二つの世界の冒険譚

アラビアータ

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第二章

第二十話

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 黒雲の隙間から霏々として氷雪が降り注ぐ。部落で外套や衣服を乾し、新しい毛皮の上着を貰ったクラウス達ではあったが、やはり烈寒に雪風である。泣き面に蜂を体現したような気候に道はぬかるみ、忽ち泥濘と格闘しているかの如く、一行の足元は汚くなる。
 部落で貰った気休めの熱酒と食料があるので、亡者のように彷徨っていた昨日までよりは幾分か気が楽である。もう少しだ、と言ってクラウスは指を指し、仲間達の心を空の彼方に向けさせた。
 みぞれなので積もりはしないのだが、却って泥道が鬱陶しい。海賊の入り江へ向かう歩みは全く遅々として進まず、クラウス達は、真っ白な雪風の幕に閉じ込められたようになってしまった。

 ホウオウ使おうよ、とランレイが喚くが、先に書いた通り、霊峰を封印している魔力の所為で、ホウオウはこの近くでは飛べないのである。普段ならば歩く事は何ともない一行なのだが、寒さは苦労を百倍にもするといえる。
 そんな烈寒の道程を歩むこと数時間、豁然、断崖の向こう側に流氷を浮かべる冬の海が見えてきた。嶮しい絶壁は岸々とし、見下ろすと砂浜まで千丈万尺もあるかの如く錯覚する。クラウス達は思わず眩暈を覚えた。
 伏して覗いてばかりもいられないので、一人一人助け合いながら、ゆっくりと下りていく。凍えそうな鴎がすぐ近くを飛び、水平線の彼方から千里の旅を続けてきたであろう波が、岩にぶつかってザパーンと海鳴りを立てる。
 
 烈風が指先をかじかませ、ともすれば滑落しそうになる。無味無臭、眼には見えないが奈落へ引きずり込む蒙気が感じられる。
 セルジュは、ランレイが気を散らす様子にはらはらしきりであった。
 
「ランレイ、そこに気を付けろ。おい、鳥なんてどうでも良いだろっ」
「でも、セルジュが助けてくれる。ランレイ、セルジュいるから安心」
「いや、そういうことではなく…おいっ」

 クラウス達からすれば、この二人の会話が、せめてもの慰めである。それにしても、このセルジュは苦労人であるといえよう。何も苦労をしなくて良い、一生安穏無事に生きていける王太子の身分を捨てて、足掛け二年に渡る旅を続けた末、今こうして異世界で過酷な冒険に同行しているのだ。
 元はといえば、彼はとある人物を捜す為に、身分を捨て家を捨てて出奔したのである。それが義憤に駆られた末、思わぬ旅路に巻き込まれている。それだけならまだしも、どうして彼は、ここまでランレイを気に掛けているのであろうか。彼もまた、不思議な人間ではある。

 実際には僅かであるが、気息奄々としたクラウス達には、非常に長い時間、絶壁を攀じ下りていた感覚である。ようやく砂浜に足を着け、見上げてみると、岩壁が屹立として聳えている。
 取り敢えず、クラウス達は蘇生する思いで砂浜に横たわった。半死半生の一行は、烈寒にも関わらず、汗もに曇天の空を見上げていた。それは良いが、彼らの蘇生の思いも、須臾にして打ち消された。
 途端、四方に白霧が立ち込め、白浪を上げながら、濃霧を割るようにして巨大な楼船が顔を出したのである。霧の所為もあるが、クラウス達は目前に迫るまでそれの接近を知り得なかった。

