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第五章 扉の先で待ち受けるものは
エンゲージリング(2)
しおりを挟む今日は予定していた新堂さんとのお出かけの日。車で向かった先は横浜だ。渋滞もそれほどなく、すんなり目的地に到着した。
今、久しぶりの横浜港を散策中だ。
「きゃ~!久しぶり!今日みたいなカラッと晴れた日は最高ね」
目の前には青い海と青い空が広がっている。
「港はどこも似たようなもんだな」
何て素っ気ない感想だろう?膨れっ面で彼を見ていると、私の頭に手が乗った。
「日差しが強い。もう日陰に行くぞ」
頭を撫でられるのが嫌いと分かっていながらのこの行為。
ついやり返したくなって、頭の上に置かれた彼の手を掴んで勢い良く前に振り下ろす。そして前屈みになった彼の懐に、透かさず潜り込む。
「……なっ!」驚いたのか、彼が声を上げた。
本来ならばこのまま投げ技に入るところだが、もう死んでも彼を投げたりはしない。
私の動きが止まったので、彼も体の力を抜いた模様。
「おまえなぁ……。いきなりビックリするじゃないか!」
「あなたが私の頭に手を乗せたりするからよ?」
「太陽光でどれだけ熱くなってるか確認したんだ。しかしだからって……」
「こんな美しい景色を前にしても、コメントだって素っ気ないし!」せっかくのデートなのに?とぼやいてみる。
「そんな事を、今さら言うのか?俺の感想なんて?」
分かっている。この人が豊かな感受性など持ち合わせていない事など!けれど、少しでも共感してほしいという気持ちくらいは分かってもらいたい。
「ごめん、今のはふざけすぎた。謝るわ」私は諦めて頭を下げた。
すると、唐突にこんな言葉が降ってくる。「質問していいか」顔を上げて彼を見上げる。「何?」
「今本当は、投げ飛ばそうとしたんだろ?」
「しっ、してない!」したけど。
「あの形は紛れもなく背負い投げのフォームだ」どこか確信めいて言う。
さすがにそのくらいは分かってしまったか。柔道の経験があると言っていたし?
「あの状態から逃れるには、どうしたらいい?」
「……何ですって?」質問があまりに予想外だったため、すぐには答えられず。
「だから、俺があの場で、どう対処すれば投げられずに済むのかって話だ」
言い直した彼に、私は即答した。「無理ね」
「そんなバカな!」
大袈裟に慄く新堂さんに付け加える。「バカね、この朝霧ユイが相手じゃって意味よ」
「なるほど」
「そこは納得してくれるんだ?」
本当は、昔ほどの自信はもうない。だから、これからは新堂さんも自分で自分の身を守れるようになってほしい。
「新堂さんくらい上背があれば、私みたいな小柄な敵なら持ち上げられるでしょ。重心を下にして、救い上げるように。体ごと持ち上げる」
「力技だなぁ」
「腕だけじゃなく、体全体を使うのよ?」
抱き合った体勢になり、彼が私を軽々と持ち上げた。「こう、かな?」
「きゃっ!」
突然視界が反転して慌てる。そのまま私は、俗にいう姫抱っこをされていた。
「さあ姫、そろそろ移動いたしましょう」言葉と共に、額にキスまでが降って来る。
「ちょっと……、人が見てる、下ろしてっ!」かなり恥ずかしい。
以前の彼ならば、こんな事は絶対にしなかった。一体どうした事か!
