鬼 成 池

橘伊津姫

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鬼 成 池

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 その池のほとりには、小さな祠がある。池に棲む鬼神を祀る祠なのだそうだ。人に見られぬ夜に、祠に願いを掛ければ、鬼神がその願いを叶えてくれるという。だが、その願いの見返りに、自分の持つ一番大切なモノを持っていかれると言われていた。
「だから軽々しく、望みを口にしてはいけないよ」
 誰だっただろうか。それを教えてくれたのは──。





「もう、いい加減にしてくれないか!!」
 会社の屋上で須永すなが守也もりやは、限界だとばかりに叫んだ。
「いい加減にって言われても……。わ、私は須永さんのために──」
 須永と対峙しているのは、同じ会社に勤務している女子社員の後藤田直美だ。
「それが余計なお世話だって言うんだ! 一体、何様のつもりなんだよ? 何度も言うようだけど、俺にはちゃんとした彼女がいるんだ。勝手に彼女面をするのは、やめてくれないか!?」
「彼女──って、総務課の宮下杏子さんの事? でも、彼女は須永さんに相応しくないもの」
 直美は不気味に微笑みながら答えた。
「杏子が俺に相応しくない? 何でそんな事が判るんだ。君には関係ないだろう!」
「関係なくなんてないわ。だって、私と須永さんは一緒になる運命ですもの」
 言葉を失っている須永に、直美は語り掛けた。
「大丈夫よ。私に任せてちょうだい。私が宮下さんを何とかしてあげる」
「何とかって……杏子に何をするつもりなんだ?」
 背筋に冷たいものを感じながら、須永はようやくの事で口を開いた。
「須永さんが心配する事ないわ。私には鬼神の不思議な力がついているのよ。私と須永さんの間を邪魔する人間は、鬼達がどうにかしてくれるわ。宮下さんがいなくなれば、私と須永さんが一緒になるのに、何の邪魔も問題もなくなるでしょう?」
 まるで当たり前の話をするように、そして実に嬉しそうに直美は言い切った。
「どうかしてる──。おかしいよ、あんた。俺と一緒になる?そんな事、あり得る訳ないだろう! どうかしてるよ!!」
 須永は直美から逃げ出すように、屋上を後にした。ビルの間を抜ける強い風にあおられながら、直美は独り微笑んでいた。
「ふふ。照れているのかしら? 大丈夫よ、須永さん。私には鬼を使役する力があるんだから。須永さんと一緒になれるように、私、鬼成池の祠にお願いしたんだから」



