百合御殿ノ三姉妹

山岸マロニィ

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【拾弐】月下ノ告白

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 洋館に入る。居間への扉を通り過ぎ、廊下を奥に突き当たった両開きの扉。そこは開け放たれ、その中から旋律は流れ出ていた。
 部屋に明かりはない。しかし、梅子捜索のために煌々と灯されている光が、レースのカーテンを透かして、十分に部屋を照らしていた。
 そこは、役者やダンサーが練習をするような部屋だった。右奥の壁には一面に鏡が貼られ、木の床はワックスで磨かれている。
 ――その部屋の中央に置かれたグランドピアノ。
 その前に、不知火松子は座っていた。
 襟元の広い漆黒のドレス。そこから形の良い腕が伸び、細い指先が鍵盤の上を滑らかに踊る。くるぶしまで覆うドレスから覗く靴先がペダルに置かれ、小刻みにリズムを刻む。
 犬神零は、しばらくその音色に聞き入っていた。不知火松子の横顔は、窓からの明かりに白く照らされ、オリュンポスの彫像のように美しかった。
 やがて旋律は緩やかになり、低い響きと共に指は止まった。余韻が消えるまでそのまま動かず、部屋に静寂が満ちたところで、白い指は鍵盤を離れた。

「……主人がね、この曲が好きだったの。と言っても、軽快な第二楽章ばかり、レコードで聴いていたけど」
 膝に置かれた右手が、薬指の指輪を撫でた。
「――私、あなたに嘘を吐いたわ」
 松子の目は、棒で斜めに開かれた、黒光りする蓋の向こうを眺めている。
「私がここにいる理由。……彼が、私を気遣ったからなんかじゃない。――父の呪縛なのよ」
 零は扉を入ったところで、その声にじっと耳を傾けていた。
「父はね、私がここから逃げた事を許さなかった。だから結婚した後、この屋敷に住まわせる事で、罰を与えたのよ。そうして、私が苦しむ様を楽しんでいたわ」
 松子はゆっくりと零に顔を向けた。その顔には表情が……いや、心がなかった。まるで操り人形のように、その目はどこも見ていない。
「父は知っていたの。彼、不知火清弥の目的は、私なんかじゃなく、財産だって。でもね、彼の目的はそれだけじゃなかった。
 ――梅子。彼、ああいう子がタイプだったのよ。可憐で、しおらしくて、可愛らしい。フランス人形みたいな、ああいう子が」
 松子の視線が、扉の脇の棚に座るフランス人形に送られる。
「でも、あの子はそんな誘惑に乗る子じゃない。代わりに彼に近付いたのは、竹子。あの淫乱女、彼の前では猫を被って、しおらしい乙女を演じてたわ――ドレスを着て」
 零の心臓が、氷水に浸されたように徐々に冷えていく。呪詛に満ちた言葉はだが、あまりにも無機質に部屋に響いた。
「彼も中身は竹子と知っていながら、梅子の姿をしたあいつを抱いて満足してた。――父と変わらないのよ、あの大天狗。
 ……もう分かるでしょ? この屋敷での私の立場がどんなものだったか、父が私に与えた罰が、どんなものだったか」
 松子の視線が零に置かれる。その光のない目は、彼を一気に凍り付かせた。
「――我が子に夫を寝盗られた、情けない母親。それが、私なのよ」
 松子は立ち上がる。そして、ピアノの奥に沿ってゆっくりと足を運んだ。
「子供の産めない、価値のない女。夫に棄てられ、娘に蔑まれ、父に嘲笑される二年間。……どう? 私が全てを憎むのに、充分だったんじゃないかしら」
 ざわめく風がカーテンを揺らす。それは淀んだ悪意を一掃するには至らなかった。零は何度か呼吸をし、喉の奥から声を絞り出した。
「……いや、あなたは、この世に生を受けたその瞬間から、ずっと憎んでおられたのでしょう。――このような境遇に生まれてしまった、ご自身の宿命を」
 ピアノの向こうで、松子は足を止めた。緩やかな曲線を描く蓋に隠れ、その表情は零からは伺えない。
「あなたは幼い頃から、父親の玩具にされた。あなたの母親がそうであったように。物心つく前は、それが当たり前だと思われていたかもしれない。しかし、思春期を迎えたあなたは、心許せる友人である水川杏子さんとの会話から、気付いてしまった。――父親から受けている行為の正体に」
「……えぇ、その通り。私は混乱したわ。それまでそれが、父娘おやことして当たり前のものだと思っていたから。私は、私をそんな風に育てた父を恨んだ。――そして、それを悦びと感じるこの体を呪ったわ」
「それからあなたは心を病み、衝動的に自傷を繰り返すようになった。……しかし、あなたの体にはその時、新たな命が宿っていた。――ふたつの命が」
 松子は再び歩きだす。靴音だけがコツコツと部屋に響く。
「……そうよ。私は呪った。呪って呪って呪い尽くしたわ。でも、お腹は大きくなるし、乳房は疼くの。絶望したわ、女である事に」
「やがて陣痛を迎えたあなたは、実の母である寒田ハンさんの介助で、双子を出産します。それは難産だったでしょう。たった十四歳であるあなたが、ろくに産婆の経験もない方の介助で、双子を産むのですから」
「ええ、死にかけたわよ。何日も陣痛に苦しんで、体中が痺れるほど出血して。終わった後には気を失って、一週間も目覚めなかったほどよ」
「その様子を、菊岡先生が診察しています。痩せ細ったあなたは、産後の体の変化もあり、再び気を病む。ハンさんは、あなたを必死で看病したんじゃありませんか?」
「ええ。でもね、その時はまだ、私はあの人が本当の母親だなんて知らなかった。親身に世話をしてくれる、気のいいお手伝いさんと思ってたの。……彼女が母親だと知ったのは、家出をする時。あの人、命懸けで私をこの屋敷から逃がした。竹子と梅子の事は任せて、……私の孫なんだからって。
 その後の事は知らないけど、多分、父に殺されたんでしょうね、――竹子と梅子の秘密を守るためにも。十年後、ここに戻った時には、あの人、いなかったもの」
 ピアノを巡り、現れた松子の顔は、能面のように感情を伺い知れなかった。虚無を見据えた姿勢とコツコツと響く靴音。そこには、人間らしさの欠片もなかった。
「彼がどうしてもって言うから、結婚の許しを請うために、仕方なくここに戻った時にね、私にも、少しは母親の意識があったようでね。竹子と梅子が真っ当に育っている事を願ってたのよ。……ところが、着いた途端、竹子は父に甘ったれて貼り付いて、こう言ったのよ」