どうにか人気の少ない階段の方に誘導したけれど、しばらく彼のお姫様ごっこは終わらなかった。
「おいユイ。足、震えてるじゃないか。どうした?海風に当たり過ぎて冷えたか」真夏とはいえ長く風に吹かれるのは良くない、と続ける。
「違~うっ!超~恥かしかったんだからね?もう……っ」
照れと恥かしさで震えていたのだ!こういうのは意識がない時だけにしてほしい。
こんな調子で散々調子を狂わされ続けた。
「俺には……この街は特別だ」急に立ち止まった彼が、意味深な言葉を発した。
振り返って彼を見る。「新堂さん?」
「朝霧ユイに出会えた場所だからな」
「ふふっ……そうだね。でも私は、あなたに会う前から、この街が好きよ」
「だったら、またこっちに住むか」
今の場所は広い土地を探して行き着いたのだと前に聞いた。
大賛成したいところだが、ここに戻れば否応なく昔の自分が顔を出す。けれど今の私は昔のようには動き回れない。そうなれば、後は自分に失望するだけだ。
「ユイ?」
何も答えない私に彼が不安そうにしていて、慌てて答える。「いい。私、新堂さんが見つけてくれたあの場所でいい。とても、気に入ってるから」
「……そうか」彼は何も聞かずただ、分かった、そうしようと言ってくれた。
私はもう、昔のワタシではない。そんな事を思って無意識に拳を握る。
彼の手が、そんな私の握り締めた拳を包んだ。
「力、入ってるぞ?」屈託のない笑みを見せて、私の手を自分の手で包み込む。
一瞬涙が出そうになって、わざと鼻を鳴らして誤魔化した。
「やっぱり風邪引いたか?」
「ううん!違う!」
日陰で海風に当たりながら、新堂さんに寄り添う。彼の手が私の腰に回されて、
さらに引き寄せられた。大好きなものに囲まれて、しばらく幸せを満喫した。
そんな具合に、散策したりウインドーショッピングをしたりと過ごすうちに、あっという間に日も暮れかかる時間帯となる。
「レストラン、予約してある」
「うん。ありがとう」
「これだけ歩けば、腹も空いたろ?」
「ペコペコ!」
私達はホテルのレストランへと移動した。
「今日は楽しかった!ここはもう、住む場所じゃなくて遊びに来る場所だって分かった。そうなると、あのマンションも、もう必要ないかなぁ」
少し前までは残しておきたいという思いが強かったのだが。なぜか今は、それほどの執着がなくなっている。
「ユイの方は手放してもいいな。俺のはそのままでいい。何かの時に使える」
「何かってまた、ケンカした時に避難するとか言うつもり?」
笑って曖昧に頷いてから彼が言う。「あそこはユイが探してくれた、セキュリティ万全の場所だろ?」
その昔彼がボロアパートに住んでいた事が判明してすぐに、私が探し当てたマンションなのだ。
「そうは言っても、もう随分昔の話よ?」周囲の状況は変わっているだろう。
しばらく考えた彼が、「それでも、いざという時の隠れ家くらいにはなるだろ」と意味深な言い方をした。
「隠れ家って何か惹かれる!」容易に言いくるめられる私。
もしかしてこの人、そうやって時々あそこへ行っていたりして?
「いいよ。そのままにしよう。私のはもういらない!」
私の帰る場所は、今の家だけでいい。
こんな話題に決着をつけて、目の前のグラスに目を向ける。
それには白ワインが注がれている。これまでならば間違いなく赤だった。まだ私達の体は赤を受け付けない。
料理を堪能してお腹も満たされた頃、彼が切り出す。
「上に、部屋を取ってある。そろそろ移ろう」
事前に一泊するとは聞いていなかったが、これだけ飲酒しておいてタクシーで帰宅も格好がつかない。こう来るのだろうと思っていた。
「良かった~、飲酒運転されなくて?」
「する訳ないだろ」
「あはは!でも私、明日仕事入ってるんだけど……」考えなしの行動は困る。
「ここから直で行け。車で会社まで送るから」
はあ、と答えつつ、言ってくれれば着替えを持ってきたのに、と悔しがる。こんな気取った服で会社に行けば、あの噂好きのオバサマ方に何を言われるかしれない!
彼について最上階へ上がる。
「また、高そうな部屋ね……」この人が普通の部屋を取る訳がないけれど?
「別に大した事ない。ここは大衆向けのホテルだ」
「あっ、そうですかぁ~」素っ気なく返しながらも落ち着かない。一体、一泊いくらするのかと!
しばらくすると、ルームサービスがシャンパンを運んで来た。
手慣れた様子でチップを手渡す彼をぼんやりと眺めていると、ボーイが残して行ったワゴンの目隠しクロスの下から、新堂さんが何かを取り出した。
こんなシーンで登場するのはピストルだ!と思わず身構えてしまう私は、どう考えても普通の女ではない。
「ここに座って」
彼が窓際のソファに私を誘導した。どうやらピストルは持っていないようだ。
警戒心を解いてそちらへ足を運ぶ。
「では改めて。乾杯」新堂さんが私に笑みを向けて言う。
「カンパイ」
シャンパングラスの黄金の液体を揺らして、グラスを傾ける。
ここへ来て、ようやく窓からの素晴らしい夜景に目が行った。ベタだが、まるで宝石を散りばめたような、というフレーズがまさにピッタリくる光景だ。
「ステキ……!こんなロケーションでお酒なんて?悪酔いしそうよ。覚悟してね?新堂センセ!」
彼の笑顔も最高にステキだ。幸せ。もうこれ以上、何もいらない……。
そう思った時、彼が小さな箱をテーブルに置いた。
「何?」さっきワゴンから取っていた物はこれだったのか。
「ユイ。始めに言っておくが、これはプレゼントではない」
「え?」意味が分からない。
「これは、エンゲージリングだから」
「はぁ!?」
彼が小箱から取り出したのは、取り巻くダイヤの真ん中にピンクの大きな宝石の付いた、何ともゴージャスなリングだった。
「プレゼントじゃないって、どういう……」意味だろう?
