二つの世界の冒険譚

アラビアータ

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第二章

第十七話

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 夜熱依然として午熱に同じ
 門を開いて小立す、月明の中
 竹深く樹密なり、虫鳴く処
 時に微涼有り、是れ風ならずして
 
 これは南宋の詩人、楊万里が詠んだ「夏夜追涼」の節だが、元々、シュピーゲルラントの夜も丁度このような世界である。月明かりが差す風光明媚の下、竹林ばかりが魅惑の影と光を放って虫が鳴く。涼しい風では無く、虫の鳴き声で暑さを凌ぐ。風流人も童子も、門や庭先に出て虫の鳴き声や美しい真如の月で涼を得る。
 最も、これは今のシュピーゲルラントとはかけ離れた情景である。そこを旅するクラウス達の身も、そんな哀婉たる旅情の懐古に浸っていられる境遇ではない。鈍色の密雲が天を覆い、明日をも知れぬ暗い風と冷たい雨を下ろし、時折恐ろしい雷光を地に向かって一閃させるのである。
 ここウータイさんの麓に広がる監獄都市シングーでも、不気味な寒さを漲らせ、哀号が渦巻いているのだ。クラウス達を捕えた捕吏共を率いる男は、地下から出て直ちに白洲へ一行を引き据えた。灯は冴えて座中、咳一つ聞こえない。周りの老役人共の顔ぶれは、どれをみても血臭い無情の命知らずである。勿論、一行の高手小手は厳重であり、鞠のようになっている。
 
 目の前には歌舞伎の舞台が如く、一段上がった場所があり、監獄奉行であるロン・フドウがいた。先に鉄球を振り回して大熊を斃したのも彼であり、気性も凶暴かつ残忍である。彼は、龍紋草色の官袍に龍紋のよろいを纏って、横柄さを十二分に振り撒きながら着座した。地下道で見たより、思いのほか若い、三十路の男である。

「お前達は何者だっ。何故あんな所にいたのだっ」
「お、俺達道に迷ってしまって、怪しい者じゃありません」

 クラウスは思わず言い訳した。ここで殺されては敵わない、と思ったのであろう。ソフィアは横合いから何か言いたげだが、流石に彼女も不味いと察しているのであろう。
 どうやらまだクラウス達の人相書は出回っていないのだが、魔女の計画を邪魔する異世界人共を捕縛せよという命令が下っているらしい。しつこくフドウは、素性を尋ねてくる。
 その度に言い訳をされるので、面倒になったか、取り敢えず閉じ込めておけ、と命じて立ちかけたその時、まだ十歳にもならない少年が悲鳴を上げながら白洲に引き摺られてきた。

 獄吏は彼を突き倒して、木杖で強かに打ち始めた。叫喚を上げる少年に獄吏は、盗みを働いたお前が悪い、と怒鳴りながら打ち据えた。
 ソフィアは、と柳眉を上げて、燃えるような正義感を露わにし、

「辞めなさいっ。まだまだ子供じゃないっ。いくら泥棒でもっ」
「黙れ匹婦っ。そこを動くなっ」

 周りにいた獄吏が蝟集して彼女を取り囲み、鉄拳を浴びせたり蹴りつけたりして、忽ち彼女は悶絶してしまう。クラウスが立ち上がって、彼女の前に立ち塞がるが、彼もまた打擲される。
 ランレイはいつの間にか眼を覚ましていたのだが、二人が殴られているのを見、ぱっと飛び込んで脚を回し、数人を蹴飛ばしたが、上体は厳重縛の身である。悲しいかな、須臾にして脳天を叩かれ、前後不覚になった彼女は気絶してしまった。
 今まで静かにしていたセルジュは、それを見るや否、

「おいっ。ランレイから離れろっ」
「な、何っ。とすると、この女はワン・ランレイかっ。出合え出合えっ」

 彼の剣幕に、フドウは一瞬ひやりとしたが、すぐに増援が寄せ波の如く押し寄せ、四人は担がれるようにして、牢房に放り込まれた。
 クラウスは、薄暗い房の中で、頭から血を流してぐったりしているランレイを気遣うセルジュに、

「セルジュ、どうするんだよ。これじゃ警戒が厳しくなって逃げられないだろ。しかもこんな奥の牢屋に」
「ふん。俺はランレイが憐れだったから抵抗しただけだ。いすれにせよ閉じ込められていたんだから、結果は同じだ」
「辞めてよ二人とも。こんな時に喧嘩なんて」

