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愚弟怨讐編 下
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ここはどこだ。
気がつくと、周囲に草木が生い茂り、虫の音が囀る森にいた。水の流れる音が微かに聞こえ、純粋に小型の動植物の息遣いしかしない世界。
「ははは。これが、死後の世界ってやつなのかな」
現在位置を知るために、僕は草木を掻き分けながらも、とりあえず前に進んだ。
前も後ろも、右も左も、一面真緑。己と同等の知的生命が存在せず、ただただ動植物の気配のみが支配する静寂に、心が洗われていくように感じた。
人は死ぬとどこへいくのか。かつてそんな哲学的、形而上的な問いを考察したことがあった。
結局、臨死体験でもしなければ、どう想いを馳せようとも仮説の域を出ないと判断していつしか考えるのをやめてしまったけれど、ここがまさに、その死後の世界とやらなのだろうか。
妙に居心地が良い。人間という名の知的生命体が存在しないから、というのもあるんだろうけれど、ただそれだけじゃないような気がする。
一言で言うと、懐かしさ、というやつだ。居心地の良さと同時に、懐かしさが僕の身体を優しく包み込んでくる。そう考えると、僕はこの場所を知っているような気がした。
昔、それも海馬から記憶を呼び起こさなくなるほど昔。まだ僕が、工作という名の趣味に目覚めてなくて、ただただ不毛で辛いだけの基礎体力作りに励んでいた頃の。
「だとしたら、ここは」
僕はとかく、前へ進んだ。何も考えず、方角など考慮もせず、遭難するんじゃないかという心配もかなぐり捨てて。
胸のあたりからふつふつと湧いてきて、少しずつ、その強さを増していく懐かしさだけを頼りに、草木を押しのけ、虫の囀りも、水の流れも、全てを無視して走り抜けていく。
何もかもを押しのけて走っているうち、草木だらけの獣道を抜けたのか、突然視界が真っ白になった。僕は思わず瞼を細める。
網膜に針を刺されているような痛み。ものすごい光だ。暖かい。太陽光か。視界が刻々と視力を取り戻していく。ゆっくりと瞼を開けて、閃光の向こう側にいるそれを、僕は見つめた。
そこは見慣れた、自分の家の庭だった。居間と縁側の襖を開けるとすぐ見れる、あの庭。
そうか、ここは僕の家の庭園だったのか。懐かしく感じたのは、ここは自分の家だったからだ。
じゃあ、全身筋肉隆々とした、不釣り合いなエプロン姿を着る巨魁なおばさんと、その隣にいる腰に剣を携えた少年、そしてそんな二人に囲まれて、べそをかいてるあの男の子は―――。
「たく久三男ォ!! てめぇなァにが気に食わねェんだァ!! 母ちゃんにもいえねェようなことなのかよォ!! あぁ!?」
「めんどくせぇ……腹筋百回もこなせねぇのがそんなに嫌ならもっと鍛えりゃいいだけの話だろうがよ」
やっぱりだ。あのおばさんは母さん。その横にいる少年は兄さん。そして、べそかいてる男の子は、僕。
それもまだ母さんが生きてて、兄さんが今の僕よりも若くて、僕はただただ泣き喚くことしかできなかったくらい、小さかった時。
「だっでぇ……でぎないんだもぉぉん……おながいだくで……もうやだよぉ……うわあああああん!」
「馬鹿野郎ォ諦めんなァ!! 腹いてェから無理、そう考えちまうから腹痛くなんだァ!! いいかァ!! 十回やれたら十一回!! 十一回やれたら十二回!! そうやって一つ一つ限界超えてくってのが男って奴なんだよォ!! わかったかァ!!」
「おながいだいじ……これいじょうやっだら……おなが、ぢぎれるぅ……」
「なら自分の腹を殴れェ!! ちぎれてんじゃねェぞクソ腹がァ!! と気合を入れて殴れェ!! それこそが男だァ!! わかったかァ!!」
「母さーん!! 戻ってきてー!! それは流石の俺も分かんないから!!」
僕は思わず、目の前に広がる懐かしい風景に、笑ってしまう。
そうだ、こんな感じだった。母さんがよく分からない謎理論を展開して、兄さんが冷静にツッコミをいれる。
それが僕の知ってる、つい二ヶ月くらい前までの日常だった。でも精神的に辛くなると、決まって僕はこう言いだすんだ。
「ぼぐは……だだがいだぐない……」
「ああ!? まァたそれかァ? だめだァ!! 流川たる者ォ!! 前に出て戦ってこそォ!! 男ってもんだァ!!」
「じゃあ……ぼぐはおどごじゃなぐで、いい……にいざんや……があざんを……うじろで……だずげる……びどになる……」
「前にも話したがなァ!! それは分家の仕事だァ!! 最終的に分家へ行くかはおめぇで決めるとしてもォ!! 今はまだガキィ!! 将来の幅を狭めるような真似はすんなァ!!」
僕は予想していたとおりの返答をする母親から、目を背ける。
修行が上手くいかなくて泣きじゃくりながら弱音を吐くと、決まって母さんはそう言っていた。
馬鹿の一つ覚えみたいに、飼い主の言葉を反芻するオウムみたいに。
その言葉が、母さんが言える、最大限のフォローだったのは分かっていた。母さんは、今は弱くても強くなるための修行を積み重ねていけば、きっと前に出られるという論理を心の底から信じていた人だ。僕はそれを痛いほど知っている。
でも、僕は母さんみたいに``心``が強くなかった。フォローだと分かっていても、ただただ辛さが増すばかりで。
「言っとくがな、分家入りしても戦闘は避けらんねぇぞ。テメェみたいな基礎体力もロクに無いグズ、邪魔ンなるだけだ」
「そんなことない……ぼくはいま、ひさひさおじさんにでしいりして、たたかいをさぽーとするどうぐをつくってる。いまはまだなにもつくれてないけど……うまくなれば、きっと……」
涙を拭い、必死に訴えかけるかつての僕の姿を見、僕はいつ頃の思い出だったかを思い出した。
これは、久々おじさんに弟子入りして間もない頃の僕だ。いくらやっても結果が出ない基礎体力作りや武術の鍛錬に辟易してたところに、まだ久々おじさんがいた頃のラボターミナルに行っては、実験のお手伝いとかをしてた頃の。
お手伝いをしてるうち、実験とか物作りの方が楽しくて、本格的に弟子入りを決心した直後の出来事。どうして、僕は忘れていたんだろう。確か、この後。
「だからかあさん、にいさん。ぼくにじかんを、じかんをください……いまはぐずでむのうでも、きっとすごいの、つくってみせるから」
「……久三男ォ……」
「……あーそうかいそうかいだったらもう知らん勝手にしやがれ!! 要は修行が辛いから逃げたいだけじゃねぇか!! チッ……この腰抜けが……!!」
「にいさん!!」
「うるせぇ!! テメェの妄想にはもううんざりだ!! つまらん……俺は道場に戻る!!」
足早にその場を去ろうとする兄さん。
そうだ、ここで兄さんが怒って立ち去っちゃうんだ。僕はそうじゃない、と説明したかったけど、兄さんはそんな僕の話をロクに聞こうともせず、道場に行っちゃって。
僕は拳を強く握った。
そうだよ。兄さんはあの頃から自分勝手だった。人の話をロクに最後まで聞かないで、勝手に決めつけて。違うよ、そうじゃないよ、僕はこうしたいんだって、何度も何度も言おうとしても、どうでもいい、知らん、ただの言い訳だ、と全部突っぱねて。
見ていて腹が立ってきた。やっぱり兄さんは許せない。昔懐かしさでつい忘れてたけど、いつどんなときだろうと、兄さんは兄さんだ。一度僕みたいな弱い者の気持ちが分かれば、絶対言い訳だなんて言えないはずなのに。
「かあさん!! かあさんはわかってくれるよね……ねぇ!?」
母さんのエプロンを小さな手で引っ張り、何倍もの身長を持つ母さんを見上げる、幼少時の僕。このとき、母さんがどんな顔をしていたかは忘れちゃったけど、そう。肩に手を置いてくれたんだ。でも母さんも兄さんと似たようなことを―――。