 一体、どうしてこんな事になってしまったのだろう?
 須永は営業部に戻りながら、これまでの事を思い出していた。
 後藤田直美と、須永の恋人である宮下杏子は同期入社だ。目鼻立ちのクッキリとした杏子は愛想も良く、社内でも、ちょっとした人気者だった。
 一方直美は、飾り気のないパッとしないタイプの女性だった。定刻に出勤し、定時に退社する。女性社員達の輪に入るでもなく、一人で黙々と仕事をしている姿しか見た事がない。
「何が面白くて生きているんだろう」
 そんな事を思わせる存在だった。
 須永が直美と知り合ったのは社内の憧れの的、宮下杏子と付き合い始めて半年が経った頃だった。
 その日、本来なら営業先から直帰の予定だった須永は、たまたま忘れたファイルを取りに会社へ戻ったのだ。定時はとっくに過ぎており社内には誰もいないだろうと思っていた須永は、部屋に明りが点いているのに気が付いた。
「あれっ、後藤田さん? 珍しいね、こんな時間まで。どうしたの?」
 パソコンに向かっていた直美は、急に声を掛けられて振り返った。
「え、あ、須永さん。今日は直帰だったんじゃないんですか?」
 驚いたのだろう。キーを打ち間違えたらしく、ディスプレイ上にエラー表示が出ていた。
「ああ、悪い。驚かせちゃった? ちょっと忘れ物。何、伝票の記入ミス? これを一人で?」
 机の上に積まれた伝票の束を見て、須永は少し眉をひそめた。
「あ、あの私、手伝ってくれる人とかいなくて──」
 ツーポイントの眼鏡がディスプレイの光を反射して、直美の表情は読めない。
「みんな、しょうがないなあ。よし、半分手伝うよ。貸してみな」
 上着を脱ぐと適当なデスクの上に放り投げ、直美から伝票を受け取った。
「えーと? これを入力しちまえばいいんだな? サクサクやっちまおうぜ」
 須永はあいているデスクに着くと、パソコンをたちあげた。須永が直美を手伝ったのは、別に他意があった訳ではない。単純に、こんな時間まで大変だなぁ、と考えての行動だった。
 しかし、直美の方はそうではなかったらしい。数日経った頃から、社内に妙な噂が流れ始めたのだ。
「よお、須永。お前、後藤田と付き合ってるって本当か?」
 社員食堂で昼食を摂っていると、同僚の沢木が隣の席にやってきて、思いもよらない事を質問してきた。須永はその言葉に、口に含んだ味噌汁を危うく吹き出しそうになった。
「はあ───!? 何だ、そりゃ?」
 顔を真っ赤にして咳き込みながら、須永は沢木に問い返した。
「いやな。最近、社内のあちこちで言われてるぞ。お前と後藤田が付き合ってるって」
 残りの料理を茶で流し込み、須永は改めて沢木に反論した。
「だから、何だよそれ。俺と後藤田が付き合ってるだぁあ? 誰だよ、そんなデマカセ言ってんのは?」
「そうだよなぁ。お前、杏子ちゃんと付き合ってるんだろ? あんなカワイイ杏子ちゃんがいるってのに、後藤田なんかとくっつかんよなあ」
 沢木は自分の食事を始めながら、不思議そうに首を傾げた。
「そうだよ、俺にはちゃんと、宮下杏子っていう彼女がいるんだ。変な噂立てられたら、迷惑だ」
「でもこれって、後藤田本人から流れてるらしいぞ」
 沢木から発せられた言葉に、須永は思わず立ち上がってしまった。
「何だと!?」
 食堂中の注目を集めてしまい、須永は赤面しながら慌てて席に着いた。
「落ち着けって。それにしても、お前、あいつと何かあったのか?」
「何かって、何もないよ。ありようがないだろ? 心当たりがあるとすれば、この前、残業してた後藤田を手伝ってやったくらいさ。けど、そんなんで付き合ってるとかって思うかフツー?」
「まあ、普通は思わんだろうな。しかし後藤田の場合、何を考えているのか分からん部分があるからなあ」
 消化不良になりそうな予感を残して、須永は時間に追われて職場へ戻った。重たいため息を吐き出すと、自分のデスクに着く。途端にポケットの中で携帯が震え始めた。
「っわー。杏子からだよ……」
 携帯の画面に映し出されているのは、須永の彼女である杏子からのメールだ。
“話したい事があるから、仕事が終わったら会えない? 七時に駅前の喫茶店『カドール』で待ってる”
「まずいよなぁ。こりゃ、怒ってそうだよ」
 とにかく、七時に間に合うように仕事を片付けなくては。この上、待ち合わせに遅刻なんて事になったら、事態は悪化の一途を辿るだろう。気を取り直し、取引先へ電話をしようとデスクに目をやった須永は、そこにある物を見つけて動きを止めた。
“今晩、お食事でもいかがですか? 七時に会社の側の『珈琲room』で待ってます。直美”
 そこにあったのは後藤田直美からのメモだった。御丁寧に、同じ日、同じ時間。その内容は杏子からのメールとは違った意味で、須永の心に影を落とした。
 その日の夜。指定された喫茶店に着いたのは、約束の七時よりわずかに早い時間だった。須永が窓際のテーブルで待っていると、ほんの少し遅れて宮下杏子が入ってきた。
「ごめんね。あたしの方が遅くなっちゃって。待ったかしら?」
 軽く息を切らしながら、杏子がテーブルに着いた。
「いや。俺もさっき来たところだよ。ほら、まだコーヒーも来てないだろ?」
 そんな会話の間に、須永が頼んでおいたコーヒーが運ばれてくる。二人の間の約束事として、先に店に着いた方が相手のコーヒーも頼む事になっている。まずは、お互いにコーヒーで一息つく。
「ところで、話って──?」
 須永は恐る恐る、話題を振ってみた。
「うん。その事なんだけどね。経理部にいる、後藤田直美って知ってる?」
 ……ああ、やっぱり。
「知ってるよ。何か、変な噂流されてるみたいだけど──」
 杏子の様子を伺いながら答えると、相手はカップに付いたルージュの跡を指で拭い、考えをまとめるように言った。
「変な噂……。そうなのよ。彼女って何を考えてるか分かんないトコあるでしょ? それでなのかもしれないけど、妙な事を聞いたのよ。後藤田さんの高校時代の同級生が人事部にいるんだけど」
 例の噂話の件じゃないんだ。須永は少し救われたような気分になった。
「彼女って思い込みが激しいらしくて。怖い思いをした人が結構いるみたいよ」
 杏子が聞き込んできた話によると、コレまでにも何度か須永と同じように些細な事で勘違いされた事から噂を流されたり、付き纏われたりといった騒ぎがあったらしいというのだ。
「知ってると思うけど、今、社内で変な噂が流れてるじゃない? あたしはこの話を知っていたから気にしてないけど、守也には注意しておいた方がいいと思って」
 須永は杏子からもたらされた情報に、背筋が寒くなるのを感じた。
 その後、杏子に誘われた食事もほとんど味など覚えていない。不満気な杏子を伴い、須永が店を出た時。暗がりから声をかけられた。
「あの……須永さん」
 何も考えずに振り向いた須永は、そこに直美の姿を認めて硬直した。
「え、ご、後藤田……?」
 セミロングの髪を後ろで一つに束ね、地味なスーツを着込んだ直美がツーポイントの眼鏡を店から漏れる明かりに光らせ、表情の読めない顔で立っている。
「私、『珈琲room』で待ってたんです。須永さんが来てくれるの、待ってたんです」
 か細い声で、淡々と言葉を吐き出す直美が、須永には得体の知れないモノに見えた。
「待ってたって言われても、俺と君は何の関係もないだろう」
「でも、須永さんは、私に好意を持ってくれてるんですよね。だから、あの時、私を手伝ってくれたんですよね」
 下から絡みつくように見上げてくる直美の視線は、須永に本能的な嫌悪感を与えた。
「そんなの、深い意味なんてある訳ないじゃない! 守也はあたしと付き合ってるのよ。どうしてあなたなんかに好意を持ってたりするって言うのよ」
 横から杏子が言葉を挟んだ。そんな杏子に目をやると、直美はゆっくりと呟いた。
「付き合ってる? そうなの、須永さん? 宮下さんと付き合ってるって、本当なの?」
 暗い、底の知れない沼のような直美の視線が、須永の全身に絡みつく。口の中に湧いてきた生唾を無理矢理飲み込む。
「ああ、そうだ。俺は杏子と付き合っている。もし君を勘違いさせてしまったのなら、申し訳ない。」
「そう言う事だから。判ったでしょ? もう変な噂を流したりしないでちょうだい」
 語気荒くそう言い放つと、須永の腕を引っ張り、杏子は早足で歩き出した。グイグイと引っ張られながら、須永は背中に粘りつくような視線を感じていた。振り向かなくても、何故か須永には判った。後藤田直美が薄笑いを浮かべている事が。
「こう言うのはさ、はじめが肝心なんだから。アレくらいはっきりと伝えておけば、大丈夫よ」
 杏子はサッパリした表情でそう言ったが、須永はそれに同意する事は出来なかった。
 数日後、確かに噂は聞こえなくなった。だが今度は、須永の行く先々で直美の姿が見られるようになったのだ。



