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amuse:指輪
2.「敬虔な次男」
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ノットをダウンし、お父様の部屋を飛び出してからはや1か月。
思い出さないようにしてきましたが、結局ノットは無事だったのでしょうか。ろっ骨を折っていないと良いのですが。
やがて静まり返っていた食堂に拍手が響き渡りました。
「改めて、さらに改めてようこそ、我々の挨拶に礼を返してくれた花嫁候補の皆さん」
皆さん、と当主ギュスターヴは言いますが、10脚のイスに残っているのはたったの2人です。私、そしてお隣の線が細いご令嬢。耳を澄ませると、「帰ったらパパに怒られる」とすすり泣きが聞こえてきます。
「アイリス嬢、サリーナ嬢。お二方は、先ほどの条件を呑んでくれたという解釈で構わないかな?」
当主夫人のルイーズ、ご子息のリアン、そしてモアが口を塞いでいる中、当主ギュスターヴが声を高くします。
先ほどの条件というのは、「婚前に息子たちと体の相性を確かめろ」、「当主の命令はこの家で絶対」というものでしたか。
この状況に家人が誰一人として抗議しないのは、「当主の言は絶対」に従っているからなのか、それともこの状況を異常と思っていないのか。隣のアイリス嬢に同情しつつ思案していると、ガラスの破片が視界の端に飛び散りました。
「こんなやり方じゃいつまで経っても息子たちは独身のままよ、ハニー?」
ワイングラスを握り割ったのは、ルイーズ夫人の華奢な手指です。
「結婚してからやっぱり違った、じゃあどちらも得しないだろう? ダーリン」
「それが普通なのよ、ハニー。いつか『やっぱり違った』っていう時が訪れるの」
「ダーリンもそうなの?」、と返すギュスターヴの笑顔を見た瞬間、背筋に悪寒が走りました。
この夫婦、どちらも声を荒げることなく笑顔で言葉を交わしていますが、腹の中は大分煮詰まってきているようです。そしてリアンとモアは気にすることなく食事を続けています。
「寝室でただ話をするだけにしましょう? それが世間一般のお見合いよ」
「ほう、よそ様は吐き気がするほど健全だな」
とうとう無言で俯いた当主と夫人は、アイリス嬢が手から滑らせたスプーンが皿を鳴らすと同時に、テーブルへ足をかけました。
とっさにアイリス嬢を抱え、テーブルから距離を取った直後。食器の擦れる音を振り返ると、テーブルクロスにナイフとフォーク、そして食卓自体が宙に舞っていました。
もはや驚愕を通り越して、呆れと笑いが込み上げてきます。こんなに狂った家族があるのか、と。
「ねぇ、埃が立つから庭でやってくれない?」
食卓のすべてが宙へ浮く前に、メインの皿を膝へ避難させていたモア。彼の一言で、夫婦は窓ガラスと窓枠をぶち破り、豪雨のお庭へ出て行かれました。
「アイリス様、大丈夫ですか?」
ひとまず雨の当たらない場所へ移動しようと、腕の中のアイリス嬢を持ち上げたその時。「帰りたい」と、彼女は呟きながら気を失ってしまわれました。
まったく、これが「任務」でなければ全面同意したいところです。
アイリス嬢を抱えたまま出入り口へ向かうと。横で待ち構えていたリアンが、代わりにドアを開けてくださいました。明らかに含みを持った笑みを浮かべながら。
「お帰りは右手でございます、お嬢様。あぁ、もしまだお帰りにならないと仰るのであれば、当家のメイドにお手伝いをさせますが」
「……お手伝い、お願いします」
もしアイリス嬢を抱えていなければ、ノットを投げ飛ばした時の倍の力でリアンを床に沈めていたかもしれません。
ぐつぐつ滾る頭の熱を深い吐息に変換し、黒い笑みを携えたリアンの横を通り過ぎました。
2階のゲストルームへ案内してくれたのは、赤毛のメイドさん――マチルダです。歳は12、3ほどでしょうか。終始無表情で青白い顔色をしていますが、彼女は手際よくアイリス嬢の着替えを手伝ってくださいました。
「サリーナさまも、お着替えにならなければいけません。この後のご予定もあるのですから」
「この後?」
アイリス嬢を別のメイドさんへ託すと、マチルダはゲストルームへと案内してくれました。ですが、着替えだけでなく湯浴みまで手を借りることになるとは聞いていません。まして肌に油のようなものを擦り込むなんて。