「久三男ォ。てめぇの言いたいことは分かったァ。立派な目標じゃねぇかァ……」
「かあさん……!」
あれ。
僕は予想外の台詞に困惑する。どういうことだ。僕と思ってた雰囲気と違う。いつもいつも強情で、武人然としていた母さんが、どうしてあんなに優しく。
「でもよォ……だからって修行しない理由にはならねェぜ……? さっきも言ったがてめぇはまだガキだァ……今が辛いからって将来の幅を狭めるこたァねェ。俺みたいな戦うしか能の無い凡愚になんざ、なりたくねェだろう?」
かあ、さん。そんな。違う。こんな、こと、言ってた、なんて。僕は、僕は知らない。どうして、なんで僕は覚えてないんだ。
「ふぐ……ぅぅ……かあさんのわからずや!! もういい!! ぼくは、ぼくひとりでつよくなる!! もうだれも、しんじるもんか!!」
「く、久三男ォ!!」
再びたくさんの水玉を目からこぼしながら、幼少の僕は居間の奥へ消えていった。そんなやりとりを見て、僕は己の中に湧いた疑念を打ち払う。
あの時の僕は理解できなかったんだ。母さんが言わんとしていること。あの頃はとにかく、自分を分かって欲しくて必死で、とにかく自分の考えや方向性を一方的に主張していた。
理解されるように語るのではなく、理解を強要するように語る。相手が意見してもそれらを全て跳ね返し、受け入れようとはしなかった。
当時の僕は、自分が考えた方向性や考えに意見されることに、ただの否定としか受け取れないほど、精神的に追いこまれてたんだろうけど。
「今なら分かる。母さんは……僕のこと、理解しようとしていたんだね……」
十五歳となった、今の自分だからこそ分かる、母の言葉。
将来の幅を狭めて欲しくない、沢山の経験を積んでほしいという願い。そして、その経験をした上で、最後は自分で何をしたいかを決めればいい。それからでも遅くはない、ということ。
僕は昔から、他人が僕に無理解なのは、僕のことを理解しようとしない、する気が無いからだ、と勝手に決めつけていた。そのうち、否定されるのが怖くて、意見されるのが怖くて、自分の行動一つ一つに批判されるのが怖くて、僕は孤立する道を選んだ。
暗い暗い、自宅の地下。誰にも邪魔されない、誰にも意見されない、誰にも否定されない、何をしても、自分の思い通りになる定常な世界に身を委ねて。
兄さんも母さんからも距離をおき、僕は己の世界に引きこもる事で自衛を図っていたつもりだった。
でも、本当は違ったんだ。周りが無理解なんじゃない。どうせ何を言っても否定されたり意見されたりするのなら、ただ一人の世界で好き放題やりたい放題できる方がいいと判断した僕自身が、周りに対して``無理解``だっただけなんだ―――。
「ねえ久三男くん」
耳元から感じる、とても聞き慣れた純朴で無垢な女性の声音に、僕は音源に飛びつく勢いで、顔を上げた。
気がつけば僕は学生服を着ていた。教室の隅っこ、窓際の席。そこで僕は突っ伏して寝ていたのだろうか。顔を上げると、一人の女子高生がいた。
黒くて長い髪、カチューシャをつけてて、後ろ髪をポニーテールで結んだ、とっても可愛い女の子。
僕は彼女を知っている。当たり前だ。あらゆるリアル女に興味を示さず、画面の向こう側にいる最高レアの女の子にしか恋をしないと悟った僕を、ものの見事に攻略して好感度をカンストさせた女性。
木萩澪華、その人である。
「どうしたの? 急に突っ伏しちゃって。澄男に、またキツいコト言われたの?」
「え。えっーと……まあ、うん。そんな、ところ、かな」
「ふーん……正直ちょっと話が見えてこないんだけどさ」
木萩澪華は自分の顔の輪郭を、細長く壮麗な指でなぞりながら、思索する。
ただそれだけの行動で、僕の中の童貞の部分を刺激し続ける中、黒光りする瞳が、そっと優しく僕を見下げた。
「ホントに澄男は、ただキツいコトを言っただけなのかな」
「そうだよ、そうに決まってる。それ以外にありえないね」
「そうかなぁ……澄男は確かに言いすぎたり、やりすぎてる節があるけどさ。私は、そういうときの澄男って何か伝えたいコトが、あるんじゃないかなって思うの」
「伝えたい、こと?」
「分かんないけどね。だって、汚い言葉を吐いたり、人を殴ったり蹴ったりした後の澄男ってさ……とっても悲しそうな顔、してるから」
僕は首を傾げた。兄さんが僕に伝えたいこと。そんなのあるとは思えないけれど。
「だから、一回腹を割って話してみなよ。きっと澄男は、君にどうしても理解してほしい何かを伝えたいんだと、私は思うから」
刹那、チャイムが教室に鳴り響いた。周りの生徒が机に吸収されるように席についていく。
澪華は上級生なので、先生が来る前に足早に教室を去ろうと、僕から離れていった。僕は彼女を呼び止める。でも彼女は振り向こうとしなかった。
聞こえないのか。いやそんなことはない。そんなに距離は離れてないはずだ。おかしい。どんどん距離が開いていく。気がつくと周りは教室ではなく、真っ黒になっていた。
闇の中へ消えていく澪華。僕は必死に呼び止めようと声を張り上げる。しかしそれでも彼女の足は止まらない。どんどん、どんどん闇へ呑まれていく。
兄さんが僕にどうしても理解して欲しい事って何。伝えたい事って何。
澪華は知っているのか。知っているのなら教えて欲しい。僕には話しかける勇気なんてない、また暴言吐かれるのが怖い、また殴られたりするのが怖い。兄さんはそういう人なんだ。
だから分かってるなら教えてよ。澪華、澪華、澪華―――。
「澪華待っ……!!」
待って、と言おうとした僕だったが、視界がまた様変わりしたことに気づいた。
おそるおそる周りを見渡す。そこは僕の生活拠点、流川本家邸地下一階にある、僕の私室だった。
壁一面に貼られたアニメやゲームの女の子のクリアポスター。いつも使ってるコンピュータやゲーム機、テレビが中央にあって、棚には分家派に頼み、巫市の通販からわざわざ取り寄せた同人誌や漫画、ライトノベル。そして僕が暇潰しに自作したヒロインのフィギュア。
見慣れているはずなのに、何故か今だけは新鮮に感じられる。
とりあえず現況を把握するため、僕は自分の身体を触診しつつ、舐めるように見つめる。服は何故か、誰が着替えさせたかは知らないが、パジャマになっていた。
いつ、どうやってこの理想郷、もとい自分の部屋まで帰ってきたのか。最新の記憶では、家の庭のどこかで霊力を使い果たして倒れたはずなのに、その僕は何故だか自室のベッドで寝ていたらしい。
とどのつまり、ベッドで寝こけてて、飛び起きたといったところだろうか。そうなると、さっきまで体験していたのは臨死体験でも死後の世界でも走馬灯でもなく、ただの夢だったのか。
確認のため、僕は試しに頬を強くつねった。痛い。どうやら、今見ている世界は現実のようだ。
「よう。やっと起きたか」
左隣から聞き慣れた男の声。僕は声のする方に振り向いた。そこには、ベッドにもたれかかるようにして腕を組み、お父さん座りをしていた兄さんが、僕の方を横目にして見つめていた。僕はすぐ目を背ける。
「……出てってくれる? 不愉快だから」
「そうだな、そうしよう……と言いてえところだが、そんな気はない」
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
「迷惑」
「知るか」
「……じゃあ僕、二度寝するから」
「待てや」
「なに!!」
僕は意味の分からないことを言い出す兄さんに怒鳴り散らす。
寝起き初っ端から、この男はなにがしたいのか。出ていけと言ったら出て行きたくないだとか言いだすし、僕の部屋なのに僕の二度寝すら邪魔する始末。
そんなに僕の権利を奪いたいのか兄さんは。僕から尊厳もプライドも奪っておいて、最後は僕の安寧までも。くそが。くそがくそがくそがくそが。
「お前に……その……話がある」