 お化粧にお洒落。合コンにショッピング。頭の中はブランドの事と、男の事で一杯。私はそんな馬鹿な女達とは違うのよ。いつもフワフワ浮ついていて、男に愛想振り撒く事しか考えていないような、そこら辺にいる頭の悪い女達とは違う。私は「特別」なの。
 後藤田直美は、そう考えていた。彼女には幼少の頃から友人がいなかったが、しかしそれは、自分の「特別」性に周囲が嫉妬しているからであり、そのような者に自分が歩調を合わせる必要はないと考えていた。
 そんな直美の協調性に欠けた性格は、社会に出たからといって修正されるはずもなく、相変わらず周囲から浮きまくった存在となっていた。
 化粧もせず、色気のないフレームレスの眼鏡をかけた、表情の乏しい顔。ただ束ねただけの、ひっつめた髪。当然、お洒落に気を使うはずもなく、地味なスーツ姿。そうした直美を男性社員が敬遠するのは当たり前で、女性社員も必要な時以外は近寄る事さえしなかった。
 定刻に会社へ入り、定刻に会社を出る。何の面白味もない生活。それでも直美は、自分自身の「特別」性を信じて疑わなかった。それには、ある理由があったのだが……。
 変わりばえのしない毎日の中で、与えられた仕事をこなしていく。要求されたより以上はせず、要求されたより以下もない。そんな機械的な毎日が、その日はちょっと、違っていた。
「後藤田君、ちょっと」
 上司に呼ばれて行ってみると、伝票の山を突きつけられた。
「え? あの──」
 戸惑う直美に、上司は視線をあげずに言った。
「その伝票、入力が間違っているんだよ。今日中に再入力しておくように」
「今日中って……これを一人でですか? 私、残業はちょっと──」
 言葉を濁す直美に、上司はため息を吐いて顔を上げた。
「君ねぇ。たまに残業して仕事をやって行ったって、バチは当たらんだろう。一人でやるのが無理だったら、誰かに頼んで手伝ってもらったらどうかね? それとも残業できない、きちんとした理由でもあるのかね?」
 毎日残業もせず、定刻に帰って行く直美は上司にも評判が悪かった。誰かに手伝ってもらえと言われても、頼める相手がいるはずもない。結局、一人で伝票の山と格闘する事となった。

「あれっ、後藤田さん? 珍しいね、こんな時間まで。どうしたの?」
 夜遅く一人でパソコンに向き合っていた直美は、急に声をかけられて驚いた。振り向いた先にいたのは、一年先輩で第一営業部に勤めている須永守也だった。
「え、あ、須永さん。今日は直帰だったんじゃないんですか?」
 男性社員から声などかけられた事のない直美は、突然の事に戸惑ってしまった。振り向いた拍子に、変なキーを触ってしまったらしい。ディスプレイにエラーが表示されている。
「ああ、悪い。驚かせちゃった? ちょっと忘れ物。何、伝票の記入ミス? これを全部一人でやれって?」
 ディスプレイの横に山と積まれた伝票の束を見た、須永の形の良い眉がひそめられた。造作の整った顔立ちと人当たりの良さから、社内の女性社員達の噂の的だった須永。実を言えば、直美も少し気になってはいたのだ。
「あ、あの私、手伝ってくれる人とかいなくて──」
 当然の事ながら、残業を手伝ってくれと頼める相手は見つからなかった。直美が周囲を心の中では見下している事は、口に出さなくとも皆それなりに感じとっている。直美も相手に合わせて頭を下げる事など出来るはずもない。
「みんな、しょうがないなぁ。よし、半分手伝うよ。貸してみな」
 直美がまごついているうちに、上着を脱いだ須永が伝票を半分受け取った。
「えーと? これを入力しちまえばいいんだな? サクサクやっちまおうぜ」
 須永は直美に笑いかけると、空いている席に着いてパソコンの電源を入れた。
「ありがとうございます──」
「いいから、気にすんなって」
 ディスプレイに向き直った彼女は、心拍数が上がるのを抑えられなかった。社内でも人気者の好青年である須永と、夜のオフィスで二人きり。これまで男性社員と話もせず、何の面白味もない生活を送ってきたのは、きっとこの瞬間のためなのだ。
 私は須永さんと結ばれる。
 今夜のこの出来事は、運命の歯車が廻り始めた何よりの証拠。
「須永さん……」
 直美は妄信に近い確信を持った。
 須永さんは、私に好意を持っている。

