花嫁シスター×美食家たち

見早

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dessert:美食

4.「新当主」

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 15年間過ごした部屋には、特別まとめるような荷物もありませんでした。
 最低限の日用品、たった一着の平服、それから緑の海の絵――それらを小さなトランクに詰め、廊下に出ると。腕を組み、壁に背を預けたアグネスが待ち構えていました。

「ちょっと付き合えよ」

 いつものぶっきらぼうな物言いが、少し沈んでいるようです。彼女が親指で指したドアは、ビショップの部屋だったところでした。

「親父が言ってたんだ。『もしロリッサがここを出ていく時、私がいなかったら』ってさ」

 そう言ってアグネスは身を屈め、額にキスを落としました。そして名残を惜しむように離れていくかと思った直後。
 鍛えられた、豊満な腕の中に閉じ込められました。

「代わりに、門出の祝福を送ってくれって。あの時は何言ってんだ自分でやれよって、返したんだけどな」

 この部屋に残る優しい匂いも、アグネス越しの言葉も、すべて置いていきたくありません。ですが持っていくにも、胸から溢れてしまって、もうどうしようもないのです。

「教義を破ってここを去る私に、それは優しすぎるのではないでしょうか」
「何言ってんだよ。シスターやめたって、ここはいつまでもお前の家だからな」

 アグネスの剛力が心地よい安心感をくれる中。鍛え抜かれた背筋に、そっと手を添えました。



 聖誕祭のご馳走――七面鳥の丸焼きに混じって並ぶ、カイコの繭スナック、フォアグラのソテー、毒草サラダ。最初は異様に映った食材も、もうすっかり見慣れたものです。
 それでも食べる気にはなれず、口に運ぶフリを続けるうちに四半刻が経ちました。

「やっぱり家族で囲む聖誕祭の食事は格別だねぇ、ダーリン? ノットは仕事で残念だけれど」
「でも今年は可愛い子が増えて良かったわぁ、ハニー」

 饒舌な当主ギュスターヴとルイーズ夫人以外、マダーマム家の兄弟方は無言で食事を進めています。
 相変わらずひとりの世界で赤ワインを楽しむリアンに、さっさと食事を終えて部屋へ戻ろうとしているモア。そして目の前のアールは――。

「この間のことについて、話があるんだけど」

 一度も食事に手をつけなかったアールは、ギュスターヴの声をかき消すように声を張りました。すると歓談の声どころか、食器の擦れる音すらなくなります。

「改めてサリーナが俺を選んでくれるなら、その……俺もサリーナがいいと思う」

 静寂の中、思わず「え?」と出そうになった口を両手で塞ぎました。
「旅の準備してくるから」、と一度マダーマム家へ戻ることは事前にうかがっていたのですが。こういう展開になるとは聞いていません。
 我に返り、顔を上げたところ。全員が時を止めている中、ルイーズだけは歓喜の声とともに震えていらっしゃいます。

「もう、最初からそう言えば良かったのに! 意気地のないところは誰に似たのかしら?」

 ルイーズとギュスターヴの「ダーリンだろ?」、「ハニーでしょ?」の応酬を打ち切るように、モアがフォークの先でグラスを打ち鳴らしました。

「それで、認めてくれるの? まぁ認めてくれなくても勝手にするけどさ」

 アールが言葉を切ると、金縛りの解けたリアンの視線がこちらに向きます。
「愚弟の言い分は分かりましたが。本当に、あなたはそれで構わないのですか?」

 驚きと心配の色が宿ったリアンに対し、今できる精いっぱいの笑みで答えました。

「ええ。だって、元々は私からお願いしたことですから」

 私の任務についてご存知の彼ですから、心配してくれているのでしょう。
 リアンはまだ少し不安そうでしたが、それでも微笑み返してくれました。

「よし、君たちの気持ちは分かった。ならばこの家はキミに任せようかな、アール」

 軽い口調で、さらりと。ギュスターヴがとんでもないことを発言したと、一拍遅れて気づきました。同時に「えっ」と声を上げたのは、ルイーズとリアン、そしてモアです。
「当主の決定はぁ?」、とふざけて耳に手を当てるギュスターヴの問いかけに、その場の誰も答えませんでしたが。給仕室へ繋がるドアの向こうから、『絶対です』と澄んだ声が聞こえきました。あれはマチルダに違いありません。

「と、冗談はさておき。私は前から、アールに当主を継がせたいと思っていたんだ」

 この家で絶対的な権限を持つ、当主の「言」。これは部外者の私が何を言っても、覆ることはないでしょう。
「なんで?」、とアールの代わりに尋ねたのはモアです。
 アールはまったくの予想外だったのか、テーブルの皿を見つめたまま口を結んでいます。

「兄弟それぞれの資質とバランスを考えた結果、かな。でも家族は知っての通り、アールには少し不安定なところがあってね」

 ギュスターヴが不安定、と称したのは「二つの人格」、エルのことでしょう。エルのことをアールがコントロールできていないことが不安要素だった、とギュスターヴはいいます。ですが、それが私のおかげで解決した、とも。

「家族の誰も、あの『冷静さに欠ける』人格を制御できなかったがね。素晴らしいことに、お嬢さん……もういいかな。ロリッサ、キミにはそれができるみたいだ」

 正体がバレていようと、もうこの際驚くことではありません。素性を知った上で「嘘つき」の私を嫁入りさせるような、狂った感覚には恐れ入りますが。
 ですがそれよりも、今は大事なことがあります。
 この先何が起きても、迷わずにアールを信じること。今の私にできるのはそれだけです。