 狭い牢房は少し嫌悪な雰囲気になった。ジジジと蝋燭の炎が頼りない。所詮は旅の行き連れであり、絆など無いのであろうか。出会ったばかりとはいえ、頑固で口数の少ないセルジュはとかく誤解を招きやすいので、クラウスは彼の事が気に食わない。ソフィアは、いつ二人が斬り合うか解らないので、気が気では無い。
 暫く室中は氷のようにとなった。武器を奪われているし、壁も分厚いので、如何に頭を捻っても、容易に打開策は出ないのであった。すると、隣の部屋から何か声が聞こえてきた。

「おい…おい。新入りか? 三、四人くらいか。お前ら、何をして此処に放り込まれたんだ? 此処は厳重な監視対象が閉じ込められる場所だ」
「お前は誰だ? どうして俺達に」
「さっきランレイがどうとか言っていたな。ひょっとして、ワン・ランレイがいるのか? とにかく明日、作業の時間にでも話そう」

 声は途切れた。クラウスは首を傾げ、何だったんだろうな、と後ろにいる仲間達に言った。ソフィアも訝しげではあるが、取り敢えず話を聞こう、と破顔し、セルジュは、

「あいつ、ランレイを知っているみたいだったな。知り合いなら、俺達の味方をしてくれるかもしれない。とにかく今は身体を休めておけ」

 と言って、横になった。残る二人も寝入り、夜は更けていく。黒絹の夜闇の中、灯火のような監獄都市だけが薄く薄く明滅していた。風が吹けば、すぐに消えてしまいそうな都市は、シュピーゲルラントにいる民の命のようである。

 翌朝、まだ東の空も薄暗い払暁の時分、朝から獄吏は騒がしい。起きろ起きろ、と牢房の鉄戸を叩いて廻る。クラウス達は眠い眼を擦りながら房から出た。隣の牢房から、痩躯長身、容貌魁偉の男が現れた。朽葉色の衣服を纏い、頬こけの褐色面に、鋭い眼光がキラリと輝いている。一目見ただけで、尋常の男では無いと解るその男は、クラウス達を見ると、

「お前らが新入りだな。俺は此処の牢名主でセイランって言うんだ。今日はお前達の案内をしろって言われてるんだ。付いて来い」

 と、彼はクラウス達を先導して歩き出した。
 監獄は、元々都市だったらしく家々を改造して牢房としていた。石造りの高楼が監視塔として林立し、鉄甲を纏い、殺威棒と称する鉄の棒を持ち、帯剣した鉄甲の獄吏が二人一組で其処彼処を巡回し、水も漏らさぬ布陣である。囚人達は、罪人もいるが大半は、人狩りで捕えられてきた者達であり、日夜、男は謎の機械を動かす労働を強要されていた。女は炊事や掃除をし、獄吏共に気に入られた者は、夜伽を無償でやらされている。監獄生まれの童子もいるが、大半は生まれてすぐに死んでしまう。
 動けなくなった者や不倶かたわになった者は、わざわざ中央広場に用意された刑場に引っ張り出して打ち首にされた上、三日間、柱に梟けられる。その後、死体は不浄口から街外に投げ捨てられ、野鳥や獣に任される。昨日、クラウス達が白洲で見た少年も、首だけになっている。
 これを見ても囚人達は、監獄奉行であるフドウと、その右腕、両斧の名手ホーシェンが怖いのと、もう一つの理由があるので、いつ殺されるか解らない、明日の身をも知れない凶音に日々を過ごしている。味気ない街辻はひどく物悲しい。

 ソフィアは、この暗澹極まる監獄に、憤懣至極らしい様子で、

「酷い…酷すぎますよ。どうしてこんな事、黙って見てるんですか。あたし、こんなの見ていられませんっ」
「静かにしろ。何処であいつらが聞いているか解らない。それに、監獄の中央部にはいけないんだ。獄吏の連中は難なくやってくるが、俺達はいけない」

 と、セイランは彼らの案内をしながらぼやいた。中央の高楼を中心として展開される、獄吏達の宿舎や奉行その他高官達の屋敷は、雑多な囚人達が詰められている領域よりも五米5m程せり上がっており、黒い薄幕、舞台の暗幕のような黒い霧に包まれており、高楼の影ばかりチラチラと見える。
 ランレイが不用意に霧に触れると、彼女はバチンッと弾かれて吹っ飛ばされた。丁度彼女の近くにいたセルジュは、それに巻き込まれて、二人は重なるようにして倒れてしまった。

