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桜舞恋歌
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春
満開の桜が舞う吉野山。
そこで出合った二人は
共に哀しみを背負った者
同士だった。
桜舞う季節
必ず 貴女を
迎えに参ります。
男は“鬼”として生まれてくるのだという。
女は生きながらにして“鬼”に成るのだという。
「いやあぁぁ! この子を、この子をどこかへ! このような忌まわしい子など、妾の産んだ子ではない!」
それが、生まれたばかりの彼に投げつけられた、初めての言葉だった。
「いかに美しかろうとも、笑わぬ泣かぬ姫では面白くも可笑しくも無い。白拍子の方が、まだ可愛げがあろうと言うものじゃ」
それが彼女に向けられた、世の評判の全てだった。
満開の桜が舞い散る吉野の山を、私は一人歩いていた。この山の桜は、圧倒的な存在感で人間に迫ってくる。私が桜を見ているのではない。桜が私を見ているのだ。
踏み固められた道を歩いて行く。特に行き先が定まっていた訳ではない。言うなら、桜に誘われ、桜に導かれて、といった所か。
山から吹き降ろしてくる風に桜の花びらが舞う。その風に、微かすかに琵琶の音色が混じる。
嫋々と。そしてまた嫋々と。
その琵琶に誘われて歩みを進める。
一人の老婆が琵琶を抱え、桜の根元に座している。何処を見ているのか判らぬ瞳に映るのは、現世うつつの桜か、幽世の華か?
「旅のお方かえ? ここから先は鬼が出る。お止めなされ」
琵琶を弾く手を止め、老婆が私の方へ顔を向けた。その目には、果たして私が映っているのか。
「旅という程の事もない。ただ桜に誘われ、桜に魅入られての一人歩き」
歩みを止めた私の目には、老婆がわずかに笑んだような気がした。穏やかな表情は気品に満ちている。琵琶の腕前から考えても、それなりの家柄の出なのだろう。
「急ぎの道行きでないのであれば、しばし、この婆の昔語りに付きおうては下さらんか? ここで待ち合わせる約定。なれど、少しばかり早かったようじゃ」
私も先を急いでいる身ではない。それに、この不思議な老婆に興味を惹かれていた。
「私でよければ、お付き合いいたしましょう」
桜の花びらの敷き詰められた吉野の山中。異界に迷い込んだか、妖かしの術にでもはまったか。それでも良いか。そう私は思ったのだ。
「旅のお方。お主様はご存知でございましょうか? この吉野の山には“鬼”が出るという──そう、今から五十年ほども昔の事でございます……」
吉野の山には鬼が住む。
確かにこの山には、鬼の一族がございました。頭目の名は「百鬼丸」といい、五十人ほどの手下を連れて、人里はなれた山奥でひっそりと暮らしておりました。
もともとは京の都を荒らしまわった鬼の一族・刃雷丸に与しておりましたが、生来、血を好まぬ性質であった百鬼丸は一族を抜け、この吉野の山に入ったのです。それ以来、鬼たる証を隠し、人目を避けて暮らしておるのでございます。
その一族の中に、ひときわ美しい若鬼がございました。
その名を、來桜丸と申しました。鴉の濡れ羽色の黒髪。すらりと伸びた手足。凛々しい顔立ちの若者を、鬼たらしめているのは、額から突き出た二本の角。しかし真珠色に輝く角は、若者の美しさを損なうものではなく、かえって、來桜丸の容姿を引き立ているのでございます。
「鬼子」として生まれてすぐに実の親から捨てられた來桜丸は、吉野の百鬼丸に拾われ、一族の中で育てられました。年若い來桜丸は、自分を捨てた親を恨むでもなく、まっすぐな心根の優しい若者でございました。
いつも鬼の里から程近い、山深くの滝へ出かけては山の動物達と戯れるような若者だったのでございます。
季節は春。満開の桜は舞い散り、風は心地よく肌を包む春。
下弦の月が白々と桜を照らし、來桜丸の眼を楽しませておりました。月明かりに誘われて、百鬼丸の館を抜け出した來桜丸は山中を散策しながら、滝壺の方へ向って歩を進めていったのです。やがて、柔らかな風に乗り、來桜丸の耳に琵琶の音が聞こえてまいりました。
嫋々……嫋々。
このような夜更けに滝から琵琶の音が聞こえるなど、妖かしが旅人を惑わそうとしているのか……。好奇心が揺らいだ來桜丸は、琵琶の音につられて滝へと向ってまいりました。
白い月明かりを浴びて、滝壺へ向って琵琶を弾いている女人の後姿が目に入り、來桜丸は足を止めて、しばしその琵琶に音に聞きほれておりました。染み入るような琵琶の音は、高く低く、悲しく切なく歌っております。
來桜丸がもっと近くへ寄ろうとした瞬間、女人の指が止まり、琵琶の音が絶え、辺りは静寂に包まれたのでございます。
「何者じゃ?」
微かに後ろを振り返り、誰何の声を上げたその顔の美しさ。くっきりとした鼻梁に月が淡い陰を落とし、夜目にも紅いその唇は意思の強さを感じさせて一文字に引き結ばれおりました。
「これは、失礼。あまりにも美しい琵琶の音が聞こえてきたもので、つい……」
女人は表情一つ動かさずに來桜丸へ向き直り、しげしげとその顔を見つめながら口を開き、こう申したのです。
「かような刻限に一人で夜歩きとな。そなた、妖かしの類かえ? わたくしを喰ろうても、美味くはなかろうよ」
「い、いや。わたしは來桜丸。この吉野の山奥に住む者で、妖かしではありませぬ」
「そうなのか? 別に妖かしでも構わぬ。どうせ、わたくしが死んでも、誰も悲しみはせぬ」
命芽吹く春の夜に、なんとも物騒な事を口にする女人でございます。來桜丸は少々驚きながらも、女人に名前を尋ねてみたのです。
「わたくしの名など知ってどうするのじゃ?」
山から吹いてくる風に軽く結い上げた髪がふわりと舞い、來桜丸の鼻先を掠めました。ほのかに伽羅の香が鼻腔をくすぐり、來桜丸は一族以外の者と初めて口をきいた事を意識し始めたのでございます。
「では、何とお呼びすればよいのです?」
「……砂姫、と。皆はそう呼ぶ……」
これが、來桜丸と砂姫の出会いでございました。
「壱鷹の兄者、砂姫を知っておられるか?」
昨晩に出会った砂姫と名乗った不思議な女人の事を、薪割りをしていた年嵩の鬼に尋ねてみる事にしたのでございます。こんな気持ちは初めてでございました。気になって気になって仕方がないのでございます。
「砂姫? ああ、都の一条の大臣の姫の事じゃろう。都でも評判の美しい姫じゃと聞くが、難ありじゃぞ」
「難……とは?」
壱鷹は斧を振り上げる手を休めると、切り株に腰掛けて來桜丸を見上げました。
「一条の大臣の姫は、真の名を月姫と申される。生まれた時に、月の様に麗しい顔の赤子じゃというて付けた名前らしいのじゃが、これが長じても一向に笑わぬ娘でな。訝しく思った大臣が、高名な陰陽師を頼んで見てもらったところ、『月にも勝る』と付けた名前に月神が怒り、姫から心を奪っていったと申したのじゃ。それ以来、姫は笑いもせぬし、泣きもせぬと言うぞ」
額に流れる汗を拭って、壱鷹は不思議そうに來桜丸を見つめて申しました。
「何ゆえに、砂姫の事など聞くのじゃ?」
來桜丸は逡巡の末、昨夜、館を抜け出し滝壺で出会った女人が砂姫と名乗った経緯を壱鷹に話したのでございます。
話を聞き終わった壱鷹は腕を組んで考え込んでおりましたが、やがてぽつりと、噂はまことであったか。と呟きました。
「兄者、噂とは何なのです?」
「ん? ああ。砂姫を生んで間もなく、母御は産後の肥立ちが悪くて亡くなったのだと聞く。今の母御は大臣の後添いで、砂姫には義理の母御となる。この母御と大臣との間には、もう一人姫がおるのじゃ。母御殿は自分の生んだ姫を何としても入内させたいらしいのじゃが、当の帝が砂姫の噂を聞きつけ興味を持ったというのじゃ。笑わぬ姫なら、自分が笑わせて見しょうとな……」
それを聞いた來桜丸は、自分の胸の中に硬い、尖ったモノが刺さったような気がしたのでございます。しかし、まだその時は、それが一体どのような意味を持っているのか、來桜丸自身にも判りはせなんだのでございます。
「それを知った母御殿が、病平癒を祈願すると謀って、砂姫を吉野の別宅へ移らせていると聞いたが……どうやら、本当らしいの」
滝壺に向かい、ただひたすらに琵琶を奏でていた姫。自分が死んでも誰も悲しむ者はいないと、何事もないかのように口にする姫。笑わない、泣かない姫。だからといって、心がない事になってしまうのだろうか?
來桜丸が自分の考えに沈みこんでしまおうとした時、自分を呼んでいる声が耳に入ってきたのでございます。
「來桜丸! どこにおるのじゃ?」
声の主は如月という名の年若い娘。麓の村に住む娘で、年の頃なら十五・六。大きな目が印象的な元気の良い娘でございます。結いもせずに流した髪を揺らしながら、館の裏庭へ駆け込んで参りました。
「おお、これはこれは。わしが來桜丸を一人占めしていると知れたら、如月に何を言われるか知れたものではない。早う行ってやれ」
冗談めかして壱鷹に促されると、來桜丸は軽く一礼してその場を離れたのです。
「如月、何か? わたしはここじゃ」
山と積まれた薪の陰から顔を出した來桜丸の姿を認めると、如月はパッと顔を輝かせ、彼の鬼に走りよりました。
ドンッと身体全体で來桜丸にぶつかってようやく足を止め、上気した顔で見上げてきます。
「ああ、來桜丸。村の庄屋さまが、今回預かった反物は思いの他高値で売れたので、この次からは反物の数を増やしてもらっても構わないと。それから、これが今回の代金」
息を切らしながらそう言うと、懐の奥から大事そうに財布を取り出しました。
「この次に荷を卸しに行く時で良かったのに。わざわざ、それを届けに来ておくれなのかい? この山道、大変だっただろうに」
來桜丸の言葉に、如月は頬を桜のように染めて言いました。
「來桜丸は優しいの。良いのじゃ。如月が届けると、庄屋さまにお願いして出て来たのじゃから。それに、來桜丸にも会いたかったし……」
最後の方は声が小さくなって、來桜丸の耳には届きませなんだ。
鬼の一族が住む隠れ里では、女衆が織る反物を麓の村に卸し、それを町で売ってもらって糊口を凌いでおりました。如月と來桜丸はそのときに知り合ったのでございますが、娘は美しい鬼の若者に一目で恋をしてしまったのでございます。それ以来、何かと用事を見つけては、麓の村から隠れ里へと通うようになっていたのです。
しかし、來桜丸は「好かれる」「人に愛される」という事が良く分かりませぬ。養い親の百鬼丸は愛情をもって育ててくれましたし、里の者達も良くしてくれてはいます。ですが、それはいわば「同族愛」であり、如月のように恋しい気持ちとは違うのでありましょう。
「では、お館さまにお伝えしよう。ついておいで」
如月は、自分の気持ちが來桜丸に伝わっていない事を知っておりました。ため息を一つつくと、來桜丸の後について百鬼丸の館へ足を向けたのです。でも、如月は思っておりました。いつかは自分の気持ちに來桜丸が気付いてくれると。そして、二人で暮らすのだと、夢描いていたのでございます。
百鬼丸は如月の伝えた庄屋の言葉に大層喜んで、次の荷を卸すときは、反物の数を増やす事を承諾してくれました。そばで聞いていた女衆の者達も嬉しそうにしております。正体を明かして人前に出れば、「鬼」と恐れられ蔑まれる事を承知している彼らです。自分の作った物を評価してもらい、褒めてもらえる事はこの上ない喜びでございました。
「下の村まで送っていこう」
來桜丸の言葉を聞いて、如月はパッと顔を輝かせました。それをみて來桜丸は、「こんなに喜ぶのであれば、今度砂姫に出会ったときには館まで送って行くことにしよう」などと考えていたのでございます。
桜の咲き乱れる山道を歩きながら、來桜丸と如月はとりとめもない話を続けておりました。ハラハラと舞い落ちる花びらが、二人を掠め、辺りを薄紅色の景色に変えておりました。
「吉野の山の桜は、都の桜に比べると強い感じがするな」
桜を見上げた來桜丸の横顔は、まるで一服の錦絵のように美しく、如月はつかの間うっとりとそれを見つめておりました。
「如月?」
不思議そうにかけられた來桜丸の声に、はっと我に返った如月は火照った顔を隠すかのようにプイッと横を向き、少しぶっきらぼうに答えました。
「まるで、都の桜を知っておるような口ぶりじゃな。どうせ、都の桜など見たこともないのであろう?」
「いや。幼い頃に、見たことがあるのじゃ。と言っても、ほんの僅わずかの間しか都にはおらなんだのでな。あまり良くは覚えておらぬ。しかし、都の桜はもっとしなやかな感じがしたように思う。ここの桜達はどっしりとしておるな。まるで、何もかもを見守り、包み込むかのようじゃ」
「來桜丸、都に住んでおったのか?」
如月は來桜丸の事をあまり知らない事に気が付いたのでございます。來桜丸だけではございませぬ。山深くの里に住んでいる者達が、いつからそこに住みついたのか、一体どのような者達なのか、それすらも知らない事に初めて思い至ったのでございます。
「來桜丸は、あまり自分の事を話してはくれぬのじゃな」
「話すような事を持ち合わせておらんのじゃ」
「如月は、來桜丸の事なら、何でも知りたいと思うておるのに……」
「そのように、私の事を知って何とする?」
來桜丸にとって、自分の全てを知られると言う事は、すなわち『鬼』である事を知られる事に他なりませぬ。その警戒心が声に表れたのでしょう。如月は慌てて手を振りました。
「いいのじゃ。今のは、忘れておくれ」
そうして、ここからは一人で帰れると、來桜丸の声を振り切って走り出したのでございます。残された來桜丸は、どうして如月が自分の事を知りたがるのか、なぜ突然走り出してしまったのか判ろうはずもございません。鬼の身である自分が、人に好かれるなどと考えた事もないからでございます。
首をかしげながらもと来た道を引き返し始めると、木々の間から、物々しい行列が山中に入ってくるのが見えました。咄嗟に身を隠し行列の行方を見つめていると、それらの行列は來桜丸のいる道を逸れ、見えなくなっていきました。
身を隠しながら、來桜丸は考えました。あの行列はなんなのか? もしや、吉野の山中に隠れ住む鬼の一族を討ち果たしに来たとしたら……。恐ろしい考えに至り、來桜丸は木々の陰に身を隠しながら、行列が消えていった道の方へと歩を進めました。
一族が住まう隠れ里とは違い、道は良くならされ、徐々に開けた場所へと向っていきます。やがて、高い柵で囲まれた貴族の屋敷が見えてまいりました。行列はその館へと入っていったのでございます。行列の中には、どうやら輿のような物も見て取れました。物陰に潜み様子を伺っていると、輿の中から煌びやかな衣装を纏まとった僧侶が降り立ったのでございます。僧侶は侍者と共に館の中へ入ってゆきました。
隠れていた物陰から出てくると、來桜丸は屋敷へ向ってゆっくりと歩いてまいりました。このような場所に屋敷を構えるとは、いったいどのような貴族なのでしょう。つい、好奇心が勝ってしまったのです。ほんの一瞬、辺りに対する警戒心が緩みました。
