コンビニ夜話

橘伊津姫

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◆第四夜・明け方、四分間のタブー◆

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 僕が以前働いていたコンビニでの話。
 そこのコンビニには、いくつか不思議な決まり事があった。
「夕方五時以降は店の前に水をまいてはいけない」だとか、「トイレの鏡の前に花を飾ってはいけない」「雨の日の傘立ては店の中、ドアのすぐ脇に置く」「フロアマットは常に乾いた物を使う事」だとかの、水や雨に関係している事が多かったように思う。
 他の店舗ではこんな話聞いた事がないから、僕が勤めていたコンビニが特別なんだろうな。
 中でも特に不思議だったのが、コレ。

『午前四時四十四分からの四分間は、店のドアを絶対に開けてはいけない』

 明け方の四時四十四分から四十八分までなんていう半端な時間、絶対に店のドアを開けちゃいけないと決められていたんだ。
 これって、おかしいだろ?
 川沿いにある、住宅街の中のコンビニとは言え、早朝の利用客がいない訳じゃない。少し離れてはいるけど、バイパスだって通ってる。配送の車だって来るだろうに。
 でも僕が受け持っていたのは休日の昼間だったから、明け方のタブーなんて関係なかった。
「へー。そんな変な決まり事があるんだ」
 その程度の認識で済んでいた話だったんだけど。

「安西さん、来週の日曜日の夜って、何か予定入ってるかなぁ?」
 バイト仲間の中條君から電話があったのは、火曜日の夕方だった。
 大学の講義が終わり、図書館で調べ物をしていると携帯が震えて着信を知らせる。
 慌てて図書館を出ると、携帯を耳に当てた。
「あ、もしもし、安西さん?」
「もしもし、中條さん? どうしたんですか? 珍しいですね、中條さんから電話なんて」
 彼とはそう親しい訳ではなかったけど、何回か顔を合わせた事があった。──でも、携帯の番号、教えたっけ?
「急に電話して、悪い。来週の日曜日、俺、夜番なんだけどさ。どうしても外せない用が出来ちゃって。店長に掛け合ったら、代わりに出てくれる人がいるなら、休んでもいいって言われてさ。他のメンバーにも連絡したんだけど、皆ダメなんだよ。で、安西さんと同じシフトの森本さんに頼んで番号教えてもらったんだ」
 勝手に携帯番号調べて悪かった、と電話の向こうで中條さんが謝る。
「ああ、いいですよ。気にしないで下さい」
 そう言いながら、僕は思い出していた。
 そっか、森本さんか。確か前に、映画のチケットの事で番号教えたんだっけ。
「それでさ、来週の日曜日の夜なんだけど、どうかな? 俺、昼間は時間空いてるんだよ。でも、八時以降は、どうしても都合つかなくて。だから、シフト交代してもらえると助かるんだけど──」
「ちょっと待って下さい。次の月曜日の講義、確認してみますから」
 携帯をアゴと肩で挟み、カバンの中からスケジュール帳を引っ張り出す。パラパラとページをめくり、次の週の授業の予定を調べてみた。
 午前中から抗議が入っているようなら、いくら僕でもシフトを交代するのは無理だ。
「ええっと、○○日ですよね。──ああ、午前中は休講になってますから、大丈夫ですね。代われますよ」
「お、マジで? 助かるよ。安西さんがダメだったら、どうしようかと思ってたんだ」
 僕の返事を聞いて、電話の向こうの中條さんの声が安堵で弾むのが分かった。
「じゃあ、僕が日曜日の夜十時から翌六時までで、中條さんが朝十時から夕方六時までって事で」
「店長の方には俺からも連絡するけど、安西さんからも言っといてもらえるかな?」
「だったら、帰りに店に寄って伝えときますよ」
 本当に助かったよ、恩に着る。そう言って中條さんからの電話は切れた。
 あの様子じゃ、相当焦ってたんだろうな。さて、それはそうとして、これからどうしよう? 今さら図書館で調べ物をするって気分でもないし。
 携帯の画面に目をやれば、もうすぐ六時になろうかという時刻だ。駅の近くのファミレスでコーヒーでも飲むか。その前に本屋に寄って、今日発売になているはずのコミックの新刊でも物色してみよう。
 カバンのヒモを肩にかけると、僕は大学の敷地を歩き出した。

 僕の住んでいる町は、中心を流れる川に分断されている。さして大きくはない川だが、隣町との境に差し掛かる頃には一級河川へと注ぎ込む。今でこそ護岸工事によってキレイに整えられてはいるけれど、二十年位前までは大人の背丈程の草が生い茂る土手が続いていたそうだ。
 川が流れているからという訳じゃないだろうが、町全体が湿っている感じがする。そんな土地だ。│水捌≪みずは≫けが、あまり良くない。雨が降ったりすると、道のあちこちに水溜りが出来て、なかなかなくならない。
 梅雨や秋の長雨の季節になると、まるで湿地で暮らしているような気になる。吸い込んだ大気に含まれた水分が、肺というフィルターを通して全身に運ばれる。
 ちょうど川の流れが澱んで水が濁るみたいに、この町の風も澱んで濁っている。僕が住んでいるのは、そんな町だ。
 コンビニのある場所は、│暗渠≪あんきょ≫になった川が地面にもぐり込むちょうど入口の部分にある。地下で緩やかにカーブを描き、少し離れた線路沿いに顔を出す。
 元々この辺りは一時的に水深が深くなっているうえに、左手に向かってカーブしている場所だった。そのせいなのか、上流から勢いをつけて流れてきた水がこのカーブでスピードを失い、澱む。
 昔は長雨のたびに増水して大変だったと、土地に住む年寄りは良く言っていた。