 翌日から、直美の態度に変化が現れた。これまでは、どこで誰に何を言われようと無反応だった直美が、予想外の反論をするようになったのだ。
 そしてそれは、瞬く間に社内を駆け巡った。
「ねぇねぇ、聞いた、アノ噂?」
「聞いたわよ。あれでしょ? 後藤田が営業の須永さんと付き合ってるって。あれって本当なの?」
「何でも、後藤田が言ってるらしいよ。けど、デマカセじゃないの? だって後藤田と須永さんだし。ありえないよ」
 給湯室や女子トイレは、直美と須永の噂で持ちきりだった。社内一番人気の須永と、社内一番の変わり者・後藤田直美。この二人のカップリングが、噂にならないわけがない。
「えー、あたし、杏子と付き合ってるって聞いたけどぉ。どーなの、それって」
「それにしたってさあ、誰よ、こんな噂流した奴?」
「だから、後藤田だってば」
 しかし直美としては、意図的に噂を流そうと思っていた訳ではない。彼女はこれまでのように、同僚の女子社員からかけられる嫌味な質問に答えていただけだ。
「後藤田さんって、会社終わってから何やってるの? いつも定時で帰ってるけど、家で誰か待ってるとか?」
「えー? 後藤田さん、彼氏いるんだぁ。全然そんなふうに見えないけど、意外とやるじゃない」
 事の始まりは、須永と残業した次の日の休憩室。お茶を飲みながら、週末の予定をおしゃべりしていた数人の女性社員が、テーブルの一番端に座っていた直美に話題をふってきたのだ。
「何だかさあ。いつもあたし達の話を、馬鹿にしながら聞いてるみたいだけど。後藤田さんて、そんなにイイ男と付き合ってる訳?」
 一人、湯飲みを見つめていた直美は、感情の読み取れない表情で彼女達を見返した。
「私、あなた達の話を馬鹿にしたりしてないわよ。ただ、私には関係ないし、興味がないだけ」
 そう言って立ち上がると、白けてしまっている同僚達を尻目に流しで湯飲みを片付けると出て行こうとした。
「それから、私が付き合ってる相手の事を知りたいんなら教えてあげるわ。営業部の須永さんよ」
 直美のその言葉に、女性社員達が色めきたった。
「須永さんって──」
「後藤田さん、嘘吐くなら、もう少しマシなのにしなよ」
 休憩室を仕切る衝立の前で立ち止まると、
「嘘じゃないわよ。昨日の残業、誰が手伝ってくれたと思っているの? 私と須永さんの二人でやったのよ。昨日は直帰の予定だったのに、私が残業で大変なのを知って、わざわざ戻ってきてくれたの」
 言い放つと、休憩室を出て行く。後に残された女子社員達の悲鳴じみた騒ぎが響き渡ったのは、言うまでもない。
 これによって『後藤田直美が須永守也と付き合っている』という噂が、社内を駆け巡る事となったのだ。
(そうよ。私は須永さんと付き合っているのよ。今まで私の事を馬鹿にしてた奴等、思い知るといいわ。私はあんた達とは違うのよ)
 今日は仕事が早く終わりそうだ。先日、残業を手伝ってもらったお礼に、須永を食事に誘ってみようか。自分達は付き合っているんだし、それは極自然な事だろう。
 直美はそう考えると、メモを書き始めた。
“今晩、七時に珈琲ルームで待ってます。直美”
 それだけを書き付けると、破りとって立ち上がる。自然と口元に笑みが浮かんだ。営業部のドアを開けると、部屋中の視線が直美に集中する。これまで経験した事がない程の優越感が直美を満たす。須永のデスクにメモを残すと、周囲からヒソヒソと囁く声が聞こえてくる。直美はその囁きに満足しながら営業部を立ち去った。
「おいおい、あの噂、本当なのかよ?」
「何かの間違いじゃないの?」
「でもここに、待ち合わせの時間と場所が」
 ドア越しに聞こえてくる声に、こぼれる笑みを抑える事が出来ない。
「須永さんは、きっと来るわ。だって彼は、私の事を好きなんだもの」
 それは直美の中では、動かしようのない真実。
 時計の針が時を刻むのが、いつもよりも遅く感じられる。七時になるのが待ち遠しかった。仕事にも身が入らず、そわそわしてしまった。そんな直美の態度に、隣のデスクにいる同僚が声を掛けてきた。
「後藤田さん、随分落ち着かないのね。そんなに時間が気になるなんて、何か大切な用事でもあるの? あ、もしかしてデートとか?」
 少々皮肉も含まれたその言葉に、直美は勝ち誇ったような表情を見せた。
「ええ。七時に、須永さんと待ち合わせているのよ」
 相手が目を丸くしているのを見届けると、直美はデスクの上を片付け始めた。
「それでは、お先に失礼します」
 呆然とする周囲を尻目に、定時に退社する直美。会社を出ると腕時計に目をやり、もう一度時間を確認する。七時までには早過ぎる。駅の方へ歩き出しながら、直美は嬉しい妄想に浸っていた。そうだ。このまま待ち合わせの店に行こう。この幸せな想いに浸っていれば、約束の時間なんてすぐだ。
「うふふ。須永さん、早く来ないかしら?」
 しかし、その幸せな想いは無惨に打ち砕かれた。何時間待っても、須永は店にやって来なかったのだ。店員が嫌そうな顔をして、何度目かのおかわりの催促にやって来た。
「コーヒーのおかわりは?」
 かなり投げやりな対応になっている。
「いえ、結構です。もう帰りますから」
 そう言って立ち上がると、伝票をつかんでレジへ向かう。そんな直美の耳に、店員の舌打ちが聞こえる。
「まったく。たった一杯のコーヒーで、何時間粘るんだか。二時間も待って相手が来なきゃ、フラレたって判りそうなもんなのに」
 直美は振り返ると、その店員を睨み付けた。それに気が付いた店員が、きまり悪そうに顔を逸す。レジでコーヒーの代金を支払うと、店から出る。腕時計を見ると、時刻はすでに午後九時半を回っている。
「須永さん、どうして来なかったのかしら」
 直美は親指の爪を噛んだ。須永が約束を破るなんて。所詮は、須永も他の男達と同じという事なのか。いや、そんなはずはない。須永は私の、運命の人なんだから。
「きっと、何か来れない理由があるのよ」
 そう呟き、直美はフラフラと歩き始めた。そのまま自宅に戻る気にもなれず、駅付近の店をひやかして回る。もしかしたら、須永が見つかるかもしれない。
 あてもなく歩き回っていた直美の足が、あるレストランの前で止まった。店の窓際のテーブルに、女性と二人で食事している須永を見つけたのだ。
「須永さん……どうして?」
 一緒にいる女性には、見覚えがあった。確か、総務課の宮下とか言う女性だ。なぜ須永が宮下杏子と一緒にいるのか。
 直美は建物の陰に隠れて、須永が店から出て来るのを待つことにした。やがて、何やら面白くなさそうな顔をした杏子と、沈んだ表情の須永が出て来た。暗がりの中に立っていた直美は、思い切って声をかける。
「あの……須永さん」
 その声に振り返った須永は、直美の姿を認めてギョッとしたように見えた。
「え、ご、後藤田?」
 何をそんなに、驚いているのかしら? ああ、私が怒っていると思っているのね。
「私、『珈琲room』で待ってたんです。須永さんが来てくれるの、待ってたんです」
 大丈夫よ、須永さん。私、怒ったりしてないから。でも少しくらい、言わせてもらってもいいでしょ?
「待ってたって言われても、俺と君は何の関係もないだろう」
 何を言っているの、須永さん?
「でも、須永さんは私に好意を持ってくれてるんですよね。だからあの時、私を手伝ってくれたんですよね」
 直美は眼鏡越しに、須永を見上げた。
「そんなの、深い意味なんてある訳ないじゃない! 守也はあたしと付き合ってるのよ。どうしてあなたに、好意を持ったりするって言うのよ」
 須永を押しのけるようにして、横から宮下杏子が口を挟んできた。何だ、この女は。少しばかり顔の造作が整っているから、男共にチヤホヤされているから、思い違いをしている馬鹿な女。
「付き合ってる? そうなの、須永さん? 宮下さんと付き合ってるって、本当なの?」
 こんな馬鹿な女と付き合うなんて、嘘よね? 嘘なんでしょ、須永さん?
「ああ、そうだ。俺は杏子と付き合ってる。もし君を誤解させてしまったのなら、済まなかった──」
「そう言う事だから。判ったでしょ? もう変な噂流したりしないでちょうだい」
 そう言い放つと、須永の腕を強引に引っ張って、杏子は早足でその場から歩み去って行く。須永は杏子に引きずられるように、直美の方を気にしながら遠ざかって行った。
「須永さん……。判ったわ、どういう事なのか」
 去って行く須永の背中を見つめていた、直美の口角がゆっくりと吊り上がっていく。ひどく冷たい笑みが、街灯の明かりに浮かび上がる。
「そう。そうなの。その女のせいなのね。その宮下杏子が、私と須永さんの邪魔をしているんでしょ? そうなのね」
 須永さんは私のものなのに。その運命を邪魔しようとしている、あの女。今夜、須永さんが私との約束を守れなかったのは、無理矢理、宮下杏子に連れて行かれたせいだったのね。
「大丈夫よ、須永さん。私には判っているから。あなたは本当は、私と一緒にいたいのよね」
 冷たい笑みを張り付かせたまま、直美はブツブツと呟いていた。