 真っ黒な船体の大楼船は、二つの船首に海龍を象ったみよしを備え、船縁には鉄柵が結い回してある。潮風をいっぱいに孕んだ帆には龍が描かれ、船尾には楼閣が置かれ、小さな宮殿がそのまま海に浮かんでいるようである。
 船首の飾りや楼閣は古めかしく、所々色褪せてはいるが、争えぬ荘厳さを見せつけながら、小山が海上を滑るように大船は寄せてくる。
 さぞや夥しい数の水夫がいるのであろうと思って眼を凝らしたが、漕ぎ手も操舵手も見当たらない。誰かこちらに手を振ったり見ている者すらいないのだが、ざざざっと水飛沫を上げながら入り江に突進してくるのである。風浪にも関係無く、大楼船は岸辺から少し離れた湾口に碇泊した。

 クラウスの顔は暗澹とし、毛穴もそそけ立つばかり不快な色を呈してきた。然もあろう、海の遠い片田舎に十七年暮らしてきた彼からすれば、海自体が珍しいのに、海原を行く海龍のような大楼船に気を呑まれた形である。しかもそれが件の幽霊船だろうという事で、他の三人も懊悩戦慄、心の内に生ずる震えをどうにかする術を知らなかった。我が国の歴史になぞらえるのであれば、黒船来航に周章狼狽した侍達と同じ心境であっただろう。
 やや暫く茫然としていたクラウス達に向かって、大楼船の船腹が開き、五人ばかりが乗れそうな木造牛革の走舸が出て来て粗末な帆を張り、扁舟飄々と近付いて来た。

「誘い込まれてる…のかな? どうする皆? 」
「どうするって…罠だったとしても行くしかないだろ。皆、良いか」
「ふん。幽霊船からの招待とは面白い。早く乗るぞ」

 と、四人が乗り込むと、誰が動かすわけでも無く、ギイーッと音がして船の前後が逆転し、濃霧に閉ざされた海の中、波のまにまに漂うにして、走舸は元の大楼船に戻っていった。真っ白な銀幕に包まれた世界の中、黒いそれだけが場違いである。雪を含んだ白い烈風にびくともせず、走舸が近付いて行くにつれ、クラウス達はその堅牢さに舌を巻いた。
 真っ黒だと思われていたのは、船体に鋼鉄の板が張られていたからであり、船の上部は鉄柵で囲われ矢倉のようになっている。船腹は上下に開閉できるようになっているので、そこから走舸を出撃させ、収容する。まさに海の城と言うべき大船である。

 クラウス達は船に入って、まず眼を瞠った。否、面食らったという方が正しい。彼らが乗ってきたのと同じような牛革の走舸が十隻近くも所狭しと居並び、みよしを一方に向けて纜に繋がれている。
 彼らをもっと驚かせたのは、龍紋の甲を纏った兵士が巡回している事であった。やはり幽霊船自体に待ち伏せされていたのだが、不思議な事に、警備はクラウス達の侵入に気が付いていないようである。
 しかし、船を奪って霊峰に突入せんとしている彼らにとっては好都合、早速船渠にいた番兵二人を斬り斃し、クラウスを先頭に一行は歩を進めていった。

 巨大な船なので、階層が多い。船渠は最下層なので、まずは甲板に出なくてはならない。壁に掛けられている灯火が何となく頼りなく、廊下は薄暗かった。船渠を第三層だとすると、今クラウス達がいるのは第二層である。此処は船倉らしく食料や水、武具や矢弾等を積んでおく場所である。
 しかし、長い間打ち棄てられて来た船なので、空き樽や壊れた棚が其処彼処に転がっている以外は、見張りがいるのみである。慣れていないと見え、しきりに暴れる風浪の揺さぶりに船酔いを起こしている。
 しかもシュピーゲルラント兵達は、余程焦っていたらしく、所々開かない部屋があったので、それらがクラウス達に幸いした。彼らは広い船中でもさして迷わず、夕星のような灯火を頼りに一歩、また一歩と慎重に、かつ急いだ。