 いつもより早い時期に発生した季節外れの台風のせいで、二、三日前から天気がグズつき始め、町は常より更に濃い湿度の底に沈んでいるように思えた。
 中條さんと約束をしていた日曜日も、朝からどんよりとした厚い雲が垂れこめ、ジットリと不快な空気が漂っている。
 たまに時間が出来て、溜まっている汚れ物を片付けようとするとコレだ。仕方がない。こんなに湿度の高い日に部屋干しなんて、御免こうむりたい。
 僕は汚れた衣類をバッグに詰め込むと、自転車で実家に向かう。コインランドリーに行くよりも近いし、何より金がかからない。浴室乾燥を使わせてもらって、ついでにゆっくりしてこようか。
 実家までは自転車で三十分程度、日頃運動不足を自覚している僕にはいい運動かも知れない。
 大学進学を機に一人暮らしを始めた訳なんだけど、別に通学に便が悪かった訳じゃない。ちょうど同じ頃に四つ年上の兄貴が結婚し、実家で母親と一緒に暮らす事になったからだ。
 父親は高校二年の時に他界し、それからは母が一人で僕達兄弟の世話をしてくれていた。幸い父親が残してくれた生命保険があったし、高卒で既に社会に出ていた兄の勧めもあって、僕は大学進学を決めた。
 学生時代から付き合っていた彼女との結婚が決まった時、母は二人に新居を構える事を提案したんだけど、兄貴と彼女のたっての願いで同居する話でまとまった。

 んで、僕はと言うと。

 さすがに新婚夫婦と一つ屋根の下で生活するってのは……ねえ? 僕だって一応は年頃の男性なんだからさ。
 以上の理由から実家を出て、一人暮らしをしている。それでも一、二ヶ月に一度は顔を出して、夕飯をごちそうになったりする。
「うあ、ヤバ。降って来た」
 ペダルを踏み込む僕の顔に、雨粒が当たる。とうとう降り出したんだ。本降りになる前に、実家に着かなくちゃな。自転車をこぐ足に力を入れる。
 急いだ甲斐もあって、雨脚が強くなる前に実家のガレージに滑り込む事が出来た。
『はーい?』
 チャイムを押すと義姉の声が応える。
「あ、浩幸です」
『あら、浩幸君。ちょっと待ってね』
 数秒後にドアのカギが開き、義姉が顔を出した。
「雨、大丈夫だった? さ、早く入って」
 いつも思うんだけど、実家に帰る時に一番しっくりくる挨拶って何なんだろう?
 自分の家なんだから「ただいま」でいいのか。それとも兄貴夫婦の家でもあるんだから「お邪魔します」なのか。帰るたんびに迷う。で、結局「お邪魔します」とか言っちゃう訳なんだ。
「浩幸君の家なんだから、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
 そう言って義姉は笑うけど。やっぱり、自分が住んでいた頃とは空気が違う。少しは緊張もするし、遠慮もある。
「日曜日なのに、珍しいわね」
「今日は、バイトの時間が違うんですよ。知り合いに頼まれちゃって」
 事情を説明して洗濯させてもらえるか尋ねると、快くOKしてくれた。
 洗濯機に汚れ物を放り込み、洗剤を計っているとリビングから声をかけられた。
「コーヒー、飲むでしょ?」
「あ、はい、お願いします」
 スタートボタンを押せば完了。後は機械のお仕事だ。
「そう言えば、兄貴と母さんは?」
 さっきから姿が見えない。
「康浩さんは、修理に出してた携帯を引き取りに行ったわ。代替機は感覚が違うから使いにくいってブツブツ言ってたから、ようやく静かになりそうよ。お義母さんは買い物。お昼までに行けば、野菜が安いからって」
 ああ、あそこのスーパーか。日曜日は昼までに行けば、野菜の安売りをしてたっけ。
「もうそろそろ戻って来る頃だと思うけど。なあに、私と二人じゃ気まずい?」
「いや、別にそう言う訳じゃ。日曜の昼間だから、皆いるかな? と思ってたし」
 しどろもどろになりながら弁解するけど、本当のところは少し気まずい。
 兄貴と付き合っていた頃から知ってはいるが、「兄貴の恋人」と「兄貴の嫁さん」ではやっぱり違う。
 出されたコーヒーを飲みながら、他愛のない会話に適当に相槌を打ち、兄貴か母親のどちらかが早く帰ってきてくれる事を祈った。
 義姉は余程、暇を持て余していたんだろう。最近のドラマから映画の話まで途切れる事がない。
 そうこうしているうちに、洗濯終了を知らせるメロディが聞こえてきた。
「ちょっと行ってきます」
 少しホッとして脱衣所へ行き、洗濯物を入れたカゴを抱えた時、玄関でドアの開く音がした。
「ただいまー。あら、誰か来てるの?」
「お義母さん、お帰りなさい。少し前に浩幸君が」
「へえ、珍しいわね、日曜日に」
 そんな会話を耳にして、僕は思わず苦笑する。この家では、日曜の昼間に僕がいるのは珍しい事らしい。
 洗濯物を片付け、カゴを所定の位置へ戻してリビングへ。
「お邪魔してるよ、母さん」
 テーブルの上に買い物袋を置いて戦利品を広げていた母に声をかけた。
「どうしたのよ、急に」
「今日のシフト、夜番の知り合いと代わったんだよ。久し振りに時間も出来たし、溜まってた汚れ物を洗濯しようと思ったんだけどさぁ。そう言う時に限ってこの天気だろ? 僕の部屋じゃ干すスペースもないし、浴室乾燥使わせてもらおうと思って」
「あらぁ。じゃあ、使用料取らなきゃね」
「お義母さん、そんな事言うと、浩幸君本気にしちゃいますよ」
 冗談よ、あはははは。と軽快に笑う母親を見ながら、僕は内心「半分は本気だったな」と考えた。