 ――お父様。この女、誰なの?

「すぐに分かった。私の比じゃない。父は完全なを作り上げたと。――自分の快楽を満たすだけの、はべらせる、二体の人形を。私みたいに倫理観に狂う事のない、完璧に空っぽな、市松人形とフランス人形を」
 松子は壁の棚に歩み寄り、フランス人形を手に取った。
「私も母親よ。母性の欠片が訴えたわ。……人形じゃ可哀想。真っ当な人間にしてあげないとと」
 人形の髪を撫でる彼女の表情は、いつしか柔らかいものになっていた。――その表情に、零は戦慄した。……彼女が表情を見せる時、それは全てなのだろう。「無」こそ、彼女の真実なのだ。

 零には自覚があった。――自分には、心がないのだろうと。
 喜怒哀楽を表現するのは、自分の感情を示すためではなく、そういう表情を見せる事で、相手がどのように感じ取り、行動するかを読んでの事だ。……いつも薄笑いを浮かべ、相手の警戒心を削ぐ。そして、相手をいかに自分の思うように動かすか、その足掛かりを探るために、常に相手の表情を観察する。
 ……初めに彼女を見た時から、その微笑みに似たものを感じていた。そして先日、清弥の遺影の前での話で、零は確信した。――彼女もまた、同じなのだと。
 だから、彼女が内包する空虚な闇の存在を、彼には理解ができた。
 その表情を見るに、松子はまだ、全てを打ち明ける気はないのだろう。……いや、彼がどこまで真相に近付けるのかを、試しているのかもしれない。
 だから、彼を呼んだのだ。

 松子は、そんな零の様子に目を向けるでもなく、人形に語り掛けるように言葉を続けた。
「父の目を盗んでは、世間話をしたりして、あの子たちに、人間として生きるとはどういう事かを教えたわ。……それがせめてもの、父に対する復讐だったのよ」
 松子の視線の先で、フランス人形は何も答えない。零はその白磁の頬に問い掛けた。
「私がお会いした限り、少なくとも梅子さんは、ご自分の置かれた境遇に疑問を持たれていたようです。あなたの作戦は、成功したと言えるでしょう。――しかし、分からないのです。なぜ、天狗の使いなどという小芝居を打って、村の人たちを、そして竹子さんと梅子さんを、不安がらせたのですか?」
「あの子たちを、この屋敷から逃がすためよ」
 松子は微笑んだ。
「寄合の話し合いで、あの子たちのどちらかを遠くへやる、って話が出てたでしょ? それを父に納得させるためよ。せめて一人でも、このおぞましい牢獄から連れ出したかったの。……結果としてこうなってしまったのは、本当に残念だわ」
 人形を見つめる松子の目から、一筋の雫が流れ落ち、白磁の頬をポツンと濡らす。
「ご主人、不知火清弥さんの件は、どうお考えですか?」
「多分、梅子もまた、あの人を自分のものにしたかったのよ。でもこれまでは、竹子の存在があったからできなかった。だから、あの子を殺した後、あの古井戸に呼び出したのよ。……でも、断られて、衝動的に……」
 ……全て理屈は通っている。彼女は非常に頭の切れる女性だ。心の闇を理屈で覆って、決して思惑を悟られまいとしている。だがその真実を白日に晒すだけのものが、今の零にはない。
 零は窓の向こうを眺めた。レースのカーテン越しに入る光が、右へ左へと揺れている。
「最後に、どうしても、私には理解のできない事が、ひとつ」
 視線を戻した零の前で、松子は静かに顔を上げた。揺らめく光の中で、女神のように端麗な美貌が微笑みを湛えた。
「――あなたの脚本に、なぜ私が必要だったのですか?」
 松子の表情が変わった。魅惑的な笑みを浮かべると、人形をピアノの鍵盤に置き、零に歩み寄る。艶っぽい目が彼の瞳を射抜き、白い指が繊細な動きで彼の首筋に絡み付いた。
 松子は囁いた。
「――運命、だからよ」
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