「まさか、焼いて食べようっていうんじゃ」
「狂食の館」と呼ばれる所以を知ってしまった――と、自分の両肩を抱きしめたその時。
「これは香油です、サリーナさま」
ため息を吐くマチルダに「こーゆとは?」と尋ねると、さらにため息を吐かせてしまいました。
「香油」は化粧品のようなものと分かりましたが、大変な失言をしたようです。名家のご令嬢がこの程度の物を知らないのか、とマチルダの目が疑念を投げかけてきます。
だって仕方ないでしょう。アグネスの「花嫁修業対策授業」では、こんなアイテム登場しなかったのですから。
「あの、ちなみに。この油は何のために塗るのですか?」
「何のため? それは、ええと……」
マチルダはしばらく黙った後、「とにかく塗るよう言われた」、と早口に答えました。知らないならば知らないと言えば良いのに。ふと強がりな妹分のシスターを思い出し、笑みがこぼれます。
「あの、ところでマチルダ」
支度が済んだ直後を狙い、ずっと胸元に隠していた銀の指輪を差し出しました。マチルダは目を凝らして、指輪の紋章を見つめています。
「……なぜサリーナさまがこれをお持ちなのですか?」
皿の上のナイフとフォーク――マダーマム家の紋章が入った指輪ですから、家人の持ち物に違いないとは思いますが。
「当主さまがご子息たちの成人を祝い、18歳の誕生日にそれぞれプレゼントされたものです。デザインが同じなので、どなたのものかまでは分かりません」
ということは、リアン、まだお会いしていない次男さん、モア――3人のうち誰かがこの指輪の持ち主。1か月前のあの夜、犯行現場にいた容疑者に違いありません。
「これからサリーナさまには2番目のお方を尋ねていただきますから、その時に確認なさってはいかがでしょうか」
薄地の夜着に薄化粧、紐のような下着を装備して連れ出された先は、1階の玄関横にある居室でした。
「次男さんはどのようなお方なんですか?」
「味にうるさい賢者野ろ……コホン。ご家族の中でも一番敬虔なお方です」
聞かなければ良かった、と後悔するには遅すぎたようです。ですが最低限知っておくべき情報について、マチルダはきちんと教えてくれました。
次男さんは今年27歳。この家で唯一処刑屋としての職務についておらず、外部で別なお仕事をしていらっしゃること。兄弟の中でもまだ話が通じる方であること(これは特に重要です)。
「先ほどお仕事から帰られたようです。では、ご健闘をお祈りします」
「あっ、お部屋訪問のことは次男さんのお耳に入っているんですよね?」
踵を返したマチルダの顔には、火花を散らす雷雲が立ち込めていました。無表情でなくなったのは喜ばしいことですが、こんなに純度の高い殺意はいただけません。
「往生際が悪いです、サリーナさま。先ほどお目覚めになったアイリスさまも、1番目のお方のお部屋へ行かれたのですから。どうか大人しくドアを叩いてください」
マチルダは息継ぎをほとんどせずに言い切ると、早足で行ってしまいました。
いざ居室のドアと向かい合うと、様々な方面への不安が湧き上がりました。一番敬虔なお方とは聞きましたが、それはあくまで「狂食の館の中で」です。
どうせ悪魔か蛇が出るのであれば、いっそ潔く飛び込むべき――決心と共に拳を握った時でした。
「ロリッサ……?」
ドアが部屋の内側から開き、耳に馴染んだ声が降りかかりました。
こんなところにいるはずがない、と頭が否定しようとしますが――ドッペルゲンガー、双子、思いつく限りの可能性を考えても、やはり否定はできません。見慣れた修道服の彼は、私の名を呼ぶ彼は、神父のノットでした。
「私のファミリーネーム、話したことありませんでしたね。『マダーマム』といいます」
部屋に招き入れてはくれたものの。ノットは目の前のベッドに腰を下ろし、お祈りのように手を組んだまま床板を見つめています。
「今日でだいたい理解したと思いますが、こんな家ですから。実家の話は滅多に人にはしないようにしてきたんです」
「だからあんなに反対したの?」
やっと絞り出せた言葉に、ノットの深く穏やかな碧眼がこちらを向きました。