 夜までゆっくり出来る事を知ると、じゃあ夕食は一緒に食べられるのね、沢山作らなきゃ、と母は嬉しそうだ。義姉さんと二人で台所に並び、ああでもない、こうでもないと話をしている。
 我が家では、世に言う「嫁・姑問題」は縁遠いモノなのかも知れない。
 まだまだ自分の健康に自信のある母は、以前から勤めているパートを続け、時間のある日は趣味のサークルにと忙しい。いい加減、パートを辞めて家でゆっくりしたらどうだと言ったら、笑顔で即却下された。
『一つの台所に二人の主婦は争いの元なのよ。今は私も元気なんだし、涼子さんも好きな事をすればいいの。先の事は分からないけど、今はこのままでうまく行ってるんだから』
 それが母の言い分で、僕には考えも及ばない様々な事を思ってるんだと知った。
 やがて兄貴も帰宅し、久々に家族勢揃いだ。
 出された菓子をつまみながら、兄貴と大学の話やらバイトの話やらで盛り上がる。
「そう言えば、あんたのバイトしてるコンビニって、あの川の傍なんだっけ?」
 濡れた手をタオルで拭いながら、母親が話に入って来る。
「うん? ああ、そうだよ。ちょうど川が潜る辺りにあるお店」
 新しく淹れたコーヒーに砂糖を投入しながら、僕は答えた。
「あの辺りって確か、変な噂があったんじゃなかったかしら?」
 あごの先に指を当てて首を傾げながら、ねえ涼子さん、聞いた事なぁい? などと義姉に声をかけていた。
「何だよ、変な噂って?」
 せんべいの塊を噛み砕き、コーヒーと一緒に飲み下す。
 台所での用事が済んだのか、義姉が二人分のコーヒーを持って加わった。
「噂って、あれですか? 雨の日の夜には、│川縁≪かわべり」に出るって話」
 母の前にカップを置くと、自分のカップを持って兄貴の隣に座る。
「ああ、何かそれ聞いた事があるな。高校ン時に有名になったよ。浩幸のバイト先って、そこらへんなのか」
「何の話だよ? 全然分かんないし」
 僕一人だけ取り残されてる気分だ。
 機嫌が悪くなりかけているのを察したのか、母がまあまあとなだめにかかる。
「もう三、四十年ぐらい前になるかしらね。あの辺りって、工事して│暗渠≪あんきょ≫になる前はカーブになってたでしょ? あそこだけ急に深くなってたし」
「だから工事の時、水深の差を利用して暗渠にしたんだろ?」
「そうなのよ。あの川はね、長雨、大雨の時期には良く氾濫したの。周辺ではかなりの被害が出てね。一気に増えた川の水が、カーブの部分に流れ込んでくるから、耐え切れなくなって決壊しちゃうのね」
 護岸工事以前のこの町が、たびたび水害に悩まされてきた事は、小学生の時の授業で教わった記憶がある。亡くなった人の数も半端じゃなかったって。
「だからあの辺りは遊水地として利用されてたんだよ。民家を建てないようにしてね。川の事故や増水で亡くなった方のために『川│施餓鬼≪せがき≫』もやってたのよ。でも整備が始まってからは、そんな事もしなくなっちゃったし」
 バイト先のコンビニも含めてあの辺りは、暗渠が完成した後で開発された土地なのか。元々が遊水地利用されていた場所だから、常に湿っているのように感じるのかも知れない。
「その頃からかしらね、妙な噂が聞かれるようになったのは」
 一旦言葉を切って、コーヒーを口に含む。
 いや、だから。その『妙な噂』ってのを知りたいんだけど。
「ええっと、確か──『雨の夜は川から死者が這い上がって来る』だっけ?」
「そうそう、聞いた事ある。雨に呼ばれて死んだ人達がやって来るから、出歩かない方がいいって」
 オカルトやホラーに関しては全く興味のなかった僕にとって、始めて耳にする話だ。と言うより、自分の家族がこの手の話を目を輝かせて語る人種だった事に驚きだ。
「おばあちゃんが川向こうに住んでいたけど、子供の頃、良く怒られたわ。雨の日に使った傘を玄関先に置いておいたら、『家の前に雨を呼ぶ物を置くと、ガモウジャがやって来るからやめなさい』って。でも今でも分からないの。『ガモウジャ』って何?」
 義姉が兄貴に尋ねるが、あいにく兄貴も知らないらしい。僕も知らない。で、三人揃って母親を見る。
 コーヒーカップを両手で包み、ゆっくりと中身を口に運んでいた母が肩をすくめる。
「あんた達ねぇ。オカルトネタもいいけど、自分達の住んでる土地の事なんだから、もう。『ガモウジャ』ってのは『川亡者』の意味よ。川の事故や水害で亡くなった人の事で、『カワモウジャ』が縮まって『ガモウジャ』になったの」
「じゃあ『雨を呼ぶ物を置くな』って言うのは、どういう意味なんですか?」
 義姉の質問に、母は窓の外で降り続ける雨をチラリと見た。
「ここに昔から住んでいる人なんかは言うわねぇ。濡れた傘や雨水の溜まったバケツなんかを置いておくと、その水が『ガモウジャ』を呼ぶと思われたの。ほら、霊とかって水気のある湿った場所に出るって言うじゃない。だから、出来るだけ水気のある物を家の周りに置かないようにしてるのよ」
 母親の話を聞いていて、僕はコンビニの事を思い出した。
『雨の日の傘立ては、店の外ではなく店内に置く事』
 以前から不思議には感じていたけど、土台にはそういう事があったのか。なら、他の奇妙なルールにも似たような│謂≪いわ≫れがあるのかも知れないな。
「浩幸は徹夜になるんだろ? 俺のベッド使っていいから、夜まで眠っておけよ」
 僕が使っていたカップを持ち上げ、兄貴が笑いながら軽く肩を叩いてくる。
「俺も経験あるけど、ちょっとでも眠っとかないと完徹はキツイぞ」
 まあ、確かにな。普段は日中のバイトしかしてないから、体力的にも精神的にもキツイかもしれない。
 せっかく兄貴がこう言ってくれているんだから、好意に甘えよう。
「うん、じゃあ、そうさせてもらうよ」
 リビングにいる面々に声をかけると、僕は二階へ上がって行った。

