この恋、腐れ縁でした。

氷室ユリ

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第六章 見えないところで誰かがきっと

51.ドクターストップ(1)

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 新堂さんの体調に変わりはなく、順調にまた一年が過ぎた。春が来れば四年が経過した事になる。指折り数えて五年の時を待つ私達。残るはあと、十六月!
 ついにカウントダウンが始まった!……のだが、油断しているとこういう事が起きる。それは自分にだ。

「ユイ、どうだ、喉の具合は」
「うん……あんまり」
 今の時期、乾燥注意報が発令されない日はないくらい、空気はカラカラだ。小まめに潤さないとお肌も喉も張り付くように乾燥する。
 でもどうやらこれは、乾燥のせいではないようだ。夕方になって痛みが酷くなった。

「ちょっと見せてみろ。口開けて」
 口の中を覗いて彼が言う。「咽頭が腫れてきてるな……これは少々こじれるかもしれない」
「え~!怖い事言わないでよ……頑張って予防してたのに。何で?」
「ここのところ寒暖差が激しかったし、仕方ないよ」

「そうだ、ちょうど近所から大根を一本貰ってたな。摺り下ろして飲め」
「それ、あんまり好きじゃな~い。イヤっ」
「イヤじゃない、飲、め!作ってやるから」
 この剣幕にノーと言える人がいたら名乗り出てもらいたい。「うぇ~ん……っ」

 大人しくダイニングで、その不味い飲み物を待つ事数分。一口含めば想像通り辛くてヒリヒリして吐きそうだ。
「余計に悪くなりそう!」
「何か言ったか?それ飲んだら、薬を出してやるから飲むんだ」
「薬は飲むよ。でも、これ全部はムリ!」コップにたっぷりと注がれた液体。

「しょうがないな……なら半分でいいから」彼がようやく折れてくれた。
 ああ助かった……。

「熱計ってみろ」
「さっき新堂さん、私のおでこ触って大体分かったでしょ。いいよ」
「微妙なところだから言ってるんだ」有無を言わさず体温計を渡される。
 不服ながらも計測を終えて確認する。「七度、八分だね」言いながら彼に見せる。
「高温期にしても少々高い。少し出て来たな」

「……今日はもう寝るわ」
「そうだな。熱が上がるようだったら対処するが、今は休んだ方がいい」

 その日は喉の薬だけを飲んで早めに就寝した。私はよく生理前の時期に体調を崩す。そして今回もそんな展開となりまるで学習能力(?)がない!


 翌朝。痛みで寝付けず何度も目が覚めて、全然眠った記憶なし。喉も相変わらず良くなっていない。けれど熱は下がっていた。食欲も普通にある。

「ますます痛い……。完全に風邪だわ」
「今日は仕事か?」
「うん。昼から夕方まで。今週の火曜は前半忙しいから行かないと」
「大丈夫なのか?熱が下がったからって無理するなよ」
「喉痛いだけだし、大丈夫よ。何だったら自分の仕事終わったら早退する」
「そうしろ。迎えに行くから」
「ありがと」

 幸い出勤を止められる事はなく、家を出たのだが……。

「何で雨降ってるワケ?」
 通りに出たところで雨が降り出し、震えながらバスを待つも来そうもない。時間を気にした私はこんな体調の中、二十分ほど歩いて駅に辿り着いた。

「何だ、私ってば案外元気かも?」電車に乗り込んで思う。
 喉は猛烈に痛かったけれど、これなら大丈夫そうだ。いつもは感じない眠気が襲うのは……寝ていないせいだと自分に言い聞かせる。

 会社に着いて昼食を摂ってから仕事が始まる。遅番とは別で今日は夕方には帰れる。

「ああ……喉が痛い!」
「朝霧さんったら、風邪?年明け早々大変~!」家の近所に住んでいる同僚の彼女だ。
「昨日から痛くて」
「新堂先生、治してくれないの?」当然やれるだろうとばかりに聞かれ、「いくら医者でも魔法使いじゃないんですから!」と強めに返した。
 診ただけで治せるとか、一発で治る薬があるなどと思っているのだろうか?

 知りたがりの彼女は相変わらず根掘り葉掘り聞いてくる。せっかちで心配性でちょっと変わった人だ。

「もう帰って、朝霧さん。ここまでやってくれたら大丈夫だから。ありがと、体調悪いのに」こう言ってくれたのはリーダーだ。
 お言葉に甘えて予定通り早退する事にした。猛烈に眠くてミスをしそうなので!