「それもありますが、それより! あなたは花嫁修業に申し込んでここへ来たそうですね。他にメイドの募集とかあったでしょうに。なぜよりによって花嫁……」
ノットには申し訳ありませんが、お説教を垂れながら頭を抱えるその姿にほっとしました。あぁいつものノットだ、と。
「だって使用人より、花嫁の方が入れる場所多いかもと思ったんです」
しかもちょうど良いタイミングで、身代わりを募集していたご令嬢がいたこと。私が代わりに行くと申し出たところ、たいそう喜んでくださったこと。屋敷へ潜入するための手順について話すと、ノットは深く長いため息で答えました。
「ですから今の私は、伯爵家のご令嬢サリーナ・ブライトです。ほら、安息日の礼拝にお祖母様と一緒によくいらっしゃる、あの」
「それは分かりましたが、本当にどうして……」
「どうしてはこっちのセリフです! どうしてあの時追いかけてた食人鬼がここの敷地に入っていったのですか?」
途端にノットは口を噤みました。どこか寂しげに、そして静かに首を捻ると、石油ランプの灯りに揺らめく金の前髪をくしゃりと握ります。
「それは分からない、です。家(うち)は裏の世界と関わりのある仕事をしている人もいますから、可能性が皆無とは言えませんが」
食卓にギロチンを飾ったり、夫婦喧嘩で屋敷を破壊したりする方たちでも、ノットにとっては大切な家族なのでしょう。それでも、私はこの目で見てしまったのです。
「この指輪、食人鬼らしき人が落としていったの。ノットには悪いけど、これは無視できない証拠品よ」
銀の指輪を暗い碧眼の前に差し出すと、ノットは静かに目蓋を伏せ、首にかけているチェーンを引っ張りました。
「確かにそれは、うちの兄弟だけが持つ指輪ですね。これとまったく同じもののようですから」
ノットの胸元から現れたのは、チェーンに通してある銀の指輪――当然、ノットを疑うつもりは最初からありませんでしたが。
「そう、やっぱりご兄弟を調べるしかなさそうね。協力してください、ノット。この屋敷から食人鬼を探し出しましょう」
ノットは差し出した手を握り返してくれたものの。「もちろん協力はしますが」、と歯切れの悪い様子です。
「ここにいたらあなたは、花嫁修業をやらされるのですよ? それはつまり――」
「婚前交渉を強いられるかもしれないんでしょう?」
特に間違ったことを言った覚えはありませんでしたが、ノットの顔色が赤や青に点滅をはじめました。握ったままの手まで小刻みに震えています。
「あなた、ちゃんと教義を覚えています? もし万が一間違いが起きたならば……」
『シスターは神の花嫁』――神に操を立てた身で純潔を失えば、シスターの資格が剥奪されます。ですが、そんなことは当然承知の上です。
「この私が、そう簡単に手籠めにされると思います?」
「さっきから婚前……とか、手籠め……とか、シスターに有るまじきことを言っていますからね。そんな言葉、教えた覚えはありませんが」
ノットに教えられた覚えもありません。なぜならこの手の言葉は、アグネスの授業で仕入れたのですから。
「ここに来る前、シスター・アグネスが特別に『花嫁修業対策授業』を開いてくださったのです! 予習復習が大事だって、いつもノットだって言っていますよね」
先ほどからため息が返事になっているノットは、やはり今回もため息で答えました。
「それで、シスター・アグネスからどのようなことを学んだのですか?」
意外にも穏やかな声色に、思わず「えっ」と間の抜けた声が出てしまいました。
「ええと……男女の体と心の違いとか、襲われた時の撃退法などをですね。『20を過ぎてここまで無知なのはお前くらいだ。過保護にされすぎ』、とアグネスが呆れていまし、て――?」
話している最中に体がふわりと浮き、急遽視界が反転しました。今の一瞬で何が起こったのか。いつの間にか真っさらな天井を仰いでいます。やがて視界一面に黄金の波が広がり、かすかな熱を宿した瞳と視線が重なりました。
「はい、襲われましたよ。こうされたらどうするんですか?」
耳の奥を震わせる低音は、少しも冗談めいていませんでした。両腕をベッドに押し付けている手にも、ためらいがありません。
本気だ――そう認識した後は簡単です。ノットが私を試そうとしているのならば、全力で答えるだけですから。