 階段を上がってすぐのドア。以前まで僕が使っていた部屋だけど、今は不用品が詰め込まれ、物置きとして利用されている。廊下を挟んだ向かいに母の部屋。そして廊下のドン詰まり。一番奥に兄貴夫婦の部屋がある。
 ドアを開けて立ち止まる。いくら兄貴の許可をもらったとは言え、そして、いくらベッドは個々の物とは言え、やっぱり人様夫婦の部屋で横になるのは気が引けるかな。
 大判のケットを一枚借りると、久し振りに自分の部屋へ入ってみた。家を出る時に置いて行った僕の荷物が、そのままになっている。思った程埃っぽく感じないのは、窓を開けて空気の入れ替えをしてくれているからだろうか。
 兄貴の部屋にあったソファが、壁際に置いてある。その傍には、僕が残して行った本棚が。目に付いた一冊を抜き出してソファに転がる。
 やっぱり落ち着くな。
 本のページをめくりながら、窓を叩く雨音を聞いているうちに、うとうとと眠りに引き込まれてしまった。

───
──


 真っ暗な空間に僕は立っている。──否、座っているのか? 良く分からない。何も見えない。どこまで広がっているのか知る事も出来ない、そんな闇の空間に僕はいる。
 方向感覚も正常に働かないのだろうか。自分が今、上を向いているのか下を向いているのか、それとも横たわっているのか。それすら定かではない。
 視力が効かないからだろうか。聴覚が敏感になっているようだ。無意識に周囲の音を拾おうと集中している。
 ──。
 僕の耳が、小さな音を捕えた。細い音が途切れる事なく続いている。
 何の音だ? すごく聞き慣れている気がする。それでいて、日常生活の中で意識に上がってくる事は薄い。そんな音だ。
 僕がその音に気付いたからだろうか。急に耳に届く音が大きくなった気がする。
 これは──この音は、川だ。
 闇は音を吸収するのだろうか。それとも反響させるのだろうか。
 流れる、流れる、川の音。水の音。……の音。
 何の音だって? 僕は自分の思考に疑問を投げかける。川の音以外に何が聞こえたって言うんだ?
 音の正体が知りたくて、全神経を耳に集中させる。
 間断なく流れる水の音。その音に紛れて、確かに聞こえる。
 湿った重たい物体を引きずるみたいな音。濡れた柔らかい物体を打ちつけるみたいな音。そして周囲に満ちる濃厚な気配。
 自分の鼻先も分からない暗闇の中から、何かが僕の事をじっと伺っている。僕が耳を澄まして辺りの様子を伺っているのと同じように。
 今にも闇のあちこちから無数の腕が伸びて来て、僕の体に掴みかかって来るんじゃないだろうか。
 ほら、あそこに。こっちにも。僕をジッと見つめる目が。いや、もしかしたら、闇より尚深い虚ろがポッカリと──。