「じゃあ今この瞬間から、俺が当主ってことでいいの?」
「ああ、別に儀式とかないからね。当主の一存で決められるし」

 ギュスターヴの言葉に、アールの口角が持ち上がるのを見逃しませんでした。
 いったい何を考えているのでしょう。

「そんなに不安なら、マダーマム家に代々伝わるこの杖あげようか? これ、格好つくから持っていただけだしね」

 ギュスターヴは投擲でもするかのように銀の杖を振りかぶると、離れた席のアールに狙いを定めて投げ飛ばしました。七面鳥を揺らすほどの勢いで食卓の上を通過する杖を、アールは片手で受け止めます。

「じゃあ、新当主最初の言ね」

 俯いたアールは立ち上がり、杖の先をリアンに向けました。

「次の当主はリアン。あぁ、今からね」
「は……?」

 唖然とするリアンに構わず、アールは私の方に向き直りました。「それじゃあ行こう」、とこちらに手を差し伸べています。
 すぐに反応できず、革手袋越しの手を見つめていると。イスを倒す勢いでリアンが立ち上がり、続いて誰かのため息が聞こえました。

「お待ちなさい! このマダーマム家を任されるということが、どれほどの責任を伴うことか――」

「当主の決定はぁ~?」と、アールは周りの声を遮りました。元当主が顔面に暗雲をくゆらせ、全員がしんとする中。

「絶対!」

 声を振り絞って叫んだところ、誰かの声が重なりました。明後日の方向を向いていますが、さっきの声はモアでしょう。
 拷問アンド監禁の記憶はさて置き。この屋敷に来た当初から、事情を知りながらも常に助けてくれたモア。その横顔をしっかり目に焼き付けていると、少し強引な手に肩を掴まれました。

「ほら、もう行くよ」
「それどうするの?」

 部屋を出る直前、アールが握っている杖を指したところ。「あぁ忘れてた」、と膝でへし折ってしまいました。まるで小枝を折るように、ためらいなく。

「あ、あ、あぁ、この愚弟が……! それはマダーマム家に代々伝わる当主の証とも言えるべき品物ですよ!?」

 リアンの絶叫に対し、アール(エル、でしょうか)は満足げに目を細めます。

「前から趣味悪いと思ってたんだよね、この杖」

 まったく、「私がエルを制御できる」などと誰が言ったのでしたか。冷や冷やしながらも手を引かれ、廊下へのドアをくぐり抜けた瞬間。
 食堂から、部屋を軋ませるほどの爆笑が聞こえてきました。

「ギュスターヴさんがあんな風に笑ってるの、初めて聞いたわ」

「うん、俺も」と、声を弾ませたエル(アールに戻ったのでしょうか)に、突然抱えられました。そのまま有無を言わさず、玄関の方へ走り出します。

「私、きっとアールより足速いわよ?」

 見上げた顔は、「本当かなぁ?」と微笑んでいました。

「今回だけは我慢してよ。船の時間に遅れちゃうからさ」

 察しの良いアールは気づいているのかもしれません。晩餐会の夜から1週間も眠り続けていたという私が、まだ本調子ではないということに。
 ここは素直に甘えておきましょう、と大人しく抱えられていると。

「待って!」

 玄関ホール中に響く声を振り返ったところ、ルイーズとモアが後を追ってきていました。モアは直前で停止しましたが、ルイーズは走ってきた勢いのまま飛びついてきます。

「あなたたちがどこへ行くのも自由だけれどね。ここに帰る家があるってこと、忘れないでちょうだい」

 アールごと抱きしめてくださったルイーズのお顔は、かつてお父様が愛した女神像さながらの慈愛に満ちていました。

「ちょっと、母さん力強すぎ!」

 先ほどから聞こえているミシミシ音は、アールの背骨が軋んでいる音だったようです。
 笑いながら「ごめんね」と離れていくルイーズの後ろから、モアは不機嫌そうな視線を送っていました。

「できるだけ早く帰って来てよね。アンタたちがいなかったら、この家にいる意味ないんだから」

「これ以上は船の時間に遅れるから」、とアールが歩き出したところで、お二人と最後の挨拶をします。
 ルイーズとはもう一度ハグを。モアはそっぽを向いていましたが、小さく手を振ってくれました。
 そして今度こそ出発の時、かと思ったのですが――「ロリッサ」、と玄関を出たところで声がかかりました。以前はこの声に名前を呼ばれるだけで、毛布にくるまれるように安心したものです。

「……ノット」

 アールの腕から飛び降り、ドアのすぐ横に立っていたノットと向かい合いました。
 薄闇のベールに包まれた碧眼は、こちらをまったく見てはくれません。そして自分も、かすかに芯を外してノットの姿を見つめていることに気づきました。

「今さら止めるのはなしだからな」

 アールの低音に対し、ノットは力無く首を左右に振ります。

「そんなつもりありません。ただ……」

 やっと、静かな瞳がこちらを捉えました。
 水底へ引きずり込まれてしまいそうな、深い瞳の奥――そこに何が隠されているのか。思案するうちに、ノットの固い目の縁が緩みました。

「いえ、行ってらっしゃい」

 微笑みを浮かべたノットは、最後に手を振ってくれました。私に、そしてアールにも。ですが「行ってきます」と返すことなどできません。
 再びアールに抱えられ、ノットに背を向けたその時。

「約束、破るなよ」

 アールのそれはノットに向けた言葉でした。
 ちらっと振り返ったところ、ノットは不意を突かれたように固まっています。やがて「帰りをお待ちしています」、と呟く声が聞こえました。
 約束とは何でしょうか――首を傾げましたが。アールは「ヒミツ」と溢し、濃い色のまつ毛を伏せただけでした。
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