「何者ぞ!」
屋敷の柵の中を覗き込もうとしていた來桜丸は、背後からかけられた誰何の声に驚いて振り向きました。そして、油断した己を悔やみました。
「わたしは……。わたしはこの吉野の山中に住まう者でございます。山道を歩いておりましたら、こちらの行列が見えたものですから、ついどなたがお越しになられたのか気になりまして。ご無礼致しました。申し訳ございません」
來桜丸が頭を下げると、声をかけた人物が近寄ってきたのでございます。どうやら屋敷の警護をしている検非違使のようでございます。來桜丸は内心、舌打ちをしておりました。検非違使は手にしていた長弓を來桜丸の頤にあて、下げた頭を無理やりに上げさせました。まじまじと彼の顔を覗き込み、その美しい顔に見入りました。
「怪しげな奴よ。ここを都の重鎮、一条の大臣の別宅と知っておったのではないのか? 盗みに入る算段でもしておったのであろう」
困り果てた來桜丸が、どのようにして逃げ出そうか考えていたその時、思わぬ所から救いの手が差し伸べられました。
「その手を離しや」
凛とした声が響き渡り、來桜丸がそちらへ視線を投げると、屋敷の回廊に砂姫の姿があったのでございます。來桜丸に手をかけていた検非違使はその言葉に、畏まりながらも「ですが」と口を開きかけました。
「その者は、わたくしの知り合いの者です。そなたが怪しむほどの者ではありませぬ。わたくしが出かける為に、呼び寄せたのです。これ以上わたしくの客人に無礼を働くと、いかに警護の者とはいえ承知しません」
表情の動かぬ顔で静かに淡々と語る砂姫は、その無表情ゆえに、かえって気品高く映りました。検非違使は納得いかない顔付きでございましたが、他ならぬ屋敷の主にそう言われてしまってはどうしようもございません。ご無礼致しましたと堅苦しく礼をして、一歩脇に下がりました。姫は階を降り、來桜丸を手招きいたしました。
「出かけます。わたくしに付き合いなさい」
來桜丸が黙って頭を下げていると、回廊の端から初老の女房殿がやってまいりました。階に立つ砂姫の姿を認めると、目を丸くしながら近寄ってまいります。
「姫様。何処へ参られます? 間もなく御坊様のご祈祷が始まりまする。姫様の御病気平癒のご祈祷でございますのに、何処へお出ましになられるのでございますか?」
祈祷? 來桜丸は、壱鷹に聞いた話を思い出しました。砂姫は、病療養を名目にこの吉野に連れてこられたのだと。
「泰葉、心配はいらぬ。少し歩いてくるだけじゃ。わたくしが居なくとも祈祷は出来よう。どうせ父上が寄越した体面だけの祈祷。今さら祈ったとて、わたくしが変わる訳でもあるまい?」
泰葉と呼ばれたこの女人は、話から察するに砂姫の乳母のように見受けられました。
「しかし、その者は……?」
「案ずるでない。吉野の山の者じゃ。この者がおれば、おさおさ山の中で迷う事もあるまい」
そして來桜丸に視線を移すと、
「支度をして参る。そなた、そこでしばしお待ち」
と、声をかけ回廊を行ってしまわれました。後に残されたのは、どうして良いのか判らぬ來桜丸と、心配そうに姫の後姿を見送る乳母の二人。
「……そなた、名は?」
躊躇がちにかけたれた声に、來桜丸は静かに答えました。
「吉野の山中に住まう者で、來桜丸と申します」
「さようか……。姫様とはいかような?」
泰葉にとっては、それこそが一番の心配事なのでしょう。得体の知れない若者を、いきなり客だと言われても戸惑うばかりでございます。さて、何と答えたものでしょう。素直に『以前、夜の滝で……』と正直に答える事は出来なかったのでございます。常識で考えるなら、身分ある貴族の姫君が、夜更けに一人で山中の滝に居たなどという事が有ろうはずもありません。しかしそう答えたばかりに、姫がこの先屋敷から出られぬような事になっては困ります。どう考えても、夜更けに屋敷を抜け出したとしか考えられないのですから。
「以前、道に迷われ難儀しておられた時に知りおうたのでございます。その時は、一条の大臣の姫君とは知らず、大変なご無礼を……」
苦し紛れの言い逃れでしたが、泰葉は信じたようでございました。たびたび屋敷を抜け出しては、一人でどこかへ出かけているのを知っておられたのでしょう。
「來桜丸殿。どうぞ、姫様をお願いいたします。都の口さがない者達は、姫様の事を悪し様に申しておりますが、本当に心根の優しい方なのです。生まれてすぐに母君を亡くされ、義理の母君様には抱かれた事もないのでございます。優しき言葉の一つも掛けられた事のない姫様が、笑えぬようになるのは当たり前のことでござりましょう」
袖口で目元を押さえながら、泰葉は來桜丸に訴えたのでございます。
「いや、女房殿。そのような事を、わたしのような得体の知れない者に語ってしまって、良いのでございますか?」
慌てた來桜丸がそう申しますと、泰葉は目元を拭い、ようやく顔を上げました。
「良いのでございますよ。來桜丸殿は、姫様がお呼びになられた方。それだけ、姫様が心をお許しになられたのでございましょう。本来ならば身分がどうのと、うるさい事を申し上げるべきなのでしょうが、貴方様とおられた姫様は、なにやら楽しげな様子であらしゃりましたのでな。わたくしは、姫様が幸せであられればそれで良いのでございます」
そしてもう一度、姫様を頼みます。と深々と頭を下げたのでした。
「待たせたな。では参ろうか」
振り返ると、緑の黒髪を頭上高く結い上げ、単に切袴姿の砂姫が立っておられました。
小者が馬を牽いてくると、來桜丸に向って
「そなた、馬には乗れるのか?」
と尋ねられました。
「たしなむ程度には……」
「良い。吉野の山中を案内いたせ」
泰葉に「いってらっしゃいませ」と送り出され、來桜丸は砂姫の後ろに跨ると手綱を取りました。
桜舞い散る吉野の山を、二人を乗せた馬がゆっくりと進んでいきます。來桜丸は、自分の両腕の間にいる砂姫の髪や召し物に焚き染められた伽羅の香りに、胸が高鳴るのをとめられませんでした。馬が揺れるたびに、姫の身体が來桜丸の身体に触れるのです。まるで心の臓が口から飛び出してしまう程にドクドクと脈打つのでございます。
生まれてから、このように間近で女性と接した事のない來桜丸にとって、戸惑うばかりの出来事でございました。
屋敷から遠ざかり、人目に付かない所まで馬を進ませた來桜丸は、思い切って口を開く事にしたのです。
「月姫様──と申されるのですね。先日は大変失礼致しました。一条家の姫君とは露知らず、ご無礼申し上げました。また、此度はお助け頂き、感謝の言葉もございませぬ」
「月……姫か。その名で呼ばれたのは、久方ぶりじゃ。皆はわたくしを笑わぬ姫、砂のように味気ない姫よと嘲って、砂姫と呼ばれる。わたくしの本当の名前を呼ぶ者は、泰葉とそなたの二人だけじゃ」
「ご不快だったでしょうか? わたしのような下賎の者が、姫様のお名を口にするのは失礼かと思ったのですが……。どうしても『砂姫様』とはお呼びしたくなかったのでございます」
「何故じゃ?」
感情のこもらぬ声で尋ねられて、來桜丸は言葉に詰まりました。
「それは……。わたしにも判りかねます。どうしてなのでしょう?」
「おかしな奴じゃのう。聞いておるのは、わたくしじゃ。なぜと問われても、答えられるはずもなかろう」
「お嫌でしたら、もう二度とお名前ではお呼び致しません」
恐る恐る聞いた來桜丸の耳に飛び込んできたのは、思いも寄らぬ言葉でございました。
「構わぬ。そなたに『月姫』と呼ばわれるのは心地よい。泰葉だけに許しておったのじゃが、そなたもわたくしを『月姫』と呼ぶが良い」
砂姫──いえ、月姫と來桜丸の間に、確かに何かが生まれつつありました。この日から、來桜丸は月姫の散策に従うようになったのです。二人でそぞろ歩く姿が、吉野の山で見かけられるようになりました。
「來桜丸! 來桜丸はどこじゃ?」
一族の隠れ里に、如月の声が響き渡りました。ちょうど百鬼丸の屋敷から出ようとしていたところであった來桜丸は、如月の声に顔を出しました。
「どうした、如月。そのように大きな声で」
來桜丸の姿を認めた如月は、口を尖らせて彼に詰め寄りました。
「このところ、いつ来ても來桜丸は留守じゃ。一体、どこへ行っているのじゃ?」
「どこって……一条様のお屋敷に参っておる。それがどうした?」
そう問われて、如月は顔を伏せました。せっかく來桜丸に会いに来ても、いつも出かけた後で会えないのです。どこで誰とどうしているのか。いらぬ心配ばかりが心をかすめます。
「それで今日は何用なのじゃ? 私はこれから出かけるので、急いでおるのだが」
「今日も、一条の姫様と会うのか?」
面伏せたまま如月は問いかけました。
「ああ」
里の入り口へ向って歩き出している來桜丸を追いかけながら、如月は唇を噛み締めました。
「あの姫様は、來桜丸には似合わぬ」
いきなりの言葉に、來桜丸は歩みを止めました。振り返った彼の視線を痛いほど感じながら、如月は言葉を止める事が出来なかったのでございます。
「第一、身分が釣り合わぬではないか。相手は貴族の姫君なのであろう? 來桜丸の事だって、都合の良い使い走りとしか考えておらぬのではないか?」
「如月──」
「笑わぬ姫様だと……。心のない姫様だと聞いたぞ。そんな姫君のどこが良いのじゃ! 笑えぬ女なぞ、女として疵物ではないか!」
「如月っ!」
パン!
乾いた音が響きました。手を上げてしまった來桜丸も、頬に手をやる如月も、お互いが自分の身に起こった事に戸惑っておりました。
「す、済まぬ……。大丈夫か、如月」
來桜丸の問いに、如月は唇を噛み締めて答えようとはしませぬ。
「じゃが、あれは言いすぎじゃ。月姫様は心のないお方ではない。それどころか、誰よりも優しく清らかな心をお持ちなのじゃ。だから、如月。あのように悪し様に言うてくれるな」
「──來桜丸は……月姫様の事が好きなのじゃな……」
思いの寄らぬ言葉でした。來桜丸は息を飲み込むと、静かに如月に答えたのでございます。
「……そうだな。私はきっと、月姫様の事を好いておるのだと思う。身分違いと言う事は先刻承知の上じゃ。しかし、私は月姫様の側に、たとえ報われなくとも共にいたいと思うよ」
認めてしまってから、來桜丸は改めて自分の気持ちに気が付いたのです。
「來桜丸は……馬鹿じゃ!」
如月は涙声で叫ぶと、山道を駆け下りて行きました。その後姿を見送りながら、來桜丸はやっと如月の気持ちに気付いたのでございます。自分が人を好きになってみて初めて、如月が自分に寄せていてくれた好意を理解したのでございます。しかしそれでも、來桜丸の心は月姫の許へ向います。
山を下り、一条の大臣の屋敷へ向うと、そこにはすでに出かける用意を終えた月姫が來桜丸を待っておりました。
「遅かったな。何かあったのかえ?」
月姫の言葉に、來桜丸は微笑み首を振って答えました。
「何でもありませぬ。さあ、出かけましょうか」
二人は馬に跨ると、吉野の山を流れる川へ向って進んでいきました。
「のう、來桜丸。誰かを好くというのは、いかような気持ちなのじゃろう?」
「どうなされたのですか、いきなり」
月姫はややうつむき加減に馬に揺られながら口を開きました。
「屋敷の端女が、麓の村の男と一緒になるので暇をほしいと言い出したのじゃ。それは構わぬ。しかし、わたくしには『誰かを好く』という気持ちがよう判らぬ。どのような気持ちなのじゃ?」
少し前の來桜丸なら、月姫の問いに答えることは出来なかったでしょう。でも今は違います。自信を持って答えることが出来るのでございます。
「誰かを好きになる気持ちと申しますのは、共にあって、こう、胸の奥が温かくなったり、苦しくなったりいたします」
「何故じゃ? 温かくなるのと、苦しくなるのは違うであろう?」
「愛しい方にお会いできれば、胸の奥が温かくなります。でも、その方にお会いできなかったり、悲しそうなお顔をされていれば、胸の奥が苦しくなるのでございます。一緒にいるだけで、楽しく感じたり嬉しくなったりもいたします。一人その方の事を思い出して、切なく思ったりもするのでございます」
「詳しいな。來桜丸は、誰か好いておる女子がおるのか?」
「ございますよ。とても愛しく感じているお方が」
月姫からは顔が見えないのをいい事に、來桜丸は姫の後姿を見つめながら優しく微笑みました。
「どうしたのだろう? 今、お主が誰かを好いておると聞いたとき、胸の奥の方がチクリとしたぞ。何やら、怪しい病であろうか?」
その言葉に來桜丸は目を見開きました。それは──。
「……姫様、それは病ではありませぬ。どうぞご安心なされませ」
内心の動揺を悟られぬように、出来るだけ冷静に。それでも、鼓動が高鳴るのを止める事はできません。背後から月姫を抱きしめたい衝動を、どうにかして押し止めた來桜丸は、平静を装って馬を止めました。
うららかな陽光に煌めく川は、柔らかな若草の生い茂った岸辺を優しく洗っています。來桜丸は馬に積んできていた毛氈を広げると、月姫が座って休めるように設えました。月姫は流れる川面に映った自分の姿を眺めておりましたが、やがてその顔に指を当て、やにわに抓りだしたのです。
「何をなさっておいでなのです!」
驚いた來桜丸が月姫の手を取ると、姫は無表情で彼を見上げてこうおっしゃいました。
「この顔も、抓ってみれば何か変わるかと思うてな。笑わぬ顔にも、少しは笑みが浮かぶやも知れぬと思うたのじゃ」
「──っ!」
「都の殿方は、わたくしを見てこう言う。『笑わぬ姫など、白拍子にも劣る。ただの人形じゃ』と。父上もおっしゃった。『いくら琵琶が上手くても、心の無い姫に心地よい楽の音が紡げる訳も無い』と。義母上もおっしゃった。『笑わぬ女は、女として疵物なのじゃ』と。可愛げのない娘よ、薄気味の悪い姫よと言われて、わたくしは育ってきた。ならば、心の無い、笑えぬわたくしは『人』ではないのか? そうなのかも知れぬ。わたくしはもしかしたら、『鬼』なのかも知れぬぞ」
気が付けば、來桜丸は震える腕で月姫を抱き締めておりました。心が無ければ、こんなにも傷つく事はないのです。恐らく、これまでも何度も自分で自分の顔を抓っておられたのでしょう。僅かでも表情を変えることが出来るやも知れぬと。周囲の口さがない中傷に耐えて、一人で自分を守ってこられたのでしょう。
「姫…。姫は『鬼』などではありませぬよ。『鬼』とは自分の心に忠実なものです。腹が減れば喰い、眠たくなったら眠る。悲しいときには大声で泣き、楽しいときは腹の底から笑う。姫が笑えぬとおっしゃるのなら、それはとりもなおさず、姫が『人間』である事の証明となりましょう」
「そうか……。わたくしは、笑えぬが故に『人』なのじゃな。ならばいっそ、わたしくしは『鬼』になってしまいたい。たとえ忌み嫌われようと、恐れらりょうとも、自分の心に嘘偽り無く暮らせるのであれば、その方がどれだけ幸せである事か……」
「そんな事をおっしゃらないで下さい。おっしゃっては駄目です。姫はどうぞ、そのまま。どうぞそのまま『人』であってくださいませ」
來桜丸が呟いたその瞬間──。
ひゅっ!