「…」

 誰も、何も言わない。ごくり、と唾を飲み込む音すら聞こえる気がする。吐く息が白く、手がかじかむような寒い幽寂の船内ではあるのだが、クラウス達は満身に汗をかいていた。
 如何に修羅場を潜り抜けてきた彼らとはいえ、四方八面を囲まれれば一巻の終わりである。乱刃の下、ズタズタにされて海に捨てられるであろう。息を飲み、しわぶき一つせず、ギッギッと床板を踏み鳴らす。敵兵がいれば、闇に紛れて一撃必殺で斃していく。
 ふと、ソフィアがクラウスの手を握った。彼女も無意識で握ったのであろうが、以前彼女が、怖がるクラウスの手を握って引っ張っていた時と比べると、同じ手を握る理由でも、クラウスが随分と頼り甲斐のある青年に変貌していたからといえよう。
 
 クラウスは一瞬面食らったが、彼も木像ではない。普段見ない、不安げな表情のソフィアを見、血豆だらけで鉄のように固い彼女の手を握り返した。
 普段彼はソフィアに素っ気ないが、そもそも彼自身、どうして彼女を避けているのかが理解出来ないのである。彼女が嫌いというわけではない。むしろ、天涯孤独の自分の心を支えてくれているのは、同じ境遇の彼女だとすら思っている。

 しかし、やたらと世話を焼いてくれるソフィアに近付いてもらいたくない、要するに怖いのである。どうして怖いのかは彼自身、説明が付かない。一緒にいたいがいたくない、全く矛盾した半端者ではある。
 ふと、クラウスは後ろを見た。ランレイはセルジュの背中を守り、彼もまた彼女を守るように周りを警戒して歩いている。いつの間にか互いの背中を預け合えるような信頼を築いている二人を見、クラウスは、何だか自分が情けないような気がして眼を背けた。
 殆ど変わらない距離に固まっている四人なのだが、一組は心がすれ違い、もう一組は信頼し合っている。朧気な灯火の火光も相まって、暗光の境でもあるかのようであった。

 ――そうして小一時間彷徨い、ようやくクラウス達は鉄板の戸を押し開けて甲板に出た。雪はまだ止んでおらず、霏々として降り注いでいる。鉄の甲板は雪に濡れて鈍い光を発している。凍っている箇所もあるので、うっかりすると足元を掬われそうになる。
 見上げると高楼が冷々とした姿を聳えさせ、鈍色の雲は重苦しく天を覆っている。その時である。

「――いたぞっ。出合え出合えっ」

 と、金鼓が鳴り、呼子笛が高らかに響いた。剣槍閃々と集まり、爛たる環視がクラウス達に向けられる。剣に槍に戈に、あらゆる武器は彼らに向けられ、遠巻きに取り囲んでいた。敵兵の一人が船内に向かって増援を呼ぶ。
 しかし待てど暮らせど、下からの増援はやってこない。それもそのはず、下にいた連中は、皆クラウス達に鏖殺されているのである。
 痺れを切らした兵士の一人、気合いの刃を振りかぶる。セルジュが躱したその一瞬、と抜かれた白刃が、血煙を呼ぶ地獄の合図。残る三人も身構えて、敵兵十人、味方は四人。

 ランレイを見た敵兵二人、相手が少女と見るや否、身を泳がして斬り掛かる。その時ランレイそれを見て、月波浮心の妙変に、ひらりと五体を躍らせて、一人の脾腹に右手めてを見舞う。血反吐を吐いた首筋目掛け、瞬時に飛び込む右手めての貫手! 殆ど同時に返す脚、鞠の如く敵を蹴り、風雪に混じいる血の水玉。
 えやっ、とセルジュ目掛けて投げられた、流星一文字槍穂先、背中危うしと思われた時、発止と響く金属音、八角棒の唸りが走る。戛然火華が振り撒かれ、ソフィアの棒が風を纏う。
 烈しい攻防、にびたる光り、四人の勢い増すばかり。

