この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第三章 適材適所が成功のカギ

24.ふたりの客人(1)

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 季節は春に向かってまっしぐらだ。冷えていた空気が一段と暖かくなったこの日、突然マキ教授がやって来た。
 それは、私が一人で遅い朝食を摂っていた時だった。

「こんにちは。その後、お体の調子はいかがですか?」
 好まない来客だからと追い返す訳にも行かず、取りあえず中に案内する。

「マキさん、せっかく来ていただいたけど、新堂先生は留守なの。ご用件は……」
「特に約束はしていませんのでお構いなく。あなたの様子を伺いに来ただけですから。突然済みません、ご迷惑でしたかな?」ダイニングに並べられた皿を見て言う。
「いいえ!のんびりしてたらこんな時間になってしまって。もう食事は済みました。気にしないでください」

 慌てて皿を片付けて、キッチンで来客用のティーセットを用意する。
 ソファに誘導して座ってもらい、茶を振る舞った。

「ありがとう。以前よりも顔色はよろしいみたいですね」私の顔を見上げて言う。
「ええ。度々耳の調子が変になって眩暈が起こるけど、寝込むほどではないわ」
 きちんとパートの仕事にも行けている。
「そうですか」そう言ってマキは微笑み、いただきますとカップに手を伸ばす。

 ティーポットをトレイに戻して、ソファではなく斜め前の床に腰を下ろす。
 話が途切れた。この沈黙こそが耳に悪い……!
 話題を探している私の顔を眺めながら、マキが口を開いた。「そんなに怖がらないでくださいよ……」
 どこか悲しそうな物言いに思わず謝ってしまう。「ごめんなさい」
「まあ、無理もないでしょうがね」どうやら自覚しているらしい。

 視線が私から外され、マキは窓の外を見た。
「今日のような陽気になると、妻の事を思い出してしまいます」
「確か、奥様はご病気でお亡くなりに……」あなたが安楽死させた、とはあえて言わないでおく。
「ええ。もうすぐ命日です。早々と今日、墓参りに行った帰りなんです」
「そうでしたか」

「どうしても、あなたと妻が重なってしまって。妻は全然あなたよりも年上なのですが。ユイさんのように強い女性でしたので」
「名前も偶然同じですしね」少しだけ微笑んで答える。
「ユイさんの事が気がかりで、気づけば足が向いていました」
「お気に留めていただいて、ありがとうございます」

 マキは私に優しい笑みを向けた。最初に見た不気味な笑みの人物とは別人だ。
 私から見ればマキは父親よりも上の年代。苦労が多いのか、さらに年配に見える。

「この年で一人だと、どうしても誰かに思い出話がしたくなる時があるんです」

 妻を亡くしてからずっと一人で生きているマキ。この人にだって寂しいという感情があるのだと(これも失礼な言い草!)思い知らされた。
 記憶を失くしていた時の自分は、その感情がピンと来ていなかった。もちろん今なら理解できる。大切な存在を思い出せたお陰で。
「……私で良ければ、聞かせてください」
 奥さんの代わりはできないけれど、話くらいは聞いてあげられると思った。

「嬉しいですね、そういう心遣いが身に沁みます」
 これまでの無礼で無神経な言動の数々を思い出し、思わず渋い顔になる。
「気にしていませんよ。実を言うと、初めの頃は私もあなたに冷たく当たりましたし?」
「そうでしょ~?だって別人みたいっ……て、ゴメンなさい」またもご無礼を。

「お互い、過去は水に流しましょう。よろしければあれ、弾かせてもらえますか?」
 マキが窓際に置かれたグランドピアノを指す。
「ええ、是非っ!」お願いだから、この心を落ち着かせてください!
 見るからに慌てる私に、おかしそうにしながらマキがピアノの前に座った。

 以前、この人が作曲したという曲を二度ほど聞いた事がある。あの美しい旋律を耳にした時から、この人が死神などではないと分かっていた気がする。
 父義男への憎しみを、勝手にマキへ向けているだけだ。

 失礼します、と小さく言ってから蓋を開け、静かに鍵盤に指を乗せるマキ。
「音楽の素晴らしさを教えてくれたのは、妻の由衣でした」演奏しながらマキが語る。
 過去にも、音楽は安らぎを与えてくれると話していたのを思い出す。
「奥様はハープ奏者でしたよね?」
「覚えていてくれたんですね、嬉しいです」

 緩やかなメロディを奏でながら、マキは控えめに話し続けた。
「彼女の演奏はそれは美しかった。魂を揺さぶられた。私だけじゃない、聞く者全ての心を捉えたに違いない。きっと人間だけでなく、動物も植物も……」
 音楽は度々奇跡を起こす事がある。昏睡状態の人が目覚めるとか、心を閉ざした人が心を開くとか、さらには植物の成長を促すなど様々だ。

「けれど、奇跡を起こす本人が病で倒れた。もう二度とあの演奏は聞けない。私がどんなに努力して音を奏でても、あの感動は再現できないんです」
 多くの人々に癒しと安らぎを与えてくれた彼女は、不治の病に苦しみもがいた。たった一つの願いさえ受け入れられずに。