呆然とそのリングを見下ろして考える。
「事前にオーケーは貰ってる。受け取らないという選択肢はないって意味さ」
私がエンゲージリングはいらないと言ったから、こんな事を言うのだろうが。
これでは受け取らない訳には行かなくなったではないか!
彼が続ける。「だが、これから五年も待たせるんだ……。もしユイの気持ちが変わったなら、もちろん無理に従わせようとは思ってない」
「気持ちは変わってないわ」
あまりの展開について行けず、取りあえずこれだけ伝える。
良かった、と微笑んでさらに言う。「ユイをイメージして、デザイナーに作らせた」
納得の行くものができるか不安だった、と彼が打ち明けた。
「世界に一本しかない」
「ウソでしょ……!?」
呆気に取られる私をよそに、彼が私の左手を取る。「着けてみて、いいよな?」
「それはもちろん……」
まだ信じられない。リングは私の左手薬指に吸い込まれるように入った。
自分の指で煌くそのリングを見つめる。
「思った通りだ。とても良く似合ってる」
「そう、かなぁ……」
こんなゴージャスなジュエリーを未だかつて身に着けた事がない。似合っているのかなんて分からない!
「あのさっ!……」
私の言葉を遮って、彼が姿勢を正した後に口を開いた。
「朝霧ユイ。もう一度確認のために、俺と結婚してくれるんだよな?」
「もちろんですっ!だけど……」
「ああ良かった」言葉を失う私を前に、何とも嬉しそうだ。「さっきから、ちゃんとした返事をしてもらってない気がしたから」と、極上の笑みを浮かべている。
そんな彼も、私の反応の薄さに次第に不安そうになって行く。
「……もしかして、気に入らないか?」
「そんな訳ない!想像以上に、フィットしてる……」かなり重みを感じるけれど。色んな意味で!
「だろ!着け心地重視で作らせたんだ。そうしないと日頃着けてられないからな」何しろ五年間の事だから、と続ける。
待て待て!ゴージャスすぎて日頃着けるどころか、どこへも着けて行けない気が……。
「ねえ?この真ん中の石ってまさか、ダイヤじゃないよね……」
天然のピンクダイヤモンドだとしたら、恐ろしい値段がするはずだ。
「永遠を誓う石はダイヤモンドに決まってるだろ?」彼は当然のように言い切った。
無理だ!やっぱり着けられない!これではまた狙われるじゃないか?私の狼狽えように気づく事もなく、新堂さんは安堵の表情を浮かべている。
「これで安心した。ちゃんとしたかったんだ」
「ちゃんと、ね……。新堂さんって、ホント律儀だね」ようやく私に笑みが戻った。
自分がどれだけこの人に愛されているか、ジンジン伝わってくる。もちろん資金を惜しみなく使ってくれるという意味じゃなく。
「本当に幸せ……。私、幸せ過ぎてもう、いつ死んでもいいや」
私のこの言葉に、彼の表情が一転した。
「ユイ。そういう事は言わないでくれ」
「新堂さん?」
「二度と、言わないでくれ」悲しそうに繰り返す。
「あっ、ごめんなさい。例えよ?例え!そのくらい幸せだって言いたかっただけなの。ごめんなさい……」声が萎んで行く。
「冗談でも、言ってほしくないんだ」対して彼は毅然と言い切った。
「うん、分かった、もう言わない」
彼がこんなに怒るとは思わなかった。それだけ私達にとっては、死は身近なのかもしれない。このやり取りによって、そんな現実を思い知らされた気がした。
こうして、複雑な一夜が明けた。
宣言通り新堂さんが会社まで送ってくれて、いつもの日常が始まった。
もちろんリングは着けていない。着けられるものか!会社にして行けば、確実にひと月は話のネタにされてしまう。
そして当然家でも着けない。ゴージャスな割に驚くべきフィット感ではあるが、いくらしたのか知れない恐れ多い代物が利き手にあったら、何もできやしない。
そう、これは左にしなければならないのだ。
「大体ね、エンゲージリングなんてのは、大切に仕舞っておくものなんです!」
なぜ着けてくれないんだと迫る彼に、こういい訳をする。
だってそうじゃない?それだけ、特別な物、なのだから……。
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