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【閑話】憂炎視点
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「……何も分からなかった」
暗い廊下を歩きながら、俺ははひとりごつ。いつものことではあるが。
「……炎、か」
炎を憂えと、母は言う。
炎とは?
(この恋心のことか)
初めて会った日から、一度も消えない恋心。
皇帝になるときに捨てたはずだったのに、目の前に再び現れた。
成長した姿で、変わらぬ心根で、あの日と同じ目をしていた。
赤々と、ぐろぐろと燃え盛る炎の中で、磊の妹を庇っている幼いあの姿は、忘れようとしても忘れられるものじゃない。
背中には、火傷の跡が未だにあると、最初に……再び会い見えた時、あの冷え切った嫦娥を診た医師から聞いている。
そして、その時に。
絶対に放してはいけないと、そう思った。強く強く。
どうしようもないほどに、嫦娥はやはり嫦娥であり続けていたから。
だからーー彼女はいま、ここにいる。
後宮、この閉ざされた世界に。
(俺のことを、どう思っているんだろう)
そんなふうに、不安になる。なんとなく、嫌われてはいないような気はするけれど……分からない。
自分は皇帝だから。
例えどんな感情をその身体に潜ませていようと、それを表に出すことはないだろう。
(ほんとうは、出て行きたいのかもしれない)
それこそ、あの乳兄弟と。
そう考えると、苦しくなった。悔しくて、辛い。
(どんな感情だって抑えてきたのに)
嫦娥への感情だけが、制御がつかない。
積もる想いだけが溜まっていって、喉を詰まらせる。肝心なことは、なにも伝えられていない。
「はぁ、まぁ、色々あったのですねぇ」
ふとそんな声がした。
俺にとって、世界で一番甘い声。
(……ここまで帰ってきていたのか)
ぼうっとしている間に、永和宮までたどり着いていたらしいーーと、ほとんど反射的に、扉を叩く。
「嫦娥、誰かいるの?」
「あ、え、は、憂炎様」
扉を押しあけた。嫦娥が慌てているような声を出したからーー慌てるような誰かがいるのかと……ふと頭にあの男が浮かんで。
嫦娥の乳兄弟、会えるとなるとあんなに嬉しそうにした男。
声を震わせて。
目を潤ませて。
(ねぇ、どんな感情だったの?)
あいつのことを、どう思っているの?
そんなことも、聞けやしない。
扉の先には、嫦娥と獅子狗しかいなかった。
(当たり前だ)
息を吐きながら、そう思う。
ここは後宮。この国でいちばん、閉ざされた世界。
彼女の膝の上で、偉そうにしている獅子狗が、くあ、と欠伸をした。
「……その子と話していたの?」
「えへへ、はぁ、まぁ」
なんだか歯切れが悪いものの、ほかに誰もいないと知って心が安らぐ。
「ごめんね、母上が押し付けてきたんでしょ?」
「あ、でも可愛いし、面白いからいいです」
嫦娥は優しい手つきで獅子狗をそっと抱き上げた。
「面白い?」
「友達になってもらいました」
獅子狗は偉そうに、ふん、と鼻を鳴らして尻尾を振った。
(……浴のあとかな)
まだ少し湿っぽい髪、上気した頬、香油だろうか、いい香りがして……少し、くらりとしそうになる。
(このまま俺のものにしたって、誰も俺を責めやしない)
彼女は、俺の妃なんだから。……いずれは、后になってもらいたいのだけれど。
(だけど、そうしたらきっと、もう本当の意味で、嫦娥は俺のものになってくれない)
彼女にふれて、滅茶苦茶にしてしまいたい衝動をぐっと押し隠す。
ふと、獅子狗と目が合った。大事そうに彼女の膝に抱えられた、その愛玩犬。
すこしだけ、この犬が羨ましいと、そんなふうに思いながら、こっそり口の中で言葉にする。
(ごめんね)
ごめんなさい。俺の我執に巻き込んで、ごめんなさい。
頭の中に、磊の声が蘇る。
"おもちゃにされる人間の気持ちにもなれ"
……まったく、まさしく、その通りだ。
少しも彼女の気持ちなんか尊重してない。
(頑張って、頑張ってーー)
それでも、彼女の気持ちが俺に向かなかったら。
(そのとき俺はどうなるんだろう)
そう思う。自らの炎に灼かれて、そうして、彼女に殺されてしまうのだろうか。
ぼうっとした俺に、嫦娥は笑いかけてくれる。
「お疲れなのですか?」
「……ううん、ありがとう」
そう答えるので精一杯。
俺は上手に、笑えているだろうか。
暗い廊下を歩きながら、俺ははひとりごつ。いつものことではあるが。
「……炎、か」
炎を憂えと、母は言う。
炎とは?