「骨の一本は許してくださいね」、と予めお断りを入れ、自由のきく脚を腹に引き寄せようとしたその時。耳元で「ロリッサ」、と囁く吐息の熱さに、全身の力が抜けていきました。
名前なんて、数えきれないほど呼ばれてきたはずです。それが突然「力を奪う魔法」を帯びたのは、どういった仕組みなのでしょうか。
「なぜ?」と顔を上げると、今度はノットの鼻先が頬に触れます。とっさに顔を背ければ、「自分で考えなさい。もう子どもじゃないのでしょう?」と笑う息が耳を掠めていきました。
確か先月、そんな会話をしたかもしれません。お小言をいうノットに反抗期のような態度をとったことを思い出していると、腕を押さえつけていたノットの手が手のひらまで滑り、指に絡みつきました。
やはり不思議なことに、拒む力が出ません。学問では完敗ですが、体術ではノットに負けたことなど一度もなかったはずですが。
「さぁ、どうやって撃退するのですか? シスター・ロリッサ。あぁ、今はサリーナ様でしたか」
「今撃退します、から」
ノットの手が頬に触れ、前髪が鼻先をくすぐる感触に思わず目を閉じた瞬間。
「もうイヤ! 最低最悪よ!」
廊下から響く悲鳴に、思わずノットと顔を見合わせました。
「いくらパパの言いつけだって、こんなところ無理! ここでおかしくなるより帰って怒られた方がマシだわ!」
叫びながら階段を駆け降りているのは、おそらくアイリス嬢でしょう。その後に続く宥め声は、ルイーズ夫人のものでしょうか。
廊下の会話に耳を澄ませていると、ノットが上から退いてくれました。ようやく落ち着いて呼吸できるようになったところで、平然としているノットと元通りの位置で向かい合います。
「アイリス様は確か、今夜は長男さんのところへ向かわれたはずですが」
「うわぁ、いきなりリアンですか……可哀そうに。トラウマにならないと良いのですが」
「えっ、あの方は何をされたのですか? 私明日は長男さんのところなんですけど!?」
ノットの胸倉を掴んで揺さぶると、「リアンはおそらく、あなたには指一本触れませんよ」と呆れ混じりに白状しました。
「ただ……はぁ。やはり今すぐあなたも帰りなさい」
ノットが心から案じてくれていることは分かりますが、この程度のことで帰るわけにはいきません。
たとえこの先、ノットの家族を告発することになったとしても。
思い出さないようにしてきましたが、結局ノットは無事だったのでしょうか。ろっ骨を折っていないと良いのですが。
やがて静まり返っていた食堂に拍手が響き渡りました。
「改めて、さらに改めてようこそ、我々の挨拶に礼を返してくれた花嫁候補の皆さん」
皆さん、と当主ギュスターヴは言いますが、10脚のイスに残っているのはたったの2人です。私、そしてお隣の線が細いご令嬢。耳を澄ませると、「帰ったらパパに怒られる」とすすり泣きが聞こえてきます。
「アイリス嬢、サリーナ嬢。お二方は、先ほどの条件を呑んでくれたという解釈で構わないかな?」
当主夫人のルイーズ、ご子息のリアン、そしてモアが口を塞いでいる中、当主ギュスターヴが声を高くします。
先ほどの条件というのは、「婚前に息子たちと体の相性を確かめろ」、「当主の命令はこの家で絶対」というものでしたか。
この状況に家人が誰一人として抗議しないのは、「当主の言は絶対」に従っているからなのか、それともこの状況を異常と思っていないのか。隣のアイリス嬢に同情しつつ思案していると、ガラスの破片が視界の端に飛び散りました。
「こんなやり方じゃいつまで経っても息子たちは独身のままよ、ハニー?」
ワイングラスを握り割ったのは、ルイーズ夫人の華奢な手指です。
「結婚してからやっぱり違った、じゃあどちらも得しないだろう? ダーリン」
「それが普通なのよ、ハニー。いつか『やっぱり違った』っていう時が訪れるの」
「ダーリンもそうなの?」、と返すギュスターヴの笑顔を見た瞬間、背筋に悪寒が走りました。
この夫婦、どちらも声を荒げることなく笑顔で言葉を交わしていますが、腹の中は大分煮詰まってきているようです。そしてリアンとモアは気にすることなく食事を続けています。
「寝室でただ話をするだけにしましょう? それが世間一般のお見合いよ」
「ほう、よそ様は吐き気がするほど健全だな」
とうとう無言で俯いた当主と夫人は、アイリス嬢が手から滑らせたスプーンが皿を鳴らすと同時に、テーブルへ足をかけました。