怒鳴り散らしたから顔面にグー食らう覚悟を決めた僕だったが、兄さんは僕の予想を容易く裏切り、俯き加減でそんなことを呟いた。
兄さんの言わんとしている意図が掴めず、はぁ? と言ってしまうが、それすらも兄さんは意に介さず、ゆっくりと話し始めた。
「まず……お前が負った傷は、黄緑色の蛙みたいな生物が治してくれた。後で礼を言っとけ」
そう言われ、僕は左腕や左肩、そして折られたはずの右足を動かしたり触ったりしてみる。
そういえば、勢いよく起き上がったのに、なんの痛みもなかった。ギプスもつけられてないし、本当にただ気絶して部屋で寝てただけって感じである。
砕かれた左腕や左肩は問題なく動かせるし、変な方向に曲がった右足も、綺麗に元の状態に戻っていた。
顔やお腹も確認する。兄さんに殴られ蹴られて、内臓にも相当なダメージを負ってたはずだが、打撲の気も全くない。まるで最初から怪我なんてしてなかったみたいだ。
頭の傷もないし、抜けた永久歯すら、何事もなかったように僕の口の中に収まっている。
「それと、お前はあれから三日ほどずっとここで寝てた。傷と体力は全快できたんだが、使い果たした霊力はどうにもならんでな」
身を捩り、ベッドに置いてあるデジタル時計に目をやる。
月日は五月十三日、時間は昼の二時。確かに、あれから三日経っている。そういえば、さっきから異常にお腹空くな、と思ってたんだ。
まあ、とはいえ。
「そんなことを言うために僕の部屋に居座ってたの? だったらもう消えてよ。とりあえず現況は理解できたし」
「待て待て……そう急くなよ。まだ話があんだ」
「……もう、何なのさ……」
兄さんらしくない、煮え切らない態度に僕の苛立ちは増していく。
僕からもう話すことは何もない。強いて言うならこのまま黙って部屋から消えて、二度と僕と関わらないようにしてほしい。ぐらいだ。
って言ってもどうせ兄さんのことだから出ていかないんだろうけれど、どうして兄さんはこうも弱い人の想いを容易く踏みにじれるのか。自分が強いからって調子に乗ってるんだろうか。
いや、きっとそうだ。そうに決まってる。
「久三男。結論から言う。俺の負けだ」
「……は?」
あまりの脈絡のなさに、僕は思わずアホみたいな声を出してしまう。
俺の負け、何のことなのかさっぱり分からない。結論らしいからなんで負けなのかという話をするんだろうけれど、これって勝ち負けの話だったっけ。もうこの時点でツッコミを入れたい気分だ。
「今まで俺は……お前のやり方、否定してただろ? ただの逃げだとか、言い訳だとか」
「そうだけど。今更気づいたの?」
「いや、前からそのつもりで言ってた」
「じゃあ尚更酷いんだけど。なにそれ。この期に及んでまだ喧嘩売るつもり?」
「だから急くなって……それには訳があんだよ」
「ふーん……いいよ、どうせ暇だし聞くだけ聞いてあげるよ。兄さんの見苦しい``言い訳``を」
「お前一々腹立つ言い方するな……まあいいや。正直言って、お前が裏でコソコソしたいって言い出したとき、俺はマジでヘコんだんだ」
「その裏でコソコソって表現やめてほしいんだけど。自分の好きを突き詰めて修行してた、って言ってよ」
「あ……いやすまん……。とりあえずだ。俺はそのお前の修行にショックを受けたんだよ」
「なんで……」
「それは……その……」
「なに?」
「だから……」
「……言えないならいいよ。さ、話は終わり。消えて」
「ああーもう!! だから!! 俺はテメェと一緒に、前線で戦うことを夢見てたんだよ!!」
兄さんが大声を張り上げた。僕はかけ布団を盾に、身を震わせる。
「俺はな、お前と前線で戦うの、夢だったんよ。だって兄弟だもん。戦えたらいいなって、ずっと思ってた」
「……」
「でもお前、急に戦いたくないとか言いだして……挙句、部屋も二階にある俺の隣の部屋から、こんな暗い地下室に移すし……マジで修行諦めたのかよって、クッソ悲しくて……」
「……」
「だからお前を元の鞘になんとか戻したくて、否定し続けて……でも否定すればするほど、お前はどんどん暗い所に行っちまって」
「……」
「だからもう、どうすりゃいいか、分かんなくて……母さんにも相談したりしたけど、母さんにもお手上げで……」
「……それで、結局自分のできることをしようという結論に至り、僕のやり方を否定し罵り続けて挫折させる方法を採ったと」
ああ、と兄さんは俯きながら返事をした。
口から滑るように、それでいてらしくなく恐れているかのように放たれた、兄さんの告白。俯き加減で言っているあたり、ずっと隠してきた本心というのは、手に取るように分かった。
でも僕のモヤモヤは収まらない。むしろ、勢いを増して大きくなる。
「……だったらなんで敗北宣言なのさ。三日前のタイマンは、確実に兄さんの独り勝ちだったじゃないか」
低い声音で、兄さんに詰問する。
一緒に戦いたいがために否定し続けていた。
だったら今回のタイマンでも、僕のやり方を罵り、嘲って否定すればよかったじゃないか。今になって敗北宣言とか、あんまりにも虫が良すぎる。こっちは殴られ蹴られ罵られ損だ。
兄さんに打ち勝つため、今までずっと、努力してきた。カオティック・ヴァズは、その努力の集大成の一つと言ってもいい。
でもその集大成の一つを以ってしても、兄さんには打ち勝てなかった。三月十六日―――澪華を失ったあのとき以前からずっと頑張ってきたのに、それでも勝利の女神は僕に微笑んではくれなかったんだ。
兄さんばかりに勝利が付きまとう。対して僕は、敗北ばかり。百の敗北から一の勝利を掴み損ねた僕の前で、掴んできた数多の勝利うちの一つをわざわざ投げ捨てる兄さんの言動は、たとえ過去が、理由がどうだったとしても、そう簡単に受け入れられるものじゃない。
僕は強く布団を握り締めた。奥歯を噛み砕く思いで、噛み締めながら。兄さんは俯いたまま、僕の詰問に珍しく冷静に答えた。
「あのとき……お前が反撃する気がなくなったと思って、お前から立ち去ろうとしたとき、お前、右腕上げただろ? 霊力の光線を撃つために」
「うん。で?」
「あんときのお前の顔、マジで殺意に塗り潰されてた。絶対テメェをブッ殺して、なすべきをなしてやる、って感じの……要は気合っての? そういうのがビシッー、って伝わった。あんとき初めて俺、``やばい、殺される``って、背筋凍ったんだぜ?」
兄さんは猿みたいに頭をかきながら、斜め四十五度の方向に目線を泳がせつつ言った。僕は若干、布団にかける握力を弱める。
「つまり兄さんは、あのときの僕に恐怖を抱いたってこと?」
「恥ずかしながらな。ビビッて萎縮しちまった以上、もしお前が俺より強い奴だったら確実に死んでた。それに今回、色んな奴の手回しがなきゃ、そもそもお前の所まで行く事すらできなかった。だからタイマンもクソもねぇ」
「……つまり?」
「だから……その。よくよく考えてみれば、俺はお前の作ったカオティック・ヴァズに殺られてたワケで……だから……感情のあまり、カオティック・ヴァズを貶したことと、今まで否定し続けてきたことは……あ、謝る。すまん」
兄さんは俯いたまま、頭を深々と垂れた。兄さんが頭を下げる、生まれて始めてみたその姿に絶句しつつ、今さっきまで見た夢の事―――特に澪華が言い残した台詞を思い返した。
言ってしまえば、兄さんはとても不器用なんだ。良くも悪くも、相手をブチのめし破壊する道理しか分からず、いざ自分の想いを伝えようにも言葉より殴ったり蹴ったりして無理矢理に頭を押さえつけた方が速い、と考えてしまう。
でもそれだと相手はただ恐怖と痛みで萎縮してしまって、結局対等な意思疎通は取れないまま、兄さんだけがモヤモヤする結果に陥る。さらに、短気で感情の起伏がものすごく激しい気質が拍車をかけて、いつもいつも考えるより手や足が先に出てしまうから、尚更本音を言う機会を自ら潰してしまっているんだ。