「死以外に、苦痛を取り除く方法がない。今ならば、彼女は安楽死の対象になるでしょう。しかしあの当時はそんな基準もなかった。そもそも何のための法律なのか?苦しんでいる人間に手を差し伸べる事もできないなんて!」マキの口調が変わる。

 そう、法律というものに感情論は通用しない。何一つ。

「……今だって、法律の壁に苦しむ人達は大勢いるわ。海外で活動中の自衛隊員が、法律のせいで目の前にいる住民の一人も救えない現実。それにあの大震災の時だって、法律の壁に阻まれて救出が遅れたりしたって聞いたわ」他にもまだまだある。
 マキが大きく頷く。

「彼らは皆、強い信念を持って行動してる。例え自分の身を犠牲にしてでもって……。それなのに、下らない規則とやらが邪魔をするのよ!」
「法律やルールが、いつだって正しいとは限らない。私もそう思います。私達は案外話が合いますね。私の想いを理解してくださる方がいて嬉しく思います」
 マキはいつしかピアノを弾く事も忘れて私を見ている。

 この人と初めて会った日、自分が教授職を追われた理由を、法律の方が追い付いていないだけだと言い切ったマキに、あなたはそんなに偉いのかと返した。
 でもそうじゃない。この人はこういう事を言っていたのだと、今改めて分かった。

「マキさんは、色んな意味で人を救っていたのね……私も救われた一人だけど」
 この人が命だけでなく、心をも救ってきた事を身をもって知っている。
「今まで本当にごめんなさい!私、あなたに失礼な事ばかり言って……」

 見た目や安楽死という言葉だけで、死神と決めつけた。この人には立派な医者としての信念があるのに。
 でも正直、見た目はお世辞にも健全には見えない。イメージは濃いグレーか?

「そういう過去は水に……そうだ、このメロディに流しましょう。どうです?」
 中断していた演奏を再開させるマキ。次に弾き始めたのは、あの以前聞かせてくれた自作の曲だ。
「あ……これ好き!」
 ありがとうございます、と言ってマキが笑った。

「マキさん。続けましょ、これからも!」
「え?」
「私達が、法律なんかに縛られないこちら側の世界から行動するの。私も新堂さんも、そしてあなたも」そう言ってニヤリと笑うと、マキも同じような笑みを返してきた。

 そうそう、この笑顔を言ったのだ。濃いグレーの笑顔!ようやくこの人らしい顔に戻った。悲し気な顔は見たくない。

「ありがとう、ユイさん。私はどこかで、そういう言葉をかけてもらえるのを待っていたんでしょうね」
「今さら自分のしてきた事に怖気づいた、なんて、言わせないんだから?」
「ははは……!全くですな」
「ふふっ!」

「それじゃ、そろそろ私は失礼しますかな」
「えっもう?先生が帰るまでいたら?今日は早く帰れるって言ってたし」
「いえいえ、本当に。あなたとこんな素晴らしいお話ができて、十分に満足いたしました。お元気そうで何よりでした」

「またいつでも遊びにいらしてね」来た時とは正反対の対応だが、この言葉は本心だ。
「ありがとう。本当に来ますよ?」どこか試すように返される。
 そんなマキに笑顔で答えた。「ええ、どうぞ!」
「でしたら、今回のお礼に次は是非、診察をさせてもらいましょうかね」

「え?!そっ、その件はお構いなく!」
 うろたえる私を見てマキが笑っていた。どうやら冗談のようだ。
「ご安心ください、主治医の新堂先生に無断で、あなたの診察はできませんので」
「そっ、そうよ?もう、悪い冗談はやめてくださいって!」

 こんな言い合いの後、私達は笑いながら別れた。
 久しぶりに語りに熱が入ってしまった。でもマキさんとこんなに想いを共有できるとは思わなかった。とてもいい時間だった。


 マキが帰ってすぐに再び来客があった。

「こんにちは~!年に一度の消防点検で~す!」
 玄関ドアを開けると、若い男が帽子を目深に被り、ファイルを片手に立っていた。ユニフォームのような服装でもない。普段着の至ってごく普通の若者だ。

「どうも~。毎年ご主人に立ち会っていただいてます!」
「そうなの?」
 私の不審げな視線にも明るく答える青年。
 目立った殺気も感じられなかったので、取りあえず中に入れる。

「失礼します!ご主人はお留守ですね?」廊下を進みながら確認される。
「ええ。それが何か?」チラリと後ろを見やり答える。
「いいえ!じゃ、まずリビングからお願いします!」目的のリビングにやって来ると、男が言った。

「ねえ。消防って、あなたは消防局の方?」
「いいえ、僕は委託業者の者です」
 男はファイル以外何も持っていない様子。「点検って、見るだけなの?」
「えっ、それは……目視も大切ですよ、奥さん!」

 いかにも怪しい。夫のいない時間帯を狙った一般的な強盗か。例のリングのお客とは思えないし、ここは遊んであげようじゃない?