鋭く空気を切り裂く音が來桜丸の耳朶を打ちました。咄嗟に月姫を背後にかばい、音のした方へ向き直るのと、放たれた矢が來桜丸の目の前に突き立つのが同時の事でありました。
「何奴じゃ!!」
彼が一声吼えると、茂みの奥で何かが動く気配がございます。
「姫はそこにおいでください!」
そう叫ぶと、來桜丸は茂みの中へ飛び込んで行きました。果たしてそこには、長弓に矢をつがえた男達が。
「おのれ! 貴様、邪魔をするか!」
一人の男がそう叫び、來桜丸に向って矢を放ちました。向ってくる矢を空中で掴み取ると、來桜丸は二つに折って投げ捨てました。
「お主達、何者じゃ! あのお方を一条の大臣の姫君と知っての狼藉か!」
よく響く声で一喝されると、男達は及び腰になりながらも長弓を放り出し、太刀を構えたのでございます。
「何ゆえ、月姫様に危害を加えようとする!? 貴様ら何者じゃ!」
一番前にいた男が、背後に居る三人の者に言いました。
「この者は、私が引き受ける。お前達は、砂姫を亡き者にするのだ」
それを聞いた途端、來桜丸は全身の血が逆流するほどの怒りを感じました。
「我らは多勢、それにひきかえ貴様は一人。しかも、足手まといとなる砂姫を守って闘うと言うのか? 見れば、獲物を持ち合わせている様子も無い。我らの狙いはただ砂姫一人。丸腰の者まで斬ろうとは思わぬ。命が惜しくば早々に立ち去り、ここで見聞きした事は他言せぬ事だ」
どうやらその男が頭目のようでございました。男の言葉が終わらぬうちに、背後で月姫の様子を伺っていた者達が茂みから飛び出そうとしたのです。
──しかし……。
血煙を振り撒いて仰け反ったのは、抜刀していた男の一人だったのでございます。目にも留まらぬ速さで動いた來桜丸の揃えた五指の爪が、狙い違わず相手の喉笛を貫いておりました。
「姫を──砂姫と呼ぶでない……。姫の苦しみも悲しみも知らぬ輩が、偉そうにわたしに何を言う。貴様らのような卑しき刃に、姫の血を吸わせはしない。わたしを丸腰と侮ったな? 吉野の山の妖かしを敵にまわして、生きて帰れると思うなよ……」
振り返った來桜丸の額には、異形の印、真珠色に輝く二本の角が現れておりました。
「お……鬼じゃ……。あの姫には、鬼が憑いておるのじゃ!」
「ええい、何を躊躇っておる! 砂姫は後回しだ! この鬼を倒せ!!」
静かなはずの山中に、阿鼻叫喚が響き渡りました。男達の振り翳す太刀をかわし、來桜丸は右へ左へと腕を振ります。その度に、確実に男たちの肉体は切り刻まれていくのです。それでも、來桜丸の身体には血の染み一つ残りはしませんでした。まるで、その美しい姿に触れるのを自ずから恥じるかのように。
血に染まった配下の男たちが事切れた後、一人定まらぬ狙いで刀を構える頭目に來桜丸は尋ねました。
「お前達をここへ送り込んだのは誰じゃ? 誰の命で、月姫様を狙うのか?」
頭目は訳のわからぬ叫び声を上げて、來桜丸に斬りかかって来ました。その刃を素手で掴み取ると、來桜丸は唇が触れ合うほど近くに顔を寄せ、頭目にこう囁きました。
「誰の命でここまでやってきた? 素直に白状すれば良し。さもなければ、生きたまま地獄を見る事になるやも知れぬが、それでも良いかえ?」
彼の鬼の右手は、頭目のわななく喉元にかけられています。
「お前の身体が死ぬる前に、心が死んでしまうやも知れぬなぁ。わたしは容赦せぬぞ。じわじわと死ぬより辛い責め苦を味わわせてやろう。生きたまま五寸刻みに切り裂かれる気持ちは、如何様なものであろうなぁ?」
静かに、來桜丸の爪が頭目の喉元に喰い込んでいきます。頭目の口からは、壊れた笛のような聞き苦しい声が漏れておりました。
「い……一条の……お方様じゃ──。お方様に、砂姫を亡き者にせよと──。お主上より正式に入内の申し入れがあり、砂姫を宮中へと。お、お方様は、妹姫様を入内させるためには、どうしても砂姫を亡き者にする必要があると仰せになった。さすれば、お主上もお心晴れて、妹の徳子様をお望みになると……」
「何じゃと!? たかがそれだけのために、姫の命を奪おうというのか! 義理とはいえ、母親なのであろう!?」
その時、來桜丸の背後で、枯れ枝を踏みしだく音がいたしました。咄嗟に振り向いた彼の視線の先には、無表情に佇む月姫の姿が……。
「月姫っ! 何故!?」
一瞬、來桜丸の気が乱れる瞬間をついて、頭目はその手を振り解き逃げ出しました。思わず後を追おうとした來桜丸の背中に、月姫の制止の声がかけられます。
「お待ち。良いのじゃ、追わずとも」
その静かな声に、來桜丸は足を止めました。そして、気付いたのです。『鬼』としての本性を、愛しい月姫に見られてしまった事を。言い訳のしようがありませんでした。なぜなら、彼の足元には、自分が殺してしまった三人の男の物言わぬ骸が転がっているのですから。
「らいお……」
「何故! 何故、お出でになったのです! あれほどお待ちくださいと申し上げたではありませんか!」
月姫の顔を見ることも無く、背を向けたままで來桜丸は叫びました。
「貴女に! 貴女にだけは、この姿を見られたくはなかったのです! こんな浅ましい、醜い鬼の姿を!!」
血を吐くような來桜丸の叫びに、月姫はただ歩み寄り、彼の鬼の手をそっと取ったのでございます。
「このように、血を流して。鬼とそなたが呼ぶ者と、ここに倒れた者達にどれほどの違いがあると言うのじゃ。この者達はわたくしを亡き者にするために刃を抜いた。そなたは、わたくしを守るために闘った。人と鬼との間に、どれほどの隔たりがあろうと言うのじゃ。わたくしを亡き者にしようとした義母上の心をこそ、鬼と呼ぶべきではないのか? 共に流れる血は赤いというのに……人である義母上は、わたくしを疎んじた。鬼であるそなたは、わたくしを守ってくれた」
そして、刃を素手で掴んだために出来た傷に、そっと唇を当てたのです。その瞬間、來桜丸の身体には震えが走りました。姫をこのまま、自分のモノにしてしまいたいと言う衝動が、身体の奥底から湧き上がってきたのです。しかし、たった今、人を殺してしまった自分が、月姫を抱く資格があるのかどうか? 何より、この清らかな姫を血に染まった己が汚してしまっても良いのか──。
自らの手を月姫の唇から離すと、來桜丸はやっとの思いで口を開きました。
「月姫様。これ以上わたしと共にいる事は、御身にとって良い事ではないでしょう。どうぞこのまま屋敷へ帰り、警護の者たちに命じて守りを固めるのです。そうすれば、さしもの刺客達も、おさおさと屋敷へは忍び込めますまい」
「それで、そなたはいかが致すと申すのじゃ?」
「わたしは……わたしは山を降ります。このまま里へ帰っても、一族の者に迷惑をかけてしまうだけでしょうから」
そう言って歩み去ろうとした來桜丸の背中に、鋭い月姫の言葉が投げつけられました。
「そなたも……そなたも、結局はわたくしを一人にするのじゃな? わたくしを一人置いて、どこかへ行ってしまうというのじゃな?」
その震える声に、來桜丸は信じられない思い出振り返りました。
「皆、みんな、わたくしを一人置いて、どこかへ行ってしまうのじゃ。わたくしはいつも一人ぼっちじゃ。來桜丸、そなたも私の前からいなくなってしまうと言うのなら、今この場で、わたくしの命を取って行くがいい!!」
月姫の頬を濡らす、幾筋もの涙──笑わぬ、泣かぬと言われていた月姫の、初めて流した涙でございました。
「月姫……泣いておられるのか?」
「泣く? わたくしは泣いておるのか? 判らぬ。そなたが、わたくしを置いてどこかへ行ってしまうと言うから。だから、わたくしの胸の奥が痛うて痛うて堪らぬのじゃ。これは何じゃ? わたくしはどうにかなってしまったのか……」
來桜丸は月姫に歩み寄ると、その流れる涙を人差し指ですくい取り、そっと口に含みました。
「貴女は、わたしを恐れぬのですか? この身は、人が忌み嫌う鬼。たった今、貴女の目の前で人を殺して見せた鬼なのですよ?」
「いかにそなたが鬼であろうとも、わたくしにとって來桜丸は來桜丸。そなたに『月姫』と名を呼ばれれば、血の通わぬわたくしの心にも、何やら温かいものが溢れるのじゃ。そなたに名を呼ばれれば、わたくしの心は安らぐのじゃ。どこへも行くな。わたくしの側におるのじゃ」
「姫……姫はわがままでございます」
月姫は來桜丸の胸に寄り添いました。その姫を、來桜丸は大事に大事に抱き締めたのでございます。お互いの気持ちを確かめ合った、至福の時でございました。
しかし──そんな二人を見つめる一対の眼があった事に、ついに彼らは気付かなかったのでございます。
「來桜丸が……鬼? そんな──」
震える口元を押さえ、立ち尽くすのは……如月。
一度は村の入り口まで戻った如月でしたが、やはりどうしても來桜丸のことが気になり、出かけていく二人の後をつけて来たのでした。しかし如月の目に映ったのは、異形の姿となって人を殺めた己の想い人と、その血塗れの手をとって口付ける姫君の姿。互いを大事そうに寄り添いあう美しい二人の姿。
驚愕におびえていた瞳に、次第に涙が溢れて参りました。
「如月とて……如月とて、來桜丸が鬼でも蛇でも構いはせぬのに。なぜに、その姫なのじゃ? どうして如月の方を見てはくれぬ? 來桜丸に先に出会うておったは、如月の方じゃ。なのに、なぜ如月を好いてはくれぬのじゃ!?」
激しい嫉妬が身のうちから湧き上がって参ります。もはや、來桜丸の心が自分の物にならぬと知って、如月の心に闇が生じました。
「おのれ、許さぬ。來桜丸の心が得られぬならば、いっそ──」
その頃、月姫によって結果的に命を助けられた刺客が、都に向って早馬を飛ばしておりました。砂姫が「鬼」に取り憑かれている事を一条の大臣に知らせなくてはなりません。泡を吹き倒れる馬を乗り継ぎ、男は驚異的な速さで都に辿りつきました。
「か、開門! 一条の大臣殿に、火急の御用にございます!」
屋敷内に倒れこんだ男を見て、小者達が騒ぎ立てました。一人の者が屋敷内へと駆け込み、すぐにお目通りが叶う事となったのです。
「一条の大臣殿、ならびにお方様に申し上げます。吉野の山中にて療養中の月姫様は、妖しの鬼に誑かされておいででございます。私は姫様を鬼の手よりお救いせんと奮戦したのですが、相手は妖力甚大の鬼。手勢を失い、とにかく事の次第を皆様にお伝えしなくてはと、命を惜しんで帰ってまいりました」
さすがに『姫の殺害に失敗した』とは言えませぬ。馬上で考えていた口上を述べると、男はガクリと力尽きました。
それを聞いた奥方は、内心の喜びを隠して大臣に告げました。
「旦那様。これは由々しき事態でございます。一条の姫に鬼が憑いたなどと人に知られれば都中の笑い者。なんと恥知らずな姫でございましょう。このような事が、お主上のお耳に入るような事にでもなれば一大事でございます。鬼に誑かされたとあっては、もはやお主上の御前に出せる身体ではございますまい。早々に討伐隊を募り、鬼もろとも姫を征伐してしまうのです。事が済んでから、お主上には奏上致せばよろしいのでございます。鬼に憑かれた不浄の娘を成敗いたしました、と」
実に恐ろしきは、人の心でございます。奥方は自分の娘を帝に差し出すために、月姫を「鬼憑き」の娘として殺してしまえ、と大臣にせまったのです。逡巡する大臣に、奥方はこう囁きました。『家名の恥』と。
帝の怒りを恐れた大臣は、とうとう奥方の言う通り、討伐隊を募って吉野へ向わせてしまったのでございます。
一方、來桜丸は月姫を屋敷へ戻すと、乳母の泰葉にだけは山中で起こった事を伝えました。もちろん、自分が鬼であることは伏せましたが、刺客に襲われた事を正直に話し、屋敷の守りを固めるように頼んだのでございます。
そして一族の隠れ里へ戻り、真っ直ぐ百鬼丸の館へ向いました。
「お館様。よろしでしょうか?」
部屋の真ん中で考え事をしていた百鬼丸は、來桜丸の姿を見ると厳つい顔を綻ばせながら部屋の中へ招き入れました。
「どうした、そのように浮かぬ顔をして」
來桜丸は百鬼丸の正面に座ると、深々と頭を下げました。
「お館様。わたしは鬼の姿を人に見られてしまいました。なおかつ、そのまま逃げられてしまったのでございます。このままでは、この里に鬼が住まうと知られてしまいます。こうなってしまったのはわたしの不始末。わたし一人に罪を被せて、どうぞ里の者たちは何も知らなかった事に……」
百鬼丸は多くを問いませんでしたが、來桜丸は進んで全ての事を語りました。自分が一条の姫君に恋してしまった事。姫の入内が決まり、慌てた義理の母親が姫を亡き者にせんと刺客を送り込んだ事。自分がそれを知り、怒りに任せて男達を殺してしまった事。そして一人に逃げられてしまった事。
來桜丸の告白を静かに聞いていた百鬼丸は、しばしの沈黙の後、來桜丸を見据えて口を開きました。
「して、月姫は何と申された?」
「月姫様は、『鬼と人との間に、どれほどの隔たりがあろうか』と。わたしがわたしである事が、姫にとっては大事なのだと……申されました」
それを聞いた百鬼丸は大きく息をつき、そうか、と呟きました。
「噂に違わぬ、清廉な方よ。來桜丸。我らは『鬼』と恐れられるが、心がある。月姫様は『人』ではあるが、笑う事をお知りにならぬ。どちらが幸せなのだろうな?」
思わぬ問いかけに、來桜丸は百鬼丸の意図が読めず、答える事が出来ませなんだ。
「月姫様の申されるとおり、われら『鬼』と『人』との間にある隔たりなど、僅かなもの。しかし、その僅かな隔たりが、果てしなく遠いのじゃ。それをあえて「ない」と申される姫の強さ。お主、余程、姫の心を捉えたと見える」
そのような事を言われても、來桜丸には返す言葉がありませぬ。
「來桜丸。かような事を申してくれる女人は、この世に二人とはおるまいぞ。月姫様を大事にするのじゃ。お主が姫に、笑う事の楽しさを教えてやれば良い。生きていく事の苦しみや切なさや、それ以上の喜びや嬉しさを教えてやれば良いのじゃ。これは、お主にしか出来ぬ」
何と答えるべきなのか來桜丸が迷っているうちに、百鬼丸は立ち上がり大きく笑いました。
「里の事は心配せずとも良い。我らとて、おさおさ殺されたりはせぬよ。速やかにこの地より立ち去り、別の土地に根を下ろせばいいだけの事。元々我らは、漂泊の民。いかにこの地を追われようとも、住む土地に困る事もない」
そう言うと來桜丸の肩を軽く叩き、部屋を出ていたのでございます。來桜丸は、ただその後姿に頭を下げる事しか出来ませんでした。
その日から、里の者たちは山を出るための支度を始めました。とはいっても、持っていく物はそれほど多くはありませんでしたが、身の回りの細々とした物、機を織るための道具、山を出るのに必要なだけの食料など。百鬼丸の手下は五十人ほどでしたが、その家族を含めれば大層な数となります。旅に邪魔になる大きな家財道具を除いたとしても、一晩や二晩で準備できる量ではありませんでした。
そしてそれが、決定的な結末を招いたのでございます。
里を捨てる支度をしている者達は、詳しい理由を聞いてはいませんでしたが、なんとなく気配で察していたのでしょう。來桜丸と月姫の事が原因だという事を、暗黙の了解として知っておりました。しかし、一人として來桜丸の失態を責める者はいなかったのでございます。それよりむしろ、そこまで心を通わす事の出来た相手と巡りあえた幸せを寿ぎました。來桜丸もあえて多くを語らず、皆の温情に黙って頭を下げておりました。
荷造りもそろそろ終わり、明日には里を引き払う、という晩。百鬼丸の館に如月が訪ねて参りました。これまで、里にやってくるのは昼に限られていた如月がなぜ? といぶかしみ、來桜丸は如月に呼び出された里の入り口までやって来ました。
「このような夜更けに、一体どうしたのじゃ?」
「來桜丸。お主、如月に隠しておる事があるじゃろう?」
「何を言い出すのじゃ? 今晩はもう遅い。早く村へ帰るが良い」
來桜丸が如月を送って行こうとしたその瞬間。如月は思いがけない言葉を口に致しました。
「如月は知っておる。お主が鬼じゃと言う事を。先日、川縁で男達を殺したであろう? 如月は見ていたのじゃ」
その言葉に來桜丸は凍りつきました。見られた? 鬼である姿を?