──
───

「……くん……浩幸君。浩幸君、起きて、浩幸君」
 肩を揺り動かされて、僕はハッと目を覚ました。
「あ? ああ、義姉さん──」
「随分と良く眠ってたみたいだけど、疲れてるの? 大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
 目をこすりながら上体を起こす。眠ったはずなのに、頭の芯にジンとした痺れが居座っている気がする。
 何だかひどく嫌な夢を見ていたと思うんだけど……内容が抜け落ちている。そして気持ちの悪さだけが残っているのだ。
「それにしても驚いたわ。向こうの部屋にいないんだもの。一瞬どこに行ったのかと思っちゃったわよ」
 僕の手からケットを受け取り、義姉は穏やかに笑う。その顔を見ながら、僕はちょとだけ気分が落ち着くのを感じた。
「急に自分の部屋が懐かしくなっちゃって。すみません」
 やだ、どうして謝るの、浩幸君の家なのに。と笑う義姉に促されて部屋を出る。
 すでに洗濯物の片付けられた浴室でシャワーを使い、にぎやかに夕食のテーブルを囲んでいるうちに、夢の事はすっかり頭のどこかへ押しやられてしまった。
 時計が九時十五分を回った頃、じゃそろそろ、と僕は腰を上げた。
「まだ雨降ってるから、自転車も荷物も、うちに置いて行きなさい。明日は大学あるんでしょう?」
 夕食の片づけを終えた母が、カーテンの隙間から外の様子を伺いながら僕に声をかけてきた。
 まだ降ってるのか。こりゃ、本格的に台風到来か?
 明日の朝もう一度実家に寄り、休ませてもらってから大学へ向かう事にして、僕は夜バイトへ。
 雨は昼間より勢いを増している。確かにこの降りじゃ、自転車は置いて行くしかないな。自宅アパートから向かうよりも少々時間を食うけど、無理をしてビショ濡れになるよりもマシだ。

 アスファルトに溜まる雨水を跳ね上げながら店に着いたのは、それでも予定していた時間よりも幾分か早かった。
「おはようございます」
 たたんだ傘を振って雨粒を飛ばすと、店内に設えられた傘立てに突っ込んだ。
「おはようございます」
 雨の日は床が泥で汚れるために、通常よりも多めにモップをかける。ちょうどドアの前をモップがけしていた店員が、僕の声に顔をあげて挨拶を返してくれた。
 フロアマットで念入りに靴を拭い、事務所でタイムカードを押す。
 制服に袖を通していると、モップを抱えた店員が入って来た。
「今日は安西さんなんですね」
「うん、中條さんの替わりでね」
 ロッカーにモップをしまうと、コキコキと肩を鳴らす。
「やな雨ですねぇ」
「台風、来てるみたいだし。長引くかも」
 軽く世間話をしながら身支度を整え終わる。
「こんな夜は、お客さんも少ないだろうし。のんびりやるよ」
 僕の言葉を聞いた店員は、浮かべいた笑顔を引っ込めて表情を改めた。
「安西さんって、この店の変なルール知ってますよね?」
「あの『傘立ては店内に』とか、『夕方五時以降は店の前に水をまいてはいけない』とかってヤツ?」
「そう、それです。でも一番大事なのは『明け方四時四十四分からの四分間、店のドアを開けてはいけない』ですから、気を付けて下さいね」
 うちの店のコンビニルールで、最も訳が分からないのがコレだ。
「何なんでしょうね、このルール?」
 首をひねっている僕に、明日の朝が来れば嫌でも分かりますよ。と説明にならない説明をした店員が、最後にポツリと付け加えた。
「だから、絶対にドアを開けちゃダメですからね。忘れないで下さいよ」
 振り向いて見た相手の顔は、全く冗談を言っているようには思えなかった。
 夜十時を回ると、雨はさらに勢いを増した。わずかにドアを開けてみれば、近くを流れる川が普段とは違う騒々しい音を立てているのが分かる。
 濡れたフロアマットを取り換え、出来るだけ乾いた上体をキープする。傘立てが店内にあるために、どうしても床が水浸しになってしまう。レジの後ろにモップを持ち込み、人の途切れた隙を見計らって床を拭く。
 そう言えば、うちのコンビニに来るお客さんで、店内の傘立てを不思議に感じる人はいないようだ。
 皆、当たり前のように店の前で傘を振り、当然のように店の中の傘立てに差し込む。
 ふと僕の頭の中に、昼間家族と交わした会話が浮かんだ。
『家の前に雨を呼ぶ物を置くと、ガモウジャがやって来る』
 そんな迷信が、地域に根付いていると言う事なんだろうと思う。
「いやぁ、すごい雨だねぇ」
 傘の滴を振り切って店に入って来たお客さんが、苦々しげに呟く。
「本当にすごいですねぇ。このまま、本格的に台風が上陸しちゃうかも知れませんね」
 レジに並べられたのはビール数本と、つまみ。指定された銘柄のタバコが二つ。今夜は家に籠って雨をやり過ごすんだろう。ある意味、うらやましい。
 対人センサーの電子音が店内に響く。だが開いたドアから聞こえる雨音と増水した川の流れる音に、かき消されそうになる。
 今夜最後の納品が十一時二十分。この天気じゃ、もうお客さんも来ないかな。のんびりと検品、陳列が出来そうだ。
 しかし、本当にすごい降りだ。こりゃ土嚢を用意しといた方が、いいかも知れないなぁ。
 雑誌を並べ直しながら、窓の外の様子を伺ってみる。だけど風も出てきたようで、雨粒が窓ガラスに吹き付けられ、様子なんて分かりゃしない。ただ、相当に激しい雨が降っている、とだけ。