それらに関し、今まで戦いしか興味を持たなかった兄さんの自業自得としか思わないけれど、不器用さで言うなら僕も同じ。
僕は兄さんや母さんは家族だから、僕のことを分かってくれる。そう勝手に信じて僕は一切、本音を語らなかった。
語ったところでどうせ誰も理解してくれない、語るだけ時間と精神力の無駄遣いだと。
だから私室を地下に引っ越したときも、道場に一切出入りしなくなったときも、兄さんや母さんに、なんでそんなことをしたのかを、全く話そうとはしなかった。
特に兄さんには、絡まれたら殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのは分かってたから、こっちから避けてたくらいだ。
僕は本音をほとんど語らない。だから後先考えずに行動しがちな兄さんをさらに不安にさせてしまう。なおかつ、分かってくれると勝手に思い込んでたせいで、兄さんに分かるように説明するのを怠ってた節もある。
当然、説明して分からなかったら、もれなく兄さんの理解力の無さのせいだとしていた自覚もある。
要は兄さんも僕も、どっちもすれ違い続けていたんだ。
兄さんは気持ちを伝えたくても伝えられなくて。僕はそもそも怖くて気持ちを伝えること自体をやめて。
お互いの溝は元々小さかったのかもしれないけれど、気持ちと気持ちのすれ違いが、長い時間をかけて溝をこんなにも大きくしてしまった。
今更どっちから歩み寄るべきだったのかは、もう分からない。僕は僕で、兄さんは兄さんで、溝を埋める方法と時間は沢山あった。でも、誰も埋められなかった。
兄さんは埋めようとしていたみたいだけど、そんな僕は埋める事自体を早々と放棄していたし。
いま重要なのは、次、僕たちはどうしていくべきか、だ。でももう、考えるまでもない。答えは既に出ているんだ。
「兄さん。僕の方も……ごめん」
僕もつられるように、頭を下げた。兄さんの顔が疑問符で彩られる。それでも一方的に、語りを続ける。
「僕もさ、本音を語ることを放棄してた。兄さんは僕との隔たりを埋めようとしてくれてたのに、僕は全く意に介さなかった」
「いや……それは俺がボコしたりしてたからで……」
「うんそれもあるけど……でも僕は一方的に、兄さんと距離をおいちゃったから……もし僕が母さんに仲立ちしてもらうように頼んでたら、違ってたかもしれない」
「……」
「でも僕は、何もしなかった。ただ兄さんなら分かってくれると勝手に信じて、ちゃんとした説明もせずただ自分のやり方を一方的に伝えて距離をおいた」
「……」
「兄さんは後先考えないし、物事を深く考えない人だから、僕はもっと兄さんや母さんに分かるように、説明するべきだったよ。不安にさせてごめんね、兄さん」
「そうか……でもお前をそんなんにしたのは、元をただせば俺なわけだし……かなりの割合で俺に非はあるよな……」
「そこは否定しない」
「なんつーか、本来なら俺がきちんと謝るべきなんだが……予想外に面食らってなんか……これじゃあ、俺、完全にただのクズ……」
「じゃあ、どうする?」
兄さんは再び俯く。
僕は親に怒られて、小さくなっている子供みたいに蹲る兄の顔を、じっと覗き込んだ。そして、意を決したのか。兄さんはのそりと立ち上がる。
しかし、すぐにしゃがみこみ、両手を床につけ八の字に添え、頭を勢いよく地面に叩きつけた。
僕は目を見開く。あの兄さんが、絶対に誰にも頭を下げない、あの兄さんが。己よりずっと弱い、実の弟に対して、行ったのだ。
流川本家派当主、流川澄男。傍若無人、悪鬼羅刹を絵に描いたような人間であり、気にくわない奴は問答無用で物理的に黙らせる、プライドが高くて自分より弱い奴には不遜な態度を決して崩さない兄さんには、最も似合わない仕草。
一般に、``土下座``と呼ばれるそれを、兄さんは堂々と、僕の前でやってみせたのだった。
「俺が兄として、やるべきをやってれば、こんな事にはならんかった。許せだとか、今までを全部水に流せだとか、そんな虫の良すぎる事なんざ期待してねぇ」
「……」
「恨むなら恨んでくれてて構わねぇ。俺はそれだけのことをしてきたんだ。むしろお前に殺されたって文句言えたタチじゃねぇ」
「……」
「でも、お前に恨まれようと俺は可能な限り、兄としてやるべきをやっていこうと思う。だからもうお前のやることに口出ししないし罵ったりもしない」
「……」
「本当にごめん。今まで酷い事して本当に悪かった……。今度からお前の意見も、話も、ちゃんと聞く……それ以外のことはしないと誓う……い、以上だ……じゃあもう俺は」
「兄さん!」
僕はそそくさと去ろうとする兄を呼び止める。
最後の最後まで、なんて不器用なんだろうか。人に頭を下げ慣れてないからなんだろうけど、これはあんまりにも不器用すぎる。
違う。違うよ、僕が望んでるのはそうじゃない。望んでるのは―――。
「兄さん、僕は前線では戦えない。けど、兄さんが戦場に赴くことになったら、僕は後方支援になるけど一緒に戦いたい」
「いや、でも……」
「確かに今までを全部水に流すのは無理だよ。正直殴られたり否定されたり侮辱されたりしたのは、今でも許せないし。でもそれで距離をおいたら、何にも変わらないよ」
「……」
「だから、さ。僕も本音を語るようにするし、兄さんの戦いの手伝いもしたい。そして兄さんも、今までどおりでいいから本音を語っていい。多分これからも小競り合いがあるだろうし、殴られたり罵られたりするのはやだけど、だからって距離を取られるのはもっとやだ。だから……お互い少しずつでもいい。溝を埋めていかない?」
「……い、いいのか。ほんとに」
「いいもなにも、そうじゃなきゃ今までと変わんないもん。兄さんはそれでいいの?」
「……やだ」
「じゃあ交渉成立。今はそれでいいじゃない?」
せやな、と兄さんは汗をかきながら答えた。
兄さんの顔からは、距離をつめるとまた同じことを繰り返しちまうんじゃないか、とか、そうなったら俺、もうマジでただの底なしのクズじゃん、とか、うまくやっていけっかな、とか、そんな感情が読み取れた。
いつだったか、澪華が「澄男はすぐ顔に出る」と言ってたけれど、その言葉の真意が今、分かった気がする。
誰も発言しようとしない空気の中、突然、僕の腹の虫が汚い羽音を奏でた。僕は頭をかいて心底から湧く照れを隠しながら、兄さんに詰め寄る。
「さて兄さん。僕、お腹すいた」
「んあ。おお、そうか。そういや三日断食だったなお前」
「ご飯、一緒に食べよう?」
「お、おう! 久しぶりに食うか、一緒に」
「兄さんの料理が食べたい」
「よせよ。料理なんて無理だぜ」
「ブランチぐらい作れるでしょ」
「ぶらんち……? なんぞそれは」
「……兄さんってほんと、戦い以外は無知だよね」
「そそそそんなことねぇし!! 戦い以外の知識ぐらいあるぞ!! ええっと……せやな……いち、たす、いち、は、に、とか!!」
「うん知ってた」
「おおおーい馬鹿にすんな? 今のはアレだ小手調べってやつだ」
「じゃあ問題。2+1×5は?」
「えっと……はち!! はちだ!!」
「……兄さん。もうだめだよ。無知という称号からは逃れられない」
「あれ!? 違うのか!? いや……あれー!?」
そんな低レベルの会話をしながら、僕たちは地上一階の居間へ急ぐ。
僕と澪華だけが知っている、兄さんの長所。
粗暴で、口汚くて、自分勝手で、後先考えられなくて、常に感情的で、馬鹿で阿呆で、興味のあること以外はとことん無知で、こう決めたらどうだろうと動かないし、聞く耳を持たない、いっそのこと有り体に言っちゃうならクズ野郎で。
兄らしいことなんてほんと、いままでなんにもしてこなかった人だけど、そんな短所の塊のような兄を、なんだかんだで結局好きでいられるのはやっぱり―――。
兄さんが、ドがつくほど素直で、実は心の根っこの方はとっても純朴で、人知れず人間臭く色々悩んで、真面目に、そして自分なりに答えを出して行動する、ある種の独特な筋を持った人間だからなんだと、僕は思う。