とっさにアイリス嬢を抱え、テーブルから距離を取った直後。食器の擦れる音を振り返ると、テーブルクロスにナイフとフォーク、そして食卓自体が宙に舞っていました。
もはや驚愕を通り越して、呆れと笑いが込み上げてきます。こんなに狂った家族があるのか、と。
「ねぇ、埃が立つから庭でやってくれない?」
食卓のすべてが宙へ浮く前に、メインの皿を膝へ避難させていたモア。彼の一言で、夫婦は窓ガラスと窓枠をぶち破り、豪雨のお庭へ出て行かれました。
「アイリス様、大丈夫ですか?」
ひとまず雨の当たらない場所へ移動しようと、腕の中のアイリス嬢を持ち上げたその時。「帰りたい」と、彼女は呟きながら気を失ってしまわれました。
まったく、これが「任務」でなければ全面同意したいところです。
アイリス嬢を抱えたまま出入り口へ向かうと。横で待ち構えていたリアンが、代わりにドアを開けてくださいました。明らかに含みを持った笑みを浮かべながら。
「お帰りは右手でございます、お嬢様。あぁ、もしまだお帰りにならないと仰るのであれば、当家のメイドにお手伝いをさせますが」
「……お手伝い、お願いします」
もしアイリス嬢を抱えていなければ、ノットを投げ飛ばした時の倍の力でリアンを床に沈めていたかもしれません。
ぐつぐつ滾る頭の熱を深い吐息に変換し、黒い笑みを携えたリアンの横を通り過ぎました。
2階のゲストルームへ案内してくれたのは、赤毛のメイドさん――マチルダです。歳は12、3ほどでしょうか。終始無表情で青白い顔色をしていますが、彼女は手際よくアイリス嬢の着替えを手伝ってくださいました。
「サリーナさまも、お着替えにならなければいけません。この後のご予定もあるのですから」
「この後?」
アイリス嬢を別のメイドさんへ託すと、マチルダはゲストルームへと案内してくれました。ですが、着替えだけでなく湯浴みまで手を借りることになるとは聞いていません。まして肌に油のようなものを擦り込むなんて。
「まさか、焼いて食べようっていうんじゃ」
「狂食の館」と呼ばれる所以を知ってしまった――と、自分の両肩を抱きしめたその時。
「これは香油です、サリーナさま」
ため息を吐くマチルダに「こーゆとは?」と尋ねると、さらにため息を吐かせてしまいました。
「香油」は化粧品のようなものと分かりましたが、大変な失言をしたようです。名家のご令嬢がこの程度の物を知らないのか、とマチルダの目が疑念を投げかけてきます。
だって仕方ないでしょう。アグネスの「花嫁修業対策授業」では、こんなアイテム登場しなかったのですから。
「あの、ちなみに。この油は何のために塗るのですか?」
「何のため? それは、ええと……」
マチルダはしばらく黙った後、「とにかく塗るよう言われた」、と早口に答えました。知らないならば知らないと言えば良いのに。ふと強がりな妹分のシスターを思い出し、笑みがこぼれます。
「あの、ところでマチルダ」
支度が済んだ直後を狙い、ずっと胸元に隠していた銀の指輪を差し出しました。マチルダは目を凝らして、指輪の紋章を見つめています。
「……なぜサリーナさまがこれをお持ちなのですか?」
皿の上のナイフとフォーク――マダーマム家の紋章が入った指輪ですから、家人の持ち物に違いないとは思いますが。
「当主さまがご子息たちの成人を祝い、18歳の誕生日にそれぞれプレゼントされたものです。デザインが同じなので、どなたのものかまでは分かりません」
ということは、リアン、まだお会いしていない次男さん、モア――3人のうち誰かがこの指輪の持ち主。1か月前のあの夜、犯行現場にいた容疑者に違いありません。
「これからサリーナさまには2番目のお方を尋ねていただきますから、その時に確認なさってはいかがでしょうか」
薄地の夜着に薄化粧、紐のような下着を装備して連れ出された先は、1階の玄関横にある居室でした。
「次男さんはどのようなお方なんですか?」
「味にうるさい賢者野ろ……コホン。ご家族の中でも一番敬虔なお方です」
聞かなければ良かった、と後悔するには遅すぎたようです。ですが最低限知っておくべき情報について、マチルダはきちんと教えてくれました。
次男さんは今年27歳。この家で唯一処刑屋としての職務についておらず、外部で別なお仕事をしていらっしゃること。兄弟の中でもまだ話が通じる方であること(これは特に重要です)。
