二つの世界の冒険譚

アラビアータ

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第一章

第十三話

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 クラウス達はタイざんがある孤島に下りたった。山の周りは背の低い木々に囲まれ、山鳥の鳴き声が絶え間なく響き、獣が茂みを掻き分ける音が何処からか聞こえてくる。いつから人間が訪れていないのであろうか、小さな小屋の跡は微かに見えるが、草ぼうぼうの野原に埋もれ、蕭々と風が吹き抜ける。
 どうしたことか、この島は厚い雲に覆われ、真っ白な膜が大空を覆っている。静寂そのものの霊峰がこのタイ山である。
 クラウスは眼前に聳える、石膏造りの彫刻のように整った霊峰を見上げ、思わず息を吐いた。風光明媚な岩の山、天まで届く嶮峻巍峨。所々に蔦葛が生え、無骨な彫刻に色を添えている。仰げば、屏風のように屹立し、此処だけ時代の外に取り残されているようである。

 クラウス達は、万雷の水音を轟かせ、白霧を濛々と放つ滝壺の脇、古代の登山道からタイ山を登り始めた。滔々と流れる川を横目に、一行は岩の道を歩いて行く。
 クラウスは、ランレイの顔を見て、

「どうした浮かない顔して。これから故郷に帰れるんだろ? 何かあるのか」
「え? な、何でもないよ。何でもないよ…」
「ははぁ…さては、何か隠し事でもしてるんだろっ」
「え、いや、いやっ。何も、隠してないよ」
「そうだな…最近まで寝小便をしていたとかっ」

 ランレイは、ほっと安堵の顔を浮かべたが、すぐに満面朱泥となり、何で知ってるか、と適当に言われたデタラメを肯定してしまい、大恥にぷいと顔を背け、行くよ、と笑っている二人を捨てて歩いていった。
 そんな一行を遠くから黒い影が見据えている。その瞳は真っ直ぐにランレイを見つめ、気が付かれないように一歩また一歩と気配を殺して歩いている。クラウス達は全く気が付いていないようで、語らう三人と追う一人、霊峰は久方振りに珍客を四人迎え入れていた。

 小一時間ほど歩いた一行は少し開けた場所で休息がてら食事を取っていた。ランレイは、あの後すぐに機嫌を直し、常の如く饒舌を振るって休息に興を添えている。
 ソフィアは、

「ねぇランレイ。ランレイはシュピーゲルラントはどういう所なの? 綺麗な場所があったりするの? 」
「うん。ランレイが世界、お日様無い。此処みたいに、いつも曇り。それにいつも寒い。この世界、暑いけど、お日様きれい」
「そうなんだ。ね、良かったら案内してよ。ランレイのお家行ってみたいな。ね、クラウス楽しみだねっ」
「おいおい、冗談じゃねえぞ。ランレイをシュピーゲルラントに送ったら、もう良いだろ。何で違う世界なんかに行かないといけないんだよ。いつまでこんな旅を」

 そう言い終わらない所に地響きが轟いた。岩盤が吠える音がし、轟音一声、クラウス達の足元に真っ黒な影が生えた。それは頭上から落とされる、巨木大岩の響きである。クラウスは、頭上彼方の崖際から離れる人影を一瞬捉えたが、それはすぐに降ってくる凶物に隠れた。
 すぐに彼は跳び退いたが、ランレイとソフィアは無数の瓦礫の向こうに阻まれて、全く見えなくなってしまった。
 クラウスは、おーい、と大声を上げ、瓦礫の壁からはそれに応える二人の声。まずはと一安心。しかし岩々に登山道はすっかり塞がれてしまい、後に残るは隘路のみ。またしても嶮岨な道を行かねばならないので、次に出るのは溜息だ。

「大丈夫かい? 災難だったね。怪我は無いかい、クラウス君」

 はっとクラウスが振り向くと、そこにはフェイロンがいた。今まで気配すら感じなかった彼が真後ろにいるので、一瞬クラウスは何も言えなかった。
 フェイロンは、例の如く微笑みを浮かべ、山頂に案内するよ、とクラウスを先導する様子。慌てて彼はついていく。
 
 千山万峡、未曾有の難所をクラウスは喘ぎ喘ぎ登っていく。フェイロンは、段差など無い如く、しだれ柳のようにしなやかな身体を進め、時折クラウスを助けている。
 彼は、全く息を切らさないフェイロンを見て、いよいよ彼の事が解らない、いや恐れすら抱き始めている。

「フェイロンさん、どうして此処にいるんですか? 俺達は飛んできたのに」
「どうでも良いじゃないか、そんな事。君達は山頂を目指していて、俺はそれを助ける。それで良いじゃないか。さ、此処を進めば少しは楽になるよ」

