この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第四章 不屈の精神を養え

  訪れた試練(3)

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 ついに新堂さんに移植前の処置が始められた。移植するためには、患者側の造血組織を完全に破壊する必要があり、致死量の抗がん剤投与を行うのだそうだ。
 致死量と聞いてゾッとするが、これはもう本人に頑張ってもらうしかない。

 この日貴島先生のお許しが出て、恐る恐る彼の病室に顔を出してみたのだが、思いのほか苦しんでいる様子はない。

「新堂さん、結構元気そうじゃない?安心したわ」
 こんなやり取りはアクリル板越しだ。マスクやら手袋やらと障害物が山積の中の対面。
 それでも彼の穏やかな顔が見られて、何より幸せを感じる。

「これも全てキジマ大先生のお陰だな。正直……最初はどうなるかと思ったが、何とか耐えてるよ。ユイは?平気か、辛くないか?」
「私?何ともないよ。私の方はまだ何も始まってないし、ね……」
 ちょっとした体の不調の事など、今打ち明ける必要はない。

 そんな事を考えて言葉に詰まった私だが、彼は恐れていると思ったらしい。

「……怖いよな。注射嫌いのおまえにこんな事させるなんて。済まない……。仕事の事だって、せっかく……」こんなコメントを遮って、「ううん、気にしないで!注射なんて眠ってるうちに終わるでしょ?それにあの仕事は、暇だったからしてただけだし」と明るく返す。
「だが、会社で頼りにされてるんだろ?」
「だからって優先事項ではないわ。今はあなたの事に集中したいの」

 おかしなウイルスなどを貰ってしまった事もあり、ボスの年始早々の態度といい、会社には少々嫌気がさしていたところだ。

「支社長さんに、お詫びの連絡しないとな」
「そんな必要はないわ」
 断言した私に不思議そうな顔が向けられる。

「だ~って。この間電話した時なんてさ、ボスったら一方的に新年の挨拶なんてしちゃって!」こっちはめでたくも何ともないわよ?と小言を口にしてしまう。
「電話でしたのか、新年の挨拶を?そういえば三日前からここにいるって言ってたな。会社はどうした?」
「しばらくお休み貰ってるから大丈夫」自分が体調不良という事にしたと伝えると、新堂さんは申し訳なさそうに俯いた。

 そんな彼を励まそうと再び口を開く。「私がついてるからには、百人力よ?新堂さんのためなら、どんなに太い注射も耐えて見せるんだから!」
 自分で言いながら怖気づきそうだが。
「ありがとうユイ。……色々、ごめんな」彼の顔はとても儚げだ。
 そんな顔を見ていられず、「ダメよ、こういう時こそ新堂さんらしくもっと強気でなきゃ?あなたは病気に打ち勝つ事だけ考えて!」と力強く言い放った。


 病室を出て、貴島さんの待つリビングでお茶をいただく。

「思ったより元気で安心した。もっと大変なのかと思ってたから」
「……。ああ、新堂は強いよ。きっと上手く行く」
 冒頭の沈黙は、彼が私の知らないところでたくさん苦しんでいる事を表していた。そんな姿は決して見せない。それが新堂和矢だ。

「そんな事より、お前の方が元気ないじゃないか」私の顔を覗き込んで言う。
「そう?普通よ、普通!」
「まだ回復しないか……やっぱり、一度に血を抜き過ぎたな」
「そんな事ないってば。もう大丈夫よ。色々考えちゃって眠れてないだけ」
 こう答えるも、貴島さんは納得していない。

「やはり、ドナー側の準備期間が短すぎる……!」悔し気に呟く。
「まだ言うの?私の方は問題ない。彼があんなに頑張ってるんだから、私だって……」
 今のところ動悸もなくホルモン値も正常。ただ若干疲労が溜まっている感はあるが。
「そんな事言ったってな?お前は導火線が短いから。いつ動悸が酷くなって数値が跳ね上がるか……気が気じゃないんだよ!」

「珍しく気を遣った言い回しね。あなたにしては」
 私の罵りを無視し、真顔で続ける。「今はお前だけが頼りだ。頼むから、大人しく生活してくれよ?」
「分かってるってば、そんな事!」


 けれど……私にはやり残した事があった。どうしても今やらなければならない事が。
 翌日、貴島さんに申し出る。

「私、ちょっと出かけて来たいんだけど。いいかしら」
「ああ。行き先くらいは教えてくれるよな」
「車をね、買い換えたいの」
「はぁ?修理に出すの間違いじゃなくてか?」
 後部の凹み傷にはすでに気づいていた様子。であれば当然そう思うだろう。