「僕、この辺一帯の地区担当なんです。最近、お車買い換えられましたよね!」
「詳しいのね」全く何の担当だというのか。
 買い換える事になったのはつい先日。それも私の気まぐれによるものだ。そして納車したてのクワトロポルテは、彼が乗って行ったため今はない。

「ここら辺じゃお目にかかれないマセラティですよね~!凄いなぁ。僕、車好きなんです!見られなくて残念だ。ご主人は何のお仕事なんです?」
「それって今、関係あるのかしら?」
「嫌だな~、ただの世間話ですよ!」
 そのくらいは教えてあげようじゃない。「彼はドクターよ」

「そうですか!それはそれは。どうりであんな高級車にお乗りな訳だ」
「そのうちに帰って来るわ。是非彼と話して行って。ついでに車も見れるし」
「いっ、いえいえ!そんなに長居をするつもりはないですから……!」急に態度がソワソワし出す。

 私は隙を突いて男の手にしていたファイルを取り上げた。「何が書いてあるの?」
「あっ!!」
 そこには非常時緊急避難用品チェックリスト、と書かれていた。しかも適当な場所にチェックが点けられている。
「何これ」

「かっ、返せっ!…いや、返してくださいっ!」
「あなた、点検に来たんじゃないわね」
 ファイルを持ったまま、腕組みをして男を睨みつける。
「フン!今頃気づいてももう遅い!ここは周りの家とは距離があるし人通りもない。騒いでも、誰も助けに来ないぜ?」
 裏は山だしね!「そのセリフ、そのままお返しするわ」

 男がポケットから折り畳みナイフを取り出し、不敵な笑みで私に突きつける。
「金を出せ!たんまり蓄えてるんだろ?何せ一括であんな超高級車を買えるくらいだからな!」
「そんな事まで良く調べたわね。私達に目を付けてたって事?」
「オレは下調べを入念にするタチでね!」

 こんなセリフに思わず笑ってしまう。入念にここを調べたなら、決して盗みに入ろうとは思わないはずだ。何せここには、朝霧ユイがいるのだから?

「何がおかしい?恐怖で頭がイカれちまったのか?ああ可哀想に!」
「きゃあ、どうしましょ!……って、騒いでほしいみたいだけど」
 ファイルの角を使って、男の所持していたナイフを叩き落す。即座にそれを拾うと、逆にそいつに突きつけた。

「あ……、あのっ?!」
「さあ、どうされたい?」
「ひっ!」
 背を向けて逃げようとした男に向かってナイフを投げつける。
 ナイフは男の帽子を貫いて壁に刺さった。固まる男。

「騒いでも、誰も来ないんだったわね。残念ねぇ~」
「ヒィ~!たっ、助けて……っ」
「下調べをした割にはお粗末ね。なぜ複数で来ないの?あなたみたいなド素人一人じゃ、何もできやしないのよ?まあ、あなたみたいなのが何人いても一緒だけど!」
「っ!ここの奥さんは、病弱な女だって聞いたんだ!」
「あら。確かに私、病気持ちだけど?」
「うっ、嘘つけ!」

 男に迫り、右腕で頸部を締め付けながら言う。「もう時期彼が帰宅するわ。さっきも言ったけど、是非会って行って」
「ぐっ、遠慮、しときま……」首を圧迫しているせいで声が途切れる。
 男の言い分を無視して続ける。「あの人、侵入者を嫌うのよ。前にもね、泥棒に入られて……その時に彼言ったの。今度来た奴は殺す、ってね」

「こ、殺すって……、アンタの旦那は医者なんじゃ!?」
「だから何?それとこれとは別でしょ?」
「クソッ、何て力なんだ!」男は私の腕を解こうとしたができなかった。
「あ、そうだわ!いい事思いついた。ちょっと付き合ってくれない?」

 逃げないように一旦男を縛り上げると、自室に戻ってコルトを取り出す。

「いい練習台だわ~!あそこの木の前に行って」
「んなっ、何なんだ、一体?」男は訳も分からず、押されるままにそこへ向かう。
「はい、これ持って。こっちは頭に載せて!落としちゃダメよ?」

 男を幹に縛り付けると、両腕を広げさせた上で手の平に空き缶を載せる。さらに頭の上にもう一つ。
 そして、これ見よがしにコルトを抜く。

「冗談だろ!モデルガンなんか?あんた、変わった趣味だな!」
「そう見える?なら玩具だと思ってればいいわ。動かないでね。動いたら命の保障しないわよ」
「おっ、おい!まさかホンモノ……?!」

 私はわざと最初の一発を外してやった。それは男の左頬を掠めた。

「ギャアァ~~ッ!!」男の声にならない声が響く。
「ほら!動かないでって言ったでしょ?」
 次は左手の空き缶を撃ち抜く。
「ヒィ~……」
「そうそう、じっとしててね!」

 次を撃とうと構えた時、この丘を車が一台上って来るのが見えた。クワトロポルテ、新堂さんだ。
「あら、噂をすれば。ご主人様のお帰りだわ」
「たっ、助けて……っ!」

 男は無謀にも、まだ見ぬこの家の主に助けを求めるのだった。


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