 電話すると、新堂さんはすでに近くにいたようで(!)、すぐに会社の前に黒ベンツが現れた。

「新堂さんったら、本当に魔法使いだったりして」先ほど自分が口にしたセリフを思い返して苦笑する。
「何だって?」もちろん彼は知る由もない。「ううん、こっちの話!」
「それで体調は大丈夫か?」
「うん。相変わらず喉が激痛。のど飴舐めすぎて気持ち悪い!それに何だか眠くて」
「食事は?」
「小さいお弁当買って、全部食べれた」

 彼は無言で頷いた。無表情だ。何を考えているのか分からない。

「ねえ新堂さん……」私は不安になった。「何だ」
「私の風邪、移してたりしてないよね?」口数の少ない彼に、体調が悪いのではと勘ぐってしまう。
「俺は元気だが。どうして?」彼が私の方をチラリと見てくる。
「何だか、いつもと様子が違うように見えたから」

 こんな言葉はスルーされ、新堂さんが車窓から空を見上げている。
「……なあ。おまえが家を出た時、雨降って来たろ」
 唐突に話題を変えられて少々戸惑った。「え?あ、ああ……そうそう、降って来た」
「バスで行ったんだろ?」
「それがさぁ、こういう時にバスが来ないのよね。待ってたら昼ご飯食べる時間なくなっちゃう!」

「……つまり、歩いて行ったって事か」
「うん、そうだけど……あのねっ!案外元気だったの、全然疲れなかったし」
「そうか」
 怒られると思ったが、彼はそれ以上何も言わなかった。


 翌日は休みだったので、ゆっくり過ごして体を休めた。けれどやっぱり眠れず。こんなに眠いのにベッドに入ると眠れない。
 その日も一日中、喉の痛みは依然として変わらず。何てしつこいの!

 それでもその翌日には徐々に緩和されてきた。

「まだ腫れてるな。熱は?」
「六度八分。でも激痛ってほどじゃなくなったわ」
「今日の仕事はまた、どうしても行くのか?」
「最近人手不足で、遅番が二人体制になってるの。私が行かないと、後輩の彼女一人になっちゃう」
「誰かに代わってもらうとかできないのか」
「今日はリーダーが休みなのよ。今さら無理だわ」さすがに当日変更は厳しい。

 またも無表情の彼が私を見つめる。あと一押しか。

「熱はないでしょ?先日より全然楽だから」仕事もそんなに忙しくないし、と続ける。
「帰りは夜だろ?夜から冷えるって言うし……」
「厚手のコート持ってくから!」
「当然だ。行くなら送迎してやる」
「ありがと、新堂先生!」ようやく下りた出勤許可に大いに安堵した。

 この時は本当に元気だったのだ。日中の猛烈な眠気以外は。


 ところがこの日会社に行って一転する。

「鼻水が止まらないっ。……ちょっとゴメン!」鼻を押さえて何度も席を立つ。
「大丈夫?朝霧さん。風邪、酷くなった?」今日も近所の彼女が出勤している。
「ここへ来たら急に……でも大丈夫です」
「今日忙しくないし、ゆっくり仕事しな」

 作り笑いで頷きながら、今の体調について考える。どうもいつもと違う。風邪ではないようなサラサラの鼻水が、下を向いただけで垂れてくる始末!

「それじゃ、私帰るわ、お先!」元気良く近所の彼女が帰って行った。
「お疲れ様でした~……」鼻を啜りながら答える。「んもう。代わってあげようか?の一言でもほしいものだわ、薄情者!」
 大丈夫です、なんて言わなきゃ良かったと後悔した。

 こうして一人また一人と帰って行き、ついに後輩の彼女と二人になった。
 彼女はコミュニケーション力に少々問題ありの子で、あまり話さない。それでも私を気遣ったのか色々と先取って仕事してくれた。

