ヒトカミ粧

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第三章 二口痛シ痒シ

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 祠に向けて独り言を垂れる酔っ払い――子葉がくしゃくしゃの原稿用紙を祠に叩きつけた後。平石へ寝そべった子葉がいびきをかき始めると、黒く薄っぺらい手が放られた原稿用紙を祠の中へ引きこんだ。

『これは、彼の人間が記したものか……』

 子葉の自暴自棄と、異形の原稿拾いが繰り返されたある日。異形は青年の姿に化け、原稿用紙片手に子葉を待っていた。
 今更気づいたが、伍のあの姿は間違いない。滋子に似ているのだ。異形の神は人の皮を被る際、祠に足繁く通う滋子の姿を参考にしたのだ。

『我――否、僕。こんにちは、おはようございます。堅苦しいか? はよっす……軽過ぎるか』

 やがて人の振る舞いを学んだ異形が子葉と打ち解け、弟子の座に収まる。
 目の前の光景が色褪せる中、あることを確信した。
異形は子葉と暮らしていきたいのだが、食人衝動を必死に堪えている。これはやはり子葉の物語『二口』と同じだ。それにしても、子葉は伍の正体を知らないはずなのに、異形の神について何故ここまで正確に書けたのだろうか。

『……な……つな……刹那!』

 八咫の叫びに、意識が無理やり引き戻された。腕を失った刹那は、赤く染まった原稿用紙の海に沈んだままだ。八咫と一緒になって呼び続けるが、返事はない。
 異形の神はどうしたのか、と振り返ると、進行形で俺の体を口に運んでいるところだった。強靭な歯列が、奈落のような口腔が、容赦なく近づいてくる。

『咲、アイツに起きるよう願え! 俺じゃあダメだ。人《おまえ》が願うことに意味があるんだからな!』

 八咫が何を言っているのか分からない。が、このまま喰われるわけにはいかない――!

「刹那さん『起きてください』!」

 何度も、何度も、畳に伏した赤塗れの女を呼び続ける。すると――しんと静まり返った刹那の体に、赤黒い灰が舞い降りた。灰は刹那を埋め尽くすまで注ぎ、欠けた腕に赤い骨を生やす。さらに皮が溶け、肉が分解し、刹那は骨だけになった。

『ア……ァア……ア……』

 紅い骸が呻く。煤に染まった花嫁衣装――黒無垢を纏い、赤黒い鎖を手に、骨の四肢が立ち上がる。骨は女一人分の大きさから、みるみる巨大化していった。
 異形と対峙した時よりも膝が震えている。あれは最早「人の理から外れた存在」であると、本能が警告している。

『其方は――』

 異形が俺を運ぶ手を止めた、その時。紅い骸の指先が、異形の薄っぺらい手をまとめて引き千切った。その拍子に俺の拘束が解かれると、骸の手に巻き付いていた鎖が勝手に動き出す。鎖と骨は阿吽の呼吸で連携し、異形の動きを呆気なく封じてしまった。鎖で吊るされた異形の体を、巨大な指先が弄ぶように潰していく。

「刹那、さん……?」

 このままだと何かが不味い。とっさに、異形の体を挽き潰そうとしている骨へ近づいた。

「もうやめてください!」

 黒い粘液に塗れた親指に、全力でしがみつく。そのまま振り回されるかと身構えたが、親指の動きが微かに鈍った。

「伍さんは、人を知りたかっただけなんです! だからこれ以上は……!」

 ドクン、と指骨が脈打った。黒無垢が溶け、骨が溶け、やがて元の刹那が後に残る。放心しているようだったが、腕は元通り生えていた。

「良かった、刹那さん――」
「…………チッ」

 刹那は踵を返すと、原稿用紙の剥がれかけた襖に手をかける。
どこへ行く気か問いかけると、返事の代わりに化粧箱を投げつけられた。すると懐から、『頭を冷やすんだろうよ』、と八咫の声がする。
 八咫は先ほどのアレについて、何か知っているのだろうか。しかし、今そのことは後回しだ。

