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ジェダイト編
13、反転
五分ほど、解けた手枷を呆然と見つめていた。
……状況が理解できないわけじゃない。ただ突然の事態に、疑念の方が大きかった。
(罠……)
順当に、最初はそう思った。ここで逃げたところで再び捕らえ、また何か新しい仕打ちを与えてくるのかもしれない。
(でも、なんでそんな面倒なことを……。だったら、ずっと繋いでおけばいいだけだ)
疑問を、疑念が覆い尽くしていく。悪い方へばかり寄っていく暗い思考にふと気付き、雪華は眉を寄せた。
あの、ジェダイトが無防備に眠りに落ちた夜の記憶。そのときの言葉を思い出す。
『あなたは、私におびえている。蹂躙され、体の自由を奪われ、今度は何をされるのかといつも恐れている』
『今以上に踏み込まれるのではないか、何かされるのではないかとおびえる。それは別に唾棄することではありません。生きるために必要な、防御反応だ』
(……あいつの言った通りじゃないか)
自分は今、きっとおびえているのだ。
突然新しい道を示されて、あれほど欲していたのにそこに飛び込むことにためらいを感じるほどに。
「心まで踏み込まれたか。……くそっ」
けれどもう、他に選択肢はなかった。
ここで進まなければ、雪華は負ける。……ジェダイトに対してではない。自分に対してだ。
食卓に並んでいた金属の小刀のようなものを懐に忍ばせ、雪華は顔をぐっと上げると立ち上がった。音もなく扉に近付き、そっと押し開ける。
(開いた……!)
扉には鍵が掛けられていなかった。廊下を見ても、誰も見張っていないようだ。
一つ息を飲むと部屋を振り返り、凌辱が繰り返された寝台を複雑な想いで見つめて目を閉じた。
そして、静かな一歩を踏み出した。
初めて一人で歩く離宮の中は、驚くほど静まり返っていた。足音を立てずに走り、角で立ち止まり、様子を窺ってまた走る。
途中一つだけ薄く開いた扉があり、冷汗が流れる。中を覗くとジェダイトと誰か使用人が話をしている。
(…っ!)
ふと、ジェダイトが何気なくこちらを向いた。視線が結ばれ、全身が強張る。だが――
(えっ……)
少し目を細めると、ジェダイトは元のように後ろを向いた。
そのことに呆然とするが、賢明な体が勝手に動き、扉の前を通り過ぎる。
「…………」
考えている場合ではない。立ち止まっている暇はない。足を進めなければ――
訳の分からぬ衝動に押され、雪華は歩みを早めた。……息が上がる。思った以上に体力が落ちている。
人気のない方へと走っていくと、建物裏の出入り口から外に出られた。正面に回ることは避け、背の高さほどの壁をやっとの思いでよじ登る。
「……っ、は……。はぁ……っ」
(走れ、走れ……! 立ち止まったらおしまいだ)
無我夢中で、城門に向かって駆けた。心臓が爆発しそうに脈打っている。運動不足のツケで、目が回る。
「……っ……、あ――」
人気のない城門に近付いたところで、膝が崩れた。みっともなく地面に倒れ込み、視界が暗く染まっていく。
(駄目だ……。限界――)
「――どう、どう……! 止まれ! この……っ」
ガラガラと、何か重い物を引きずる音が聞こえた。馬のいななきが耳を刺し、バタリと大きな音がして――
「……! 雪華…!?」
――誰かが、遠くで叫んだ。
「…………」
次に雪華が目覚めると、どこかで見たような覚えのある天井が見えた。幾分か暗く感じる視界を巡らせると、瀟洒な枠のはまった窓が見える。
(どこだ……? ここ……)
「……っ」
もう幾日過ぎたかも分からぬほど囚われていた、離宮のあの一室ではない。
ゆっくりと体を起こすと、自分が絹の布団に寝かされていることに気付く。
(ここ、は――どこだ?)