「お姉さん、駄目だよ。いけない事、考えてるでしょ?」

 いきなり背後から声をかけられて、直美は慌てて振り向いた。
「誰? 誰かいるの?」
 街灯の明かりが急に瞬いて消えた。直美の周辺に闇が落ちる。キョロキョロと辺りを見回す直美の耳に、またあの声が聞こえてきた。
「お姉さん、随分と危ないモノくっつけてるけど。これ以上いけない事すると、お姉さんの命にも関わるわよ」
 いた。闇に慣れた直美の目に映ったのは、人形を抱いた十歳くらいの少女だ。その出いで立たちは、腕の中の人形と同じ、フランス人形のようなロリータ・ファッション、しかし、まるで葬式にでも行ってきたかのように、黒尽くめだ。
「誰なの、あなた? さっきから、おかしな事ばかり言ってるけど何なのよ?」
 不快感から、刺々しい言葉になる。
 闇の中に立つ少女は、妖しい微笑みを浮かべた。クスクスと笑い声が流れてくる。その声や仕種に含まれる艶は、少女が見かけ通りのモノではないと教えている。
「あたし? あたしは、翔かける。神崎翔よ。お姉さん、前にも何度かいけない事しているでしょ? 駄目よ、そんな事しちゃ」
「いけない事って、何よ? 訳判んないわ。一体、何だって言うの?」
「ふふふ……。判ってるくせに。それとも、もうそんな事も判断できなくなっているのかしら?」
 コケティッシュという言葉が、ピッタリとくるような仕種が様になっている。
「人のモノばかり欲しがっていると、いつか鬼になってしまうわよ、お姉さん」
 直美は翔と名乗った少女を正視できず、無視して帰ろうとした。この少女は嫌だ。とても嫌な気持ちになる。
「あたしの事が嫌でしょう? もう会いたくないでしょう? だったら、これ以上いけない事を考えないようにね。今度あたしに会う事があったら、お姉さん、容赦しないから覚悟してね」
 その生意気な物言いに、少々ムカッとした直美が振り返ると、闇の中に、すでに少女の姿はない。慌ててキョロキョロと周囲を見回しているうちに、消えていた街灯の明かりが戻ってくる。
「一体──何だったって言うの?」
 直美は呆然と呟いた。もしかして、今の出来事は幻だったのではなかろうか? そう思わせる程、通りはいつもと同じ顔をしている。
 納得のいかない思いを抱えたまま直美は帰路に着いた。あんな気味の悪い子供の事なんかに構っている場合ではない。今は、須永の事だ。これから、どのようにしていこうか?



