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40.恵みの者
しおりを挟むそれから二日後。ヴォルクは軍の本部でいつものように仕事にいそしんでいた。
結局あれからケイに直接会うことはなかった。単純に多忙で時間がなかったし、何より怖かった。ケイの口から「帰る」と聞くのが。
アデリカルナアドルカの宣言を努めて意識から追い出し、午前は訓練に、午後は書類仕事に没頭していると15時近くになってオルニスが執務室に駆け込んできた。
「将軍……! 将軍! ケッ、ケイさんが、北の砦に向かったって――!」
「……!」
オルニスに告げられ、頭が真っ白になった。
なぜお前が知っているとか、仕事中に私用の話をするなとか、言うべきことはあったはずだった。だがそのどれもが頭から抜け落ち、ヴォルクは椅子から立ち上がる。
「――出てくる。書類は次に回しておけ……!」
「了解っす! 退勤の手続きもしときまっす!」
執務室を出ると、歩いて――次第に歩みが早まり、建物裏手の厩まで走った。驚く厩番から己の馬を引き取ると、すぐに飛び乗り腹を蹴る。
「バイアリー! 飛ばすぞ……!」
食事途中で連れ出された愛馬は、不服そうに鼻を鳴らすとヴォルクの望み通り駆け始めた。
(ケイ……! どこだ、ケイ!)
軍部を出たヴォルクは人通りの多い市街地ではなく、郊外へと続く道へ馬首を向けた。人が多いところを馬で飛ばすわけにはいかない。
驚くように振り返る通行人を蹴り飛ばさぬよう細心の注意を払いながら、髪を乱して銀髪の将軍は駆ける。
――なんとみっともない。見ないふりをして、結局その時が来るとなりふり構わず駆け付けようとするなど。
ケイが本当に元の世界に帰ることを選ぶのならば、会わないまま諦めようと思っていた。
会えば引き留めてしまう。最悪、ケイが望まぬ手段でこの世界に、自分に縛り付けてしまうかもしれない。それが恐ろしく、物わかりの良いふりをして今日この日を静観して待っていた。ケイの選択を尊重しようと思っていた。
(けれど駄目だ。やはり駄目だ……! 私はそなたを失えない!)
郊外へと続く街道の中に、黒髪の女が歩いていないかと目で探してしまう。
一重で、優しげな面立ちで、顔が薄いとたびたび自分で口にしていた。ヴォルクにはその素朴さがとても愛らしく映るのに。
ヴォルクの目線から見ると実年齢よりも幼く見え、いつも上目遣いだった。
ココに向ける愛情深い目も、ヴォルクに向ける微笑みも、時折見せる間の抜けた顔も、飾り気がなくて最初から好ましかった。……そう、最初から。
血に汚れているとかつて拒まれた手を、躊躇なく握ってくれた。
抱きしめると柔らかくて、抱きしめられると温かで、その瞳が深い情を持って自分を見てくれたとき、これまでの人生で感じたことがないほど心が満たされた。――幸福だった。
あんな人間は、もう二度と現れない。どうしても失えない。たとえ誰かの目に見苦しく映っても。
「砦……。こちらか」
このまま街道を進めば北の砦に着くが、時間は刻々と迫っている。ヴォルクは手綱を引くと木々が生い茂る森へとバイアリーを進ませた。道なき道にはなるが、大幅な近道だ。
小枝で手や顔を擦りながら、ヴォルクは馬を走らせた。
一方その頃、ケイは砦近くの市場で買い物を楽しんでいた。
養老院の寮から北の砦は、実は結構近い。乗合馬車に乗って砦の近くまでやってくると、その手前はちょっとした街になっていてケイは一人で散策を楽しんだ。――そんな時。
「ケイ! ケイ……! どこだ…!?」
「…!?」
突然名を呼ばれ、ケイは振り返った。誰か、同名の人でもいるのだろうか――そうきょろきょろすると、それが聞き慣れた声であることに気付き目を見開く。
「ケイ……!」
「ヴォルクさん!?」
市場から離れて馬車乗り場に向かっていると、馬上からヴォルクに呼び止められた。ケイがぎょっと足を止めると、ヴォルクは馬から飛び降りケイの手を掴む。
「行かせない……。帰るな!」
「へ? ……えっ、なんで?」
「やはり帰るつもりだったのか……。やめてくれ。そなたがいない人生など考えられない……!」
「…っ!?」
引き寄せられ、おもむろに強い力で抱きすくめられた。ケイの荷物が腕から落ちる。人混みではないとはいえ白昼堂々、街中での熱い抱擁に周囲の人からどよめきが上がった。
ケイにすがるように抱きしめてくるヴォルクは息を切らし、髪も乱れてボロボロだった。ケイは目を白黒させながらもその厚い胸板をトントンと叩く。
「ちょ……ちょっと待ってください。落ち着いて……。一体どうしたんですか? こんなところで……。えっ、もしかしてココに何かありました!? いやでも帰るなって――」
「ココ…!? ……ココは、どうしたのだ?」
「ラスタが預かってくれてますけど……。あの、どうして寮に帰っちゃいけないんですか?」
ケイの隣にいるべき幼子の姿がないことを見て取り、ヴォルクが目を見開く。さらにはケイの怪訝な言葉にヴォルクは眉をひそめた。
「寮? ……元の世界ではなく?」
「はい、寮。……えっ?」
ぽかんと問い返したケイと、同じく困惑するヴォルクが見つめ合う。抱き合ったまま。
周囲にはなんだなんだと人だかりができ、ヴォルクを知る者もいたのか「銀獅子将軍だ」という声が聞こえてきて二人ははっと我に返った。
「あ、あの、とりあえず移動しませんか……」