「……何とか乗り切った」
 呆然としながら会社を出て、くしゃみを連発。「ああ疲れる!」
 顔を上げると、通りに見知った車が停まっていた。

「やっぱり悪化したんだろ」
「新堂さんっ!……来てくれてたの」この日ばかりは有り難さを感じた。
「五分前にね。さあ乗って。やっぱり冷えて来た」
「……ありがと」

 車の中はとても快適だった。しかし鼻水は止まらず。

「随分と鼻声になったな。今度は鼻に来たか」
「それがさぁ。何か変なのよね……っ」
 症状を話すと、彼も首を傾げる。とにかく帰ってから診察をという事になった。
「体の水分、全部こっちに来てるんじゃないかってくらい出るんだけど!」


 自宅へ着いて早速診てくれる。そして出された結論がこれだ。
「何かのアレルギー症状のようだ」
「会社行った途端よ?こんなの初めて!」
「今の体調と、その場所の何かが反応したんだろう」

 風邪の悪化ではなかったという事か。そんな訳で鼻炎の薬を貰って飲む。

「熱は昼と同じか。それ飲んだら、少し眠気が出るかもしれない」
「それは大助かり!」思わず口に出てしまった。「何だって?」
「だって最近、起きてる時は猛烈に眠いのに、ベッドに入ると眠れなくて」
「だったら好都合だな。今晩は眠れるよ」

「はい、寝ます!だって明日は朝から……」話している途中で彼が口を挟む。「仕事は休めよ」きつめの口調ながら私は反論。「無理よ。また例の彼女と二人なの」
「そのシフトは一体何なんだ?おまえはそいつのお守り役か何かか?」
「違うけど。たまたまよ。私だってこんな時に体調崩すとは思ってなかった!」
 ずっと順調だったのだから!

 ベッドに入りしばしウトウトするも、やはり寝つきが悪かった。朝方になって、猛烈に咳をする自分に驚いて目が覚めた。

「新堂さん?新堂さぁ~ん!」
 起きてみると彼の姿が見当たらない。書斎を覗くも、仕事用のカバンは置いたままだが車がなかった。
「出かけたのか……。声かけられても、聞こえてなかっただけかもね」

 いつから咳き込んでいたのか分からないが、胸の辺りが異様に重い感じがした。
 小刻みに咳を繰り返しながら朝食を摂り、鬼の居ぬ間にとばかりに出勤する。

「昨日よりマシだけど、まだ鼻水がっ」
 昨日は散々会社のティッシュを失敬したので、今日は抜かりなく持参して身構えていたが、本日のメインはどうやら鼻水ではなく咳のよう。
 目まぐるしく変化する症状について行けない!

「あら朝霧さん。まだ風邪治らないの?」ボスが直々に私の元にやって来て聞いてくる。
「ええ……まあ」
「あなた、何だか連日顔を見るけど。お休みしたら?」

 簡単に言うが、こっちだってできるならしている。社員の勤務状況も把握していないのか?悪気はないのだろうが、時々こういう空気を読まない発言をするから困る。
 適当にボスをあしらって仕事を続けた。

 それにしても眠い。ここのところずっと朦朧とした状況で仕事をしている。どこかでヘマをしていないか不安だ。
 そしてこんな予想は的中してしまう。

「先日朝霧さん、珍しくミス連発してたけど。聞いた?よっぽど具合悪かったのね」
「え!連発?初耳です!そうでしたか……ごめんなさい」
 午後に出勤した本日遅番のリーダーからこんな指摘をされて慌てる。
 そんな気はしていたが、連発とあってはさすがに落ち込む。聞いたところによると、どれも大事には至らず対処できたらしいが。

「それにしても凄い咳ね……。悪化してるじゃない。連絡くれたら代わってあげたのに!もういいから早く帰って。新堂先生に連絡してあげる。えっと番号は……」
「ああっ、大丈夫です、自分で連絡します!ありがとうございます」
 リーダーの彼女も新堂さんの事は知っている。だからって電話くらい自分でする!
 真面目そうなこの人までも、彼とお近づきになりたいと思っていたりするのか。
 
 新堂和矢の魅力恐るべし!と私が勝手に妄想を膨らませていると、ボスがやって来て話に加わる。
「そうなのよ、朝霧さんたら朝からずっと咳き込んでてね。心配してたの」
「朝霧さん!帰りな!死んじゃうよ?」これは今年部長になりたてで、気合十分の別グループの社員さんだ。ボスに頭が上がらない事もあり便乗してくる。
 それにしてもそこまで言う?何て大袈裟な!これしきで朝霧ユイが死ぬものか。