 岩から岩へ、道無き道を二人は行く。山肌は灰色をしっくりさせて、昼過ぎの陽光は薄く雲間から差し込む。クラウスの息遣いと山間の鳥の鳴き声が交わり、不思議な音色を奏でる。
 急勾配を攀じるようにして、二人は僅かに開けた場所、絶壁の途中にある窪みのような場所に辿り着いた。
 ひとまずそこで小休止、クラウスはようやく大きな息を一つした。

「ふふふ。クラウス君、なんだかんだで君は、結局ランレイの助けになっているね。あれこれ言いつつ、結局人を助けちゃう、君らしいよ」
「辞めてくださいよ、流されてるだけで人助けなんてしてませんよ。ソフィアに振り回されてるだけです。そう言えば、なんで俺達を助けてくれるんですか? 」
「…そうだね。俺は君とソフィアさんを助けているつもりは無いよ。ランレイが君達を選んだから助けているだけさ。俺はランレイをいつでも見守っているからね」
「ランレイとは、どういう関係なんですか」
「まあ君には関係無い。強いて言うなら、俺がランレイを愛しているから、かな。彼女にも言ったけど、俺はランレイを心の底から愛している。ランレイは俺よりもずっと大切な人だ」

 その穏やかな微笑みは崩れず、清流のような声音は全く調子が変わらないのだが、クラウスは、フェイロンの心にある鉄の如き意志を感じた。自分には無い確固たる意志、白皙蒲柳のフェイロンには明確な行動原理があるのだ。
 するとフェイロンはクラウスをじっと見た。その黒漆の瞳、掴み所の無い不思議な白皙に、クラウスは思わず息を飲んだ。
 フェイロンは彼から眼を離し、やはりな、とばかりに静かな笑いをこぼした。

「やっぱり君は自分の心に不安を持っている。その時に応じて出てくる不安じゃない、君が心の奥に封印してしまっている不安の淵源さ。君が危険を避けて安定した生活を望むのは君の心に原因がある」
「心…心ってどういうことですか。確かに俺は怖いものが無いなんて言えないけど、そんな心の奥にしまっているものなんて無いですよ」
「ふふふ。自分でも気が付いていないのさ。辛い出来事や大切な人が悲しい死を遂げると、人間はその過去だけを忘れて、自分を守ろうとするのさ。でも、君もいつかそれに向き合う日がくる。それを乗り越えれば、君はもっと大きくなれる」

 クラウスはフェイロンの顔を見て、心の底まで見透かされる気がした。フェイロンの自分の心の推測をされ、彼は初めて自分の事を見つめ直した。
 一体いつから危険を恐れ、極力無干渉を貫いていたのであろか。考えてもみれば自分が化け物や暗闇を恐れるようになった原因も解らないのだ。
 異世界から一人、徒手空拳の身でやって来たランレイ、その彼女を信用して今異世界に不安どころか期待さえ膨らませているソフィア。クラウス一人だけひどく不安がっているのが今の境遇。しかしいくら思いを巡らしても、長年培ってきた心が生じさせる不安は容易には晴れない。

 フェイロンは悄然と項垂れるクラウスを見て、努めて優しく語りかけた。

「そう悩む事は無い。この旅で克服出来なくても、この先長い人生を生きていけば、いつか君自身が向き合うようになれるさ。それに君だけじゃない、ソフィアさんにもランレイにも向き合いたくない過去がある。さて、そろそろ行こうか」

 そう言ってフェイロンは立ち上がった。クラウスは何とも言えない面持ち、自分の心が自分のものでないような気持ちで彼の後を追っていった。

 ――その一方、クラウスと逸れたソフィア達は、意外な男と共に山を登っていた。風に靡く紅髪、鋭い碧眼、腰に差したる一本剣。何ぞ測らん、以前、土の精霊が住まう山で一行を叩きのめした剣士であったのだ。
 ソフィア達は瓦礫でクラウスと分断された後、剣士が自分目掛けて落ちてきた岩に、眼にも止まらぬ横払いの二閃を描き、両断したのを見た。
 剣士は、尾行に気付かれたと知るや否、

「ふん。どうやら俺の見立ては正解だったようだな。神子を出せ」
「あ、あなたはこの間の、神子って何っ。あたし達は世界を救おうとしているだけだよ」
「何、お前達はこの世界に災いを齎そうとしていると思っていたんだが。 言い分があるのなら聞いてやろう」