気がつくと、周囲に草木が生い茂り、虫の音が囀る森にいた。水の流れる音が微かに聞こえ、純粋に小型の動植物の息遣いしかしない世界。
「ははは。これが、死後の世界ってやつなのかな」
現在位置を知るために、僕は草木を掻き分けながらも、とりあえず前に進んだ。
前も後ろも、右も左も、一面真緑。己と同等の知的生命が存在せず、ただただ動植物の気配のみが支配する静寂に、心が洗われていくように感じた。
人は死ぬとどこへいくのか。かつてそんな哲学的、形而上的な問いを考察したことがあった。
結局、臨死体験でもしなければ、どう想いを馳せようとも仮説の域を出ないと判断していつしか考えるのをやめてしまったけれど、ここがまさに、その死後の世界とやらなのだろうか。
妙に居心地が良い。人間という名の知的生命体が存在しないから、というのもあるんだろうけれど、ただそれだけじゃないような気がする。
一言で言うと、懐かしさ、というやつだ。居心地の良さと同時に、懐かしさが僕の身体を優しく包み込んでくる。そう考えると、僕はこの場所を知っているような気がした。
昔、それも海馬から記憶を呼び起こさなくなるほど昔。まだ僕が、工作という名の趣味に目覚めてなくて、ただただ不毛で辛いだけの基礎体力作りに励んでいた頃の。
「だとしたら、ここは」
僕はとかく、前へ進んだ。何も考えず、方角など考慮もせず、遭難するんじゃないかという心配もかなぐり捨てて。
胸のあたりからふつふつと湧いてきて、少しずつ、その強さを増していく懐かしさだけを頼りに、草木を押しのけ、虫の囀りも、水の流れも、全てを無視して走り抜けていく。
何もかもを押しのけて走っているうち、草木だらけの獣道を抜けたのか、突然視界が真っ白になった。僕は思わず瞼を細める。
網膜に針を刺されているような痛み。ものすごい光だ。暖かい。太陽光か。視界が刻々と視力を取り戻していく。ゆっくりと瞼を開けて、閃光の向こう側にいるそれを、僕は見つめた。
そこは見慣れた、自分の家の庭だった。居間と縁側の襖を開けるとすぐ見れる、あの庭。
そうか、ここは僕の家の庭園だったのか。懐かしく感じたのは、ここは自分の家だったからだ。
じゃあ、全身筋肉隆々とした、不釣り合いなエプロン姿を着る巨魁なおばさんと、その隣にいる腰に剣を携えた少年、そしてそんな二人に囲まれて、べそをかいてるあの男の子は―――。
「たく久三男ォ!! てめぇなァにが気に食わねェんだァ!! 母ちゃんにもいえねェようなことなのかよォ!! あぁ!?」
「めんどくせぇ……腹筋百回もこなせねぇのがそんなに嫌ならもっと鍛えりゃいいだけの話だろうがよ」
やっぱりだ。あのおばさんは母さん。その横にいる少年は兄さん。そして、べそかいてる男の子は、僕。
それもまだ母さんが生きてて、兄さんが今の僕よりも若くて、僕はただただ泣き喚くことしかできなかったくらい、小さかった時。
「だっでぇ……でぎないんだもぉぉん……おながいだくで……もうやだよぉ……うわあああああん!」
「馬鹿野郎ォ諦めんなァ!! 腹いてェから無理、そう考えちまうから腹痛くなんだァ!! いいかァ!! 十回やれたら十一回!! 十一回やれたら十二回!! そうやって一つ一つ限界超えてくってのが男って奴なんだよォ!! わかったかァ!!」
「おながいだいじ……これいじょうやっだら……おなが、ぢぎれるぅ……」
「なら自分の腹を殴れェ!! ちぎれてんじゃねェぞクソ腹がァ!! と気合を入れて殴れェ!! それこそが男だァ!! わかったかァ!!」
「母さーん!! 戻ってきてー!! それは流石の俺も分かんないから!!」
僕は思わず、目の前に広がる懐かしい風景に、笑ってしまう。
そうだ、こんな感じだった。母さんがよく分からない謎理論を展開して、兄さんが冷静にツッコミをいれる。
それが僕の知ってる、つい二ヶ月くらい前までの日常だった。でも精神的に辛くなると、決まって僕はこう言いだすんだ。
「ぼぐは……だだがいだぐない……」
「ああ!? まァたそれかァ? だめだァ!! 流川たる者ォ!! 前に出て戦ってこそォ!! 男ってもんだァ!!」
「じゃあ……ぼぐはおどごじゃなぐで、いい……にいざんや……があざんを……うじろで……だずげる……びどになる……」
「前にも話したがなァ!! それは分家の仕事だァ!! 最終的に分家へ行くかはおめぇで決めるとしてもォ!! 今はまだガキィ!! 将来の幅を狭めるような真似はすんなァ!!」
僕は予想していたとおりの返答をする母親から、目を背ける。
修行が上手くいかなくて泣きじゃくりながら弱音を吐くと、決まって母さんはそう言っていた。
馬鹿の一つ覚えみたいに、飼い主の言葉を反芻するオウムみたいに。
その言葉が、母さんが言える、最大限のフォローだったのは分かっていた。母さんは、今は弱くても強くなるための修行を積み重ねていけば、きっと前に出られるという論理を心の底から信じていた人だ。僕はそれを痛いほど知っている。
でも、僕は母さんみたいに``心``が強くなかった。フォローだと分かっていても、ただただ辛さが増すばかりで。
「言っとくがな、分家入りしても戦闘は避けらんねぇぞ。テメェみたいな基礎体力もロクに無いグズ、邪魔ンなるだけだ」
「そんなことない……ぼくはいま、ひさひさおじさんにでしいりして、たたかいをさぽーとするどうぐをつくってる。いまはまだなにもつくれてないけど……うまくなれば、きっと……」
涙を拭い、必死に訴えかけるかつての僕の姿を見、僕はいつ頃の思い出だったかを思い出した。
これは、久々おじさんに弟子入りして間もない頃の僕だ。いくらやっても結果が出ない基礎体力作りや武術の鍛錬に辟易してたところに、まだ久々おじさんがいた頃のラボターミナルに行っては、実験のお手伝いとかをしてた頃の。
お手伝いをしてるうち、実験とか物作りの方が楽しくて、本格的に弟子入りを決心した直後の出来事。どうして、僕は忘れていたんだろう。確か、この後。
「だからかあさん、にいさん。ぼくにじかんを、じかんをください……いまはぐずでむのうでも、きっとすごいの、つくってみせるから」
「……久三男ォ……」
「……あーそうかいそうかいだったらもう知らん勝手にしやがれ!! 要は修行が辛いから逃げたいだけじゃねぇか!! チッ……この腰抜けが……!!」
「にいさん!!」
「うるせぇ!! テメェの妄想にはもううんざりだ!! つまらん……俺は道場に戻る!!」
足早にその場を去ろうとする兄さん。
そうだ、ここで兄さんが怒って立ち去っちゃうんだ。僕はそうじゃない、と説明したかったけど、兄さんはそんな僕の話をロクに聞こうともせず、道場に行っちゃって。
僕は拳を強く握った。
そうだよ。兄さんはあの頃から自分勝手だった。人の話をロクに最後まで聞かないで、勝手に決めつけて。違うよ、そうじゃないよ、僕はこうしたいんだって、何度も何度も言おうとしても、どうでもいい、知らん、ただの言い訳だ、と全部突っぱねて。
見ていて腹が立ってきた。やっぱり兄さんは許せない。昔懐かしさでつい忘れてたけど、いつどんなときだろうと、兄さんは兄さんだ。一度僕みたいな弱い者の気持ちが分かれば、絶対言い訳だなんて言えないはずなのに。
「かあさん!! かあさんはわかってくれるよね……ねぇ!?」
母さんのエプロンを小さな手で引っ張り、何倍もの身長を持つ母さんを見上げる、幼少時の僕。このとき、母さんがどんな顔をしていたかは忘れちゃったけど、そう。肩に手を置いてくれたんだ。でも母さんも兄さんと似たようなことを―――。
「久三男ォ。てめぇの言いたいことは分かったァ。立派な目標じゃねぇかァ……」
「かあさん……!」
あれ。
僕は予想外の台詞に困惑する。どういうことだ。僕と思ってた雰囲気と違う。いつもいつも強情で、武人然としていた母さんが、どうしてあんなに優しく。
