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Ⅲ.敵

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 事件は、その午後に起きた。
 冴を訪ね、突然村長がやって来たのだ。
「困るのよ、君。役場に赴任したら、まず私のところへ挨拶に来るのが筋ではないのかね?」

 ――東原富市ひがしはら とみいち村長。
 三十年に渡り、市長の座を保っているベテランである。……とはいえ、高齢者がほとんどの狭いコミュニティーだ。前職が立候補を表明すれば、他に手を挙げる者などいない。

 ……そして彼は、ダム計画推進派の先鋭だった人物なのだ。

 特殊治安係の本部に迎えた冴は、彼を自分の席に招いて座らせた。
「ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。内閣府から出向しました……」
「そんな事はどうでもいい!」

 彼は指先でせわしなく机を叩きながら冴を睨む。
「君のところは、来客に対し茶の一杯も出さないのかね?」
「喉が乾いておられるのなら、食堂に自販機が……」
「君は上の立場にある者に対する礼儀を知らぬと見える。そこにいる、女職員に買いに行かせればいいだろう」

 事務作業をしていたあおいがビクッと顔を上げた。立ち上がりかける彼女を制し、冴は東原を見下ろす。

「村長が飲まれるお茶を買いに行くという作業は、村民、あるいは国民の血税をお預かりしている公僕の仕事であると、村長はお考えなのですね?」
「来客に茶を出すのは当然だろう!」
「村長は、役場内部の方ですので、来客には当たらないと考えます」

 広すぎる額に血管が浮き出るほど、東原は顔を赤くし怒鳴った。
「内閣府にいたのならば、大臣や総理が来る事もあっただろう! その時も、君はこういう態度をしたのか!」
「水分補給等の体調管理は、秘書の方の仕事ですので」

 歯ぎしりしながら冴を睨む東原が口を開きかけた時、机にドンと何かが置かれた。
 ――坂口が自販機でコーヒーを買ってきたのだ。
「コーヒー代は、村長室へ請求すればいいですか?」
 大男の坂口に睨み下ろされ、東原はあわあわと口ごもった。そして何やら捨て台詞を吐いて、そそくさと出て行った。

「……何だったんスか?」
 野久保が呆気に取られている。
「でも、石上係長と坂口副長の連携プレイ、痛快でした」
 だが冴は、あおいの言葉を指を立てて制した。そして机の裏側を探ると……。

 彼女の指先に摘まれているのは、小型の盗聴器である。ボタン電池のような形のものが、マグネットでスチール机に張り付くようになっていたのだ。

「…………」
 犯人は、言わずとも分かる。つい先程、この席に座った人物。
 冴はそれを、坂口が買ってきたカップコーヒーの中にポトンと落とした。
 異物を飲み込み、何事もなかったかのように凪ぐ黒い水面をじっと眺め、彼女は呟く。
「敵は、アヤカシだけではないようね」


 ◇


 ――翌日。
 冴は朝から禁足地にいた。
 先日、猩々と戦闘を繰り広げたあの辺りである。
 左手首に巻き付けたモニターを見ながら、奥へと進んでいく。

 禁足地と一言で言えど、かなり広い。御石山地の半分を占めるほどだ。
 その禁足地も、七妖衆の縄張りで区切られている。御石山を囲むように配置された、狐、狸、狼、猫、猿族の里、そして、その隙間を埋める形で多くを占める蟲族の領域。
 ……それに、村との境に面した、誰の物でもない地域だ。言わば、緩衝帯と言える。
 特殊治安係が腕に巻いている、セーマンドーマンの腕章で入れるのは、この緩衝帯のみである。これは、棗が七妖衆と取り決めた事だ。
 緩衝帯は、禁足地を取り囲む鉄条網のうち、林道から入る鉄扉の周辺が特に広くなっている。

 ――冴は気になっていた。
 アヤカシはこの、鉄扉の奥の緩衝帯にだけ出現する。

 そのため、アヤカシの動向を探る監視カメラも、この場所にしか設置されていない。

 アヤカシが村へ向かおうとしているとして、彼らの身体能力からすれば、鉄条網を飛び越える事など容易いはずだ。なのになぜ、律儀に扉を目指すのか。

 鉄条網に多くぶら下げられている御札などに効果のない事は、半妖である冴はよく分かっていた。……あれは、妖の存在に恐怖を抱いた村人が、彼らを封じ込めようとしたもの。それ自体には何ら効果はなくとも、人と妖との距離がどうしようもなく隔てられてしまった事実を、彼らに知らしめる効果はあった。
 しかし、相手アヤカシはこの国の呪術など知らない外国のモンスター。意味などあろうはずがない。

 冴はぐるりと雑木林を見渡した。
 ――まるで、相手がここを戦場に選んでいる。そんな印象を受けるのだ。

 緩衝帯を奥へと進む。監視カメラの届かない地域にまで来ると、手首のモニターからアラーム音が聞こえた。
 この先は、重なり合う葉が日を覆い隠す深い森。
 通信システムに、七妖衆の縄張りを書き加えておいたのだ。――これより先は、蟲族の領域。無断で踏み入れば、命の保証はない。

「……誰かと思えば、あんたか」
 声に振り返ると、銀色の毛皮をした獣がいた。
 狼族の長・狼哉だ。
 やわらかい肉球の忍び足で来られては、勘の鋭い冴でも気付かなかった。

 妖としてはまだ若年の彼は、基本四足で歩く。
 スタスタと冴の横にやって来ると、陣羽織の隙間から飛び出した尻尾を巻いて腰を下ろした。……狼の中でも小型であるニホンオオカミの血筋とはいえ、妖の長である。ピンと立てた耳先は、冴の肩と並ぶほどだ。

「何か用か?」
 冴が聞くと、狼哉はフンと鼻を鳴らした。
「鼻が利くのでな、警備を任されてるんだ。人間ばかりに頼っていては、七妖衆の名が廃るからな」

 とはいえ、狼族はあまり好戦的ではない。
 というのも、元来の姿である「ニホンオオカミ」が既に絶滅しているからだ。
 七妖衆のうち鬼族以外は、元々この地域に生息している獣が妖化したもの。もし妖としての一族が滅んだところで、獣が生きていれば復興は可能である。
 だが、狼族はそれができない。今いる狼族は、彼の一家しかいないのだ。
 そのため、鬼族と同じ道を歩まぬよう、狐天から戦闘行為を避けるよう申しつかっているのだ。

「おまえこそ、何をしに来た?」
 狼哉の灰褐色の目が、鋭く冴の横顔を射る。冴は視線を前方の暗い森に向けたまま答えた。
「見てみたいんだ、アヤカシの出現地を。そこに何か、アヤカシの謎の手がかりがある気がする」
「やめておけ。狐天に言われただろ、命はないぞ」

 狼哉の口ぶりに、冴は他意を感じ目を向ける。すると彼は顔を逸らした。
「……鬼は、いた方がいいと思うんだ。狐天が頑張ってるが、やはり足りないんだよ、絶対的な力が。俺は、あんたの味方をする。鬼族として、七妖衆をまとめてくれ。だから、こんな所で死ぬな」
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