「伍さん、大丈夫ですか?」

 すっかり伍の姿に戻った異形は、膝を抱えて俯いていた。

「僕が怖くないの? 一応君のこと、本気で喰おうとしたんすけど」

 刹那にあれだけ滅茶苦茶にされて無事とは、神の再生能力は凄い。

「神様に喰われかけるのなんて、もう慣れました」

 引き結ばれていた伍の口元がふっと緩んだ。それでも伍は、「儀を受ける気はない」とこぼす。

「子葉さんと一緒にいたいなら、神という在り方にこだわらなくても良いのでは?」

 喰人衝動だって、人になれば消えるのではないか。伍は否定しないものの、頷きもしない。

「子葉は、人となった僕に興味はないでしょうね。僕の文才に価値を見出したんすから」

 確かに子葉は、伍を見どころのある若者だと言っていたが――。

「ならば直接、確かめたらどうだ?」

 突然開いた襖の先には、ポカンとした子葉が立ち尽くしていた。その後ろには、そっぽを向いた刹那が隠れている。
部屋の四方には破れた原稿用紙が散乱し、伍の着物には黒い血が飛び散ったままだ。

「伍君、その黒い液は……」

 何とか言い訳を考えているうちに、子葉はくくっと声を漏らした。後に続く高笑いに、思わず伍と視線を合わせる。

「結構、結構。新しい話のネタかね? それはインキをひっくり返したのだろう?」

 子の悪戯を笑って許す親のように、子葉は「些細なこと」、とでもいう様子だ。ほっと胸を撫でおろすと、俯いていた伍が一歩前へ進み出た。

「師匠、もし僕が書けなくなっても、貴方は僕の師匠でいてくれますか?」
「そうだなぁ。君から、その類稀なる才能が消えることは実に惜しい」

 伍の顔色が落胆に染まる直前。子葉の目に暖かい光が宿った。

「だが君と吾輩が友であり、同志であることには変わりない。何を心配しているのかね?」
「師匠……いや、子葉さん、ありがとうございます」

 伍――異形の神は、今度は自ら神粧の儀を依頼してくれた。刹那に茶を入れてやってくれないか、と子葉を退室させ、いよいよ異形に向き直る。筆をとった瞬間、脳裏に雪見と遣い狐たちの顔が思い浮かんだ。
 俺はこの神を人にしても良いのだろうか――?

『どうかしたのか?』

 しかし、これは償うために与えられた仕事だ。以前刹那が言った通り、俺に選択肢はない。

「いえ……お顔を失礼いたします」

『深緑』の色具を小皿に溶き、伍の笑顔を思い浮かべる。そのまま筆を滑らせると、艶のない黒い表皮が人の肌へと変わっていった。鋭い歯列も、巨大な口も、小さく整えられたものへ。

「ところで刹那っていうあの神、アレは何っすか?」

 半分伍になった異形の問いかけに、ふと筆を止めた。

「何って、私の用心棒です。色師さんの命令で渋々ですが」

『名無しの神』で色師に仕えているようだ、とまで話すと、伍は黙り込んでしまった。言葉の代わりに、薄っぺらい手が数本伸びてくる。さらに「鏡を手に伏せて」と囁かれた。
 八咫にひと言だけ断りを入れ、鏡面を手のひらで塞ぐ。「これで良いですか?」と口にした直後、頭を這っていた薄っぺらい手に体を引き寄せられた。

『我はアレが何かを理解している』

 耳を覆う生暖かい感触に、全身が震えた直後。半分残った異形の口が近づいてきた。

「いだっ!?」

 すぐさま痛みの走った首筋に手を当てたが、血は出ていない。

「これが僕の神としての、最初で最後の『祝い』っす。今回の礼に持って行ってください」
「礼って、今のめちゃ痛いのが礼なんですか?」

 そもそも、神粧の儀は仕事だ。異形が納得してくれたとはいえ、六神からすれば俺たちは罰を与えにきた立場のはずだが。

「あの時君が止めてくれなければ、僕は消滅してましたから。気をつけて。アレは色師なんかより、よほど厄介なものっすよ」

 刹那が、厄介なもの――?
 化粧を進める間、その言葉が頭に取り憑いて離れなかった。刹那は異形を知らなかったが、異形は刹那を知っている。これはどういうことなのだろう。
 結局儀が終わるまで、伍はそれ以上教えてくれなかった。