 須永は反対方向へ帰る杏子と、駅の改札口を抜けたところで別れた。胸の中に落とし込まれた重たいシコリを抱えて、電車に乗り込む。
 杏子はあれでケリがついたような事を言っていたが、須永にはそうは思えなかった。去り際に背中に感じた、あの直美の視線。あれはこちらの言葉が、何一つ通じていない眼だ。
 人の波に流されて、ホームに降り立つ。少し落ち着こうと、ホームの売店で缶ジュースを買い求め、ベンチに腰掛ける。
「はああぁぁぁ──」
 胸の奥底から吐き出されるため息は、まるで鉛色に彩色されているかのようだ。缶ジュースのプルトップを開けた瞬間、聞き覚えのない声が語りかけてきた。
「お兄さん、大変そうだね」
「え?」
 声のした方へ目をやると、ベンチの中程に詰襟の学生服を着た十五歳くらいの少年が座っていた。静かに澄んだ湖面のような瞳は、吸い込まれてしまいそうな程に深い。
「さっきから、ため息ばかり吐いているよ」
その言葉に、須永は苦笑するしかなかった。
「そんなに、ため息吐いていたかな?」
 大きく息を吐き出し、開いている手で軽く頬を叩いて喝を入れる。
「もっと、シャキッとしなくちゃあな」
 一息に缶ジュースを飲み干し、立ち上がる須永に少年が声をかけた。

「お兄さん、気を付けた方がいいよ。お兄さんの背中に、鬼が見えるから」

 そう言って、少年も立ち上がった。スラリとしたその四肢は、若駒のように力に溢れている。
「鬼? 何だって? 君は一体……」
 少年はその澄んだ瞳で、須永をじっと見つめる。瞬間、二人の周囲からすべての音が消えた。夜のホームに、須永と少年の影だけが落ちている。
「ボクの名前は綵さい。神崎綵。お兄さんはいい人みたいだから、教えてあげるよ。お兄さんの後ろに、とっても嫌な鬼が憑いているのが見えるんだ。気を付けた方がいい」
 そう言うと、須永の脇をすり抜けて行く。
「スキを見せると、つけ入られるからね」
 かけられた言葉の意味が理解できず、唖然としていた須永はハッと我に返って振り向く。だがしかし、須永の視線の先に少年の姿はない。辺りを見回すが、ホームのどこにも神﨑綵と名乗った少年は見当たらなかった。いつの間にか、ホームにはいつもの風景、いつもの音が戻ってきている。
「一体、何だってんだ?」
 今見たモノ、聞いた事は幻だったんだろうか?
「俺、そんなに疲れてんのかなぁ」
 かばんを抱え直すと、新たなため息を吐いて階段を降りていった。
 いつまでも、後藤田直美の事ばかりを気にしている訳にはいかない。営業の成績も、ここのところ落ち込んでいる。
「よし。明日からは気を取り直して、頑張るぞ」