「如月は誰にも言わぬ。だから、ここに残って、一緒に暮らそう? 來桜丸、如月と一緒にここで暮らそう。お主が鬼でも構わぬ。お主の事が好きなのじゃ!」
如月が來桜丸の着物にしがみついてきます。その肩に手をかけ、ぎこちない仕草で來桜丸は問いかけました。
「見て……いたのか?」
娘はこくりとうなずくと、來桜丸の胸に愛しそうに頬を寄せました。
「砂姫の所へなど行くな。如月と共に暮らすのじゃ。そうしてくれれば、誰にも言わぬ」
うっとりと眼を閉じる如月へ、來桜丸は語りかけ始めました。
「月姫と出会わなければ、あるいは、お前の気持ちを受け止める事が出来たやも知れぬ。しかし、わたしは月姫と出会うてしまった。唯一無二、この人だけだと思えるお方に出会うてしまったのじゃ。済まぬ。如月の気持ちは嬉しいが、わたしにはその気持ちに応える事が出来ぬ……」
如月はその言葉を聞くと、來桜丸の胸に添えた両手を握り締め、彼の鬼の身体を突き飛ばしました。
「おのれ……。あくまでも、あの薄気味悪い姫を取ると言うのじゃな? ならば、早う行くが良い。都から来た武士どもが、一条のお屋敷を取り巻いておるわ。鬼に取り憑かれた姫を、成敗するのじゃというてな!」
「何じゃと……?」
「はよう行かねば、愛しい姫様が殺されてしまうぞえ? はは! ほほほ! 速く駆けて行くが良い! 間に合えば良いの!!」
毒に満ちた言葉でございました。この時の如月の形相こそ、まるで鬼のようでございます。そう。來桜丸愛しさに、如月は嫉妬の鬼となってしまったのです。
來桜丸は慌てて館から馬を牽き出すと、月姫の屋敷めがけて夜道を駆け出しました。その背中には、突き刺さるような如月の笑い声……。しかし、來桜丸には如月の事を案じている暇などございませんでした。間もなく見えてきた月姫の屋敷は、赤々と松明で照らし出され、恐ろしい悲鳴が闇を切り裂いているのでございます。
「月姫っ!!」
來桜丸は屋敷を取り囲む武士達の中へ踊り込み、その爪で幾人かの喉笛を切り裂き、胸板を貫き、刀を奪って荒れ狂いました。その凄まじい姿に周囲がひるんだ隙に、屋敷内へ入り込む事が出来ました。
「姫! 月姫! 月姫様は、いずこにおられる!?」
馬を飛び降り、階を駆け上がり、來桜丸はただひたすらに、愛しい姫の姿を捜し求めました。ここそこで、屋敷に勤めていた者達の変わり果てた姿に出くわしました。何の罪もないはずの者達が、まるで虫けらのように殺されているのです。
「貴様! 何奴じゃ!!」
背後から吹き付けるような殺気と怒号が響いてまいります。
「貴様が鬼じゃな? そこへ直れ、この俺が成敗してくれるわ!!」
「やかましい! 邪魔じゃ、どけ!」
振り翳した刀を腕ごと叩き斬られ、聞き苦しく泣き喚いている男を捨て置き、來桜丸は部屋から部屋へと月姫を捜し求めました。
「月姫!! どこにおられるのです!?」
「來桜丸…?」
來桜丸の呼び掛けに、脇にある小部屋から声が致しました。気付いた來桜丸が引き戸を蹴破ると、そこには泰葉を抱いた月姫がおられました。
「月姫! よくぞ、ご無事で」
「わたくしの代りに、泰葉が傷を」
よく見れば、泰葉の身体は背後から袈裟懸けに斬られておりました。泰葉を支える月姫の両手も血で染まっております。
「ここにいては危のうございます。ひとまずは、わたしどもの里へお出でください」
そう言って、泰葉に手を貸そうとした來桜丸を、女房の冷たい手が止めました。
「來桜丸殿……。わたくしの事は捨て置きくださいませ。もうそれほど、長くは生きられませぬ。わたくしを連れて逃げれば、足手まといになるだけ。それよりも、どうか姫様を。月姫様を、どうぞよろしくお頼み申し上げます……貴方なら、きっと姫様に笑う事を伝える事が出来るはず……」
そして自分を支える月姫の手を、そっと來桜丸の手に握らせました。
「姫様、どうぞご無事で……。來桜丸殿と、きっと幸せになってくださいませ──」
それが泰葉の最後の言葉となりました。静かに微笑みながら、老女は息を引き取ったのでございます。
「泰葉? 泰葉!?」
月姫の声に胸を引き裂かれそうになりながらも、來桜丸は月姫を守るために立ち上がりました。ここでぐずぐずしている訳にはまいりません。どうやら、外にいる者達が、屋敷に火を放ったようでございました。きな臭いニオイが漂ってまいります。
「どうか、姫。ここで死んでしまわれては、泰葉殿の死は無駄になってしまいます。わたしが命に代えてもお守り致します。早く!」
あちこちで上がる火の手をかいくぐり、二人は屋敷の外を目指しました。回廊を回り、屋敷の裏手に出ると、そのまま山中へ逃げ込もうとしたのでございます。廊下を飛び降り、月姫の手を取って走る來桜丸の前に──。
「どこへ行こうというのじゃ?」
「……如月」
ゆらりと、どこからともなく、如月が現れたのでございます。
「どいてくれ、如月」
「鬼の隠れ里へでも逃げ込もうと言うのかえ? それは無駄と言うものじゃ」
冷酷な微笑みをたたえた如月の言葉には、どこまでも毒が染み付いております。
「どういう意味じゃ?」
「ほほほほ!! お主の里など、もうすでにないわ! 都から来た討伐隊が、鬼どもを平らげてしまったのでな! 男衆も女衆も皆殺しじゃ。鬼と言えども、寝込みを襲われてしまえば、他愛のないものじゃ。満足に反撃も出来ぬまま、そろって地獄へ帰って行ったわ! 百鬼丸の首は、里の入り口に晒されておったぞ」
一族の隠れ里までの道は巧みに隠されており、慣れた者でなくては見つけることが出来ぬはず。なぜ、都の者どもに分かったと言うのか?
「不思議そうな顔じゃな? 教えてやろう。わたしが教えたのじゃ。山深くに住む、鬼の一族の隠れ里を、わたしが教えたのじゃ!!」
言葉を失くしてしまった來桜丸の陰から、月姫が姿を現し、如月と対峙しました。
「そなた、なぜ隠れ里を教えたのじゃ? そなたが欲しかったのは、來桜丸ではないのか? ならば、里の者達は関係なかろう」
月姫を目にした如月は、眦を吊り上げて申しました。
「煩い! 元はと言えば、お前が悪いのじゃ! お前さえ出てこなければ、來桜丸は如月のものになったのに! 來桜丸が手に入らないのなら、誰の手にも渡さぬ。お前にだけは、渡しはせぬぞ! どこへも行かせぬ! 來桜丸はここで死ぬのじゃ。そして、わたしは來桜丸の骨を抱いて暮らすのじゃ。だから、邪魔な鬼どもを始末したのじゃ!!」
「そして、そなたも鬼になったのじゃな?」
「そうじゃ! 來桜丸が恋しくて恋しくて、わたしは嫉妬の鬼になったのじゃ!」
「如月、とか申したか。わたくしはそなたが羨ましい。それほどまでに誰かを恋焦がれ、我が身を鬼にまで成そうとは……。だが、わたくしもそなたに來桜丸を渡す事は出来ぬ。もはやわたくしも、來桜丸のおらぬ暮らしは考えられぬ。わたくしにとって、來桜丸は命にも等しい、大事な者なのじゃ」
月姫の告白に、來桜丸はその毅然とした姿を見つめて立ち尽くしておりました。しかしその時、屋敷を取り囲んでいた武士達が、裏手にいる三人を見つけてしまったのでございます。
「おったぞ! あそこじゃ!」
「逃がすでない!!」
瞬間、月姫の気持ちがそちらへと逸れました。それを知った如月は、狙いを定めて月姫へ飛び掛りました。
「お前だけには、來桜丸を渡すものか!!」
ドウッ!
如月の揃えた五指の爪は、狙い違わず心の臓を貫いておりました。
「あ──、どうして──」
食いしばった口元からは、糸の様に血が滴っております。如月の腕を掴み、その爪に胸を貫かれているのは……。
「「來桜丸っ!!」」
二人の女の悲鳴が重なりました。如月が月姫に襲い掛かった瞬間、來桜丸は月姫をかばい二人の間に身を投げ出したのです。
「なぜ? なぜじゃ!?」
「如月……お前には、詫びても足りぬ。だが、わたしは月姫を選んでしまった。月姫の他に、誰もわたしの心を動かせるものは……いないのじゃ」
震える如月が、來桜丸の胸から指を抜き出すと、支えを失った來桜丸の身体は地面へ倒れこみました。
「來桜丸! 來桜丸ぅ!!」
その身体を抱き起こし、月姫が來桜丸の名を叫びました。驚きと恐怖に彩られた瞳。そんな月姫の瞳を、霞んでいく視界に必死に焼き付けながら、來桜丸は微笑んで見せました。
「ご無事で?」
「なぜ、わたくしをかばった!? そなたがいなくなってしまったら、わたくしはどうすれば良いのじゃ? 泰葉が申したであろう? わたくしに笑う事を教えてくれるのではなかったのか? 來桜丸!!」
「月姫様──貴方様は、わたしの命。でも、わたしと共におられると、貴方は泣いてばかりおられる。わたしは貴方に、生きる事の楽しさを教えて差し上げたかった……。わたしに、人を愛する心がある事を教えてくださった貴方に、嬉しさや喜びを教えて差し上げたかった……」
「死んでは駄目じゃ! 教えておくれ! 笑う事も、苦しむ事も、楽しむ事も、怒る事も、そなたが教えてくれなくては、わたくしには分からぬのじゃ!! そなたでなくては、駄目なのじゃ!!」
來桜丸の顔に、大粒の涙がぱたぱたと落ちては広がっていきます。來桜丸は力を振り絞り、腕を伸ばして月姫の頬に触れました。そして流れる涙を拭うと、花の様に美しく笑んで見せたのでございます。
「姫は、わがままじゃ。……わたしの名は、來桜丸。桜の花咲く頃、必ず、貴女をお迎えに参ります。どうかその時にわたしが道に迷わぬように、桜が咲いたら、琵琶を奏でてくださいませ……。その音に導かれて……必ず、貴女を迎えに参ります──」
それが最期の言葉となりました。月姫の頬に触れていた來桜丸の手が、力なく地面に落ちました。
「いや…いやじゃ! 來桜丸! 逝っては駄目じゃ! 目を開けておくれ!!」
來桜丸の身体にすがりついた月姫の手の中で──。
ザゥッ──!
一陣の風と共に、來桜丸の身体は無数の桜の花びらとなって舞い散ったのでございます。後に残されたのは、月姫の腕の中にある、來桜丸の衣だけ……。
「逝って……逝ってしまった……。わたくしの愛した美しい鬼は、わたくしを置いて、逝ってしまった……」
「──その後、月姫と如月はどうなってしまわれたのですかな?」
私の問いに、老婆は咲き誇る桜の花へと視線を移し、
「月姫は、討伐隊と共に都へ移され、鬼払いの祈祷を散々受けさせられたのでございます。しかし、ある日忽然と屋敷から姿をくらまし、そのまま帰らなかったと申します。一方の如月は、己の所業を恥じ、鬼の身でありながら髪を落とし出家して、自分が手にかけてしまった來桜丸とその一族の菩提を弔いながらその後の生を終えたと聞き及んでございます」
「……月姫は、來桜丸と再び巡り会う事が叶ったのでございましょうか?」
「さて……それはいかがでございましょう?」
老婆は再び琵琶を抱え直すと、不思議と景色を映してはいないように思える瞳で私を捉えた。
「年寄りの繰言に付き合ってくださり、かたじけのうございました。ここより先は、來桜丸、そして百鬼丸の一族が眠る土地。出来れば、このまま静かに眠らせてやりとうございます……」
「あい分かった。私は鬼の土地へは踏み込まず、この場を去るといたそう」
静かに頭を垂れる老婆を残し、私は桜舞い散る山道を元来た方へと歩み始めた。
不思議な話を聞いたものだ。悲しく、切なく、そして美しい物語であった。それはそうと、あの老婆は一体何者であったのか?