「先ほどお仕事から帰られたようです。では、ご健闘をお祈りします」
「あっ、お部屋訪問のことは次男さんのお耳に入っているんですよね?」
踵を返したマチルダの顔には、火花を散らす雷雲が立ち込めていました。無表情でなくなったのは喜ばしいことですが、こんなに純度の高い殺意はいただけません。
「往生際が悪いです、サリーナさま。先ほどお目覚めになったアイリスさまも、1番目のお方のお部屋へ行かれたのですから。どうか大人しくドアを叩いてください」
マチルダは息継ぎをほとんどせずに言い切ると、早足で行ってしまいました。
いざ居室のドアと向かい合うと、様々な方面への不安が湧き上がりました。一番敬虔なお方とは聞きましたが、それはあくまで「狂食の館の中で」です。
どうせ悪魔か蛇が出るのであれば、いっそ潔く飛び込むべき――決心と共に拳を握った時でした。
「ロリッサ……?」
ドアが部屋の内側から開き、耳に馴染んだ声が降りかかりました。
こんなところにいるはずがない、と頭が否定しようとしますが――ドッペルゲンガー、双子、思いつく限りの可能性を考えても、やはり否定はできません。見慣れた修道服の彼は、私の名を呼ぶ彼は、神父のノットでした。
「私のファミリーネーム、話したことありませんでしたね。『マダーマム』といいます」
部屋に招き入れてはくれたものの。ノットは目の前のベッドに腰を下ろし、お祈りのように手を組んだまま床板を見つめています。
「今日でだいたい理解したと思いますが、こんな家ですから。実家の話は滅多に人にはしないようにしてきたんです」
「だからあんなに反対したの?」
やっと絞り出せた言葉に、ノットの深く穏やかな碧眼がこちらを向きました。
「それもありますが、それより! あなたは花嫁修業に申し込んでここへ来たそうですね。他にメイドの募集とかあったでしょうに。なぜよりによって花嫁……」
ノットには申し訳ありませんが、お説教を垂れながら頭を抱えるその姿にほっとしました。あぁいつものノットだ、と。
「だって使用人より、花嫁の方が入れる場所多いかもと思ったんです」
しかもちょうど良いタイミングで、身代わりを募集していたご令嬢がいたこと。私が代わりに行くと申し出たところ、たいそう喜んでくださったこと。屋敷へ潜入するための手順について話すと、ノットは深く長いため息で答えました。
「ですから今の私は、伯爵家のご令嬢サリーナ・ブライトです。ほら、安息日の礼拝にお祖母様と一緒によくいらっしゃる、あの」
「それは分かりましたが、本当にどうして……」
「どうしてはこっちのセリフです! どうしてあの時追いかけてた食人鬼がここの敷地に入っていったのですか?」
途端にノットは口を噤みました。どこか寂しげに、そして静かに首を捻ると、石油ランプの灯りに揺らめく金の前髪をくしゃりと握ります。
「それは分からない、です。家(うち)は裏の世界と関わりのある仕事をしている人もいますから、可能性が皆無とは言えませんが」
食卓にギロチンを飾ったり、夫婦喧嘩で屋敷を破壊したりする方たちでも、ノットにとっては大切な家族なのでしょう。それでも、私はこの目で見てしまったのです。
「この指輪、食人鬼らしき人が落としていったの。ノットには悪いけど、これは無視できない証拠品よ」
銀の指輪を暗い碧眼の前に差し出すと、ノットは静かに目蓋を伏せ、首にかけているチェーンを引っ張りました。
「確かにそれは、うちの兄弟だけが持つ指輪ですね。これとまったく同じもののようですから」
ノットの胸元から現れたのは、チェーンに通してある銀の指輪――当然、ノットを疑うつもりは最初からありませんでしたが。
「そう、やっぱりご兄弟を調べるしかなさそうね。協力してください、ノット。この屋敷から食人鬼を探し出しましょう」
ノットは差し出した手を握り返してくれたものの。「もちろん協力はしますが」、と歯切れの悪い様子です。
「ここにいたらあなたは、花嫁修業をやらされるのですよ? それはつまり――」
「婚前交渉を強いられるかもしれないんでしょう?」
特に間違ったことを言った覚えはありませんでしたが、ノットの顔色が赤や青に点滅をはじめました。握ったままの手まで小刻みに震えています。