「でもよォ……だからって修行しない理由にはならねェぜ……? さっきも言ったがてめぇはまだガキだァ……今が辛いからって将来の幅を狭めるこたァねェ。俺みたいな戦うしか能の無い凡愚になんざ、なりたくねェだろう?」
かあ、さん。そんな。違う。こんな、こと、言ってた、なんて。僕は、僕は知らない。どうして、なんで僕は覚えてないんだ。
「ふぐ……ぅぅ……かあさんのわからずや!! もういい!! ぼくは、ぼくひとりでつよくなる!! もうだれも、しんじるもんか!!」
「く、久三男ォ!!」
再びたくさんの水玉を目からこぼしながら、幼少の僕は居間の奥へ消えていった。そんなやりとりを見て、僕は己の中に湧いた疑念を打ち払う。
あの時の僕は理解できなかったんだ。母さんが言わんとしていること。あの頃はとにかく、自分を分かって欲しくて必死で、とにかく自分の考えや方向性を一方的に主張していた。
理解されるように語るのではなく、理解を強要するように語る。相手が意見してもそれらを全て跳ね返し、受け入れようとはしなかった。
当時の僕は、自分が考えた方向性や考えに意見されることに、ただの否定としか受け取れないほど、精神的に追いこまれてたんだろうけど。
「今なら分かる。母さんは……僕のこと、理解しようとしていたんだね……」
十五歳となった、今の自分だからこそ分かる、母の言葉。
将来の幅を狭めて欲しくない、沢山の経験を積んでほしいという願い。そして、その経験をした上で、最後は自分で何をしたいかを決めればいい。それからでも遅くはない、ということ。
僕は昔から、他人が僕に無理解なのは、僕のことを理解しようとしない、する気が無いからだ、と勝手に決めつけていた。そのうち、否定されるのが怖くて、意見されるのが怖くて、自分の行動一つ一つに批判されるのが怖くて、僕は孤立する道を選んだ。
暗い暗い、自宅の地下。誰にも邪魔されない、誰にも意見されない、誰にも否定されない、何をしても、自分の思い通りになる定常な世界に身を委ねて。
兄さんも母さんからも距離をおき、僕は己の世界に引きこもる事で自衛を図っていたつもりだった。
でも、本当は違ったんだ。周りが無理解なんじゃない。どうせ何を言っても否定されたり意見されたりするのなら、ただ一人の世界で好き放題やりたい放題できる方がいいと判断した僕自身が、周りに対して``無理解``だっただけなんだ―――。
「ねえ久三男くん」
耳元から感じる、とても聞き慣れた純朴で無垢な女性の声音に、僕は音源に飛びつく勢いで、顔を上げた。
気がつけば僕は学生服を着ていた。教室の隅っこ、窓際の席。そこで僕は突っ伏して寝ていたのだろうか。顔を上げると、一人の女子高生がいた。
黒くて長い髪、カチューシャをつけてて、後ろ髪をポニーテールで結んだ、とっても可愛い女の子。
僕は彼女を知っている。当たり前だ。あらゆるリアル女に興味を示さず、画面の向こう側にいる最高レアの女の子にしか恋をしないと悟った僕を、ものの見事に攻略して好感度をカンストさせた女性。
木萩澪華、その人である。
「どうしたの? 急に突っ伏しちゃって。澄男に、またキツいコト言われたの?」
「え。えっーと……まあ、うん。そんな、ところ、かな」
「ふーん……正直ちょっと話が見えてこないんだけどさ」
木萩澪華は自分の顔の輪郭を、細長く壮麗な指でなぞりながら、思索する。
ただそれだけの行動で、僕の中の童貞の部分を刺激し続ける中、黒光りする瞳が、そっと優しく僕を見下げた。
「ホントに澄男は、ただキツいコトを言っただけなのかな」
「そうだよ、そうに決まってる。それ以外にありえないね」
「そうかなぁ……澄男は確かに言いすぎたり、やりすぎてる節があるけどさ。私は、そういうときの澄男って何か伝えたいコトが、あるんじゃないかなって思うの」
「伝えたい、こと?」
「分かんないけどね。だって、汚い言葉を吐いたり、人を殴ったり蹴ったりした後の澄男ってさ……とっても悲しそうな顔、してるから」
僕は首を傾げた。兄さんが僕に伝えたいこと。そんなのあるとは思えないけれど。
「だから、一回腹を割って話してみなよ。きっと澄男は、君にどうしても理解してほしい何かを伝えたいんだと、私は思うから」
刹那、チャイムが教室に鳴り響いた。周りの生徒が机に吸収されるように席についていく。
澪華は上級生なので、先生が来る前に足早に教室を去ろうと、僕から離れていった。僕は彼女を呼び止める。でも彼女は振り向こうとしなかった。
聞こえないのか。いやそんなことはない。そんなに距離は離れてないはずだ。おかしい。どんどん距離が開いていく。気がつくと周りは教室ではなく、真っ黒になっていた。
闇の中へ消えていく澪華。僕は必死に呼び止めようと声を張り上げる。しかしそれでも彼女の足は止まらない。どんどん、どんどん闇へ呑まれていく。
兄さんが僕にどうしても理解して欲しい事って何。伝えたい事って何。
澪華は知っているのか。知っているのなら教えて欲しい。僕には話しかける勇気なんてない、また暴言吐かれるのが怖い、また殴られたりするのが怖い。兄さんはそういう人なんだ。
だから分かってるなら教えてよ。澪華、澪華、澪華―――。
「澪華待っ……!!」
待って、と言おうとした僕だったが、視界がまた様変わりしたことに気づいた。
おそるおそる周りを見渡す。そこは僕の生活拠点、流川本家邸地下一階にある、僕の私室だった。
壁一面に貼られたアニメやゲームの女の子のクリアポスター。いつも使ってるコンピュータやゲーム機、テレビが中央にあって、棚には分家派に頼み、巫市の通販からわざわざ取り寄せた同人誌や漫画、ライトノベル。そして僕が暇潰しに自作したヒロインのフィギュア。
見慣れているはずなのに、何故か今だけは新鮮に感じられる。
とりあえず現況を把握するため、僕は自分の身体を触診しつつ、舐めるように見つめる。服は何故か、誰が着替えさせたかは知らないが、パジャマになっていた。
いつ、どうやってこの理想郷、もとい自分の部屋まで帰ってきたのか。最新の記憶では、家の庭のどこかで霊力を使い果たして倒れたはずなのに、その僕は何故だか自室のベッドで寝ていたらしい。
とどのつまり、ベッドで寝こけてて、飛び起きたといったところだろうか。そうなると、さっきまで体験していたのは臨死体験でも死後の世界でも走馬灯でもなく、ただの夢だったのか。
確認のため、僕は試しに頬を強くつねった。痛い。どうやら、今見ている世界は現実のようだ。
「よう。やっと起きたか」
左隣から聞き慣れた男の声。僕は声のする方に振り向いた。そこには、ベッドにもたれかかるようにして腕を組み、お父さん座りをしていた兄さんが、僕の方を横目にして見つめていた。僕はすぐ目を背ける。
「……出てってくれる? 不愉快だから」
「そうだな、そうしよう……と言いてえところだが、そんな気はない」
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
「迷惑」
「知るか」
「……じゃあ僕、二度寝するから」
「待てや」
「なに!!」
僕は意味の分からないことを言い出す兄さんに怒鳴り散らす。
寝起き初っ端から、この男はなにがしたいのか。出ていけと言ったら出て行きたくないだとか言いだすし、僕の部屋なのに僕の二度寝すら邪魔する始末。
そんなに僕の権利を奪いたいのか兄さんは。僕から尊厳もプライドも奪っておいて、最後は僕の安寧までも。くそが。くそがくそがくそがくそが。
「お前に……その……話がある」
怒鳴り散らしたから顔面にグー食らう覚悟を決めた僕だったが、兄さんは僕の予想を容易く裏切り、俯き加減でそんなことを呟いた。
兄さんの言わんとしている意図が掴めず、はぁ? と言ってしまうが、それすらも兄さんは意に介さず、ゆっくりと話し始めた。