「目印のためにあえて直さなかったんだけど。事情が変わったので、今すぐにマセラティを手放す必要があるのよ」何も知らない相手にこんな事を言う。
「何だか意味深だな。まさか、狙われてるなんて言わないよな!」
 おどけて聞いてくる貴島さんに一言。「よく分かったわね」

 これを聞いてたちまち驚きの表情となる。
「おいっ、それはつまり、今その敵が襲って来る可能性もあるって事か!」
「ごめん、そうなるわね」
「バカ野郎!ここにはまなみもいるんだぞ?何かあったら……っ」
 この言葉を遮るように答える。「分かってる!私だって、まさかこんな事になるとは思わなかったのよ!」

 一呼吸置いて続ける。「これから私も、機敏に動ける状態でいられるか分からないし。だからその前に、どうしても取り換えておかないと……」
「で、車を換えたら状況が変わるって言うのか?」そんな事あるか!と鼻で笑う。
「マセラティに乗った偽ドクターが、狙われてるの」

「何だそりゃ!なら、狙われてるのはお前でも新堂でもないかもしれないだろ?」
 こんな的を得たコメントに、大きく首を縦に振る。おお。確かに?

「どうせお前の事だ、楽しんでたんだろ?乗り回して誘き寄せようと思ったか!」
 あら、どうして分かったの?という軽口は、今は口が裂けても言えない。なぜなら貴島さんは本気で怒っている。顔は笑っているが、確実に怒りを感じる。
「あなた方に迷惑をかけるつもりはない、何があっても。約束するわ」

 それきり貴島さんは何も言わなくなった。私の後について外に出ると、停まっている二台の大型セダン車を見ている。

「じゃあ行かなきゃ。新堂さんの事、お願いします」
「ああ。それは任せとけ。この時期にお前を外出させたくはないが、事情が事情だから仕方がない」ため息交じりだが、何とか了承してくれた。
「大丈夫だって。風邪なんて引かないし、変なウイルスも貰って来ないから?」

 自虐的に返す私を無視して続ける。「朝霧、絶対に戻れよ?いいか、無傷でだぞ!」
「もちろんよ。心配ご無用!誰に向かって言ってるの?」
 自信たっぷりに笑って見せてから、クワトロポルテに乗り込む。

 久しぶりに掛けたエンジンは、絶好調の軽快な低音を響かせている。手放すのは正直惜しい……。

「それじゃ、夕方には戻るわ。別の車でね!」
「本当に気をつけろよ?その体、今はお前だけのものじゃないんだからな!」
 車に乗り込んだ私に向かって叫ぶ。
「それって、まるで子供でも宿してるみたいね。そんな言葉をかけられる日が来るとは思わなかったわ……」
 新堂さんとは、決して子供はつくれない。ふとこんな事を思う。

「ふざけるな!本当にお前に何かあったら、このままでは新堂は確実に死ぬんだぞ?」
「分かってるってば……。じゃ、行って来る」

 マセラティがこのままここにあっても、死ぬかもしれない。その時は一人では済まないかもしれないのだ。
 もう計画は変更するしかない。悔しさでいっぱいだ。こんな状況になる前に敵を炙り出せなかった事が!

「必ず無事に戻るからね、新堂さん」一人になった車内で病室に向かって呟く。
 とにかく今は、目の前の事を一つ一つ片付けて行こう。そう自分に言い聞かせ発車させる。
「新堂さんに似合うと思って選んだのに、最後の最後は私が乗ってるって微妙!」

 爽快にスピードを上げつつも、やはり残念な気持ちは消えないのだった。


 その後、マセラティを手放した私は、もちろん無傷で貴島邸に戻った。
 そして前処置最終日の夜。

「いよいよ明日だ。ここからが本番だぞ」
「なあ、本当にユイは大丈夫なのか」
「あ?大丈夫さ。なぜそんな事聞くんだ」

 ドア越しにこんな会話が聞こえる。
 自分が辛い時なのに、私を心配してくれている。

「いや……、大丈夫ならいいんだ。よろしく頼むよ、貴島先生。くれぐれもユイを」
「バカ野郎、どっちもだ!どっちも、最善を尽くすよ」

 それきり何も聞こえなくなって、私は立ち聞きをやめて、当てがわれた自分の部屋に戻った。

 今の私達はただただ、貴島先生に全てを託すしかない。
「ああ、どうかどうか、上手く行きますように……!」
 窓からぼんやり差し込む月明かりに向かって、何度も何度も祈り続けた。


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