この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの

8.空白のキオク(1)

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 私が記憶を失くしてから二週間が経過し、頭のケガはすっかり良くなった。ギクシャクする事も多々あるが、ここでの生活も徐々に落ち着いてきている。
 だが、記憶の方は一向に戻る気配がない。

 例のリングを狙う連中も鳴りを潜めている。彼の言うように在り処は知れているのだから、身に着けていない事が理由ではないはず。

 そしてもう一点気になる事がある。一向に依頼の電話が入らないのだ。

 私の仕事ぶりは意外と評判が良く、少ない時でも二日に一本は何かしら入っていた。
 その依頼内容は多岐に渡る。もちろん暗殺や脅迫(!)などの犯罪紛いの仕事ばかりではなく、盗難に遭った車や自転車探し、迷いネコ探し、家出人捜索と大半は探し物系だ。奪われた物を取り戻したり、ストーカー退治なんていうのもある。
 だから、こんなに長期間家で過ごすなどという事は、ケガや病気の時以外にはない。

「暇だなぁ」今日も自分の携帯電話を眺めてはこんな事を呟く。
 依頼の連絡は自宅電話に入る。携帯に転送されるように設定しているため、マンションに行かなくても確認できるはずなのだが……無しのつぶてだ。

「どうなってるの?このままじゃ、貯金が底をつくのも時間の問題!」
 大して高い買い物をしている訳ではないが、無職同然の今の自分は気に入らない。
 先生からはクレジットカードを渡されている。必要な物を好きに買えと言われても、私にとってはまだまだ見ず知らずの相手。さすがに気が引けるではないか?

 私の知らない五年の間に、一体何が起こったのだろう。何一つ思い出せない現状を何とか打破しなくては。そう思って今日も彼の元へ足を運ぶ。
 今日は書斎で一日書類の整理をすると言っていたので。

「新堂先生、今いい?」
「ああユイ。ちょうど休憩しようと思ったところだ。どうした?」部屋を覗くと、彼が顔を上げて言った。

「あのリングどうした?あの……良かったら、もう一度着けてみたいんだけど……」
 今はあれが一番の手がかりのように思う。
「あれはもう封印だ」
「家にいる時だけでいいから!」
「ダメだって言っただろう。そのうち別のを買ってやる」
 首を縦に振らない彼に、ついに声を荒げた。「あれじゃないと意味がないの!」

 無表情の瞳でこちらを見ている彼に説明する。
「あれって、新堂先生がくれた最初のリングなんでしょ?きっと、貰った時の私は凄く嬉しかったと思うの。どうしてもその気持ちを思い出したくて……。着けてたら何か思い出すかも知れないわ」

「とか何とか言って、襲って来た連中に報復するためだろ?ダメだ」
「この間はそう言ったわ。確かにそのつもりだった。しかもあんな言い方をしてしまって……ごめんなさい」おびき寄せるエサ、などと!

 丁重に頭を下げてから続ける。「先生の気持ちを何も考えてなかった。でも今は違うの。物には何の罪もないでしょ?大切にしたいの、あなたの想いを……」
 こんなクサいセリフを口にしてみるものの……。
「あれに思い入れなんて何もない。単なる貰い物だからな!」とバッサリだ。

 くっ……。口では敵わないかもしれない。この人は見た目通り強情そうだ。だがここで引く訳には行かない!
 負けずに言い返す。「コルトを返してくれたのだって、私の記憶を取り戻す手がかりになればと思ったからでしょ。嬉しかったわ、本当に。そういう要素は多い方がいいじゃない?」

 彼が沈黙する。そしてついに折れた。
「全く……。仕方ないな、本当にもう、外には着けて行くなよ?」
 そう言うと、デスクの鍵付きの引き出しから例のリングを取り出した。相変わらず石は怪しい光を放っている。

 自分の顔が無意識に緩んで行くのが分かる。どうしてこんなに嬉しいのか、実は正直よく分からない。私の中の何かがそれを求めているのか。
 彼はそんな私を見て、納得行かない様子でブツブツと呟く。「そんなにいいか?これが?……分からんね!」
 そして小さく息を吐くと言った。「何はともあれ。愛するユイに……」

 左手薬指にリングが嵌められようとしたその時、私は声を上げる。「あっ、こっちでもいい?」右手を出して言ってみる。
「なぜだ」不服そうな彼。
「だってこれ、マリッジリングじゃないんでしょ?それに利き手に着けるとほら……何かと不便があって」
 私は左利きだ。本当はコルトを握るのにと断言したいところだが、ここは控える。