 定時刻に遅れる事、数分。コンビニのドアの正面につけたトラックから、業者さんが走り込んで来た。
 ほんの数秒の事なのに、風にあおられた業者さんのユニフォームはすっかり濡れてしまっていた。
 ドアを開き、僕も商品の搬入を手伝う。ようやく全ての商品を運び入れると、サインの記入された伝票を持って慌ただしくトラックに乗り込み、業者さんは去って行った。この雨の中、まだまだ納品に出向かなくちゃいけない場所があるんだろう。
 大変だなぁ。さっきはビールのお客さんをうらやましく思ったけど、業者さんに比べたら僕の方が楽だよな。
 とりあえず雨風はしのげる訳だし、このまま朝までお客さんは来そうにないし。
 そんな事を考えながら、スキャナーを片手に商品をチェックしていく。
 それにしても、凄い雨だ。こういうのを例えて「空が抜けたような」とか「バケツを引っ繰り返したような」なんて言うんだろうな。
 店内に流れる音楽と雨の音をBGMに、のんびりと作業を進める。お客さんは予想通りで、タクシーの運転手がトイレを借りに来たのと、トラックの運転手が夜食のカップラーメンとおにぎりを買いに来ただけ。静かなもんだ。
 午前三時半に時計の針が達しようかという頃には、全くお客さんは入らなくなってしまった。
 誰もいないうちに僕も夜食を摂っておこうと、レジに鍵をかけて事務所へ向かう。ロッカーの中には、バイト前に購入しておいた菓子パンとジュースが入っている。
 スチール机の上のビデオモニターの前に陣取り、パンをジュースで流し込む。視界にあるモニターには、誰もいない無人の店内が映っている。
 こうやって見ると、真夜中の無人のコンビニって、昼間目にしている店とは別の雰囲気を持っているんだなと思う。
 辺りは真っ暗で、場違いに明るい店内放送、建物の屋根を叩く強い雨音と、腹の底に響くような低い川の水音。こんなのは、僕の知っている世界とは違う。きっと時計の針が午前零時を回った瞬間、別の空間へジャンプしてしまったんじゃないか、そんな気さえしてしまう。

 僕の意識を刺激したのは何だったのだろう。対人センサーの来客を告げるチャイム音か? それとも強さを増した雨の音か?
 ハッとして目を覚ます。どうやら、知らないうちに眠り込んでしまったみたいだ。僕が気付かないうちにお客さんが来ていたら、大変だ。『買い物に行ったのに店員が出て来なかった』なんてクレームが来るかも知れない。
 僕はそこまで考え、冷や汗をかんきながらスチール机から上体を起こす。頭を大きく振ってダルさを払い落すと、小走りに店内へ戻った。
 店の中は相変わらずガランとしていて、誰もいない。ドア付近の床にも、来客を示す水に濡れた跡は残っていない。最後に来たトラックの運転手が帰った後、床をモップで拭いた。だから誰かが入ってくれば、床の上には水の跡か足跡が残るはずだ。
 それを確認した僕は、ちょっと安心して息を吐いた。けど、店長には報告した方がいいだろうな。万が一のために。
 でも、だとしたら、眠りから僕を引き戻したのは何だろう?
 店の壁にかけられた時計に目をやれば、時刻は午前四時四十分をわずかに過ぎたところ。
『一番大事なのは明け方四時四十四分からの四分間、店のドアを開けない事。絶対にドアを開けないで』
 同僚から聞いた言葉を思い出す。
『雨の夜には川から死者が這い上がって来る』
『川の事故や増水で亡くなった人のための供養をしなくなってから、妙な噂が立ち始めた』
 昼間、家族から聞いた会話の内容が頭の中を駆け巡る。
 背筋を冷たいモノが流れていく気がして、ブルッと全身に震えが走る。
「いや、そんなの……きっと何か他の原因があるんだよ。この時代に霊とか……ある訳ないし」
 自分自身に言い聞かせるように呟くが、その声が空間に虚しく響く。と同時に、この店内にいるのが自身一人だけなんだと言う事を、強く意識した。
 時計の針は僕の思考を嘲笑うかの如く、容赦なく進み続ける。
 きっと深酒をした、たちの悪い酔っ払いでもやって来るに違いない。だから、店のドアを開けないようにしろ、なんて妙なルールが出来たんだ。そうに違いない。
 どうにかして自分を納得させようと、もっともらしい理由を見つけるために頭をフル可動させる。
 吸い寄せられた視軸の先で、無情にも時計の針は四時四十四分を指してしまった。
 キュウゥィィィ──。
 時計を見上げていた僕の後ろで、機械が起動するかすかな音がした。驚いて振り向くと、入り口脇に置かれているコピー機に作動を知らせるランプが点っている。
 どうしてだ? 誰もいないのに、何でいきなりコピー機が動き出すんだ?
 もちろん、どこのコンビニにでも設置してある、一枚十円でコインを投入するコピー機だ。待機状態にあるとは言え、勝手に動くはずがない。
 笑いそうになる膝を動かしてコピー機の目に立つ。コインの投入機にはランプが点いていない。つまり、硬貨は入れられていないって事だ。
「誤作動──か?」
 何てタイミングだよ、驚かすなって。
 フーッと息を吐き出す。電源を落とそうとコピー機に手を触れた瞬間。

