる隣国への追放。だが、愚かな奴らは知らなかった。主人公・ルリアが国境を越えた瞬間、祖国中の「水の魔石」がただの石ころに変わることを!
ルリアは、触れるだけで無尽蔵に水魔力を作り出す『水精霊の愛し子』。
追放先の干ばつに苦しむ隣国で、彼女がその力を使えば……不毛の土地が瞬く間に黄金のオアシスへ大進化!?
優しいイケメン皇帝に溺愛されながら、ルリアは隣国を世界一の繁栄国家へと導いていく。
一方、水が完全に枯渇し大パニックに陥る祖国。
「ルリアを連れ戻せ!」と焦る王太子に待っていたのは、かつて見下していた隣国からの圧倒的な経済・水源制裁だった——!
今、最高にスカッとする大逆転劇が幕を開ける!
※本作品は、人工知能の生成する文章の力をお借りしつつも、最終的な仕上げにあたっては著者自身の手により丁寧な加筆・修正を施した作品です。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる