ヒトカミ粧

見早

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第八章 去リシ神

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『……く……咲!』

 八咫の呼び声に目を開くと、座敷は元の色彩を取り戻していた。
 まるで夢でも見ていたようだが、手の中には『唐紅』の色具が確かにある。そっと化粧箱へ収納し、胸元に手を当てた。懐には八咫と、渡せなかった櫛の感触がある。

「行きましょう、八咫さん。人の世へ通してださい」

 そうして隅の桶に顔を突っ込もうとした、その時。

『待って……行くの?』

 襖に描かれた白黒熊――白の、少し苛立った声が響いた。

『反転した神は理性を吹っ飛ばしてるんだよ? キミのことだって、分からなくなってるかも』
「それでも、行かないと」

 もう迷いはない。桶に向き直り、指先を水に浸けたその時。

『手をお貸ししましょうか?』

 黒の言葉に、思わず襖を振り返る。

『これは任務とはまったく関係のない、私たちの意志です』
「そう言って、また刹那さんに呪いでもかける気じゃないですよね?」

 黒白が封印されている襖の前まで戻ると、黒は笑い声を上げた。

『失礼。これは私たち、というよりも白の意志ですのでご安心を』
『……余計なことを』

「大嫌い」の言葉は、いまだ耳に残っている。それでも、もし仲直りができたら――黒白を封印した日以来、ずっとそう願っていた。

『まぁ、手伝ってやってもいいけど。君、そのまま行ったら殺されるかもしれないし』

 小声で囁く白に、固まっていた頬が緩んだ。

「ありがとう……お願いします」

 黒から封印の解き方を教わり、襖に描いた白黒熊の一部を爪で引っかいた。『出てきてください』、と願った途端、人の姿をした黒と白が襖から飛び出てくる。

「さて、時間がないのでしょう? 行きますよ」

 出てきた黒にすぐさま抱えられ、座敷の縁側へ連れて行かれた。走る勢いのまま手すりを踏み切り、黒は星の無い夜空に浮かぶ。そしてすぐに、体は地面めがけて落下をはじめた。後から、黒の鎖を掴んだ白もついてきている。

「あの、いつ着地の体勢を取るんですか?」

 足ではなく、頭を下に落ちている。それも、相当な勢いをつけて。

「着地などいたしません」

 とっさに目を瞑り、身を縮めた。しかしいつまで経っても、地面にはぶつからない。恐る恐る目を開けると、三途橋の真ん中に立っていた。

「い……生きてる……?」

 五体満足であることを確かめていると、白がため息混じりに振り返った。

「移動しただけで死ぬわけないじゃん」

 この禍々しい空の色に、人の気配が消えた街――確かに人の世へ出たらしい。

「だって移動の仕方聞いてないし!」
「これがボクらの移動手段だから」
「先に言ってよ!」

 言い合いながら、巨大化している骸骨を見上げた。骸は寝そべり、指先から伸ばした無数の鎖で、辺りの人の気配を追っているようだ。あれは魂をかき集めているのだと八咫は言う。

「あれに囚われると、どうなってしまうんですか? 父が連れて行かれたかも……」
『アイツがその気になりゃ、魂は肉体から剥がされてあの世へ送られるだろうな。今はまだ多くの魂を集めようとして、捕らえた魂は自分の中に溜め込んでるみてぇだが』

 そんなことが無差別に行われて良いのか。八咫を問い詰めようとすると、白に肩を掴まれた。

「お前が惚れてるあれは邪神だよ、お咲。元々アレがあの神の御役目……でも今は暴走してるから、無差別に魂を送ろうとしてるみたい」

 そんな状態の刹那に、どうやって近づけばいいのか。それに神粧の儀を行うには、刹那の同意が必要だ。屈伏させるという手もあるが、それだけは使いたくない。

「白、アレはいけません」

 抑揚のなくなった黒の声に、ふと顔を上げる。

「あんなに狩り甲斐のある獲物、殺(や)らずにはいられない……!」

 黒は唇を噛みしめ、血と涎を垂らしていた。それで何とか理性を保っているように見える。

「待て。まだ早いから」

 白は一切動じることなく、黒の首輪に繋がる鎖を黒の口に噛ませた。

「コイツが気を引いてる間に、僕がお前を骸の核近くまで連れて行く。そしたらお前は、『話し合い』でも願ってみたら? あの状態じゃあ応じるか分からないけど」
「分かりました。やってみます」

 ついに白が鎖を離すと、黒は足を回転させる勢いで飛んでいった。
「じゃあ行くよ」、と白は俺を抱え、黒の後を追って飛び上がる。背中と膝の下に回る手に、ほんの少し力が込められた気がした。

「あれは……!」

 刹那の侵食が街の外に及んでいないのは、愛生と半夏が導く武装集団、そして烏梅の率いるカラスの群れが鎖の進出を抑えていたからだった。そこへ飛び込んでいく黒の目は、かつて刹那を取り込んでいた時と同じ目をしている。突撃の直前に引き抜かれた黒の刀は、骨の肩を丸ごと切り落とした。

「えっ、執神がどうしてここにいるんですの!?」

 愛生の悲鳴に目を細め、黒は再び巨大な骸へ向かっていく。

「愛生さん、彼は一応味方です! 一緒に刹那さんをこの場に引き留めてくれませんか?」

 こちらを仰ぐ愛生の目が真ん丸になっている。その後すぐ、泣き出しそうな笑顔が綻んだ。

「まぁ、咲……お任せくださいな!」

 地上には他にも、生存者を非難させている雪見の姿が見えた。元六神の面々が一丸となって、災禍を治めようとしている。
 骸からもう一方の肩を切り落としたところで、黒がこちらに向けて「白!」と声を上げた。骸の頭が、ゆっくりと地面に沈んでいく。
 それを合図に白が急降下し、腹の中の物が浮いたような感覚に襲われる。それでも何とか、倒れている刹那を見据えた。

「ちゃんと『お前』を見せてきなよ、咲」

 骸の口の中へ放り込まれる直前、白は笑っていた。初めて見る白の――お露の本当の笑顔に、目元がじんと熱くなる。骸の口が閉じ、白の姿が完全に見えなくなった。



 骨の隙間など関係なく、ここは真っ暗だ。終わりのない穴を落ちている気分になる。吐き気を催すような浮遊感に耐えていると突然、背中が固いものにぶつかった。「何だ?」、と体を起こしても、闇以外何もない。やがて自分が今立っている地面が、ぼんやりと赤く光りだした。 
赤に塗れた鎖だ。鎖は闇の奥へと続いている。

 鎖を辿るうちに見えてきたのは、帝都の劇場とよく似た入り口だった。戸の上には、「走馬灯劇場」と素朴な墨字で書かれた看板が飾ってある。戸を開けた瞬間、暗闇が吹き飛び、飾電灯の放つ光に目がくらんだ。やがて真っ白な空間に浮かびあがったのは、顔がぼやけた女の姿だった。刹那ではなさそうだが、女の髪形も着物も随分と古い。時代物の演劇で目にするようなものだった。もう一歩進むと、今度は赤い花の咲く庭園が現れる。
 一歩、また一歩と歩くうちに、段々と理解する。これはきっと、刹那の記憶に違いない――そう気づいた途端、目の前に透明な揺らぎが現れた。そこに向けて手を伸ばすと、足元の白い地面がふっと消え、畳の上に落とされる。先ほどまでの空間とは違い、やけに現実味を帯びた場所だ。十畳ほどの薄暗い間には、布団が一式敷いてあった。そこで眠っているのは……。

「刹那さん?」

 側に駆け寄ろうとしたその時、天井からかすかな物音がした。ふと見上げると、天井の板が外れている。そのわずかな隙間から、黒づくめの男が音もなく降り立った。
男の手には、何か尖った物が握られている。男の手に掴みかかろうとするも、触れることができずに通り抜けてしまった。すれ違った瞬間、頭と口を覆う布の隙間から男の目元が見える。