 ガ────ッ

「うわっ!!」
 いきなりコピー機が動き出した。独特の青緑色の光がガラスの原稿台と押さえの隙間から洩れ、セットされた用紙が送られる。
 何の変哲もない、いつもと同じ機械の動作。……それが、誰もスタートボタンを押していない事を除けば、の話である。
 用紙が一枚、排出トレーに吐き出された。その用紙に恐々と指先を伸ばす。まるで、真っ赤に灼けた鉄を触るように。得体の知れない、おぞましいモノに触れるように。
 コピー用紙は、一面、トナーインクで真っ黒に塗り潰されていた。所々に見える、白く丸い空間は何だろう?
 僕が用紙を確認した途端、再び機械が動き始める。光る、排出する、光る、排出する、光る、排出する、光る……止まらない。
 トレーに溜まっていく用紙は、どれも同じように黒で塗り潰されているみたいに思えた。だけど──。
「これって……風景か?」
 画質の悪い写真を、さらに白黒で粒子を粗くしてコピーしたように感じられる。
 良く良く見てみれば、写っているのは通りの風景だ。最初に一枚は真っ黒だったせいで気が付かなかった。丸い空白部分は、街灯の光だ。
 コピー機は、相変わらず用紙を消費し続けていて、止まる気配はない。為す術もなくそれを見つめていた僕は、わずかな変化を認めた。
「店に近付いて来ているのか──?」
 写っているモノが景色だと分かれば──しかも、住んでいる町の景色なら──変化を見つけるのは簡単だ。
 用紙に写し出された景色は、徐々に近付いて来ている。今、僕のいる、たった一人でいる、このコンビニに。
 近付いて来るモノが何なのか分からないけど、マトモなモノじゃないって事ぐらい想像がつく。
 降りしきる雨の音が、僕の耳に突き刺さる。足許から這い上がって来る寒気が、全身に毒のように回る。
 こんな──こんなモノが写った紙を手にしていて、大丈夫なんだろうか?
 そう思った瞬間、自分の手の中にあるコピー用紙が、恐ろしく忌まわしい存在に見えてきた。放り出すようにして手を離す。

 ガ────ッ ガガッ

 それを待っていたんだろうか。延々と紙を排出し続けていたコピー機が、ピタリとその動きを止めた。電源も落ちている。今の今まで勝手に動いていた事など、何かの間違いだったみたいに。
 店内の静けさと店外の雨音の対比が、耳に痛い。気付けばいつの間にか、点ネイ放送が消えている。
「何で──あり得ない……」
 有線放送のスイッチは事務所にある。僕がここにいる以上、誰もスイッチには触れる事はないのに。
 だが、その考えを頭を振って払い落とす。現に今まで、誰も触れていないコピー機が動いていたじゃないか。僕の目の前で。
 一体、いつまで続くんだ、こんな事?
 人間の習性なのだろうか。自然と視線が壁に掛けられた時計へと向かう。
「四時四十……七分……」
 秒針は三十秒を示す「六」を越えたところだ。
 店のドアを開けてはいけないとされる時間は、四時四十四分から四十八分までの四分間。だとすれば、禁忌とされてる時間はもうすぐ終わる。残り三十秒もない。四十八分を回れば、こんな訳の分からない事も終わるはずだ。
 ゴールが見えた事で、僕の気持ちにも少し余裕が生まれた。
 明け方五時にもなれば、朝刊も入って来るし、仮眠をとるためのトラック運転手もやってくる。床の上にコピー用紙が散乱したままでは、さすがにマズイだろう。正直、触りたくないが、仕方がない。
 腰を屈めて、床に散らばった用紙を集め始めた。しかし、この用紙分のカウンターをどう店長に説明すればいいと言うのか?
 カウンター数と投入金額が一致していないのは、照らし合わせてみればすぐに分かってしまう。まさかとは思うが、僕が払うはめになるんだろうか?
 そんな事を思いながら用紙を集めていた僕の手が、一枚の用紙の前で止まった。
 変わり映えのしない、黒く染まった紙面に白く抜けたコンビニの店舗が認められる。その明りに誘われるように、細い棒状のモノが何本も写り込んでいる。
「これは──?」
 紙を持ち上げた僕は、視界の端に何かを見たような気がした。そっと顔をあげる。
 どうして人は、こんな時に確かめようとしてしまうのか。絶対に見ない方がいいモノに決まっているのに、それでも確認せずにはいられない。
 きっと目にする事で、大したことじゃないと自分に言い聞かせるためだ。『何だ、枯れ尾花じゃないか』と。
 そう、大した事なんかないんだ。冷静になれば、笑って話せるような事なんだよ。そうさ、そうに決まっている。

