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浅草オペラの怪人

浅草巴里劇場──②

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 ――騙された。
 明かりの灯されたラウンジの片隅で、保憲はいすゞを横目で睨んだ。
 しかし彼女はあっけらかんとした表情で、彼に顔を寄せ囁く。
「だって、本当の事を言ったら、先生、来てくれなかったでしょ?」
「私は興味の惹く事しかしないと決めている。相談事を受けるのは、私の興味の対象外だ」
「まぁまぁそう言わずに。帰りに、浅草名物の人形焼きをお土産に買ってあげますから」
「いらない!」

 花を象ったライトが淡く照らす店内。一番奥の席でいすゞと肩を並べた保憲は、居心地の悪さに窓の外に目を向けた。
 窓の向こうの大通りには、相変わらず喧騒けんそうが行き交っている。薄っぺらな硝子板一枚で切り離された異空間のような静寂は、彼にとって落ち着けるものではなかった。

 いつもこうなのだ。大抵、蘆屋いすゞの思惑に巻き込まれる。
 心底迷惑をしているのだが、彼女は意に介す素振りもない。容姿に相応しく、女王様気質とでも言おうか。
 保憲はそんな女王様の下僕よろしく、こき使われるのである。

 そんな事を考えていると間もなく、萬屋支配人がやって来て、二人の前の小さなソファーにでっぷりとした身をねじ込んだ。
「いやあ、わざわざお越し頂き恐縮です」
 人懐こい笑顔に、仕方なく保憲も会釈を返す。
 そして、彼がテーブルに置いた黒表紙の綴りに目を遣った。――「劇場日報」とある。

 そんな視線に気を留める様子もなく、支配人は広い額に浮かんだ汗をおしぼりで拭うと、鷹揚な口ぶりで話し出した。
「うちの宣伝を神田書房さんにお願いしていましてね。その関係で、蘆屋君とは旧知の仲なのです。たまたまこちらに来られた折に、困り事を相談したら、そういう案件を受けてくださる方が知り合いにおられるとの事で、それは是非にと、お願いした次第であります」

 やはり、初めから全てが仕組まれていたのだ。保憲は再びいすゞを睨むが、彼女はあっけらかんとこう言った。
「うちの編集部でも、この先生は有名なんですよ。神通力で何でも解決してしまう陰陽師の末裔……」
「余計な事は言わなくていい。――そんな事よりも、相談事をお教え願えますか?」

 面倒事はとっとと終わらせてしまうに限る、とばかりに保憲が話を促すと、萬屋支配人は劇場日報に手を伸ばした。

「まぁ、ご覧のように、芝居小屋から始めたうちの劇団も、小さいとはいえ、劇場を構えるまでになりましてな。おかげさまで、繁盛させてもらいました……少し前までは。――ところが、妙な噂が立ちはじめて、客足が遠退いてしまったのですよ」
「ほう、妙な噂とは、どのようなもので?」
 保憲が聞き返すと、支配人は声を低めた。

「――怪人が出る、という噂です」

「怪人?」
 保憲は眉をひそめた。
「怪人とは、どのような人物なのです?」
「それが、誰もその姿を見た者がいないのです」
「ならば、なぜ怪人だと分かるのですか?」
 すると支配人は、言いにくそうに口ごもった。
「……ご存知かもしれませんが、去年から立て続けに、この劇場で大きな事故が三件も続きましてな。複数の死人も出ておるのです。その事故に遭ったのが、全員舞台で主役を張るプリマドンナでして」

 そう言って劇場日報の表紙を広げ、その裏に挟まれた紙片を保憲の前に置いた。白い厚紙のカードである。
 それを三枚テーブルに並べると、支配人は声を低め、それらのカードに忌々しい目を落とした。

「その事故の度に、このような脅迫状が私の元に届くのです」
 保憲は丸眼鏡の奥の目を細めた。
 カードには、活字を切り取ったものが貼られており、文章になるよう並べられていた。


 ――真のプリマドンナを舞台に立たせないかぎり、この劇場にミライはない。


「…………」
 文面を見ると、確かに脅迫状と取れる内容だ。三枚全てが同じ文面。怪人の姿は見えずとも、気味の悪いものである。

「そのため、三件の事故は、この劇場に潜む怪人が起こしたものではないかという噂が」

 保憲は難しい表情のまま、ソファーの背もたれに身を預ける。
「で、私にその怪人を探し出せと」
「はい。何とかお願いできませんでしょうか?」
「しかし、死人も出ているとなると、警察には届け出をされていますよね?」
「勿論。一通り捜査も受けています。しかし、どれもが確実に事故であると断定されたために、この脅迫状は悪戯だろうと片付けられて、埒が明かないのです」

 そこに、かすりの着物に前掛け姿の若い女が、銀盆を持ってやって来た。無言で丸テーブルにティーカップを並べると、軽く頭を下げて退がって行った。

 それを見送り、支配人は苦々しい顔した。
「そんな訳で、皆がうちの舞台に立つ事を嫌がりましてね。事故の後、役者に困った挙句、プリマドンナとして、よその劇場から歌手を引き抜いたんですが、事情を知った途端に逃げられてしまう始末です。主役のいらないレビューショーなどを企画した事もあったのですが、『次は客席のシャンデリヤが落ちるに違いない』と、全くお客が入らず……。もうかれこれひと月は、劇場を閉めているのです。そんな風ですので、電気代も無駄にはできないと、この有様で」

「――まるで『オペラの怪人』、ですな」

 保憲がそう言うと、支配人は堰を切ったように訴えた。
「やはり、先生はご存知でしたか、パリのオペラ座を舞台にしたあの作品を。皆がそれを思い浮かべて、ああだこうだと、根も葉もない事を吹聴するので、私は頭を悩ませているのです。うちには、あの作品に出てくるような地下迷宮もなければ隠し部屋もありません。怪人が身を潜められるような場所は、この劇場のどこにもないのです。それに、三件の不運は、警察が『事故』だと断定している。それなのに、こんな脅迫状のせいで、怪しからん噂だけが一人歩きしているのです。そんな不届き者を、私は到底許せません。早く捕まえなければ、劇場は潰れてしまう」

 唾を飛ばしながら喚く支配人の声を聞き流しながら、保憲はティーカップに口を付けた。……そして、余りに酷い味にすぐテーブルに戻した。
 すると、申し訳なさそうに支配人が首を竦めた。
「背に腹はかえられぬと、売店やラウンジの従業員には暇を出しました。今、給仕をした彼女は事務員ですが、お口に合いませんでしたかな」

 それを聞いて、保憲は全力の恨みを込めた視線をいすゞに投げた。――せめて、「ラウンジの紅茶が美味しい」という言葉だけは、嘘であって欲しくなかった。
 しかし彼女は、まるで他人事のように、紅茶に砂糖を混ぜている。

 憤りを通し越した息を大きくひとつ吐き、保憲はしかめっ面を支配人に向けた。
 そして乾いた口調でこう言った。
「事情は分かりました。この件、お受けしましょう。私にお任せください」
 支配人は、縋るような視線を彼に返す。
「助かります。この劇場の存続は、先生の神通力に掛かっております。何卒、よろしくお願いします」
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