室内を見回しても、まったく見当がつかない。見覚えがあるような気が一瞬したが、その感覚もぼんやりと途絶えてしまった。
気付けば寝間着を着せられ、土まみれだったはずの足も綺麗に拭われている。
無事に逃げおおせたのか、それとも再び囚われたのか。混乱の極致に落とされた雪華は、正面の扉が開く音にビクリと肩を波立たせた。
「あら……起きたのですね」
「……?」
「落ち着いて。大丈夫ですよ、ここには私しかおりません」
しずしずと入ってきたのは、ふくよかな五十絡みの女だった。
小さく驚いた顔をした女は、すぐに穏やかな笑みを浮かべると持っていた布を小卓に置く。
やはりどこかで見たことのある着物を身にまとっていると思い、はっと気付く。彼女が着ているのは――宮廷の医官がまとう官服だ。
「ここは……」
「陽帝宮の、医務房ですよ。あなたは城門の前で倒れて気を失っていたのです。普段は人通りのない所なのだけれど、運良く馬車が通りがかって」
「……陽帝宮……」
「衰弱していたようなので、こちらで保護させて頂きました。……具合はどうかしら。気分は悪くない?」
「あ……はい」
女医官のふくよかな手が、雪華の脈を取る。ついで額に手をかざすと、医官はゆっくりと頷いた。
「これなら大丈夫でしょう。滋養のあるもの食べてゆっくり休めば、すぐに元気になりますよ」
医官はそう言って、持ってきた布を雪華の肩に掛けた。地味な色味の上掛けだが、軽くてほっとするほど温かい。
「これから主上がお渡りになります。お優しい方なので怖がる必要はありませんよ。あなたはお礼を述べるといいでしょう」
「……え?」
医官がにこりと笑い、静かに退出していく。
雪華はぼんやりとしたまま、よく回らない頭で彼女が言った意味を考えていると、やがて遠慮がちに扉が開かれた。
「……っ。……あんた……」
「…………」
入ってきたのは、なんと龍昇だった。
物憂げな顔をして雪華の顔を見つめると、小さく頭を下げる。雪華は無意識のうちに、寝台の掛け布を握りしめた。
「今、連絡を受けて。起きたばかりなのにすまない。他に時間が空いてなくて。……具合は、どうだろうか」
「なんで、あんたが……」
驚きと警戒を顔に浮かべると、龍昇は小さく目を見開いた。少し眉をひそめ、窓の外に目を向ける。
「覚えてないのか。俺が馬車で城門をくぐろうとしたら、あなたが倒れていたんだ。驚いて……とりあえず、運びこませてもらった」
「あ……。あれ、あんたが乗ってたのか……」
大きな物音は馬車が走る音だったのか。よく轢かれなかったものだ。
龍昇は小さく頷くと、部屋の隅に置かれた椅子に腰かけた。距離を取られ、少しだけほっとする。
「ここ……医務房ってことは、内朝の中だろう? 私がいて大丈夫なのか……?」
「心配しなくていい。ここには胡朝に代わってから仕官してきた女官しか、入れないようにしてある。先ほどの医官も、あなたと面識はないはずだ。……体が落ち着くまで、ゆっくり静養するといい。必要なものがあったら女官に言ってくれ」
「…………」
ようやく、事態が飲み込めてきた。離宮を脱出することには成功したようだが、自分は間抜けにも龍昇の目の前で倒れたようだ。
(妙な場所で行き倒れるよりはマシかもしれないが……。正体に気付かれたら、目も当てられなかったな)
「とりあえず、礼を言う。あんたに助けられる羽目になるとは思わなかったが……」
「……っ」
龍昇が惑うように視線を彷徨わせた。
何度か口を開き、閉じる。やがて彼はためらいがちに口を開いた。
「その……あなたはなぜ、あんな場所で倒れて――」
「……っ」
口調と視線で、気付かされてしまった。
龍昇は――雪華に何があったか、おそらく知っている。
あの医官はきっと、雪華の体の隅々を診察したはずだ。
その彼女から連絡が行ったのだろう。雪華を見る視線にも、部屋の隅に座る態度にも戸惑いと気遣いがあふれていた。
「……あ……」
かっと体が熱くなった。
この男に、知られた……! 掛け布の中で拳を握りしめ、大きく息をつく。
「別に……少し任務でヘマをしただけだ。助けてくれたことには礼を言うが、それ以上の詮索はやめてくれ。機密に関わるんでな」
「……っ。……そうか、分かった。起きぬけにお邪魔して悪かった。もう行くから、ゆっくり休んでくれ」
「ああ……。明日か明後日には出られると思う。それまで世話になるよ」
龍昇は無言でうなずくと、扉を開いて出ていった。清潔な部屋にひとり残され、雪華は力なく寝台に背を横たえる。
せっかく脱出できたのに――あの男の残像が消えない。
酷薄な感じのする笑みではない。最後に見せた、少し悲しげな微笑が目に焼きついていた。
腹の中がじくじくと、重い感じがした。
……そう、まだ問題も残っている。考えたくもない可能性が、この腹の中に――
「……くそ……」
やっと自由になったのに、少しも気分が晴れない。
滲んできた涙をぐいと拭うと、強く目を閉じた。……日常に戻るまで、少し眠ろう。
本当は今まで通りに戻れるはずがないことに、雪華はあえて、気付かないふりをした。
その頃。離宮の一室で、ジェダイトは書物を書き記していた。斎国との交渉が決裂し、することがなくなったのだ。
捕らえていた皇女も離宮から去り、ジェダイトは少ない従者と静かな時間を過ごしていた。
「さて、逃げおおせましたかね……」
腕に巻かれた包帯を眺め、小さな苦笑を浮かべる。
……たったこれだけ。皇女が自分に残したと言えるものは、薄っぺらい布切れ一枚だけだ。
そして自分が皇女に残したものは、心と体の傷だけだった。
(たとえ孕んでいたとしても――もはやすべてが手遅れか……)
無駄に足掻いてみても、自分一人の動きでは結局何も状況は変わらなかった。さっさと夜陰に乗じて脱出でもなんでもしていた方が、よほど建設的だった。
「馬鹿だな……。何を血迷ったか」
ここまで来たら、脱出はほとんど不可能だ。己の運命を悟り、ジェダイトは乾いた笑いを浮かべた。
瞳を閉じ、細く長い息を吐く。
(ここまで、か……。どうせ終わるなら、何もあとに残らない方が――)
『――……! ……!!』
離宮の中が、にわかに騒がしくなる。従者たちが叫ぶ声と、武装した兵が離宮に押し入ってくる音。……アーシム達が抵抗しなければいいが。
ジェダイトが羽ペンを置いたのと同時に、勢いよく扉が開かれた。先頭に立った武官が重々しく告げる。
「シルキア国内に抑留されていた我が国の外交団が、処刑されたとの通達があった。……ジェダイト・アル=マリク殿。貴殿を斎国皇朝の名において、拘束する」
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