 自分自身に気合を入れると、須永は帰路を急いだ。
「おはようございます」
 妙に寝苦しい夜を過ごした須永は、すっきりしない頭で出社した。
「何だ何だ、そんな顔して。そんなんじゃ、相手先に失礼だぞ」
 上司から肩を叩かれて、彼はあいまいな顔で笑って見せた。
 いつもと同じ、職場風景。電話でクライアントと話をする者。営業成績の不振を、上司に叱られている者。慌しく荷物を抱えて飛び出して行く者。何も変わらない日常。そんな中で、なぜかしら須永だけが浮いている。何が変わった訳でもないのに、どこかが決定的に違う。
 ザワザワと騒がしい室内で、まるでポッカリと穴が開いたように、須永の周囲だけが静かだ。それに気付かないフリをして、いつものように仕事をこなす。居心地の悪さを振り払うように、大きな声で行き先を告げると営業部を出た。
「あーあ。昨日の事、みんなにバレてんだろうなあ」
 上着を羽織りながら会社の駐車場へ出た。もうすっかり染み付いてしまったため息を吐き出し、社用車へ乗り込んだ。バックミラーの位置を直した時、チラリと何かが映った。
「ん?」
 何が映ったのかを確かめようと、振り返った須永が見たのは──。
「な……どうして?」
 駐車場の角の建物に隠れるようにして、後藤田直美がこちらをうかがっている。須永がいつ営業に出るかなど、直美が知るはずもない。ただ、須永の行動を監視しているというのであれば、話は別だが。
 須永は反射的にアクセルを踏み込んだ。一秒でも早く、彼女の視線の届かない所へ行きたかった。
「何だよ──。何だよ、あいつ──」
 とにかく、仕事に集中しよう。忘れるんだ。ただ見ているだけ。何かしでかしてくる訳じゃない。無視するんだ……。
 そう自分に言い聞かせ、ハンドルを操った。
 しかし、この時を境に、直美は須永の行く先々に姿を見せるようになった。取引先の廊下で、食事に入った店で、行き帰りの駅のホームで、自宅アパートの窓から見える通りで。何をするでもなく、何を言うでもなく、ただじっと須永を見ている。こちらの言う事など、まったく通じない眼をして。
 それが果たして直美本人なのか、それとも須永の見間違いなのか。明らかに、直美がそこにいる事が不自然である状況もあった。須永が取引先で直美を目撃した時、彼女が会社にいて仕事をしていたと、何人もの人間が証言した事もあった。
 もはや須永にとって心安らぐ場所は、会社にも自宅にもなかった。会社に行けば、あらゆる所に直美の視線があった。仕事を終えて自宅へ戻れば、限界まで録音された留守番電話。蛇のようにトグロを巻くファックス用紙。次第に追い詰められていく須永の精神は、ギリギリで自分を保っていた。
 眠っても疲れは取れない。それどころか夢の中にまで直美が現れ、須永の心から休息を奪っていく始末だ。そのために仕事でもミスが増えた。
「何やってんだ、須永! 最近タルんどるぞ、お前!」
 営業部内に上司の怒声が響き渡った。
「申し訳ありません…………」
 部長にさんざん怒鳴られた後、うなだれて自分のデスクに戻った須永を近寄ってきた沢木が小声で励ました。
「大丈夫か? あんまり、気にすんなよ」
「ああ、サンキュー。大丈夫だよ」
「今晩、杏子ちゃんとの約束ないんだろ? どうだ、久し振りに飲みに行こうぜ。少しは気晴らしした方がいいぞ」
 沢木の申し出に、須永は疲れた笑みを浮かべた。
「そうだな……。今晩は、お前に付き合ってもらうか」
 得意先に電話をかける気力もない。デスクの上に書類を広げたまま、頭を抱えて時間を過ごした。皆に同じく作用しているはずの時間が、須永の上にだけは間延びして流れているようだ。
 どうして、こんな事になったのだろう? 何がいけなかったのだろう?
 のしかかってくるストレスを紛らわせるために、慣れない煙草にも手を出した。この精神的苦痛から逃れられるなら、とりあえず何でも良かった。
 デスクの上に放り出してあった、須永の携帯電話が震え出す。ぼんやりと携帯電話を手にした彼はメールの発信者を見て、まるで火傷でも負ったかのように電話を投げ出した。直美からだ。
「っ、うわっ!」
 恐怖の形相で立ち上がった須永は、周囲の驚いた視線にさらされて、いたたまれずに部屋を飛び出した。落ち着くために風にあたろうと屋上へと向かう。
「──でも、俺のメルアドどうやって知ったんだ、後藤田の奴──?」
 首を傾げながら、屋上へと続く階段を昇って行く。ステンレスのドアを開けると、須永に向かって涼しい風が流れてくる。深く息を吸い込むと、久し振りに呼吸をしたかのような気になった。胸ポケットから煙草の箱を取り出し、屋上に設置されたベンチと灰皿の方へ歩き出した。くわえた煙草の匂いが鼻先をくすぐる。
 ベンチにだらしなく腰かけると、空に向かって煙を吐き出す。途端に、吹いてきた風がかき消していく。
「あーあ。俺の悩みも、こんな風に消えちまえばいいのにな」
 力なく呟くと、短くなった煙草を灰皿に放り込む。大きく伸びをしてみる。いつの間にか、気持ちと同じように体も縮こまっていたらしい。伸ばした手足が、ギシギシと軋む。何も考えず、誰にも会わず、一人でただ時間が流れるのを感じる。
 直美のつきまといが始まって以来、ゆっくりと一人になる事が出来ずにいた須永は、杏子と会う事さえ苦痛になっていたのだ。そのために、杏子もかなり不満に感じているらしかった。悪いなとも思うが、放って置いてくれないか、と正直思わないでもない。
 ただ目を閉じて、風に吹かれている。久々に感じる平穏な時間を、須永は堪能する事ができなかった。須永にとってはもはやお馴染みになってしまった、それでも決して好きにはなれない気配と声。
「──須永さん」
 その声に、須永は文字通り飛び上がった。
「ご、後藤田──!」
 ベンチを間に挟み、逃げ出す体勢で身構える。
「何の用だよ?」
「どうしたの、須永さん? 顔色が良くないけど」
「放っていてくれ! もう、うんざりだ!」
 呼吸が早くなる。動悸が激しい。耳の奥でゴーゴーと音がする。口の中が渇く。喉が張り付いて不快だ。全身が、直美の存在を拒絶している。
「何? どうしたって言うの?」
 直美が一歩近寄ってきた。本能的に、一歩退がる。
「近寄るな!」
「どうして逃げるの? ねえ、須永さん?」
 駄目だ。コイツには、俺の言葉が通じない。俺の言葉が通じないんだ。
「あたしはただ、須永さんが好きで。だから、あたしを見て欲しくて。須永さんも、あたしの事気にしてくれているんでしょ?」
 どうして、そうなる? なんで、そうなるんだ!?
「俺は、お前なんか好きじゃない。お前の事なんか、何とも思ってない! だからもう、俺につきまとうな!」
 足がもつれる。平衡感覚が狂う。嫌だ。厭だ。否だ。イヤだ。いやだ。
「どうして、そんな事を言うの? ここには、宮下さんはいないのよ。須永さんの本当の気持ち、言ってくれて構わないのよ?」
 直美の口角が釣り上がる。笑っている。伝わっていない。こちらの言葉は、何一つ。本能的な拒絶と嫌悪と恐怖。それらの重苦しいプレッシャーに耐え切れずに、須永は直美に背を向けて走り出した。背筋を伝う悪寒は、須永の心臓にまで達していた。一秒たりとも一緒にいたくない。同じ空気を吸う事さえ、須永には耐え難い事だった。
 嫌だ。厭だ。否だ。イヤだ。いやだ──。