私がそう考えた時、一陣の強い風が、桜の花びらを舞い上げた。そして…。
『──月姫。長き時を、お待たせ致しました』
『來桜丸か? 待っておった。いつか、きっと出会えると信じて……』
私の耳には、確かに聞こえたのである。聞いた事はないが、あれは確かに美しく優しい鬼・來桜丸と、笑う事を知らず愛する者を失った美貌の姫・月姫の声に間違いない。
慌てて踵を返し、先程、老婆が座っていた場所まで取って返した。
しかしそこには、老婆が抱えていた琵琶がぽつねんと置かれているだけである。辺りを見回した私の目に、咲き誇る桜の木々の間から見え隠れする男女の姿が映った。優しげに微笑む若者は、きっと來桜丸なのだろう。その腕に抱かれて、幸せそうに笑っているのは、きっと月姫なのだろう。
「貴女は、ずっと待っていたのだな。桜の花の咲き誇る季節、約定を交わした愛しい鬼が、自分を迎えに来てくれる事を信じて」
寄り添う二人は、静かに花霞の中へ消えて行った。
笑う事を知らなかった薄倖の姫は、愛しい鬼と再び見まみえる事で、ようやく幸せに笑う事を知ったのである。
私はその場に残された琵琶に、そっと手を合わせた。
了
満開の桜が舞う吉野山。
そこで出合った二人は
共に哀しみを背負った者
同士だった。
桜舞う季節
必ず 貴女を
迎えに参ります。
男は“鬼”として生まれてくるのだという。
女は生きながらにして“鬼”に成るのだという。
「いやあぁぁ! この子を、この子をどこかへ! このような忌まわしい子など、妾の産んだ子ではない!」
それが、生まれたばかりの彼に投げつけられた、初めての言葉だった。
「いかに美しかろうとも、笑わぬ泣かぬ姫では面白くも可笑しくも無い。白拍子の方が、まだ可愛げがあろうと言うものじゃ」
それが彼女に向けられた、世の評判の全てだった。
満開の桜が舞い散る吉野の山を、私は一人歩いていた。この山の桜は、圧倒的な存在感で人間に迫ってくる。私が桜を見ているのではない。桜が私を見ているのだ。
踏み固められた道を歩いて行く。特に行き先が定まっていた訳ではない。言うなら、桜に誘われ、桜に導かれて、といった所か。
山から吹き降ろしてくる風に桜の花びらが舞う。その風に、微かすかに琵琶の音色が混じる。
嫋々と。そしてまた嫋々と。
その琵琶に誘われて歩みを進める。
一人の老婆が琵琶を抱え、桜の根元に座している。何処を見ているのか判らぬ瞳に映るのは、現世うつつの桜か、幽世の華か?
「旅のお方かえ? ここから先は鬼が出る。お止めなされ」
琵琶を弾く手を止め、老婆が私の方へ顔を向けた。その目には、果たして私が映っているのか。
「旅という程の事もない。ただ桜に誘われ、桜に魅入られての一人歩き」
歩みを止めた私の目には、老婆がわずかに笑んだような気がした。穏やかな表情は気品に満ちている。琵琶の腕前から考えても、それなりの家柄の出なのだろう。
「急ぎの道行きでないのであれば、しばし、この婆の昔語りに付きおうては下さらんか? ここで待ち合わせる約定。なれど、少しばかり早かったようじゃ」
私も先を急いでいる身ではない。それに、この不思議な老婆に興味を惹かれていた。
「私でよければ、お付き合いいたしましょう」
桜の花びらの敷き詰められた吉野の山中。異界に迷い込んだか、妖かしの術にでもはまったか。それでも良いか。そう私は思ったのだ。
「旅のお方。お主様はご存知でございましょうか? この吉野の山には“鬼”が出るという──そう、今から五十年ほども昔の事でございます……」
吉野の山には鬼が住む。
確かにこの山には、鬼の一族がございました。頭目の名は「百鬼丸」といい、五十人ほどの手下を連れて、人里はなれた山奥でひっそりと暮らしておりました。
もともとは京の都を荒らしまわった鬼の一族・刃雷丸に与しておりましたが、生来、血を好まぬ性質であった百鬼丸は一族を抜け、この吉野の山に入ったのです。それ以来、鬼たる証を隠し、人目を避けて暮らしておるのでございます。
その一族の中に、ひときわ美しい若鬼がございました。
その名を、來桜丸と申しました。鴉の濡れ羽色の黒髪。すらりと伸びた手足。凛々しい顔立ちの若者を、鬼たらしめているのは、額から突き出た二本の角。しかし真珠色に輝く角は、若者の美しさを損なうものではなく、かえって、來桜丸の容姿を引き立ているのでございます。
「鬼子」として生まれてすぐに実の親から捨てられた來桜丸は、吉野の百鬼丸に拾われ、一族の中で育てられました。年若い來桜丸は、自分を捨てた親を恨むでもなく、まっすぐな心根の優しい若者でございました。
いつも鬼の里から程近い、山深くの滝へ出かけては山の動物達と戯れるような若者だったのでございます。
季節は春。満開の桜は舞い散り、風は心地よく肌を包む春。
下弦の月が白々と桜を照らし、來桜丸の眼を楽しませておりました。月明かりに誘われて、百鬼丸の館を抜け出した來桜丸は山中を散策しながら、滝壺の方へ向って歩を進めていったのです。やがて、柔らかな風に乗り、來桜丸の耳に琵琶の音が聞こえてまいりました。
嫋々……嫋々。
このような夜更けに滝から琵琶の音が聞こえるなど、妖かしが旅人を惑わそうとしているのか……。好奇心が揺らいだ來桜丸は、琵琶の音につられて滝へと向ってまいりました。
白い月明かりを浴びて、滝壺へ向って琵琶を弾いている女人の後姿が目に入り、來桜丸は足を止めて、しばしその琵琶に音に聞きほれておりました。染み入るような琵琶の音は、高く低く、悲しく切なく歌っております。
來桜丸がもっと近くへ寄ろうとした瞬間、女人の指が止まり、琵琶の音が絶え、辺りは静寂に包まれたのでございます。
「何者じゃ?」
微かに後ろを振り返り、誰何の声を上げたその顔の美しさ。くっきりとした鼻梁に月が淡い陰を落とし、夜目にも紅いその唇は意思の強さを感じさせて一文字に引き結ばれおりました。
「これは、失礼。あまりにも美しい琵琶の音が聞こえてきたもので、つい……」
女人は表情一つ動かさずに來桜丸へ向き直り、しげしげとその顔を見つめながら口を開き、こう申したのです。
「かような刻限に一人で夜歩きとな。そなた、妖かしの類かえ? わたくしを喰ろうても、美味くはなかろうよ」
「い、いや。わたしは來桜丸。この吉野の山奥に住む者で、妖かしではありませぬ」
「そうなのか? 別に妖かしでも構わぬ。どうせ、わたくしが死んでも、誰も悲しみはせぬ」
命芽吹く春の夜に、なんとも物騒な事を口にする女人でございます。來桜丸は少々驚きながらも、女人に名前を尋ねてみたのです。
「わたくしの名など知ってどうするのじゃ?」
山から吹いてくる風に軽く結い上げた髪がふわりと舞い、來桜丸の鼻先を掠めました。ほのかに伽羅の香が鼻腔をくすぐり、來桜丸は一族以外の者と初めて口をきいた事を意識し始めたのでございます。
「では、何とお呼びすればよいのです?」
「……砂姫、と。皆はそう呼ぶ……」
これが、來桜丸と砂姫の出会いでございました。
「壱鷹の兄者、砂姫を知っておられるか?」
昨晩に出会った砂姫と名乗った不思議な女人の事を、薪割りをしていた年嵩の鬼に尋ねてみる事にしたのでございます。こんな気持ちは初めてでございました。気になって気になって仕方がないのでございます。
「砂姫? ああ、都の一条の大臣の姫の事じゃろう。都でも評判の美しい姫じゃと聞くが、難ありじゃぞ」
「難……とは?」
壱鷹は斧を振り上げる手を休めると、切り株に腰掛けて來桜丸を見上げました。
「一条の大臣の姫は、真の名を月姫と申される。生まれた時に、月の様に麗しい顔の赤子じゃというて付けた名前らしいのじゃが、これが長じても一向に笑わぬ娘でな。訝しく思った大臣が、高名な陰陽師を頼んで見てもらったところ、『月にも勝る』と付けた名前に月神が怒り、姫から心を奪っていったと申したのじゃ。それ以来、姫は笑いもせぬし、泣きもせぬと言うぞ」
額に流れる汗を拭って、壱鷹は不思議そうに來桜丸を見つめて申しました。
「何ゆえに、砂姫の事など聞くのじゃ?」
來桜丸は逡巡の末、昨夜、館を抜け出し滝壺で出会った女人が砂姫と名乗った経緯を壱鷹に話したのでございます。
話を聞き終わった壱鷹は腕を組んで考え込んでおりましたが、やがてぽつりと、噂はまことであったか。と呟きました。
「兄者、噂とは何なのです?」
「ん? ああ。砂姫を生んで間もなく、母御は産後の肥立ちが悪くて亡くなったのだと聞く。今の母御は大臣の後添いで、砂姫には義理の母御となる。この母御と大臣との間には、もう一人姫がおるのじゃ。母御殿は自分の生んだ姫を何としても入内させたいらしいのじゃが、当の帝が砂姫の噂を聞きつけ興味を持ったというのじゃ。笑わぬ姫なら、自分が笑わせて見しょうとな……」
それを聞いた來桜丸は、自分の胸の中に硬い、尖ったモノが刺さったような気がしたのでございます。しかし、まだその時は、それが一体どのような意味を持っているのか、來桜丸自身にも判りはせなんだのでございます。
「それを知った母御殿が、病平癒を祈願すると謀って、砂姫を吉野の別宅へ移らせていると聞いたが……どうやら、本当らしいの」
滝壺に向かい、ただひたすらに琵琶を奏でていた姫。自分が死んでも誰も悲しむ者はいないと、何事もないかのように口にする姫。笑わない、泣かない姫。だからといって、心がない事になってしまうのだろうか?
來桜丸が自分の考えに沈みこんでしまおうとした時、自分を呼んでいる声が耳に入ってきたのでございます。
「來桜丸! どこにおるのじゃ?」
声の主は如月という名の年若い娘。麓の村に住む娘で、年の頃なら十五・六。大きな目が印象的な元気の良い娘でございます。結いもせずに流した髪を揺らしながら、館の裏庭へ駆け込んで参りました。
「おお、これはこれは。わしが來桜丸を一人占めしていると知れたら、如月に何を言われるか知れたものではない。早う行ってやれ」
冗談めかして壱鷹に促されると、來桜丸は軽く一礼してその場を離れたのです。
「如月、何か? わたしはここじゃ」
山と積まれた薪の陰から顔を出した來桜丸の姿を認めると、如月はパッと顔を輝かせ、彼の鬼に走りよりました。
ドンッと身体全体で來桜丸にぶつかってようやく足を止め、上気した顔で見上げてきます。
「ああ、來桜丸。村の庄屋さまが、今回預かった反物は思いの他高値で売れたので、この次からは反物の数を増やしてもらっても構わないと。それから、これが今回の代金」
息を切らしながらそう言うと、懐の奥から大事そうに財布を取り出しました。
「この次に荷を卸しに行く時で良かったのに。わざわざ、それを届けに来ておくれなのかい? この山道、大変だっただろうに」
來桜丸の言葉に、如月は頬を桜のように染めて言いました。
「來桜丸は優しいの。良いのじゃ。如月が届けると、庄屋さまにお願いして出て来たのじゃから。それに、來桜丸にも会いたかったし……」
最後の方は声が小さくなって、來桜丸の耳には届きませなんだ。
鬼の一族が住む隠れ里では、女衆が織る反物を麓の村に卸し、それを町で売ってもらって糊口を凌いでおりました。如月と來桜丸はそのときに知り合ったのでございますが、娘は美しい鬼の若者に一目で恋をしてしまったのでございます。それ以来、何かと用事を見つけては、麓の村から隠れ里へと通うようになっていたのです。
しかし、來桜丸は「好かれる」「人に愛される」という事が良く分かりませぬ。養い親の百鬼丸は愛情をもって育ててくれましたし、里の者達も良くしてくれてはいます。ですが、それはいわば「同族愛」であり、如月のように恋しい気持ちとは違うのでありましょう。
「では、お館さまにお伝えしよう。ついておいで」
如月は、自分の気持ちが來桜丸に伝わっていない事を知っておりました。ため息を一つつくと、來桜丸の後について百鬼丸の館へ足を向けたのです。でも、如月は思っておりました。いつかは自分の気持ちに來桜丸が気付いてくれると。そして、二人で暮らすのだと、夢描いていたのでございます。
百鬼丸は如月の伝えた庄屋の言葉に大層喜んで、次の荷を卸すときは、反物の数を増やす事を承諾してくれました。そばで聞いていた女衆の者達も嬉しそうにしております。正体を明かして人前に出れば、「鬼」と恐れられ蔑まれる事を承知している彼らです。自分の作った物を評価してもらい、褒めてもらえる事はこの上ない喜びでございました。
「下の村まで送っていこう」
來桜丸の言葉を聞いて、如月はパッと顔を輝かせました。それをみて來桜丸は、「こんなに喜ぶのであれば、今度砂姫に出会ったときには館まで送って行くことにしよう」などと考えていたのでございます。
桜の咲き乱れる山道を歩きながら、來桜丸と如月はとりとめもない話を続けておりました。ハラハラと舞い落ちる花びらが、二人を掠め、辺りを薄紅色の景色に変えておりました。
「吉野の山の桜は、都の桜に比べると強い感じがするな」
桜を見上げた來桜丸の横顔は、まるで一服の錦絵のように美しく、如月はつかの間うっとりとそれを見つめておりました。
「如月?」
不思議そうにかけられた來桜丸の声に、はっと我に返った如月は火照った顔を隠すかのようにプイッと横を向き、少しぶっきらぼうに答えました。
「まるで、都の桜を知っておるような口ぶりじゃな。どうせ、都の桜など見たこともないのであろう?」
「いや。幼い頃に、見たことがあるのじゃ。と言っても、ほんの僅わずかの間しか都にはおらなんだのでな。あまり良くは覚えておらぬ。しかし、都の桜はもっとしなやかな感じがしたように思う。ここの桜達はどっしりとしておるな。まるで、何もかもを見守り、包み込むかのようじゃ」
「來桜丸、都に住んでおったのか?」
如月は來桜丸の事をあまり知らない事に気が付いたのでございます。來桜丸だけではございませぬ。山深くの里に住んでいる者達が、いつからそこに住みついたのか、一体どのような者達なのか、それすらも知らない事に初めて思い至ったのでございます。
「來桜丸は、あまり自分の事を話してはくれぬのじゃな」
「話すような事を持ち合わせておらんのじゃ」
「如月は、來桜丸の事なら、何でも知りたいと思うておるのに……」
「そのように、私の事を知って何とする?」
來桜丸にとって、自分の全てを知られると言う事は、すなわち『鬼』である事を知られる事に他なりませぬ。その警戒心が声に表れたのでしょう。如月は慌てて手を振りました。
「いいのじゃ。今のは、忘れておくれ」
そうして、ここからは一人で帰れると、來桜丸の声を振り切って走り出したのでございます。残された來桜丸は、どうして如月が自分の事を知りたがるのか、なぜ突然走り出してしまったのか判ろうはずもございません。鬼の身である自分が、人に好かれるなどと考えた事もないからでございます。
首をかしげながらもと来た道を引き返し始めると、木々の間から、物々しい行列が山中に入ってくるのが見えました。咄嗟に身を隠し行列の行方を見つめていると、それらの行列は來桜丸のいる道を逸れ、見えなくなっていきました。
身を隠しながら、來桜丸は考えました。あの行列はなんなのか? もしや、吉野の山中に隠れ住む鬼の一族を討ち果たしに来たとしたら……。恐ろしい考えに至り、來桜丸は木々の陰に身を隠しながら、行列が消えていった道の方へと歩を進めました。
一族が住まう隠れ里とは違い、道は良くならされ、徐々に開けた場所へと向っていきます。やがて、高い柵で囲まれた貴族の屋敷が見えてまいりました。行列はその館へと入っていったのでございます。行列の中には、どうやら輿のような物も見て取れました。物陰に潜み様子を伺っていると、輿の中から煌びやかな衣装を纏まとった僧侶が降り立ったのでございます。僧侶は侍者と共に館の中へ入ってゆきました。