「あなた、ちゃんと教義を覚えています? もし万が一間違いが起きたならば……」
『シスターは神の花嫁』――神に操を立てた身で純潔を失えば、シスターの資格が剥奪されます。ですが、そんなことは当然承知の上です。
「この私が、そう簡単に手籠めにされると思います?」
「さっきから婚前……とか、手籠め……とか、シスターに有るまじきことを言っていますからね。そんな言葉、教えた覚えはありませんが」
ノットに教えられた覚えもありません。なぜならこの手の言葉は、アグネスの授業で仕入れたのですから。
「ここに来る前、シスター・アグネスが特別に『花嫁修業対策授業』を開いてくださったのです! 予習復習が大事だって、いつもノットだって言っていますよね」
先ほどからため息が返事になっているノットは、やはり今回もため息で答えました。
「それで、シスター・アグネスからどのようなことを学んだのですか?」
意外にも穏やかな声色に、思わず「えっ」と間の抜けた声が出てしまいました。
「ええと……男女の体と心の違いとか、襲われた時の撃退法などをですね。『20を過ぎてここまで無知なのはお前くらいだ。過保護にされすぎ』、とアグネスが呆れていまし、て――?」
話している最中に体がふわりと浮き、急遽視界が反転しました。今の一瞬で何が起こったのか。いつの間にか真っさらな天井を仰いでいます。やがて視界一面に黄金の波が広がり、かすかな熱を宿した瞳と視線が重なりました。
「はい、襲われましたよ。こうされたらどうするんですか?」
耳の奥を震わせる低音は、少しも冗談めいていませんでした。両腕をベッドに押し付けている手にも、ためらいがありません。
本気だ――そう認識した後は簡単です。ノットが私を試そうとしているのならば、全力で答えるだけですから。
「骨の一本は許してくださいね」、と予めお断りを入れ、自由のきく脚を腹に引き寄せようとしたその時。耳元で「ロリッサ」、と囁く吐息の熱さに、全身の力が抜けていきました。
名前なんて、数えきれないほど呼ばれてきたはずです。それが突然「力を奪う魔法」を帯びたのは、どういった仕組みなのでしょうか。
「なぜ?」と顔を上げると、今度はノットの鼻先が頬に触れます。とっさに顔を背ければ、「自分で考えなさい。もう子どもじゃないのでしょう?」と笑う息が耳を掠めていきました。
確か先月、そんな会話をしたかもしれません。お小言をいうノットに反抗期のような態度をとったことを思い出していると、腕を押さえつけていたノットの手が手のひらまで滑り、指に絡みつきました。
やはり不思議なことに、拒む力が出ません。学問では完敗ですが、体術ではノットに負けたことなど一度もなかったはずですが。
「さぁ、どうやって撃退するのですか? シスター・ロリッサ。あぁ、今はサリーナ様でしたか」
「今撃退します、から」
ノットの手が頬に触れ、前髪が鼻先をくすぐる感触に思わず目を閉じた瞬間。
「もうイヤ! 最低最悪よ!」
廊下から響く悲鳴に、思わずノットと顔を見合わせました。
「いくらパパの言いつけだって、こんなところ無理! ここでおかしくなるより帰って怒られた方がマシだわ!」
叫びながら階段を駆け降りているのは、おそらくアイリス嬢でしょう。その後に続く宥め声は、ルイーズ夫人のものでしょうか。
廊下の会話に耳を澄ませていると、ノットが上から退いてくれました。ようやく落ち着いて呼吸できるようになったところで、平然としているノットと元通りの位置で向かい合います。
「アイリス様は確か、今夜は長男さんのところへ向かわれたはずですが」
「うわぁ、いきなりリアンですか……可哀そうに。トラウマにならないと良いのですが」
「えっ、あの方は何をされたのですか? 私明日は長男さんのところなんですけど!?」
ノットの胸倉を掴んで揺さぶると、「リアンはおそらく、あなたには指一本触れませんよ」と呆れ混じりに白状しました。
「ただ……はぁ。やはり今すぐあなたも帰りなさい」
ノットが心から案じてくれていることは分かりますが、この程度のことで帰るわけにはいきません。
たとえこの先、ノットの家族を告発することになったとしても。
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