 剣士はソフィアの説明を聞いた後、半信半疑、いや疑いの方が八割を占めた面持ちで、山頂まではその命を猶予してやろう、と彼女達について行く事にしたのだ。
 剣士はセルジュ・ノイスと名乗り、クラウス達の噂を聞いて世界の災いを止めに来たと言った。

 嶮岨も嶮岨、未曾有の難所を越えていく。セルジュは冷たい言葉とは裏腹に紳士の一面を持ち合わせているらしく、岩に躓くソフィアや危なっかしいランレイを助けては彼女達を先導している。
 ランレイは、セルジュを恐れる様子も無く、

「セルジュ、幾歳いくつか? ランレイは十五だよ」
「十八歳だ。おい、鬱陶しいから話しかけるな。って何をしているっ」
「セルジュの髪、真っ赤、格好良いよ」
「下りろ、邪魔だっ」

 しかしランレイの明るさに絆されて、徐々にセルジュの緊張もほぐれてきた。笑顔こそは見せないが、ランレイとの会話に花が咲く。彼の声は落ち着き払ってはいるが、やはり強固な意志を宿している。ランレイは早くも彼に懐いたようで、鬱陶しがられながらも並んで歩いていった。
 一方、気が気では無いのはソフィアである。セルジュが自分達を殺そうとしているのに、どうしてランレイは彼に懐いているのか解らなかった。後ろから闇討ちすることも考えたが、ランレイが隣にいるので、それも敵わない。空しく後ろから二人の背中を拝していた。
 それにしてもどうして、セルジュは殆ど初対面のランレイに敵意を向けないのであろうか。煩いと口では言いつつも、彼はランレイを無視する事なく、一々彼女の饒舌に反応しているのだ。このセルジュが態度の真意こそ、今ソフィアに起こった疑念と言えよう。

 暫く歩いた後、ソフィア達は湧き水の傍らで休息を取った。ランレイは疲れたらしく、静かに仮眠を始めた。ソフィアは彼女を横にすると、膝枕をしてやった。
 セルジュはじっとランレイを見て、

「おい、この女は異世界から来たんだろ? どうしてそんなに他人のために身を粉にする。しかも、いきなり現れた女だぞ」
「…だって、あたしは他人があたしのお陰で幸せになるなら、あたしは死んでも良いんだ。あたしには幸せになる資格なんてないから」
「どういうことだ。普通はそんな事を思う人間はいない」
「だってあたしは、許されない事をしたから。あたしは自分の幸せを望んじゃいけないんだ」

 セルジュは、それを聞くと、下らん、とばかりに鼻先で晒笑した。ソフィアはとして、何で笑うの、と彼の態度をなじった。
 セルジュはその瞳で彼女を見据え、その心を抉るような一言を放った。

「そう言ってお前は、他人を優先しているような気持ちになっているが、実の所は、お前自身が罪から眼を背けているんじゃないのか? 善行を重ねて、自分の罪を覆い隠して、償いをしている気分になっているだけじゃないのか? 」
「そ、そんなことないっ。あたしはちゃんと、あたしの過去と向き合ってる」
「自分の過去と罪と向き合って真摯に反省しているなら、自分が死んでも良いだなんて言わない筈だがな。お前が何をしたのかは知らないが、生きているなら死んだ者の分も生きるべきだと俺は思うぞ」

 ソフィアは何か言っているが、反論も出来ずに項垂れてしまった。今まで他人の為に行動していた自分が、実は自分の傷心を慰め、己の罪と向き合う事を拒ませていたと言われ、心に大きな揺らぎが生じている。
 今こうしてランレイを助け、彼女の為に戦っているのも、自分の事が憐れだという深層心理からの行動ではないのであろうか、他人優先だとばかり思っていた自分の正体は、実の所ひどく自分勝手なのではないか――このように様々な思いが逡巡し、いつしか彼女は眼に涙を浮かべていた。
 すると、彼女の頬に暖かい手が触れた。はっとソフィアが気が付くと、ランレイが心配そうに見つめていた。

「ソフィア、どうして泣いているか? セルジュに苛められたか? 」
「え、あ、いや何でもないよっ。大丈夫っ」

 ソフィアは、救われたように眼を拭って笑顔になり、行こう、と立ち上がった。ランレイは、セルジュに向き直り、

「セルジュ、仲良くしない、駄目だよっ。どうして仲良くなれないか、謝る、よろし」
「ふん。泣かせたのは悪かったが、俺は悪いとは思っていないからな。そろそろ行くぞ。陽が暮れてしまう」

 そう言ってセルジュは彼女達を先導して歩いていった。ランレイは、待ってよ、と彼を追う。ソフィアは釈然としないものを抱えつつ、二人の後を追っていった。
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