「まず……お前が負った傷は、黄緑色の蛙みたいな生物が治してくれた。後で礼を言っとけ」
そう言われ、僕は左腕や左肩、そして折られたはずの右足を動かしたり触ったりしてみる。
そういえば、勢いよく起き上がったのに、なんの痛みもなかった。ギプスもつけられてないし、本当にただ気絶して部屋で寝てただけって感じである。
砕かれた左腕や左肩は問題なく動かせるし、変な方向に曲がった右足も、綺麗に元の状態に戻っていた。
顔やお腹も確認する。兄さんに殴られ蹴られて、内臓にも相当なダメージを負ってたはずだが、打撲の気も全くない。まるで最初から怪我なんてしてなかったみたいだ。
頭の傷もないし、抜けた永久歯すら、何事もなかったように僕の口の中に収まっている。
「それと、お前はあれから三日ほどずっとここで寝てた。傷と体力は全快できたんだが、使い果たした霊力はどうにもならんでな」
身を捩り、ベッドに置いてあるデジタル時計に目をやる。
月日は五月十三日、時間は昼の二時。確かに、あれから三日経っている。そういえば、さっきから異常にお腹空くな、と思ってたんだ。
まあ、とはいえ。
「そんなことを言うために僕の部屋に居座ってたの? だったらもう消えてよ。とりあえず現況は理解できたし」
「待て待て……そう急くなよ。まだ話があんだ」
「……もう、何なのさ……」
兄さんらしくない、煮え切らない態度に僕の苛立ちは増していく。
僕からもう話すことは何もない。強いて言うならこのまま黙って部屋から消えて、二度と僕と関わらないようにしてほしい。ぐらいだ。
って言ってもどうせ兄さんのことだから出ていかないんだろうけれど、どうして兄さんはこうも弱い人の想いを容易く踏みにじれるのか。自分が強いからって調子に乗ってるんだろうか。
いや、きっとそうだ。そうに決まってる。
「久三男。結論から言う。俺の負けだ」
「……は?」
あまりの脈絡のなさに、僕は思わずアホみたいな声を出してしまう。
俺の負け、何のことなのかさっぱり分からない。結論らしいからなんで負けなのかという話をするんだろうけれど、これって勝ち負けの話だったっけ。もうこの時点でツッコミを入れたい気分だ。
「今まで俺は……お前のやり方、否定してただろ? ただの逃げだとか、言い訳だとか」
「そうだけど。今更気づいたの?」
「いや、前からそのつもりで言ってた」
「じゃあ尚更酷いんだけど。なにそれ。この期に及んでまだ喧嘩売るつもり?」
「だから急くなって……それには訳があんだよ」
「ふーん……いいよ、どうせ暇だし聞くだけ聞いてあげるよ。兄さんの見苦しい``言い訳``を」
「お前一々腹立つ言い方するな……まあいいや。正直言って、お前が裏でコソコソしたいって言い出したとき、俺はマジでヘコんだんだ」
「その裏でコソコソって表現やめてほしいんだけど。自分の好きを突き詰めて修行してた、って言ってよ」
「あ……いやすまん……。とりあえずだ。俺はそのお前の修行にショックを受けたんだよ」
「なんで……」
「それは……その……」
「なに?」
「だから……」
「……言えないならいいよ。さ、話は終わり。消えて」
「ああーもう!! だから!! 俺はテメェと一緒に、前線で戦うことを夢見てたんだよ!!」
兄さんが大声を張り上げた。僕はかけ布団を盾に、身を震わせる。
「俺はな、お前と前線で戦うの、夢だったんよ。だって兄弟だもん。戦えたらいいなって、ずっと思ってた」
「……」
「でもお前、急に戦いたくないとか言いだして……挙句、部屋も二階にある俺の隣の部屋から、こんな暗い地下室に移すし……マジで修行諦めたのかよって、クッソ悲しくて……」
「……」
「だからお前を元の鞘になんとか戻したくて、否定し続けて……でも否定すればするほど、お前はどんどん暗い所に行っちまって」
「……」
「だからもう、どうすりゃいいか、分かんなくて……母さんにも相談したりしたけど、母さんにもお手上げで……」
「……それで、結局自分のできることをしようという結論に至り、僕のやり方を否定し罵り続けて挫折させる方法を採ったと」
ああ、と兄さんは俯きながら返事をした。
口から滑るように、それでいてらしくなく恐れているかのように放たれた、兄さんの告白。俯き加減で言っているあたり、ずっと隠してきた本心というのは、手に取るように分かった。
でも僕のモヤモヤは収まらない。むしろ、勢いを増して大きくなる。
「……だったらなんで敗北宣言なのさ。三日前のタイマンは、確実に兄さんの独り勝ちだったじゃないか」
低い声音で、兄さんに詰問する。
一緒に戦いたいがために否定し続けていた。
だったら今回のタイマンでも、僕のやり方を罵り、嘲って否定すればよかったじゃないか。今になって敗北宣言とか、あんまりにも虫が良すぎる。こっちは殴られ蹴られ罵られ損だ。
兄さんに打ち勝つため、今までずっと、努力してきた。カオティック・ヴァズは、その努力の集大成の一つと言ってもいい。
でもその集大成の一つを以ってしても、兄さんには打ち勝てなかった。三月十六日―――澪華を失ったあのとき以前からずっと頑張ってきたのに、それでも勝利の女神は僕に微笑んではくれなかったんだ。
兄さんばかりに勝利が付きまとう。対して僕は、敗北ばかり。百の敗北から一の勝利を掴み損ねた僕の前で、掴んできた数多の勝利うちの一つをわざわざ投げ捨てる兄さんの言動は、たとえ過去が、理由がどうだったとしても、そう簡単に受け入れられるものじゃない。
僕は強く布団を握り締めた。奥歯を噛み砕く思いで、噛み締めながら。兄さんは俯いたまま、僕の詰問に珍しく冷静に答えた。
「あのとき……お前が反撃する気がなくなったと思って、お前から立ち去ろうとしたとき、お前、右腕上げただろ? 霊力の光線を撃つために」
「うん。で?」
「あんときのお前の顔、マジで殺意に塗り潰されてた。絶対テメェをブッ殺して、なすべきをなしてやる、って感じの……要は気合っての? そういうのがビシッー、って伝わった。あんとき初めて俺、``やばい、殺される``って、背筋凍ったんだぜ?」
兄さんは猿みたいに頭をかきながら、斜め四十五度の方向に目線を泳がせつつ言った。僕は若干、布団にかける握力を弱める。
「つまり兄さんは、あのときの僕に恐怖を抱いたってこと?」
「恥ずかしながらな。ビビッて萎縮しちまった以上、もしお前が俺より強い奴だったら確実に死んでた。それに今回、色んな奴の手回しがなきゃ、そもそもお前の所まで行く事すらできなかった。だからタイマンもクソもねぇ」
「……つまり?」
「だから……その。よくよく考えてみれば、俺はお前の作ったカオティック・ヴァズに殺られてたワケで……だから……感情のあまり、カオティック・ヴァズを貶したことと、今まで否定し続けてきたことは……あ、謝る。すまん」
兄さんは俯いたまま、頭を深々と垂れた。兄さんが頭を下げる、生まれて始めてみたその姿に絶句しつつ、今さっきまで見た夢の事―――特に澪華が言い残した台詞を思い返した。
言ってしまえば、兄さんはとても不器用なんだ。良くも悪くも、相手をブチのめし破壊する道理しか分からず、いざ自分の想いを伝えようにも言葉より殴ったり蹴ったりして無理矢理に頭を押さえつけた方が速い、と考えてしまう。
でもそれだと相手はただ恐怖と痛みで萎縮してしまって、結局対等な意思疎通は取れないまま、兄さんだけがモヤモヤする結果に陥る。さらに、短気で感情の起伏がものすごく激しい気質が拍車をかけて、いつもいつも考えるより手や足が先に出てしまうから、尚更本音を言う機会を自ら潰してしまっているんだ。
それらに関し、今まで戦いしか興味を持たなかった兄さんの自業自得としか思わないけれど、不器用さで言うなら僕も同じ。
僕は兄さんや母さんは家族だから、僕のことを分かってくれる。そう勝手に信じて僕は一切、本音を語らなかった。