「そうだな。……砦から離れよう」
雑踏から離れて人気のない丘まで来るとヴォルクは馬を木に繋いだ。遠くなった北の砦を眺め、困惑顔のケイを見下ろすとヴォルクは口を開く。
「なぜ、ココが一緒ではない。元の世界に帰るのではないのか……?」
「えっ? 帰りませんけど……。ココはラスタが預かってくれるって言うから、なんか無理やり買い物に出されて――」
「……? ではなぜ、あの時間に北の砦にいた。大神官様に言われた日時と場所で、あれではまるで帰りたいのかと――!」
「え。あれって今日だったんですか!?」
ケイの言葉にヴォルクは愕然とした。買い物姿の軽装のケイ、そばにいないココ、それらは一つの結論を導き出す。
「聞いて…なかったのか? 元の世界への道が開くことも……!?」
「あ、それは手紙で知ってますけど。詳細が聞きたければ星読みの館に来いって書かれてて。必要もないし、アデリカルナアドルカ様、実はちょっと苦手なんで別にいいかなーって。……あれっ、聞かないと駄目なやつでした!?」
「…………」
ヴォルクが目を見開いて、その場にふらふらと座り込んだ。急に崩れ落ちた彼にケイは慌てて膝をつく。
「帰ら…ないのか……」
「帰りませんよ。寮には帰りますけど」
「だが、そなたには元の世界に残してきた家族や友人もいるだろう。その者たちに、また会えるかもしれぬのに――」
「それはそうですけど……でも帰ったら、今度はヴォルクさんに二度と会えないじゃないですか。今の私には、そっちの方がつらいです」
「……っ」
寄る辺ない子供のような顔をした年上の男性に、ケイは笑いかけた。ケイのために、必死になって来てくれたこの異世界で一番愛しい人へと。
「戻りませんよ。私の生きる場所は、ここになりましたから。――あっ!? ヴォルクさん、怪我してるじゃないですか! のんびり話してる場合じゃなかった!」
目線を合わせると、ケイはヴォルクの手から血が滴っているのに気付いた。見ると手首あたりに引っかき傷ができて、少量だがたらたらと血が伝っている。
迷いなくその手を掴むと、ケイはまじまじと傷を観察した。
「傷は綺麗そうですけど……とりあえずハンカチでいいですかね? ありゃ、私の服にも付いてる」
「……嫌では、ないのか」
「はい? こんなの洗えばすぐ落ちますよ。血なんていちいち嫌がってたら育児できませんて。ココなんてしょっちゅう転ぶんですから」
てきぱきとハンカチを巻きつけながら応急手当てをすると、ケイは最後にぽんぽんとそこを叩いた。早く良くなりますように、と。
ハンカチごと手を握りしめて、ヴォルクが眉を歪める。
ヴォルクは立ち上がると、ケイの手を取って立たせた。そしてもう一度、自分だけ片膝をつく。ケイには知る由もなかったが、騎士の誓いのように。
ケイの片手を取ったままヴォルクはまっすぐに顔を上げた。
「……結婚してほしい。私の妻になってくれ」
「えっ…! ええっ!?」
「順序が逆になってしまってすまない。婚姻の裁可を陛下に願っていたところだったが――もう待てない。こんな場所で、こんなに慌ただしく言う予定ではなかったが、そなたを手放したくない。どうか、私と共に生きてほしい」
「…………」
ケイは唖然とヴォルクと見下ろした。夕陽に照らされ、ヴォルクの顔がオレンジ色に染まっている。もちろん、自分も。
ヴォルクの目はどこまでも真摯で揺らぎなかったが、握られた手が細かく震えているのに気付き、ケイは胸が詰まった。……緊張している。こんなに立派で、こんなに雄々しい人が。
「ココは……?」
「もちろん、私の娘として迎える。あふれるほど愛情を注ぎ、教育を与え、彼女が巣立つその日までそなたと共に育て上げると誓う。……良い父親になれるかは分からないが」
「私……こっちの世界の常識も知らないし、侯爵家の奥さんとか務まるかも分かりませんよ? ヴォルクさんが大変じゃないですか……?」
「もともと長く伴侶がいなかったのだ。私一人でもほとんどのことはできるが……そなたが必要ならいつでも助けとなろう。それにそなたは異界の出身だ。知らないのは当たり前で、恥じることではない。その代わりそなたにはすでに実績があるではないか。それで文句を言う者などいない。……言わせない」
「私――。すごく若いわけでもないし、あ、跡取りとかできるかどうかも分かりませんよ?」
「そんなことまで気にしていたのか? ……子供は授かりものだ。我々が望んで授かったならそれが一番だが、別にできなくとも構わん。もともと、はとこかその子にでも譲るつもりでいたからな。……ああ、ココが継いでも良いのだぞ」
「それは、荷が重すぎます~……。あの子、こっちに来てますます野生児みたいだから……」
「良いではないか。子供は元気なのが一番だ。……ケイ」
ケイはポロポロと、涙をこぼしていた。ヴォルクは立ち上がるとその涙を拭い、優しく抱きしめる。
形にはこだわるまいと思っていた。けれど、ここまで大事にされて、求められてそれを拒める者などいるだろうか。
「そなたは私に惜しみなくすべてを与えてくれた。次は、私が返す番だ。そなたが私の『恵みの者』だ。……どうか、うなずいてくれ」
ケイはヴォルクの手を取り、ハンカチを巻いた手を頬に押し当てると涙と共にうなずいた。
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