隠れていた物陰から出てくると、來桜丸は屋敷へ向ってゆっくりと歩いてまいりました。このような場所に屋敷を構えるとは、いったいどのような貴族なのでしょう。つい、好奇心が勝ってしまったのです。ほんの一瞬、辺りに対する警戒心が緩みました。
「何者ぞ!」
屋敷の柵の中を覗き込もうとしていた來桜丸は、背後からかけられた誰何の声に驚いて振り向きました。そして、油断した己を悔やみました。
「わたしは……。わたしはこの吉野の山中に住まう者でございます。山道を歩いておりましたら、こちらの行列が見えたものですから、ついどなたがお越しになられたのか気になりまして。ご無礼致しました。申し訳ございません」
來桜丸が頭を下げると、声をかけた人物が近寄ってきたのでございます。どうやら屋敷の警護をしている検非違使のようでございます。來桜丸は内心、舌打ちをしておりました。検非違使は手にしていた長弓を來桜丸の頤にあて、下げた頭を無理やりに上げさせました。まじまじと彼の顔を覗き込み、その美しい顔に見入りました。
「怪しげな奴よ。ここを都の重鎮、一条の大臣の別宅と知っておったのではないのか? 盗みに入る算段でもしておったのであろう」
困り果てた來桜丸が、どのようにして逃げ出そうか考えていたその時、思わぬ所から救いの手が差し伸べられました。
「その手を離しや」
凛とした声が響き渡り、來桜丸がそちらへ視線を投げると、屋敷の回廊に砂姫の姿があったのでございます。來桜丸に手をかけていた検非違使はその言葉に、畏まりながらも「ですが」と口を開きかけました。
「その者は、わたくしの知り合いの者です。そなたが怪しむほどの者ではありませぬ。わたくしが出かける為に、呼び寄せたのです。これ以上わたしくの客人に無礼を働くと、いかに警護の者とはいえ承知しません」
表情の動かぬ顔で静かに淡々と語る砂姫は、その無表情ゆえに、かえって気品高く映りました。検非違使は納得いかない顔付きでございましたが、他ならぬ屋敷の主にそう言われてしまってはどうしようもございません。ご無礼致しましたと堅苦しく礼をして、一歩脇に下がりました。姫は階を降り、來桜丸を手招きいたしました。
「出かけます。わたくしに付き合いなさい」
來桜丸が黙って頭を下げていると、回廊の端から初老の女房殿がやってまいりました。階に立つ砂姫の姿を認めると、目を丸くしながら近寄ってまいります。
「姫様。何処へ参られます? 間もなく御坊様のご祈祷が始まりまする。姫様の御病気平癒のご祈祷でございますのに、何処へお出ましになられるのでございますか?」
祈祷? 來桜丸は、壱鷹に聞いた話を思い出しました。砂姫は、病療養を名目にこの吉野に連れてこられたのだと。
「泰葉、心配はいらぬ。少し歩いてくるだけじゃ。わたくしが居なくとも祈祷は出来よう。どうせ父上が寄越した体面だけの祈祷。今さら祈ったとて、わたくしが変わる訳でもあるまい?」
泰葉と呼ばれたこの女人は、話から察するに砂姫の乳母のように見受けられました。
「しかし、その者は……?」
「案ずるでない。吉野の山の者じゃ。この者がおれば、おさおさ山の中で迷う事もあるまい」
そして來桜丸に視線を移すと、
「支度をして参る。そなた、そこでしばしお待ち」
と、声をかけ回廊を行ってしまわれました。後に残されたのは、どうして良いのか判らぬ來桜丸と、心配そうに姫の後姿を見送る乳母の二人。
「……そなた、名は?」
躊躇がちにかけたれた声に、來桜丸は静かに答えました。
「吉野の山中に住まう者で、來桜丸と申します」
「さようか……。姫様とはいかような?」
泰葉にとっては、それこそが一番の心配事なのでしょう。得体の知れない若者を、いきなり客だと言われても戸惑うばかりでございます。さて、何と答えたものでしょう。素直に『以前、夜の滝で……』と正直に答える事は出来なかったのでございます。常識で考えるなら、身分ある貴族の姫君が、夜更けに一人で山中の滝に居たなどという事が有ろうはずもありません。しかしそう答えたばかりに、姫がこの先屋敷から出られぬような事になっては困ります。どう考えても、夜更けに屋敷を抜け出したとしか考えられないのですから。
「以前、道に迷われ難儀しておられた時に知りおうたのでございます。その時は、一条の大臣の姫君とは知らず、大変なご無礼を……」
苦し紛れの言い逃れでしたが、泰葉は信じたようでございました。たびたび屋敷を抜け出しては、一人でどこかへ出かけているのを知っておられたのでしょう。
「來桜丸殿。どうぞ、姫様をお願いいたします。都の口さがない者達は、姫様の事を悪し様に申しておりますが、本当に心根の優しい方なのです。生まれてすぐに母君を亡くされ、義理の母君様には抱かれた事もないのでございます。優しき言葉の一つも掛けられた事のない姫様が、笑えぬようになるのは当たり前のことでござりましょう」
袖口で目元を押さえながら、泰葉は來桜丸に訴えたのでございます。
「いや、女房殿。そのような事を、わたしのような得体の知れない者に語ってしまって、良いのでございますか?」
慌てた來桜丸がそう申しますと、泰葉は目元を拭い、ようやく顔を上げました。
「良いのでございますよ。來桜丸殿は、姫様がお呼びになられた方。それだけ、姫様が心をお許しになられたのでございましょう。本来ならば身分がどうのと、うるさい事を申し上げるべきなのでしょうが、貴方様とおられた姫様は、なにやら楽しげな様子であらしゃりましたのでな。わたくしは、姫様が幸せであられればそれで良いのでございます」
そしてもう一度、姫様を頼みます。と深々と頭を下げたのでした。
「待たせたな。では参ろうか」
振り返ると、緑の黒髪を頭上高く結い上げ、単に切袴姿の砂姫が立っておられました。
小者が馬を牽いてくると、來桜丸に向って
「そなた、馬には乗れるのか?」
と尋ねられました。
「たしなむ程度には……」
「良い。吉野の山中を案内いたせ」
泰葉に「いってらっしゃいませ」と送り出され、來桜丸は砂姫の後ろに跨ると手綱を取りました。
桜舞い散る吉野の山を、二人を乗せた馬がゆっくりと進んでいきます。來桜丸は、自分の両腕の間にいる砂姫の髪や召し物に焚き染められた伽羅の香りに、胸が高鳴るのをとめられませんでした。馬が揺れるたびに、姫の身体が來桜丸の身体に触れるのです。まるで心の臓が口から飛び出してしまう程にドクドクと脈打つのでございます。
生まれてから、このように間近で女性と接した事のない來桜丸にとって、戸惑うばかりの出来事でございました。
屋敷から遠ざかり、人目に付かない所まで馬を進ませた來桜丸は、思い切って口を開く事にしたのです。
「月姫様──と申されるのですね。先日は大変失礼致しました。一条家の姫君とは露知らず、ご無礼申し上げました。また、此度はお助け頂き、感謝の言葉もございませぬ」
「月……姫か。その名で呼ばれたのは、久方ぶりじゃ。皆はわたくしを笑わぬ姫、砂のように味気ない姫よと嘲って、砂姫と呼ばれる。わたくしの本当の名前を呼ぶ者は、泰葉とそなたの二人だけじゃ」
「ご不快だったでしょうか? わたしのような下賎の者が、姫様のお名を口にするのは失礼かと思ったのですが……。どうしても『砂姫様』とはお呼びしたくなかったのでございます」
「何故じゃ?」
感情のこもらぬ声で尋ねられて、來桜丸は言葉に詰まりました。
「それは……。わたしにも判りかねます。どうしてなのでしょう?」
「おかしな奴じゃのう。聞いておるのは、わたくしじゃ。なぜと問われても、答えられるはずもなかろう」
「お嫌でしたら、もう二度とお名前ではお呼び致しません」
恐る恐る聞いた來桜丸の耳に飛び込んできたのは、思いも寄らぬ言葉でございました。
「構わぬ。そなたに『月姫』と呼ばわれるのは心地よい。泰葉だけに許しておったのじゃが、そなたもわたくしを『月姫』と呼ぶが良い」
砂姫──いえ、月姫と來桜丸の間に、確かに何かが生まれつつありました。この日から、來桜丸は月姫の散策に従うようになったのです。二人でそぞろ歩く姿が、吉野の山で見かけられるようになりました。
「來桜丸! 來桜丸はどこじゃ?」
一族の隠れ里に、如月の声が響き渡りました。ちょうど百鬼丸の屋敷から出ようとしていたところであった來桜丸は、如月の声に顔を出しました。
「どうした、如月。そのように大きな声で」
來桜丸の姿を認めた如月は、口を尖らせて彼に詰め寄りました。
「このところ、いつ来ても來桜丸は留守じゃ。一体、どこへ行っているのじゃ?」
「どこって……一条様のお屋敷に参っておる。それがどうした?」
そう問われて、如月は顔を伏せました。せっかく來桜丸に会いに来ても、いつも出かけた後で会えないのです。どこで誰とどうしているのか。いらぬ心配ばかりが心をかすめます。
「それで今日は何用なのじゃ? 私はこれから出かけるので、急いでおるのだが」
「今日も、一条の姫様と会うのか?」
面伏せたまま如月は問いかけました。
「ああ」
里の入り口へ向って歩き出している來桜丸を追いかけながら、如月は唇を噛み締めました。
「あの姫様は、來桜丸には似合わぬ」
いきなりの言葉に、來桜丸は歩みを止めました。振り返った彼の視線を痛いほど感じながら、如月は言葉を止める事が出来なかったのでございます。
「第一、身分が釣り合わぬではないか。相手は貴族の姫君なのであろう? 來桜丸の事だって、都合の良い使い走りとしか考えておらぬのではないか?」
「如月──」
「笑わぬ姫様だと……。心のない姫様だと聞いたぞ。そんな姫君のどこが良いのじゃ! 笑えぬ女なぞ、女として疵物ではないか!」
「如月っ!」
パン!
乾いた音が響きました。手を上げてしまった來桜丸も、頬に手をやる如月も、お互いが自分の身に起こった事に戸惑っておりました。
「す、済まぬ……。大丈夫か、如月」
來桜丸の問いに、如月は唇を噛み締めて答えようとはしませぬ。
「じゃが、あれは言いすぎじゃ。月姫様は心のないお方ではない。それどころか、誰よりも優しく清らかな心をお持ちなのじゃ。だから、如月。あのように悪し様に言うてくれるな」
「──來桜丸は……月姫様の事が好きなのじゃな……」
思いの寄らぬ言葉でした。來桜丸は息を飲み込むと、静かに如月に答えたのでございます。
「……そうだな。私はきっと、月姫様の事を好いておるのだと思う。身分違いと言う事は先刻承知の上じゃ。しかし、私は月姫様の側に、たとえ報われなくとも共にいたいと思うよ」
認めてしまってから、來桜丸は改めて自分の気持ちに気が付いたのです。
「來桜丸は……馬鹿じゃ!」
如月は涙声で叫ぶと、山道を駆け下りて行きました。その後姿を見送りながら、來桜丸はやっと如月の気持ちに気付いたのでございます。自分が人を好きになってみて初めて、如月が自分に寄せていてくれた好意を理解したのでございます。しかしそれでも、來桜丸の心は月姫の許へ向います。
山を下り、一条の大臣の屋敷へ向うと、そこにはすでに出かける用意を終えた月姫が來桜丸を待っておりました。
「遅かったな。何かあったのかえ?」
月姫の言葉に、來桜丸は微笑み首を振って答えました。
「何でもありませぬ。さあ、出かけましょうか」
二人は馬に跨ると、吉野の山を流れる川へ向って進んでいきました。
「のう、來桜丸。誰かを好くというのは、いかような気持ちなのじゃろう?」
「どうなされたのですか、いきなり」
月姫はややうつむき加減に馬に揺られながら口を開きました。
「屋敷の端女が、麓の村の男と一緒になるので暇をほしいと言い出したのじゃ。それは構わぬ。しかし、わたくしには『誰かを好く』という気持ちがよう判らぬ。どのような気持ちなのじゃ?」
少し前の來桜丸なら、月姫の問いに答えることは出来なかったでしょう。でも今は違います。自信を持って答えることが出来るのでございます。
「誰かを好きになる気持ちと申しますのは、共にあって、こう、胸の奥が温かくなったり、苦しくなったりいたします」
「何故じゃ? 温かくなるのと、苦しくなるのは違うであろう?」
「愛しい方にお会いできれば、胸の奥が温かくなります。でも、その方にお会いできなかったり、悲しそうなお顔をされていれば、胸の奥が苦しくなるのでございます。一緒にいるだけで、楽しく感じたり嬉しくなったりもいたします。一人その方の事を思い出して、切なく思ったりもするのでございます」
「詳しいな。來桜丸は、誰か好いておる女子がおるのか?」
「ございますよ。とても愛しく感じているお方が」
月姫からは顔が見えないのをいい事に、來桜丸は姫の後姿を見つめながら優しく微笑みました。
「どうしたのだろう? 今、お主が誰かを好いておると聞いたとき、胸の奥の方がチクリとしたぞ。何やら、怪しい病であろうか?」
その言葉に來桜丸は目を見開きました。それは──。
「……姫様、それは病ではありませぬ。どうぞご安心なされませ」
内心の動揺を悟られぬように、出来るだけ冷静に。それでも、鼓動が高鳴るのを止める事はできません。背後から月姫を抱きしめたい衝動を、どうにかして押し止めた來桜丸は、平静を装って馬を止めました。
うららかな陽光に煌めく川は、柔らかな若草の生い茂った岸辺を優しく洗っています。來桜丸は馬に積んできていた毛氈を広げると、月姫が座って休めるように設えました。月姫は流れる川面に映った自分の姿を眺めておりましたが、やがてその顔に指を当て、やにわに抓りだしたのです。
「何をなさっておいでなのです!」
驚いた來桜丸が月姫の手を取ると、姫は無表情で彼を見上げてこうおっしゃいました。
「この顔も、抓ってみれば何か変わるかと思うてな。笑わぬ顔にも、少しは笑みが浮かぶやも知れぬと思うたのじゃ」
「──っ!」
「都の殿方は、わたくしを見てこう言う。『笑わぬ姫など、白拍子にも劣る。ただの人形じゃ』と。父上もおっしゃった。『いくら琵琶が上手くても、心の無い姫に心地よい楽の音が紡げる訳も無い』と。義母上もおっしゃった。『笑わぬ女は、女として疵物なのじゃ』と。可愛げのない娘よ、薄気味の悪い姫よと言われて、わたくしは育ってきた。ならば、心の無い、笑えぬわたくしは『人』ではないのか? そうなのかも知れぬ。わたくしはもしかしたら、『鬼』なのかも知れぬぞ」
気が付けば、來桜丸は震える腕で月姫を抱き締めておりました。心が無ければ、こんなにも傷つく事はないのです。恐らく、これまでも何度も自分で自分の顔を抓っておられたのでしょう。僅かでも表情を変えることが出来るやも知れぬと。周囲の口さがない中傷に耐えて、一人で自分を守ってこられたのでしょう。
「姫…。姫は『鬼』などではありませぬよ。『鬼』とは自分の心に忠実なものです。腹が減れば喰い、眠たくなったら眠る。悲しいときには大声で泣き、楽しいときは腹の底から笑う。姫が笑えぬとおっしゃるのなら、それはとりもなおさず、姫が『人間』である事の証明となりましょう」
「そうか……。わたくしは、笑えぬが故に『人』なのじゃな。ならばいっそ、わたしくしは『鬼』になってしまいたい。たとえ忌み嫌われようと、恐れらりょうとも、自分の心に嘘偽り無く暮らせるのであれば、その方がどれだけ幸せである事か……」
「そんな事をおっしゃらないで下さい。おっしゃっては駄目です。姫はどうぞ、そのまま。どうぞそのまま『人』であってくださいませ」
來桜丸が呟いたその瞬間──。
ひゅっ!