「え――」

 瞳の色は違うが、間違えようがない。その目を俺は、つい先刻見たばかりなのだから。

「色師さん……?」

 色師に似た男――だが、あれは俺の知る色師ではない。自分でもよく分からない印象を覚えつつ、男の指先に注意を払う。
行動しない男を見張っているうちに、少し頭が冷えてきた。これは、今現実に起こっていることではない。刹那の記憶の中にある断片なのだ。
 男は刃を振りかざそうとしては、白い喉の前で寸止めしている。

『……殺さぬのか?』

 突然開いた刹那の瞳に囚われ、男は動かなくなった。それでも刃は首筋に当てたままだ。

『ほれ、早く。それが貴殿の仕事であろう?』

 仕事――暗殺、ということか。きっとこの時の刹那は、高貴な身分にでもあったのだろう。
 その夜、男は静かに刹那の部屋を出ていった。瞬く間に夜が明け、障子越しに日が差し込む。
 女中が刹那を起こしに来ると、すぐに稽古やら習い事やらが始まった。楽器に、詩に、茶に……花嫁修業というものだろうか。四苦八苦する刹那を横目で見ながら、庭では何人かの奉公人が仕事をしている。池の世話をする者、生け垣を整える者、紅い花を剪定する者――。

「あれは……紅花?」

 庭の隅っこに、見覚えのある花が咲き乱れている。その世話をする奉公人は、先ほど見たばかりの顔だった。昨晩刹那を襲った暗殺者が、何食わぬ顔で庭仕事をしている。刹那の様子を覗く他の奉公人たちとは違い、男は目の前の仕事に集中しているようだった。
 やがて家人に呼び出された刹那は、自室を出ていった。後をつけていくと、豪胆のにじみ出た大男が座敷であぐらをかいていた。刹那が「父上」と呼んだその男は、「先方はえらくお前を気に入った」、と嬉しそうに話す。さらに結納まで上手くいきそうだ、と。父の前で、刹那は朗らかに笑っていた。しかし畳の間を出ると、廊下の途中でため息を漏らす。

『所詮私は道具か……』

 沈んだ横顔に、無骨な手が伸びる。刹那が声を出すより早く、手は刹那を隣室へ引き込んだ。

『何故、昨晩のことを誰にも言わない?』

 刹那が顔を上げる前に、男は刹那の耳元で低く囁いた。やはりあの男だ。奉公人として働いているが、正体は殺し屋――しかし昨晩、男は刹那を傷つけずに去っていった。

『ではなぜ、貴殿は私を殺さなかった?』

 クスっと笑う刹那に、男は黙ってしまった。置物のようになった男の肩に手を添え、刹那は『今夜も待っている』、と言い残して部屋を出ていく。

 その後見せられたものは、同じような夜の繰り返しだった。刃を持った男は、毎夜刹那の部屋に忍び込む。そして話をするだけで、夜明けと共に去っていく。目を逸らしたくても、どういうわけか二人の逢瀬が頭に浮かんでくる。この生き地獄が一刻も早く終わりますように――そう願った瞬間、新しい夜がやってきた。

『政の道具にされるくらいならば、殺された方がマシだ』

 刹那が男に向けて、初めて本心を曝した瞬間。男は刹那の手を取り、無言のまま瞼を閉じた。
 そうか。男は本来の仕事を遂げることができなくなるほど、刹那に惹かれているのだ。そうでなければ――今すぐあの手を引き離したい、と思うはずがない。

『貴殿、今までよく暗殺稼業などやってこれたな。標的が女だからとためらうなど』
『これまで、老若男女問わず殺してきた。だが其方は――』

 ぐっとためらった後、男は刹那の手を引き寄せた。

『一晩、待ってはくれないか? 私が其方に生きる意味を与えよう……必ずここへ戻る』

 契りの証として、男は刹那の黒髪に花を添えた。あれは男が世話をしていた、庭の紅花だ。

『嗚呼、分かった。いつまでも待とう』

 男が消えた後も、刹那はその一輪をそっと抱きしめていた。
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