「最終日なのに、こんな中途半端の出勤でスミマセン」今日は月末の最終日。
「いいのいいの、体が一番!早く治してね」
「なになに!?誰が倒れたの!」

 こうしてどんどん大袈裟な展開となり、皆に廊下まで付き添われエレベーターに乗せられた。
「全く……一々大騒ぎが好きな人達!」
 ようやく解放されて一階エントランスに到着。すると、正面玄関に見覚えのあるシルエットが見えた。

「……新堂さん?ケホケホっ」
「来たか」
 わざわざ車から降りてここまで来てくれたようだ。彼を見てホッとしたのか、途端に咳が酷くなる。それを見た彼が、すぐに側に来て背中を擦ってくれた。
 その腕にしがみ付いて一頻り咳き込む。
「ごめん、新堂さん、私……無理して、ケホケホっ」

「無理に喋るな。もう帰れるんだろ?さあ行こう」
 彼に支えられて、近くのコインパーキングに収まる黒ベンツの元に向かう。

「このまま病院に行くぞ」
「はぁい。コホコホ……」
「……。いつからそんな咳をしている?」彼が車を走らせながら横目で私を見る。
「う~ん、どうだろう。朝方この咳で目が覚めて……」
「早朝に用事があって出かけた。声をかけた時は静かに眠っていたが……」

「全然気づかなかった。やっと眠れた頃ね、きっと。それ何時ごろ?」
「何だ、昨夜も眠れてなかったのか?」
「時々変な夢見てたから、寝てるとは思うんだけど」
「俺が出たのは五時過ぎくらいだ。その後から始まったって事か……しまったな」
「何が?ケホケホ……」

 彼はそれ以上何も話さなくなった。これはかなりご立腹とみえる。
 マズイ、非常にマズイ!


 そして病院でも私語は一言も発せず、淡々と検査が進められた。とても口を挟める雰囲気ではなく、私も神妙な面持ちで指示に従った。
 目的の検査を終えて受付で彼を待つ。

「帰ろう」現れた彼が言った。
「良かった。入院って言われるんじゃないかと……」
「あと少しでそうなったかもな」
 グサリと来ました、そのお言葉!

「また熱が上がってきた。その咳は風邪の症状ではない」
「え?熱上がってるのに風邪が悪化したんじゃないの?」
「軽度の喘息だな。つまりアレルギー疾患が悪化したんだ」
 彼はその後、鼻も喉も乾いている事、気管支や肺の呼吸音から、疑いの余地もないと説明してくれた。

「その咳を一度聞けば、誰でも分かるけどな。それよりも炎症の度合いが知りたかった」
 私には分からなかったが?これは絶対に嫌味だ。
「新堂さんがいない間に抜け出したみたいになっちゃって……本当にごめんなさい。今回ばかりは私も無茶したなって思ってる。反省してます」
 車内にて、咳の合間に弁明する。
「もう喋るな。せっかく気管に薬剤を噴入したんだから。鼻で静かに呼吸してろ」

「はい……」
 彼をチラリと見るも、ニコリとも笑ってくれない。


 家に着いて、寝室ではなく個室の方のベッドに寝かされる。

「横になると咳が出やすいから、少し起こしておく」
「うん。その方が楽だわ」
「すぐに薬が効くだろう。それまで辛抱しろ」
「ありがとう」

 何かあったら呼べ、と言い残して彼が出て行った。
 今回の薬は強めのものらしく睡眠不足解消を期待したのだが、やはり思うように眠れなかった。

 夜になって軽く食事を摂り、そのままベッドへ戻る。会話はなし。鼻水は落ち着いたが相変わらず咳が止まらない。
 様子を見に来てくれた彼に訴える。「新堂さん、咳が止まらなくて眠れないよ……」
「分かってる。夕方に飲ませた薬と咳止めの薬は併用できないんだ。あと……そうだな、二時間待て」
「そっか。そういう事なら分かった」

 こんなに咳き込んでいるのに何も対処してくれないから、お仕置きでもされているのかと思った。そんな訳はない、子供じゃあるまいし?
 苦しさのあまり自虐的になっている。今は何も考えないようにしよう。


 こうして念願の二時間が経過。咳止めのシロップがどんなに有り難かった事か……。
 ようやくようやく、私は眠りについたのだった。


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