鋭く空気を切り裂く音が來桜丸の耳朶を打ちました。咄嗟に月姫を背後にかばい、音のした方へ向き直るのと、放たれた矢が來桜丸の目の前に突き立つのが同時の事でありました。
「何奴じゃ!!」
彼が一声吼えると、茂みの奥で何かが動く気配がございます。
「姫はそこにおいでください!」
そう叫ぶと、來桜丸は茂みの中へ飛び込んで行きました。果たしてそこには、長弓に矢をつがえた男達が。
「おのれ! 貴様、邪魔をするか!」
一人の男がそう叫び、來桜丸に向って矢を放ちました。向ってくる矢を空中で掴み取ると、來桜丸は二つに折って投げ捨てました。
「お主達、何者じゃ! あのお方を一条の大臣の姫君と知っての狼藉か!」
よく響く声で一喝されると、男達は及び腰になりながらも長弓を放り出し、太刀を構えたのでございます。
「何ゆえ、月姫様に危害を加えようとする!? 貴様ら何者じゃ!」
一番前にいた男が、背後に居る三人の者に言いました。
「この者は、私が引き受ける。お前達は、砂姫を亡き者にするのだ」
それを聞いた途端、來桜丸は全身の血が逆流するほどの怒りを感じました。
「我らは多勢、それにひきかえ貴様は一人。しかも、足手まといとなる砂姫を守って闘うと言うのか? 見れば、獲物を持ち合わせている様子も無い。我らの狙いはただ砂姫一人。丸腰の者まで斬ろうとは思わぬ。命が惜しくば早々に立ち去り、ここで見聞きした事は他言せぬ事だ」
どうやらその男が頭目のようでございました。男の言葉が終わらぬうちに、背後で月姫の様子を伺っていた者達が茂みから飛び出そうとしたのです。
──しかし……。
血煙を振り撒いて仰け反ったのは、抜刀していた男の一人だったのでございます。目にも留まらぬ速さで動いた來桜丸の揃えた五指の爪が、狙い違わず相手の喉笛を貫いておりました。
「姫を──砂姫と呼ぶでない……。姫の苦しみも悲しみも知らぬ輩が、偉そうにわたしに何を言う。貴様らのような卑しき刃に、姫の血を吸わせはしない。わたしを丸腰と侮ったな? 吉野の山の妖かしを敵にまわして、生きて帰れると思うなよ……」
振り返った來桜丸の額には、異形の印、真珠色に輝く二本の角が現れておりました。
「お……鬼じゃ……。あの姫には、鬼が憑いておるのじゃ!」
「ええい、何を躊躇っておる! 砂姫は後回しだ! この鬼を倒せ!!」
静かなはずの山中に、阿鼻叫喚が響き渡りました。男達の振り翳す太刀をかわし、來桜丸は右へ左へと腕を振ります。その度に、確実に男たちの肉体は切り刻まれていくのです。それでも、來桜丸の身体には血の染み一つ残りはしませんでした。まるで、その美しい姿に触れるのを自ずから恥じるかのように。
血に染まった配下の男たちが事切れた後、一人定まらぬ狙いで刀を構える頭目に來桜丸は尋ねました。
「お前達をここへ送り込んだのは誰じゃ? 誰の命で、月姫様を狙うのか?」
頭目は訳のわからぬ叫び声を上げて、來桜丸に斬りかかって来ました。その刃を素手で掴み取ると、來桜丸は唇が触れ合うほど近くに顔を寄せ、頭目にこう囁きました。
「誰の命でここまでやってきた? 素直に白状すれば良し。さもなければ、生きたまま地獄を見る事になるやも知れぬが、それでも良いかえ?」
彼の鬼の右手は、頭目のわななく喉元にかけられています。
「お前の身体が死ぬる前に、心が死んでしまうやも知れぬなぁ。わたしは容赦せぬぞ。じわじわと死ぬより辛い責め苦を味わわせてやろう。生きたまま五寸刻みに切り裂かれる気持ちは、如何様なものであろうなぁ?」
静かに、來桜丸の爪が頭目の喉元に喰い込んでいきます。頭目の口からは、壊れた笛のような聞き苦しい声が漏れておりました。
「い……一条の……お方様じゃ──。お方様に、砂姫を亡き者にせよと──。お主上より正式に入内の申し入れがあり、砂姫を宮中へと。お、お方様は、妹姫様を入内させるためには、どうしても砂姫を亡き者にする必要があると仰せになった。さすれば、お主上もお心晴れて、妹の徳子様をお望みになると……」
「何じゃと!? たかがそれだけのために、姫の命を奪おうというのか! 義理とはいえ、母親なのであろう!?」
その時、來桜丸の背後で、枯れ枝を踏みしだく音がいたしました。咄嗟に振り向いた彼の視線の先には、無表情に佇む月姫の姿が……。
「月姫っ! 何故!?」
一瞬、來桜丸の気が乱れる瞬間をついて、頭目はその手を振り解き逃げ出しました。思わず後を追おうとした來桜丸の背中に、月姫の制止の声がかけられます。
「お待ち。良いのじゃ、追わずとも」
その静かな声に、來桜丸は足を止めました。そして、気付いたのです。『鬼』としての本性を、愛しい月姫に見られてしまった事を。言い訳のしようがありませんでした。なぜなら、彼の足元には、自分が殺してしまった三人の男の物言わぬ骸が転がっているのですから。
「らいお……」
「何故! 何故、お出でになったのです! あれほどお待ちくださいと申し上げたではありませんか!」
月姫の顔を見ることも無く、背を向けたままで來桜丸は叫びました。
「貴女に! 貴女にだけは、この姿を見られたくはなかったのです! こんな浅ましい、醜い鬼の姿を!!」
血を吐くような來桜丸の叫びに、月姫はただ歩み寄り、彼の鬼の手をそっと取ったのでございます。
「このように、血を流して。鬼とそなたが呼ぶ者と、ここに倒れた者達にどれほどの違いがあると言うのじゃ。この者達はわたくしを亡き者にするために刃を抜いた。そなたは、わたくしを守るために闘った。人と鬼との間に、どれほどの隔たりがあろうと言うのじゃ。わたくしを亡き者にしようとした義母上の心をこそ、鬼と呼ぶべきではないのか? 共に流れる血は赤いというのに……人である義母上は、わたくしを疎んじた。鬼であるそなたは、わたくしを守ってくれた」
そして、刃を素手で掴んだために出来た傷に、そっと唇を当てたのです。その瞬間、來桜丸の身体には震えが走りました。姫をこのまま、自分のモノにしてしまいたいと言う衝動が、身体の奥底から湧き上がってきたのです。しかし、たった今、人を殺してしまった自分が、月姫を抱く資格があるのかどうか? 何より、この清らかな姫を血に染まった己が汚してしまっても良いのか──。
自らの手を月姫の唇から離すと、來桜丸はやっとの思いで口を開きました。
「月姫様。これ以上わたしと共にいる事は、御身にとって良い事ではないでしょう。どうぞこのまま屋敷へ帰り、警護の者たちに命じて守りを固めるのです。そうすれば、さしもの刺客達も、おさおさと屋敷へは忍び込めますまい」
「それで、そなたはいかが致すと申すのじゃ?」
「わたしは……わたしは山を降ります。このまま里へ帰っても、一族の者に迷惑をかけてしまうだけでしょうから」
そう言って歩み去ろうとした來桜丸の背中に、鋭い月姫の言葉が投げつけられました。
「そなたも……そなたも、結局はわたくしを一人にするのじゃな? わたくしを一人置いて、どこかへ行ってしまうというのじゃな?」
その震える声に、來桜丸は信じられない思い出振り返りました。
「皆、みんな、わたくしを一人置いて、どこかへ行ってしまうのじゃ。わたくしはいつも一人ぼっちじゃ。來桜丸、そなたも私の前からいなくなってしまうと言うのなら、今この場で、わたくしの命を取って行くがいい!!」
月姫の頬を濡らす、幾筋もの涙──笑わぬ、泣かぬと言われていた月姫の、初めて流した涙でございました。
「月姫……泣いておられるのか?」
「泣く? わたくしは泣いておるのか? 判らぬ。そなたが、わたくしを置いてどこかへ行ってしまうと言うから。だから、わたくしの胸の奥が痛うて痛うて堪らぬのじゃ。これは何じゃ? わたくしはどうにかなってしまったのか……」
來桜丸は月姫に歩み寄ると、その流れる涙を人差し指ですくい取り、そっと口に含みました。
「貴女は、わたしを恐れぬのですか? この身は、人が忌み嫌う鬼。たった今、貴女の目の前で人を殺して見せた鬼なのですよ?」
「いかにそなたが鬼であろうとも、わたくしにとって來桜丸は來桜丸。そなたに『月姫』と名を呼ばれれば、血の通わぬわたくしの心にも、何やら温かいものが溢れるのじゃ。そなたに名を呼ばれれば、わたくしの心は安らぐのじゃ。どこへも行くな。わたくしの側におるのじゃ」
「姫……姫はわがままでございます」
月姫は來桜丸の胸に寄り添いました。その姫を、來桜丸は大事に大事に抱き締めたのでございます。お互いの気持ちを確かめ合った、至福の時でございました。
しかし──そんな二人を見つめる一対の眼があった事に、ついに彼らは気付かなかったのでございます。
「來桜丸が……鬼? そんな──」
震える口元を押さえ、立ち尽くすのは……如月。
一度は村の入り口まで戻った如月でしたが、やはりどうしても來桜丸のことが気になり、出かけていく二人の後をつけて来たのでした。しかし如月の目に映ったのは、異形の姿となって人を殺めた己の想い人と、その血塗れの手をとって口付ける姫君の姿。互いを大事そうに寄り添いあう美しい二人の姿。
驚愕におびえていた瞳に、次第に涙が溢れて参りました。
「如月とて……如月とて、來桜丸が鬼でも蛇でも構いはせぬのに。なぜに、その姫なのじゃ? どうして如月の方を見てはくれぬ? 來桜丸に先に出会うておったは、如月の方じゃ。なのに、なぜ如月を好いてはくれぬのじゃ!?」
激しい嫉妬が身のうちから湧き上がって参ります。もはや、來桜丸の心が自分の物にならぬと知って、如月の心に闇が生じました。
「おのれ、許さぬ。來桜丸の心が得られぬならば、いっそ──」
その頃、月姫によって結果的に命を助けられた刺客が、都に向って早馬を飛ばしておりました。砂姫が「鬼」に取り憑かれている事を一条の大臣に知らせなくてはなりません。泡を吹き倒れる馬を乗り継ぎ、男は驚異的な速さで都に辿りつきました。
「か、開門! 一条の大臣殿に、火急の御用にございます!」
屋敷内に倒れこんだ男を見て、小者達が騒ぎ立てました。一人の者が屋敷内へと駆け込み、すぐにお目通りが叶う事となったのです。
「一条の大臣殿、ならびにお方様に申し上げます。吉野の山中にて療養中の月姫様は、妖しの鬼に誑かされておいででございます。私は姫様を鬼の手よりお救いせんと奮戦したのですが、相手は妖力甚大の鬼。手勢を失い、とにかく事の次第を皆様にお伝えしなくてはと、命を惜しんで帰ってまいりました」
さすがに『姫の殺害に失敗した』とは言えませぬ。馬上で考えていた口上を述べると、男はガクリと力尽きました。
それを聞いた奥方は、内心の喜びを隠して大臣に告げました。
「旦那様。これは由々しき事態でございます。一条の姫に鬼が憑いたなどと人に知られれば都中の笑い者。なんと恥知らずな姫でございましょう。このような事が、お主上のお耳に入るような事にでもなれば一大事でございます。鬼に誑かされたとあっては、もはやお主上の御前に出せる身体ではございますまい。早々に討伐隊を募り、鬼もろとも姫を征伐してしまうのです。事が済んでから、お主上には奏上致せばよろしいのでございます。鬼に憑かれた不浄の娘を成敗いたしました、と」
実に恐ろしきは、人の心でございます。奥方は自分の娘を帝に差し出すために、月姫を「鬼憑き」の娘として殺してしまえ、と大臣にせまったのです。逡巡する大臣に、奥方はこう囁きました。『家名の恥』と。
帝の怒りを恐れた大臣は、とうとう奥方の言う通り、討伐隊を募って吉野へ向わせてしまったのでございます。
一方、來桜丸は月姫を屋敷へ戻すと、乳母の泰葉にだけは山中で起こった事を伝えました。もちろん、自分が鬼であることは伏せましたが、刺客に襲われた事を正直に話し、屋敷の守りを固めるように頼んだのでございます。
そして一族の隠れ里へ戻り、真っ直ぐ百鬼丸の館へ向いました。
「お館様。よろしでしょうか?」
部屋の真ん中で考え事をしていた百鬼丸は、來桜丸の姿を見ると厳つい顔を綻ばせながら部屋の中へ招き入れました。
「どうした、そのように浮かぬ顔をして」
來桜丸は百鬼丸の正面に座ると、深々と頭を下げました。
「お館様。わたしは鬼の姿を人に見られてしまいました。なおかつ、そのまま逃げられてしまったのでございます。このままでは、この里に鬼が住まうと知られてしまいます。こうなってしまったのはわたしの不始末。わたし一人に罪を被せて、どうぞ里の者たちは何も知らなかった事に……」
百鬼丸は多くを問いませんでしたが、來桜丸は進んで全ての事を語りました。自分が一条の姫君に恋してしまった事。姫の入内が決まり、慌てた義理の母親が姫を亡き者にせんと刺客を送り込んだ事。自分がそれを知り、怒りに任せて男達を殺してしまった事。そして一人に逃げられてしまった事。
來桜丸の告白を静かに聞いていた百鬼丸は、しばしの沈黙の後、來桜丸を見据えて口を開きました。
「して、月姫は何と申された?」
「月姫様は、『鬼と人との間に、どれほどの隔たりがあろうか』と。わたしがわたしである事が、姫にとっては大事なのだと……申されました」
それを聞いた百鬼丸は大きく息をつき、そうか、と呟きました。
「噂に違わぬ、清廉な方よ。來桜丸。我らは『鬼』と恐れられるが、心がある。月姫様は『人』ではあるが、笑う事をお知りにならぬ。どちらが幸せなのだろうな?」
思わぬ問いかけに、來桜丸は百鬼丸の意図が読めず、答える事が出来ませなんだ。
「月姫様の申されるとおり、われら『鬼』と『人』との間にある隔たりなど、僅かなもの。しかし、その僅かな隔たりが、果てしなく遠いのじゃ。それをあえて「ない」と申される姫の強さ。お主、余程、姫の心を捉えたと見える」
そのような事を言われても、來桜丸には返す言葉がありませぬ。
「來桜丸。かような事を申してくれる女人は、この世に二人とはおるまいぞ。月姫様を大事にするのじゃ。お主が姫に、笑う事の楽しさを教えてやれば良い。生きていく事の苦しみや切なさや、それ以上の喜びや嬉しさを教えてやれば良いのじゃ。これは、お主にしか出来ぬ」
何と答えるべきなのか來桜丸が迷っているうちに、百鬼丸は立ち上がり大きく笑いました。
「里の事は心配せずとも良い。我らとて、おさおさ殺されたりはせぬよ。速やかにこの地より立ち去り、別の土地に根を下ろせばいいだけの事。元々我らは、漂泊の民。いかにこの地を追われようとも、住む土地に困る事もない」
そう言うと來桜丸の肩を軽く叩き、部屋を出ていたのでございます。來桜丸は、ただその後姿に頭を下げる事しか出来ませんでした。
その日から、里の者たちは山を出るための支度を始めました。とはいっても、持っていく物はそれほど多くはありませんでしたが、身の回りの細々とした物、機を織るための道具、山を出るのに必要なだけの食料など。百鬼丸の手下は五十人ほどでしたが、その家族を含めれば大層な数となります。旅に邪魔になる大きな家財道具を除いたとしても、一晩や二晩で準備できる量ではありませんでした。
そしてそれが、決定的な結末を招いたのでございます。
里を捨てる支度をしている者達は、詳しい理由を聞いてはいませんでしたが、なんとなく気配で察していたのでしょう。來桜丸と月姫の事が原因だという事を、暗黙の了解として知っておりました。しかし、一人として來桜丸の失態を責める者はいなかったのでございます。それよりむしろ、そこまで心を通わす事の出来た相手と巡りあえた幸せを寿ぎました。來桜丸もあえて多くを語らず、皆の温情に黙って頭を下げておりました。
荷造りもそろそろ終わり、明日には里を引き払う、という晩。百鬼丸の館に如月が訪ねて参りました。これまで、里にやってくるのは昼に限られていた如月がなぜ? といぶかしみ、來桜丸は如月に呼び出された里の入り口までやって来ました。
「このような夜更けに、一体どうしたのじゃ?」
「來桜丸。お主、如月に隠しておる事があるじゃろう?」
「何を言い出すのじゃ? 今晩はもう遅い。早く村へ帰るが良い」
來桜丸が如月を送って行こうとしたその瞬間。如月は思いがけない言葉を口に致しました。
「如月は知っておる。お主が鬼じゃと言う事を。先日、川縁で男達を殺したであろう? 如月は見ていたのじゃ」
その言葉に來桜丸は凍りつきました。見られた? 鬼である姿を?