語ったところでどうせ誰も理解してくれない、語るだけ時間と精神力の無駄遣いだと。
だから私室を地下に引っ越したときも、道場に一切出入りしなくなったときも、兄さんや母さんに、なんでそんなことをしたのかを、全く話そうとはしなかった。
特に兄さんには、絡まれたら殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのは分かってたから、こっちから避けてたくらいだ。
僕は本音をほとんど語らない。だから後先考えずに行動しがちな兄さんをさらに不安にさせてしまう。なおかつ、分かってくれると勝手に思い込んでたせいで、兄さんに分かるように説明するのを怠ってた節もある。
当然、説明して分からなかったら、もれなく兄さんの理解力の無さのせいだとしていた自覚もある。
要は兄さんも僕も、どっちもすれ違い続けていたんだ。
兄さんは気持ちを伝えたくても伝えられなくて。僕はそもそも怖くて気持ちを伝えること自体をやめて。
お互いの溝は元々小さかったのかもしれないけれど、気持ちと気持ちのすれ違いが、長い時間をかけて溝をこんなにも大きくしてしまった。
今更どっちから歩み寄るべきだったのかは、もう分からない。僕は僕で、兄さんは兄さんで、溝を埋める方法と時間は沢山あった。でも、誰も埋められなかった。
兄さんは埋めようとしていたみたいだけど、そんな僕は埋める事自体を早々と放棄していたし。
いま重要なのは、次、僕たちはどうしていくべきか、だ。でももう、考えるまでもない。答えは既に出ているんだ。
「兄さん。僕の方も……ごめん」
僕もつられるように、頭を下げた。兄さんの顔が疑問符で彩られる。それでも一方的に、語りを続ける。
「僕もさ、本音を語ることを放棄してた。兄さんは僕との隔たりを埋めようとしてくれてたのに、僕は全く意に介さなかった」
「いや……それは俺がボコしたりしてたからで……」
「うんそれもあるけど……でも僕は一方的に、兄さんと距離をおいちゃったから……もし僕が母さんに仲立ちしてもらうように頼んでたら、違ってたかもしれない」
「……」
「でも僕は、何もしなかった。ただ兄さんなら分かってくれると勝手に信じて、ちゃんとした説明もせずただ自分のやり方を一方的に伝えて距離をおいた」
「……」
「兄さんは後先考えないし、物事を深く考えない人だから、僕はもっと兄さんや母さんに分かるように、説明するべきだったよ。不安にさせてごめんね、兄さん」
「そうか……でもお前をそんなんにしたのは、元をただせば俺なわけだし……かなりの割合で俺に非はあるよな……」
「そこは否定しない」
「なんつーか、本来なら俺がきちんと謝るべきなんだが……予想外に面食らってなんか……これじゃあ、俺、完全にただのクズ……」
「じゃあ、どうする?」
兄さんは再び俯く。
僕は親に怒られて、小さくなっている子供みたいに蹲る兄の顔を、じっと覗き込んだ。そして、意を決したのか。兄さんはのそりと立ち上がる。
しかし、すぐにしゃがみこみ、両手を床につけ八の字に添え、頭を勢いよく地面に叩きつけた。
僕は目を見開く。あの兄さんが、絶対に誰にも頭を下げない、あの兄さんが。己よりずっと弱い、実の弟に対して、行ったのだ。
流川本家派当主、流川澄男。傍若無人、悪鬼羅刹を絵に描いたような人間であり、気にくわない奴は問答無用で物理的に黙らせる、プライドが高くて自分より弱い奴には不遜な態度を決して崩さない兄さんには、最も似合わない仕草。
一般に、``土下座``と呼ばれるそれを、兄さんは堂々と、僕の前でやってみせたのだった。
「俺が兄として、やるべきをやってれば、こんな事にはならんかった。許せだとか、今までを全部水に流せだとか、そんな虫の良すぎる事なんざ期待してねぇ」
「……」
「恨むなら恨んでくれてて構わねぇ。俺はそれだけのことをしてきたんだ。むしろお前に殺されたって文句言えたタチじゃねぇ」
「……」
「でも、お前に恨まれようと俺は可能な限り、兄としてやるべきをやっていこうと思う。だからもうお前のやることに口出ししないし罵ったりもしない」
「……」
「本当にごめん。今まで酷い事して本当に悪かった……。今度からお前の意見も、話も、ちゃんと聞く……それ以外のことはしないと誓う……い、以上だ……じゃあもう俺は」
「兄さん!」
僕はそそくさと去ろうとする兄を呼び止める。
最後の最後まで、なんて不器用なんだろうか。人に頭を下げ慣れてないからなんだろうけど、これはあんまりにも不器用すぎる。
違う。違うよ、僕が望んでるのはそうじゃない。望んでるのは―――。
「兄さん、僕は前線では戦えない。けど、兄さんが戦場に赴くことになったら、僕は後方支援になるけど一緒に戦いたい」
「いや、でも……」
「確かに今までを全部水に流すのは無理だよ。正直殴られたり否定されたり侮辱されたりしたのは、今でも許せないし。でもそれで距離をおいたら、何にも変わらないよ」
「……」
「だから、さ。僕も本音を語るようにするし、兄さんの戦いの手伝いもしたい。そして兄さんも、今までどおりでいいから本音を語っていい。多分これからも小競り合いがあるだろうし、殴られたり罵られたりするのはやだけど、だからって距離を取られるのはもっとやだ。だから……お互い少しずつでもいい。溝を埋めていかない?」
「……い、いいのか。ほんとに」
「いいもなにも、そうじゃなきゃ今までと変わんないもん。兄さんはそれでいいの?」
「……やだ」
「じゃあ交渉成立。今はそれでいいじゃない?」
せやな、と兄さんは汗をかきながら答えた。
兄さんの顔からは、距離をつめるとまた同じことを繰り返しちまうんじゃないか、とか、そうなったら俺、もうマジでただの底なしのクズじゃん、とか、うまくやっていけっかな、とか、そんな感情が読み取れた。
いつだったか、澪華が「澄男はすぐ顔に出る」と言ってたけれど、その言葉の真意が今、分かった気がする。
誰も発言しようとしない空気の中、突然、僕の腹の虫が汚い羽音を奏でた。僕は頭をかいて心底から湧く照れを隠しながら、兄さんに詰め寄る。
「さて兄さん。僕、お腹すいた」
「んあ。おお、そうか。そういや三日断食だったなお前」
「ご飯、一緒に食べよう?」
「お、おう! 久しぶりに食うか、一緒に」
「兄さんの料理が食べたい」
「よせよ。料理なんて無理だぜ」
「ブランチぐらい作れるでしょ」
「ぶらんち……? なんぞそれは」
「……兄さんってほんと、戦い以外は無知だよね」
「そそそそんなことねぇし!! 戦い以外の知識ぐらいあるぞ!! ええっと……せやな……いち、たす、いち、は、に、とか!!」
「うん知ってた」
「おおおーい馬鹿にすんな? 今のはアレだ小手調べってやつだ」
「じゃあ問題。2+1×5は?」
「えっと……はち!! はちだ!!」
「……兄さん。もうだめだよ。無知という称号からは逃れられない」
「あれ!? 違うのか!? いや……あれー!?」
そんな低レベルの会話をしながら、僕たちは地上一階の居間へ急ぐ。
僕と澪華だけが知っている、兄さんの長所。
粗暴で、口汚くて、自分勝手で、後先考えられなくて、常に感情的で、馬鹿で阿呆で、興味のあること以外はとことん無知で、こう決めたらどうだろうと動かないし、聞く耳を持たない、いっそのこと有り体に言っちゃうならクズ野郎で。
兄らしいことなんてほんと、いままでなんにもしてこなかった人だけど、そんな短所の塊のような兄を、なんだかんだで結局好きでいられるのはやっぱり―――。
兄さんが、ドがつくほど素直で、実は心の根っこの方はとっても純朴で、人知れず人間臭く色々悩んで、真面目に、そして自分なりに答えを出して行動する、ある種の独特な筋を持った人間だからなんだと、僕は思う。
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