「いったいよーっ。セイラン、これ何か? すごく痛いよ」
「ああ、これが奉行共を守ってる闇の結界だ。俺達普通の人間が触ると弾かれるが、奉行の部下の連中はすんなり通ってきやがる。それに、入り口にも結界があるから到底抜け出せない」
「そうなのかー。ランレイ痛かったよ」
「おい…おいっ。いつまで乗ってるんだっ。下りろっ」

 セルジュは、胸板の上に寝転がっているランレイを払い除けるようにして怒鳴り、蹌踉けた彼女に押し退けられたクラウスは、二歩三歩、と後退りし、結界に触れた――が、彼の身体はそのまま闇の霧をすり抜けた。
 他の三人は当然、瞠目していたが、特に牢名主として、悶々と仲間が使い捨てられていく様子に燻っていたセイランは、炯々と鋭い眼光を輝かせている。その面にクラウスは、ただ者ならざる凄まじい雰囲気に、すっかり気を呑まれたらしく、茫然としていた。
 セイランは、霧の向こうから強い口調でクラウスを呼び戻すと、彼の肩を掴んで、耳元に近付き、

「おい、何でお前は通れるんだ。まさかお前ら…間者かっ」
「違いますよっ。だったらランレイも通れるでしょ」
「とすると、クラウス、お前はもしかして…こいつは驚いた」

 実は――とクラウスは、自分が神子であること、シュピーゲルラントを解放する為に旅をしているとセイランに伝えた。彼は、さして驚かない。むしろ、やっと来たか、と言わんばかりの面で妙に落ち着き払っている。
 そこへ獄吏が二人やって来て、いつまで案内している、と傲然、言い放ったので、セイランは後で話すとクラウス達を彼らに任せた。
 獄吏共は、四人を追い立てながら、脅すような口調で、

「おいお前ら、ひそひそ何を話していた? 叛意でも抱いているのか。怪しい奴らめ」
「別に何にもありませんよ」
「ふん、どうやら余程逆らわれるのが怖いらしいな。だから二人一組だしあんな結界の中に引き籠もってるのか」
「何だと、貴様っ」

 と、一人がセルジュに向かって殺威棒を振るうが、と彼は躱して鉄拳を浴びせた。もう一人が、出合え、と叫び、十人ばかりの増援が雲霞の如く押し寄せてきた。
 セルジュは殺威棒を奪ってと振るい、寄ったる一人を吹っ飛ばす。横合いから来た獄吏が一人、頭を狙って跳び掛かる。ランレイはそれ見て動くや否、鉄杖砕いて敵も砕く。
 おのれ叛徒めっ、と笛音が長い尾を引いて響き、更に補充がやって来る。最早分隊のような獄吏共に押し包まれ、忽ち二人は高手小手、厳重な包囲と縄の中に縛り上げられてしまった。
 ソフィアはその様子を見て、と柳眉を上げ、

「二人ともっ。待っててっ」
「待てっ。お前まで行ってどうするんだっ」

 クラウスは彼女を押し留め、引き摺られていく二人を見送った。ここで全員捕まって懲罰室にでも連れていかれてはその場で殺される可能性さえある。猛勇はときに盲勇となるのである。目の前の小義に囚われていると大義を見失うのである。
 ソフィアを止めたクラウスだったのだが、彼女は不満な面持ちである。彼女にいわせれば、目の前で大切な仲間が倒されたのだから助けなくてはならない、後先など考えていられない、ということなのだろうが、クラウスは、それでは女神の解放は出来ない、と思っている。
 仲間同士で正義がぶつかり合い、環境も相まって、クラウスとソフィアは少しばかりの口論を始めた。

「お前は昔からそうやって、後先考えないで面倒ごとばかり起こすじゃないかっ」
「仕方ないでしょっ。目の前で人、しかも友達が酷い目に遭ってるのに、何で助けにいったら駄目なのっ」
「だからそれをやったら、俺達まで捕まるだろっ」

 しかしその口論は、黙らぬかっ、と獄吏共に中断させられ、二人は互いに別々の場所に引き摺られていった。

 クラウスは謎の柱を引く作業や踏み車を回す空役のような作業を夜更、日没からどの程度経ったかも解らぬ時分まで行い、夜勤と交代した。最も、彼もしたたかなもので、終わり頃は要領を得たのか、押す振りなどをしていたのだが。
 ソフィアは不器用なもので、大釜での炊事に邪魔でしかなかったので、一人、畑での作業に従事させられた。肥桶を担い、鋤鍬を振るうのは元々彼女の生業なので、一人でも広い畑を縦横無尽、疲れを知らない機械の如く、先の鬱憤を晴らした。
 クラウスと疲労困憊、気息奄々たるソフィアが牢房に戻ると、同じ頃に戻って来たセイランが壁を叩いて語りかけてきた。