 彼もそれを察したのか、さらに大きなため息の後、差し出した右手の薬指に嵌めてくれた。

「うふふっ!どうもありがとう、新堂先生!」
 私はそれを眺めながら、クルリと一回転したところで動きを止める。
「どうかしたか?」
「ねえ、見て……」

 手を下に下ろすと、私の薬指からリングが抜け落ちた。音を立てて床に転がったリングを二人で見つめる。

「ああん!どうして?!」
「ユイ、この間体重がどうとか騒いでたな。これのどこが太ったって?」彼が床からリングを拾い上げて言う。
「この間は緩くなかったと思うけど……どうなってるの?私のカラダは!ちょっと貸して、こっちにしてみる」左手ならば合うのかもしれない!

 差し出されたリングを受け取って嵌めてみるも、やはり緩くグルグルと回ってしまう。
 混乱する私を差し置き、先生が部屋を出て行こうとする。

「先生?どこへ行くの?」
「血液検査の準備をしてくる。おまえはここでしばし待て」
「え?今から?何で……」
「必要だからだ」逆らえない威圧感たっぷりの言い方だ。
 今調べるならば、私ではなくリングの方ではないか?金属が広がったとか!

 部屋を出て行った彼を目で追いながら思う。この主導権を握られる苦痛に、どう耐えて行けばいいのかと!
 生活のリズムが出来てきたとはいえ、縁遠い存在だった医者という人種との同居という点では、まだまだ慣れる事はなさそうだ。混乱と恐怖は尽きない。


 幸いその後行われた検査で、異常は特に見当たらなかった。

「再発を疑ったが、今のところは問題なさそうだ。急激に体重が減ったのは、何かと精神的に負担がかかったせいだろう」
「精神的負担……」それの要因は大部分があなただと、目だけで訴えた。
 そんな視線に気づいているのかいないのか、彼が話を進める。「サイズが合わなくては着けられないな。ああ残念だ!」
「って先生、喜んでる!」

 茶目っ気のある笑みを見せる彼に、思わずドキリとしてしまう。この男はこんな顔もするのか。
「そんなに嬉しいの?……もういいわよ。その代わり、早く別の買ってね!センセ?」
「贈ったら、受け取ってくれるのか?」
「受け取るわよ。どうしてそんな事聞くの?」
「それは当然、左手にしてくれるんだろ?」

 この問いかけに、私は答えられなかった。

「まあいい。今はまだ、その時ではなさそうだ」
 そう言って一人完結した彼だが、気分を害している様子はなく少しほっとした。リングを貰える日は遠退いたけれど。

「それじゃ先生、もう一つお願いがあるの」
「何だ」
「毎日あまりにやる事がなくて。何か始めようかと思うんだけど。ほら、体調も問題なかった事だし?」

 彼は口元に手を当てて、私を凄みながら思案している。
 その頭の中で、どんな事を考えているのだろうか。そこには私の闇稼業の事も含まれている?聞いてみたい、どうして依頼が来ないのか。
 だが彼が私をどこまで把握しているのか分からない。安易に口にするべきではない。

「危険な事じゃなければ、いいんじゃないか?」
「もちろん危ない事はしないわ。例えばコルトが必要なね!」
「当然だ」
 即答された。それはそれは極めて不機嫌そうに!

 大いに我が相棒と仕事がしたかったのだが、ここは事を荒立てないでおくとしよう。
 何しろ最初の説明によると、自分の体は〝日常に支障のない範囲で〟しか動けないらしいので?


 こうして八月の終わり、ようやく手頃な仕事先を探し当て、晴れて会社員デビューを果たした。と言ってもパートタイムだ。いつまで続くか分からないからと、彼が正社員雇用に暗色を示したから。
 まあ私としてはどちらでもいい。とにかくこの家から出て何かしたい!

 それにしても、決まった時間に決まった場所に通うなど学生以来だ。
「行ってきます」
「気をつけて。暑いんだから、無理しないでバスで帰って来いよ?」
「は~い」

 シフト制のため、曜日問わず不定期に月十六日勤務するという契約になっている。ほとんどこうして先生に見送られて出て行く。
 彼は夏が苦手のようで、この時期は家にいる事が多いようだ。医者といえば多忙を極める職種の一つ。こんな生活サイクルの医者が存在するとは知らなかった!


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