 ────
 ───
 ──

 そこで

 僕が

 見たのは

 ドアの隙間を

 無理矢理

 こじ開けようと

 うぞうぞと蠢く

 いくつもの

 指 指 指 指

 節くれ立った男の指

 マニキュアに彩られた女の指

 小さくむっちりとした子供の指

 シワに包まれた老人の指

 白くふやけて崩れかけた指

 敗れた皮膚から骨の飛び出した指

 折れ曲がった指

 指 指 指 指

 数え切れない無数の指が、わずかな隙間から店内に入り込もうと暗闇の中で蠢いているのだ。

 指の波が動くたび、ドアのガラスがたわむ気がする。今にも指達が店内に雪崩れ込んできそうだ。
 思わず立ち上がって内側からドアを押さえる。正面から不気味な指と向き合う勇気はない。だから背中でドアを押さえ、両足を踏ん張る。
 あんなモノが店内に入ってきたら──? 到底、マトモな精神ではいられない。
 背中にガラスを引っ掻く、微かな振動が断続的に伝わって来る。
 早く、早く、早く、早く終わってくれ! このままじゃ、おかしくなってしまう。頼む、一秒でも早く、この時間が過ぎてくれれば!
 首をひねって壁の時計を見上げた。もう、随分と経ったような気がしていたが、まだ秒針は天頂を過ぎてはいなかった。
 まだか? まだなのか? 早く! 早く!
 ジリジリと焦る僕の思いとは裏腹に、秒針の進みは間延びして感じられる。

 あと五秒。あと五秒で、この悪夢のような時間から抜け出せる。
 あと四秒。まだか? まだ四秒もあるのか?
 あと三秒。背中に伝わる振動は消えない。
 あと二秒。早く! 早くしてくれ!
 あと一秒。頼む!

 秒針が──天頂を越えた。断続的に伝わってきていた振動が、消えた。
「──終わった……のか?」
 知らず、詰めていた息を大きく吐き出す。気付けば全身に冷たい汗が噴き出していた。手の平で額の汗を拭った僕は、自分の両手が震えているのを目にして苦笑した。
「もう、大丈夫、大丈夫だ。時間が過ぎたんだから。もう、終わったんだ」
 ドアに背中を預けて、ズルズルと床に座り込んだ。
 大きく頭を振って、数分間の出来事を払い落そうと試みる。
 忘れよう。忘れるんだ。こんな事、現実であるはずがない。忘れてしまえば、大丈夫。これから先、夜番のシフトに入らなければいいんだ。
 自分に言い聞かせ、気持ちを切り替える。
 仕事だ。仕事をするんだ。仕事に集中すれば忘れられる。
 立ち上がり、振り向いた僕の網膜に灼き付いたのは──。



 白みかけた明け方の空をバックに、ドアのガラスに張り付いた……巨大な顔。ガラス一面にブヨブヨとふやけた皮膚を波打たせた水死者の顔。波打っているのは、皮膚の表面に無数の人面が浮かび上がっては沈んでいるからだ。

 藻のように揺れているのは、濡れた髪か。虚ろに見開かれた眼球は白濁し、まるで腐った魚のような色をしている。膨れ上がった舌が、だらしなく開いた口からダラリと垂れ下がり、ドアのガラスを舐めている。



「ぎ……ぐぅっ」
 喉の奥に不快なモノがせり上がって、くぐもった声がもれる。それに気が付いたのか、まばたきをしない濁った眼球がグリグリと動く。色を失くした瞳が僕を捉えた瞬間──。
 僕の口から言葉にならない叫びがあふれ、そのまま意識を手放してしまった。

 次に僕が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。心配そうに僕の顔を覗き込む母と、兄貴夫婦の姿が見えた時、ようやく自分の日常に戻って来る事が出来た安堵感に涙が止まらなかった。
 コンビニの店内で倒れていた僕を発見した朝刊配達の人が、慌てて救急車を呼んでくれたらしい。
 幸いにも外傷等はなく、疲労や偏った食生活による一時的なものだろうと言う事で、僕はその日のうちに帰れる許可が下りた。
 一体何があったのかと家族にしつこく問い質されたが、あの数分間の出来事を口にする気はなかった。口にすれば、どこまでのあの「ガモウジャ」が僕に憑いて来るような気がしたからだ。
 あんなモノがこれから先も自分の生活の中に入り込むかも知れないなんて、正気じゃいられない。
 大事をとって講義を休み、実家で眠らせてもらった。
 居間に敷かれた布団の中で、僕は心に決める。
 明日、店長に謝って、そしてバイトを辞めさせてもらおう。あんな経験をして、あのコンビニでバイトなんて無理だ。
 アパートも……引き払おうか。母と兄貴夫婦が許してくれれば、実家に戻るのもいいかも知れない。
 可能な限り、コンビニにも川にも近寄りたくない。
 あんなモノとの関わりなんて一切ない、平穏な一条を取り戻すんだ。
 そう強く心に願って、僕は眠りに就いた。

 ──止む気配をみせずに降り続ける雨の中、窓の外から部屋の様子を伺う……この世ならざるモノの存在にも気付かずに。

 そう、コンビニのバイトを辞める事は出来たんだけど、「ガモウジャ」との関わりは切れることはなかったんだ。
 今でも雨の日には、連中の気配を感じる。
 窓の外から僕を伺い、隙あらば取り込んでしまおうと狙っている「ガモウジャ」の気配を……。

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