翡翠少年は謎を解かない

にしのムラサキ

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雪中虎図

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 アトリエは同じ地下フロアにあった。

(絵の具の匂い)

 部屋に入った途端に感じる、僕には嗅ぎ慣れた、油絵の具のかおり。
 壁じゅうに、さっきの「甲州石班澤」と同じタッチの絵が並ぶ。浮世絵的な、印象派的な……。

(やっぱり雑餉隈さんの絵だと思えない)

 技巧はまだ稚拙な部分もある。荒削りだけど、心臓を掴まれるような絵。
 部屋の中央にはやっぱり4号サイズのキャンバス。

「わ、虎」

 華が描きかけのそれに駆け寄る。僕もゆっくりと歩いてそれを見た。

「"雪中虎図"だね」

 僕は華に言った。華は不思議そうに僕を見る。

「北斎絶筆、と言われてる。死の前月に描かれたっていう」

 雪の中を楽しげに、歩くというよりはむしろ浮く、跳ぶ、……いや、翔ぶと言ったほうが正確かもしれない。

(天に向かって)

 この虎は北斎自身だという向きもある。死を悟った北斎による、天に向かう絵だとも。

(死を目前にして)

 あの力強さ。繊細さ。よく出せるものだと舌を巻くーー北斎以外の誰かが描いたのではないか、思わずそう思わせるほどに。
 それをやはり、西洋画風に、いや、「この作者の解釈で」描かれたのがこれ、目の前にある絵だ。

「ふうん、可愛い虎さんだね」
「ちょっとコミカルで漫画的だよね」

 どこかちょっとアメコミ風にアレンジもされている。

「これはこれでいいかも」
「良くないんですよ」

 雑餉隈さんが後ろから話しかけてきた。
 他の人たちは、めいめいに壁の絵を見て回っている。特に牟田さんは熱心だ。買う気なんだろう。
 彼女に関しては、どちらかというと、投資目的な気もするけれど。
 ヒカルだけは、ちらちらとこちらを気にしていた。
 こちら、というよりは、絵を。

「良くないんですか?」

 華がきょとんと聞き返す。

「ええ。良くありません。これは……北斎の本質、それから離れすぎている」
「そんなことは」

 思わず口を挟む。

「ないと思いますよ」

 お前が描いたわけでもないのに、なんて言いそうになって口をつぐんだ。

「いいえ。違います。こんなのはーーわたしが求めているものではない」

 そう言って、雑餉隈さんは無造作にそのキャンバスを掴んだ。

「え」

 華がぽかんと見上げ、僕の身体は動かない。

だ」

 ばしん、と床に叩きつけたそれを、雑餉隈さんは踏みつけた。バキバキと音が鳴り、絵はぐちゃぐちゃになる。

「な、にを」

 呆然とした僕に、雑餉隈さんは「また描けばいい」と小さく口を歪める。

(……胸糞悪い)

 下卑た笑み。確信する。こいつはこの絵の作者ではない。
 じっと雑餉隈さんを見つめると、少し彼はたじろぐ。しかしすぐに「じ、自分で描いた絵を壊してなにが悪い」と抗弁してきた。

「その絵は」

 本当にあなたの描いたものですか、という言葉を僕は飲み込んだーー否、飲み込まざるを得なかった。

貴様きさん!」

 ヒカルが叫んだ。

「何したとや! クソが!」

 ヒカルが雑餉隈さんの胸ぐらを掴む。その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいた。

「なんだ、ヒカル」

 雑餉隈さんはかえって冷静で。

「親の言うことが聞けんとや?」
「言うことが聞けんもなにも」
「ミチルが悲しむやろうなぁ」

 "ミチル"という名前に、ヒカルはたじろいだ。

「ヒカルがこげん言うこと聞かんなんて知ったら、また起こしてしまうかもしれんなぁ」
「なに、を」
「今度発作起こったら、手術、かもしれんなぁ?」

 ヒカルの手から力が抜けた。ぶらん、とその手は宙を揺れた。

「……、すみません、でした」

 低く低く、ヒカルは絞り出すように、唸るように謝罪の言葉を口にした。しかしその表情は確かな屈辱にまみれている。それを見て、華が息を飲んだ。

「……まぁ、良かろう」

 雑餉隈さんはつぶやき、それからニコリ! と笑った。

「いやすみません、とんだ親子ゲンカを。はっは」

 雑餉隈さんは明るく笑うが、明らかにそれが「普通の親子ゲンカ」でないことは誰の目にも明らかだった。
 雑餉隈さんはこっそりと舌打ちを(近くにいた僕には聞こえた)してヒカルを睨め付けた後、「では戻って飲み直しましょう」と告げた。

「良いワインが入っているんです」
「あら、それは楽しみ」

 いちばんに場の空気を読んで対応したのは牟田さんだ。鹿王院さんは少し眉をひそめて「先に戻ります」と部屋を出た。

「ヒカル」
「……はい」
「それ、片付けておきなさい」
「はい」

 ヒカルは俯いたまま、そう返事をした。

「みなさんももう戻りましょう」

 そう声をかけられるが、僕は首を振る。

「もう少し絵を見ていきます。気になるので。祖母にも報告しなくては」
「おや、そうですか?」

 現金なもので、雑餉隈さんは僕が絵に興味を示している、それも祖母に繋ぎを取りそうだと察すると、にこやかに返事をして、牟田さんを連れて部屋を出て行った。

「……、なにっ、あれ」

 華がいちばんに口を開いた。怒りで声が震えている。

「いくら父親でもあの態度はないよ! 事情はわからないけど、ミチルさん? まるで人質みたいに」
「ヒカル、ミチルになにがあった?」

 健がヒカルに近寄り、聞いた。

「健、知ってるの」

 日和が質問する。

「こいつの妹。試合にも来てた」
「……ミチル、心臓が悪くて」

 ぽつりとヒカルは言う。

「アメリカで手術受けなきゃなんだけど、手術代渡航費入院費、合わせて億単位で」
「……マジかよ」
「でもあの人が払って、くれるらしいけん……」

 ヒカルは顔を上げて笑った。痛々しい笑顔だった。

「いいっちゃん。ミチルのためなら、こんくらい」
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