「おい、あの二人は捕まったのか。良いか神子、お前は闇の結界を払い、この世界を解放できる奴だ。実は俺達は反乱を企ててるんだが、あの結界がある以上、中央部にはいけない。それでお前に一つ頼みごとがある。どうせ殺されるなら乗ってくれるな」
「は…はぁ」
「良いか。俺達がまず騒ぎを起こして獄吏共の注意を引くから、お前が中央の高楼に入って、闇の結界を払うんだ。それでお前さんの仲間や俺達が突入して、奉行の野郎を殺すんだ」
「でも、どうやって俺が闇の結界を払うんですか。やり方なんて」

 するとそこへ会話に割って入った者がいる。静かな牢房に耳に入る落ち着いた声音が聞こえる。クラウス達二人は、声の主を見て仰天した。

「やあ君達、久し振りだね。シュピーゲルラントに来てくれて、俺も嬉しいよ。クラウス君、闇の結界なら俺が解き方を教えてあげるよ。安心してくれ」
「フェ、フェイロンさんっ。何でここにっ」
「何だ、もう一人いるのか」
「ふふふ。良いじゃないか。それにクラウス君には、やって貰わないといけないんだ。ランレイとセルジュ君が明日死刑と決まったからね。俺はあの子を殺させはしないさ。だから君にはやって貰わないと困るんだ。嫌とは言わせない」

 静かではあるが、明らかに力強い意志が込められた声である。声音は常と変わらず、聞く者を落ち着かせるが、それだけに彼の言葉が一字一句、言外の意味まで余すこと無く頭に入ってくる。
 しかも彼は、しゃがみ込んでクラウスに顔を近付け、その黒曜石が如き瞳、千磨の名玉のような双眸、白皙美貌の微笑みを向けながら言うので、クラウスには否も応も無い。

「わ…解りました。やります」
「やってくれるか。良しっ。明日決行で良いなっ。有難うな、もう一人の兄ちゃんっ」
 
 そこで会話は途切れた。フェイロンは、その蒲柳を壁に凭せ掛け、蝋燭の火光に照らされ、その神秘さえ感じさせる白皙の微笑みは崩れない。
 クラウスとソフィアは、何も言わずに彼を見ていたが、フェイロンは、

「二人とも明日は大勝負なんだから、ゆっくりお休み。安心すると良い、きっと上手く行くよ。眠らないと戦えないからね」

 と、心地の良い揺らぎ声で言い、彼も座り込んで寝息を立て始めた。クラウスとソフィアも、明日に備えて静かに眼を閉じた。

 ――セルジュとランレイは、血生臭い地下牢、不衛生な据えた臭いが立ちこめている。石抱算盤やしもと、三角木馬や釣責に使う鎖など、あらゆる惨い拷問道具や獄具がある。此処は血の炎が燃える等括地獄である。
 獄吏共はランレイに獣のような暴行を加えようとしたのだが、思いのほか抵抗が激しいし、傍らにいるセルジュが、俺を殴れ、と鬼の形相でいうので、すっかり震え上がってしまい、二人は一筋の灯りも無い、暗牢の中に放り込まれただけで済んだ。
 闇は深い。一寸先は晦冥である。ランレイはセルジュに身体を寄せている。

「おい、ランレイ。暑苦しいから近付くな。お前は幾つだ」
「だって…セルジュがいなくなる気がする。こうして触ってないと怖い」
「ふん。まあ好きにしろ…眠れないなら膝を貸してやる」
「セルジュ、どうしてランレイに優しいか? 」
「何となくだ。お前を見ていて不安なだけだ、優しくしているつもりはない。もう寝ろ」

 そう言ってセルジュは眼を閉じた。ランレイも彼の膝に頭を置いて寝息を立て始めた。セルジュはそれを聞いて、至極珍しい優しい微笑を浮かべ、眠りについた。

 牢房の中は寂とし、ただ一定の間隔でスースーと息が聞こえるのみである。明日の風雲も知らず、闇々の空が下、篝火だけが燃える、監獄の夜は静かに更けていくのであった。
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