(この恋心のことか)
初めて会った日から、一度も消えない恋心。
皇帝になるときに捨てたはずだったのに、目の前に再び現れた。
成長した姿で、変わらぬ心根で、あの日と同じ目をしていた。
赤々と、ぐろぐろと燃え盛る炎の中で、磊の妹を庇っている幼いあの姿は、忘れようとしても忘れられるものじゃない。
背中には、火傷の跡が未だにあると、最初に……再び会い見えた時、あの冷え切った嫦娥を診た医師から聞いている。
そして、その時に。
絶対に放してはいけないと、そう思った。強く強く。
どうしようもないほどに、嫦娥はやはり嫦娥であり続けていたから。
だからーー彼女はいま、ここにいる。
後宮、この閉ざされた世界に。
(俺のことを、どう思っているんだろう)
そんなふうに、不安になる。なんとなく、嫌われてはいないような気はするけれど……分からない。
自分は皇帝だから。
例えどんな感情をその身体に潜ませていようと、それを表に出すことはないだろう。
(ほんとうは、出て行きたいのかもしれない)
それこそ、あの乳兄弟と。
そう考えると、苦しくなった。悔しくて、辛い。
(どんな感情だって抑えてきたのに)
嫦娥への感情だけが、制御がつかない。
積もる想いだけが溜まっていって、喉を詰まらせる。肝心なことは、なにも伝えられていない。
「はぁ、まぁ、色々あったのですねぇ」
ふとそんな声がした。
俺にとって、世界で一番甘い声。
(……ここまで帰ってきていたのか)
ぼうっとしている間に、永和宮までたどり着いていたらしいーーと、ほとんど反射的に、扉を叩く。
「嫦娥、誰かいるの?」
「あ、え、は、憂炎様」
扉を押しあけた。嫦娥が慌てているような声を出したからーー慌てるような誰かがいるのかと……ふと頭にあの男が浮かんで。
嫦娥の乳兄弟、会えるとなるとあんなに嬉しそうにした男。
声を震わせて。
目を潤ませて。
(ねぇ、どんな感情だったの?)
あいつのことを、どう思っているの?
そんなことも、聞けやしない。
扉の先には、嫦娥と獅子狗しかいなかった。
(当たり前だ)
息を吐きながら、そう思う。
ここは後宮。この国でいちばん、閉ざされた世界。
彼女の膝の上で、偉そうにしている獅子狗が、くあ、と欠伸をした。
「……その子と話していたの?」
「えへへ、はぁ、まぁ」
なんだか歯切れが悪いものの、ほかに誰もいないと知って心が安らぐ。
「ごめんね、母上が押し付けてきたんでしょ?」
「あ、でも可愛いし、面白いからいいです」
嫦娥は優しい手つきで獅子狗をそっと抱き上げた。
「面白い?」
「友達になってもらいました」
獅子狗は偉そうに、ふん、と鼻を鳴らして尻尾を振った。
(……浴のあとかな)
まだ少し湿っぽい髪、上気した頬、香油だろうか、いい香りがして……少し、くらりとしそうになる。
(このまま俺のものにしたって、誰も俺を責めやしない)
彼女は、俺の妃なんだから。……いずれは、后になってもらいたいのだけれど。
(だけど、そうしたらきっと、もう本当の意味で、嫦娥は俺のものになってくれない)
彼女にふれて、滅茶苦茶にしてしまいたい衝動をぐっと押し隠す。
ふと、獅子狗と目が合った。大事そうに彼女の膝に抱えられた、その愛玩犬。
すこしだけ、この犬が羨ましいと、そんなふうに思いながら、こっそり口の中で言葉にする。
(ごめんね)
ごめんなさい。俺の我執に巻き込んで、ごめんなさい。
頭の中に、磊の声が蘇る。
"おもちゃにされる人間の気持ちにもなれ"
……まったく、まさしく、その通りだ。
少しも彼女の気持ちなんか尊重してない。
(頑張って、頑張ってーー)
それでも、彼女の気持ちが俺に向かなかったら。
(そのとき俺はどうなるんだろう)
そう思う。自らの炎に灼かれて、そうして、彼女に殺されてしまうのだろうか。
ぼうっとした俺に、嫦娥は笑いかけてくれる。
「お疲れなのですか?」
「……ううん、ありがとう」
そう答えるので精一杯。
俺は上手に、笑えているだろうか。
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