『テメェら、何コソコソ話してたんだ?』

 しつこい八咫を誤魔化し、最後の仕上げに八咫を伍へ渡した。鏡が伍を映した瞬間、畳の間が眩い光に包まれる。その最中も、頭の中は伍の忠告に支配されていた。

 子葉にとってはいつもの朝。そして異形の神――伍にとっては、人として迎える最初の朝。玄関まで見送ってくれた師弟に別れを告げ、薄もやのかかる通りに踏み出した。

「刹那さん、体は大丈夫ですか?」
「……嗚呼」

 あまり平気そうに見えないが、刹那はふらつくこともなく、真っ直ぐ先を歩いている。
 やがて、昨日伍と出会った書店の前を通りがかった。こんな早朝から開いている上に、見覚えのある自転車が停まっている。

「あらっ、お姉様! それに同志の咲さん、ご機嫌よう」

 登校前に、書店で立ち読みをすることが日課になっているのだと、滋子は興奮気味に話した。

「今朝あの祠の前を通ってきたのですが、いつも腰掛けている平石が真っ二つに割れていたのです! 昨晩の雷様にうたれたのかしら?」

 伍と似た滋子の顔――いや、伍が滋子を真似たのだったか。滋子を見ると、伍を思い出す。

「それと関係あるのか、昨晩不思議な夢を見たの。あの祠から色々な生き物が出てきて、みぃんなお天道様に昇っていったのよ」

 石や夢が、異形が人になったことと関係しているかは分からない。ただ伍の居場所は、あの小さな祠ではなく子葉の家だ。これからもずっとそうあり続けることを、今は願うしかない。
 滋子に別れを告げ、再び朝焼けの道を歩き出した。

『なぁ咲よぉ。昨日異形と何話してやがったんだ?』

 しつこい八咫をどう言いくるめようか思案していると、先導していた刹那が足を止めた。

「刹那さん? どうかし――」
「すまなかった」

 あの刹那が俺に。

「昨晩のことだ。損傷を負い、我を失いかけていた。貴様が止めなければ、私はこの姿に戻れなかっただろう」

 頭を下げている。
 震える唇を何度も開閉させていると、目前の女の肉が溶け出した。
 肉が、溶け出した――?

「な、なっ、何してるんですか!」

 刹那の左半身が、瞬く間に紅い骸になった。骨だけの腕を握り、すぐさま道の端に引っ張る。

「誰かに見られたらどうするんですか?」

 こちらは怒っているつもりだというのに、肉の残った刹那の半分は、心なしか嬉しそうに目を細めている。そういえば、前回のような恐怖を今は感じない。改めて骸の腕に触れてみると、刹那の片目が大きく見開いた。

「ウジウジ言うかと思えば、案外肝が据わったやつだ」
「ウジ虫って、そういう意味だったんですね」

 人間以下という意味ではなかったのか。そうこぼすと、刹那は半分だけの唇をふっと緩めた。

「ところで、この姿って……」
「呪いだ」

 刹那はためらうことなく言い放った。さらに、俺の懐で黙り込んでいる八咫を指す。

「コイツには、隠された姿を暴く力がある。お前も一度、己を映して見たことがあっただろう。その時私の姿も映ったはずだ」

 そういえば。八咫を盗んだ後、鏡の中に素の「俺」を見た。その時一緒に映ったアレは――。

「紅い骸骨……」

 ふだん見る刹那の姿は、色師の神力で本来の姿を取り戻しているだけだという。仮の姿を維持するため、色師に仕えているのだと、刹那はため息混じりに語った。

「呪いのせいか、今の私は己が神としての名も、役も、力もすべて失っている。そしてこの骸の姿が、呪いを受けた今の私の本性だ」

 憂い混じりのまつ毛が揺れた瞬間、全身が震えた。

「どうした。そんなに可笑しいか?」
「いえ、違います。ただ……」

 出会った瞬間、錦鯉のように美しい女だと思った。その刹那が、呪いのせいとはいえ本性を隠して生きている。

「いえ……その、呪いを解く方法はあるんですか? もしかして、呪いと神粧の儀には関係が?」
「神粧の儀が完了した瞬間、溢れる光があるだろう。あれは人になった神から漏れた神力だ。六神の神力を八咫に集めれば、呪いを解く手掛かりになるかもしれないと色師は言った」

 本当かどうか怪しいが、今はこれに縋るしかない。淡々と語る刹那に、鼓動が速くなっていく。胸を押さえていると、刹那は「行くぞ」、と早歩きになった。元の完全な人の姿になって。

「待ってくださ――」
「小僧!」

 半歩も踏み出さない内に、気がつけば瓦屋根の上にいた。しかも刹那の脇に抱えられている。

「口を閉じていろ!」
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