「如月は誰にも言わぬ。だから、ここに残って、一緒に暮らそう? 來桜丸、如月と一緒にここで暮らそう。お主が鬼でも構わぬ。お主の事が好きなのじゃ!」
如月が來桜丸の着物にしがみついてきます。その肩に手をかけ、ぎこちない仕草で來桜丸は問いかけました。
「見て……いたのか?」
娘はこくりとうなずくと、來桜丸の胸に愛しそうに頬を寄せました。
「砂姫の所へなど行くな。如月と共に暮らすのじゃ。そうしてくれれば、誰にも言わぬ」
うっとりと眼を閉じる如月へ、來桜丸は語りかけ始めました。
「月姫と出会わなければ、あるいは、お前の気持ちを受け止める事が出来たやも知れぬ。しかし、わたしは月姫と出会うてしまった。唯一無二、この人だけだと思えるお方に出会うてしまったのじゃ。済まぬ。如月の気持ちは嬉しいが、わたしにはその気持ちに応える事が出来ぬ……」
如月はその言葉を聞くと、來桜丸の胸に添えた両手を握り締め、彼の鬼の身体を突き飛ばしました。
「おのれ……。あくまでも、あの薄気味悪い姫を取ると言うのじゃな? ならば、早う行くが良い。都から来た武士どもが、一条のお屋敷を取り巻いておるわ。鬼に取り憑かれた姫を、成敗するのじゃというてな!」
「何じゃと……?」
「はよう行かねば、愛しい姫様が殺されてしまうぞえ? はは! ほほほ! 速く駆けて行くが良い! 間に合えば良いの!!」
毒に満ちた言葉でございました。この時の如月の形相こそ、まるで鬼のようでございます。そう。來桜丸愛しさに、如月は嫉妬の鬼となってしまったのです。
來桜丸は慌てて館から馬を牽き出すと、月姫の屋敷めがけて夜道を駆け出しました。その背中には、突き刺さるような如月の笑い声……。しかし、來桜丸には如月の事を案じている暇などございませんでした。間もなく見えてきた月姫の屋敷は、赤々と松明で照らし出され、恐ろしい悲鳴が闇を切り裂いているのでございます。
「月姫っ!!」
來桜丸は屋敷を取り囲む武士達の中へ踊り込み、その爪で幾人かの喉笛を切り裂き、胸板を貫き、刀を奪って荒れ狂いました。その凄まじい姿に周囲がひるんだ隙に、屋敷内へ入り込む事が出来ました。
「姫! 月姫! 月姫様は、いずこにおられる!?」
馬を飛び降り、階を駆け上がり、來桜丸はただひたすらに、愛しい姫の姿を捜し求めました。ここそこで、屋敷に勤めていた者達の変わり果てた姿に出くわしました。何の罪もないはずの者達が、まるで虫けらのように殺されているのです。
「貴様! 何奴じゃ!!」
背後から吹き付けるような殺気と怒号が響いてまいります。
「貴様が鬼じゃな? そこへ直れ、この俺が成敗してくれるわ!!」
「やかましい! 邪魔じゃ、どけ!」
振り翳した刀を腕ごと叩き斬られ、聞き苦しく泣き喚いている男を捨て置き、來桜丸は部屋から部屋へと月姫を捜し求めました。
「月姫!! どこにおられるのです!?」
「來桜丸…?」
來桜丸の呼び掛けに、脇にある小部屋から声が致しました。気付いた來桜丸が引き戸を蹴破ると、そこには泰葉を抱いた月姫がおられました。
「月姫! よくぞ、ご無事で」
「わたくしの代りに、泰葉が傷を」
よく見れば、泰葉の身体は背後から袈裟懸けに斬られておりました。泰葉を支える月姫の両手も血で染まっております。
「ここにいては危のうございます。ひとまずは、わたしどもの里へお出でください」
そう言って、泰葉に手を貸そうとした來桜丸を、女房の冷たい手が止めました。
「來桜丸殿……。わたくしの事は捨て置きくださいませ。もうそれほど、長くは生きられませぬ。わたくしを連れて逃げれば、足手まといになるだけ。それよりも、どうか姫様を。月姫様を、どうぞよろしくお頼み申し上げます……貴方なら、きっと姫様に笑う事を伝える事が出来るはず……」
そして自分を支える月姫の手を、そっと來桜丸の手に握らせました。
「姫様、どうぞご無事で……。來桜丸殿と、きっと幸せになってくださいませ──」
それが泰葉の最後の言葉となりました。静かに微笑みながら、老女は息を引き取ったのでございます。
「泰葉? 泰葉!?」
月姫の声に胸を引き裂かれそうになりながらも、來桜丸は月姫を守るために立ち上がりました。ここでぐずぐずしている訳にはまいりません。どうやら、外にいる者達が、屋敷に火を放ったようでございました。きな臭いニオイが漂ってまいります。
「どうか、姫。ここで死んでしまわれては、泰葉殿の死は無駄になってしまいます。わたしが命に代えてもお守り致します。早く!」
あちこちで上がる火の手をかいくぐり、二人は屋敷の外を目指しました。回廊を回り、屋敷の裏手に出ると、そのまま山中へ逃げ込もうとしたのでございます。廊下を飛び降り、月姫の手を取って走る來桜丸の前に──。
「どこへ行こうというのじゃ?」
「……如月」
ゆらりと、どこからともなく、如月が現れたのでございます。
「どいてくれ、如月」
「鬼の隠れ里へでも逃げ込もうと言うのかえ? それは無駄と言うものじゃ」
冷酷な微笑みをたたえた如月の言葉には、どこまでも毒が染み付いております。
「どういう意味じゃ?」
「ほほほほ!! お主の里など、もうすでにないわ! 都から来た討伐隊が、鬼どもを平らげてしまったのでな! 男衆も女衆も皆殺しじゃ。鬼と言えども、寝込みを襲われてしまえば、他愛のないものじゃ。満足に反撃も出来ぬまま、そろって地獄へ帰って行ったわ! 百鬼丸の首は、里の入り口に晒されておったぞ」
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「そなた、なぜ隠れ里を教えたのじゃ? そなたが欲しかったのは、來桜丸ではないのか? ならば、里の者達は関係なかろう」
月姫を目にした如月は、眦を吊り上げて申しました。
「煩い! 元はと言えば、お前が悪いのじゃ! お前さえ出てこなければ、來桜丸は如月のものになったのに! 來桜丸が手に入らないのなら、誰の手にも渡さぬ。お前にだけは、渡しはせぬぞ! どこへも行かせぬ! 來桜丸はここで死ぬのじゃ。そして、わたしは來桜丸の骨を抱いて暮らすのじゃ。だから、邪魔な鬼どもを始末したのじゃ!!」
「そして、そなたも鬼になったのじゃな?」
「そうじゃ! 來桜丸が恋しくて恋しくて、わたしは嫉妬の鬼になったのじゃ!」
「如月、とか申したか。わたくしはそなたが羨ましい。それほどまでに誰かを恋焦がれ、我が身を鬼にまで成そうとは……。だが、わたくしもそなたに來桜丸を渡す事は出来ぬ。もはやわたくしも、來桜丸のおらぬ暮らしは考えられぬ。わたくしにとって、來桜丸は命にも等しい、大事な者なのじゃ」
月姫の告白に、來桜丸はその毅然とした姿を見つめて立ち尽くしておりました。しかしその時、屋敷を取り囲んでいた武士達が、裏手にいる三人を見つけてしまったのでございます。
「おったぞ! あそこじゃ!」
「逃がすでない!!」
瞬間、月姫の気持ちがそちらへと逸れました。それを知った如月は、狙いを定めて月姫へ飛び掛りました。
「お前だけには、來桜丸を渡すものか!!」
ドウッ!
如月の揃えた五指の爪は、狙い違わず心の臓を貫いておりました。
「あ──、どうして──」
食いしばった口元からは、糸の様に血が滴っております。如月の腕を掴み、その爪に胸を貫かれているのは……。
「「來桜丸っ!!」」
二人の女の悲鳴が重なりました。如月が月姫に襲い掛かった瞬間、來桜丸は月姫をかばい二人の間に身を投げ出したのです。
「なぜ? なぜじゃ!?」
「如月……お前には、詫びても足りぬ。だが、わたしは月姫を選んでしまった。月姫の他に、誰もわたしの心を動かせるものは……いないのじゃ」
震える如月が、來桜丸の胸から指を抜き出すと、支えを失った來桜丸の身体は地面へ倒れこみました。
「來桜丸! 來桜丸ぅ!!」
その身体を抱き起こし、月姫が來桜丸の名を叫びました。驚きと恐怖に彩られた瞳。そんな月姫の瞳を、霞んでいく視界に必死に焼き付けながら、來桜丸は微笑んで見せました。
「ご無事で?」
「なぜ、わたくしをかばった!? そなたがいなくなってしまったら、わたくしはどうすれば良いのじゃ? 泰葉が申したであろう? わたくしに笑う事を教えてくれるのではなかったのか? 來桜丸!!」
「月姫様──貴方様は、わたしの命。でも、わたしと共におられると、貴方は泣いてばかりおられる。わたしは貴方に、生きる事の楽しさを教えて差し上げたかった……。わたしに、人を愛する心がある事を教えてくださった貴方に、嬉しさや喜びを教えて差し上げたかった……」
「死んでは駄目じゃ! 教えておくれ! 笑う事も、苦しむ事も、楽しむ事も、怒る事も、そなたが教えてくれなくては、わたくしには分からぬのじゃ!! そなたでなくては、駄目なのじゃ!!」
來桜丸の顔に、大粒の涙がぱたぱたと落ちては広がっていきます。來桜丸は力を振り絞り、腕を伸ばして月姫の頬に触れました。そして流れる涙を拭うと、花の様に美しく笑んで見せたのでございます。
「姫は、わがままじゃ。……わたしの名は、來桜丸。桜の花咲く頃、必ず、貴女をお迎えに参ります。どうかその時にわたしが道に迷わぬように、桜が咲いたら、琵琶を奏でてくださいませ……。その音に導かれて……必ず、貴女を迎えに参ります──」
それが最期の言葉となりました。月姫の頬に触れていた來桜丸の手が、力なく地面に落ちました。
「いや…いやじゃ! 來桜丸! 逝っては駄目じゃ! 目を開けておくれ!!」
來桜丸の身体にすがりついた月姫の手の中で──。
ザゥッ──!
一陣の風と共に、來桜丸の身体は無数の桜の花びらとなって舞い散ったのでございます。後に残されたのは、月姫の腕の中にある、來桜丸の衣だけ……。
「逝って……逝ってしまった……。わたくしの愛した美しい鬼は、わたくしを置いて、逝ってしまった……」
「──その後、月姫と如月はどうなってしまわれたのですかな?」
私の問いに、老婆は咲き誇る桜の花へと視線を移し、
「月姫は、討伐隊と共に都へ移され、鬼払いの祈祷を散々受けさせられたのでございます。しかし、ある日忽然と屋敷から姿をくらまし、そのまま帰らなかったと申します。一方の如月は、己の所業を恥じ、鬼の身でありながら髪を落とし出家して、自分が手にかけてしまった來桜丸とその一族の菩提を弔いながらその後の生を終えたと聞き及んでございます」
「……月姫は、來桜丸と再び巡り会う事が叶ったのでございましょうか?」
「さて……それはいかがでございましょう?」
老婆は再び琵琶を抱え直すと、不思議と景色を映してはいないように思える瞳で私を捉えた。
「年寄りの繰言に付き合ってくださり、かたじけのうございました。ここより先は、來桜丸、そして百鬼丸の一族が眠る土地。出来れば、このまま静かに眠らせてやりとうございます……」
「あい分かった。私は鬼の土地へは踏み込まず、この場を去るといたそう」
静かに頭を垂れる老婆を残し、私は桜舞い散る山道を元来た方へと歩み始めた。
不思議な話を聞いたものだ。悲しく、切なく、そして美しい物語であった。それはそうと、あの老婆は一体何者であったのか?
私がそう考えた時、一陣の強い風が、桜の花びらを舞い上げた。そして…。
『──月姫。長き時を、お待たせ致しました』
『來桜丸か? 待っておった。いつか、きっと出会えると信じて……』
私の耳には、確かに聞こえたのである。聞いた事はないが、あれは確かに美しく優しい鬼・來桜丸と、笑う事を知らず愛する者を失った美貌の姫・月姫の声に間違いない。
慌てて踵を返し、先程、老婆が座っていた場所まで取って返した。
しかしそこには、老婆が抱えていた琵琶がぽつねんと置かれているだけである。辺りを見回した私の目に、咲き誇る桜の木々の間から見え隠れする男女の姿が映った。優しげに微笑む若者は、きっと來桜丸なのだろう。その腕に抱かれて、幸せそうに笑っているのは、きっと月姫なのだろう。
「貴女は、ずっと待っていたのだな。桜の花の咲き誇る季節、約定を交わした愛しい鬼が、自分を迎えに来てくれる事を信じて」
寄り添う二人は、静かに花霞の中へ消えて行った。
笑う事を知らなかった薄倖の姫は、愛しい鬼と再び見まみえる事で、ようやく幸せに笑う事を知ったのである。
私はその場に残された琵琶に、そっと手を合わせた。
了
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誤字脱字ご容赦下さい。もし電波な転生者に貴族の令嬢が絡まれたら。攻略対象と思われてる男性もガッチリ貴族思考だったらと考えて書いてみました。ゆっくりペースになりそうですがよろしければ是非。
閲覧、しおり、お気に入りの登録ありがとうございました(*´ω`*)
何となくねっとりじわじわな感じになっていたらいいのにと思ったのですがどうなんでしょうね?
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