 時に、荒ぶる龍神のような大音声が天地を揺るがした。

「現れたな! スイラン様の邪魔をする匹夫共っ。最早正体を隠す必要も無いっ。このワオロンが海に叩き込んでくれる! 」
「くそっ。やっぱり四星はシュピーゲルラントの奴らかっ。セルジュ、お前と俺でっ」
「心得た。行くぞっ」

 二人は雑魚をソフィア達に任せ、自分達はワオロンに斬り掛かっていく。雪風も溶ける烈しい火華が宙を舞う。

 ワオロンの薙刀は颶風を纏い、横一文字で二人を払う。一閃二閃と続け打ち、クラウスの白刃風を切る。セルジュの長剣雷光を描き、丁々発止と三人は斬り合った。
 (これは…)とクラウス達は驚いた。ワオロンは二人を相手にしても、怯むどころか阿修羅の怪勇見せつけて、二本の白刃迎え撃ち、神速妙変の大薙刀、竜巻のように二人をあしらう。見る間に見る間に火を飛ばし、龍車に向かう蟷螂の斧は追い込まれる。
 ランレイはそれを見るや否、セルジュと叫んだが、人垣に阻まれ助太刀は敵わない。寄せ波のような一団は力を合わせ、ガッキガッキと武器を振るい、人の壁を作り出す。

 死ねいっ、と雷霆の薙刀が振るわれて、辛くも外したセルジュのつるぎ、クルクルと閃光を描いて飛んでいく。続けざまに振りかぶった巨大な影、最早逃れ得ぬと悟ったか、セルジュは覚悟の眼を閉じた。

 その時飛んだ一つの光、投げられた剣が眼をかすめる。はっとワオロンは辺りを見回した。その時、えいっ、と跳んだクラウスが、真眉間目掛けて電光一閃! かぶとは一気に真っ二つ、刃は眉間に食い込んだ。
 このまま梨割りに、とクラウスはと柄手に力を込めるが、くわっ、とワオロンは必死でクラウスを撥ね除けて、満顔まがんを血潮に染め抜いて、ざんぶと海に飛び込んだ。
 それを見た部下達は周章狼狽、騒然たる叫喚を見せつけて、人の足音を聞いた蝗かの如く離散し、船中を逃げ惑い、次から次へと烈寒の海へ落ちていった。
 
 クラウスは鉄柵まで走ったが、もうワオロンの姿は何処にも見当たらなかった。セルジュは膝立ちになっていたが、クラウスが駆け寄って手を差し出し、

「大丈夫か、立てるか? 」
「…ふん。まさかお前に助けられるとはな。これは借りにしておこう。手はいらん。自分で立てる」
「良いんだよ。俺だってお前の剣が、目の前に来たのを投げただけだから」

 二人とも怪我は無い、とソフィアが駆け寄って言い、ランレイはセルジュに飛び付いて何か意味の無い事を喚きなどしながら、

「よかったよーセルジュッ。ランレイ、二人とも死んじゃうかと思ったよ」
「な、何をしている、離れろっ。俺が簡単に死ぬとでも思っているのか」
「だってセルジュもクラウスも死んだらやだよ」
 
 するとその時、あなたたち、と妙に嫋やかな女の声がした。振り返って見ると、縮緬ぞっきの旗袍の上に、龍紋様の上着を羽織り、降りしきる雪のような美白肌をした女がいる。歳の頃は三十路過ぎ、蜀江或いは西陣か見分けも付かぬ絢爛な帯を締めている。
 さやかな絹擦れの音をさせながら、御伽草子にある鶴娘のような美女は白皙に目立つ真っ赤な紅唇を開き、

「お待ち申しておりました。お話は全てとある方より聞いております。此処で立ち話もなんですから、どうぞ船室へ」

 この世の人では無い天女のような不思議な美を持つ女に招かれるまま、クラウス達は望楼の中へ入っていった。
 誰も気が付いていないが、大楼船の先端、みよしに座って、クラウス達を見送りながら、フェイロンが微笑んでいた。
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