 後藤田直美は、暗赤色に澱んだ池のほとりに立っている。濁った水の下に、生き物の気配はない。住宅街を抜けた場所にあるその池は、昼間なのに妙に暗い雰囲気が漂っている。隣接する公園にも、人の気配はなく閑散としている。
 何と言う名の池だったか、忘れてしまった。名前など判らなくても、この辺りで「池」といえば、ここだけだ。生温かい風が渡ってくる池のほとりには、古びた小さな祠がある。苔むした石造りの祠は、いつの頃からそこにあるのか、詳しい縁起はどこにも記されていない。しっかりと閉じられている扉には、触れる者を拒むかのように、数枚の札が貼られていたのだが──今はその残滓がしがみついているだけだ。

『この池には、鬼は棲んでいる。鬼は望みを叶えてくれるがな、その代償に一番大切なモノを持って行く。だから、簡単に望みを口にしてはいけないよ』

 そんな事を言っていたのは、祖父だったか祖母だったか。
「自分にとって、一番大切なモノを取られる」
 一番大切なモノって何だ? 私はここで望みを口にしたけれど、誰も何も要求しては来なかった。この祠の封印を解いたのは、私。もう、随分前の事だわ。
 その頃、直美はまだ中学生だった。クラスの連中は、直美を理解しようとしない者ばかり。しかも、教師までもが「クラスに溶け込むように努力しろ」などと言い出したのだ。この私に、馬鹿なクラスの連中と同じ事をするようにと! 直美が相手にしないでいると、今度は放課後に呼び出して説教をし、果てには自宅にまで押し掛けて来るようになった。
「うっとおしいったらなかったわ。馬鹿な連中のマネをしろなんて。あんな事をしなければ、もう少し長生きできたかもしれないのに」
 直美はしゃがみこむと、祠の扉に手をかけた。古びた木の扉は、耳障りな音を立てる。
 あの時初めて、この池の祠の事を思い出したのだ。鬼神がいるなんて、信じていた訳じゃなかった。ただイライラして、誰もいない場所に行きたかっただけだ。自転車に乗って十五分程。まばらな木立の中に、目的の池は暗赤色の口を開けていた。鬼神を祀っているという祠は、今と変わらずそこにあった。ただ違っているのは、封印の札の有無だけだ。
 むしょうに気が立っていた直美は、何かに八つ当たりしたくて、祠の扉に貼り付けてあった封印の札をビリビリに破り捨ててしまったのだ。
「人の事、馬鹿にして──。あんな奴、いなくなっちゃえばいいのよ。あんな奴!」
 固く扉を戒めていた数枚の札は、細かく千切られ、池に向かってばら撒かれた。
「あー、スッキリした。ほんと、あんな奴、いなくなっちゃえばいいのよ。鬼だろうが何だろうが、私の願いを叶えてくれるなら、どんなモノでもあげるわ」
 直美がそう言った瞬間、池の表面が鋭く光り、祠の中から雷鳴のようなうなり声が響いてきた。驚いた直美が祠の中を確かめたが、扉の内側には何も入っていなかった。
「なあんだ。何もないじゃない。くっだらない」
 少しがっかりした顔で祠を閉めた直美は、そのまま振り返りもせずに帰路に着いた。
 池の祠の事も忘れて、翌日学校へ行った直美は、学校中が妙にザワついている事に気が付いた。どうせまた、ロクでもない理由に違いない。そうタカをくくっていた直美の耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「ねえ、聞いた? 村田先生の車に、トレーラーが突っ込んで来たんだって」
「聞いた聞いた。今朝の話でしょ?」
 村田、とは直美の担任の名前だ。
「何? 村田がどうしたの?」
 思わず直美も、側にいたクラスメイトに声を掛けてしまった。直美の覚えている限り、誰かに自分から話しかけたのは初めての事だ。
「え? ああ……。今朝学校へ来る途中で、村田先生の乗ってた車に、反対車線のトレーラーが突っ込んだって──。その後の詳しい話は、まだ……」
「そう、ありがと」
 偶然だろうか? それとも、もしかして──。やがて全校集会が始まり、村田が重体で病院に担ぎ込まれた事を知らされた。登下校の際には、充分気をつけるようにとの注意があり、集会は解散となった。
「あれさ、トレーラーの運転手の居眠りなんだろ?」
「えー? 俺の聞いた話だと、トレーラーには誰も乗ってなかったって言ってたぜ」
「バーカ。誰も乗ってない車が、動くはずねえだろ。おっかしいんじゃねー」
「だーかーらー。それが動いたからホラーなんだろ。誰も乗ってなかったトレーラーが、急に動き出したんだぜ。これは絶対に、幽霊の仕業だって」
「んな訳ねーって。どうせ何かの偶然だろ」
 廊下のあちこちから聞こえてくる話声のおかげで、大体のところの想像はついた。これが、偶然なんかであるはずがない。池の祠の言い伝えは本当だったんだ! 直美は人知れず、冷たい笑みを浮かべた。
 しかし問題は『一番大切なモノを持って行く』という事だ。一体何を要求されるというのだろう。ただその事だけが気掛かりだった。数日間は直美も心配していたのだが、拍子抜けするほど何事もなく時間だけが過ぎていった。
「心配して損した気分だわ。──でも、もしかしたら、アレは関係なかったのかしら?」
 村田の事故は池の祠とは関係なかったのかもしれない。そんな不安が頭をよぎる。そして彼女は決意した。もう一度、池へ行こう。幸い、いなくなって欲しい連中は山ほどいる。
 そうやって直美は、自分の気に入らない相手に、鬼を送りつけてきた。一度として、その代価を求められる事無く。そして彼女は、こう結論付けたのだ。
「私には、鬼神を操る特別な力があるのよ。だって、私が池の祠に願った人間はヒドイ目にあって不幸になった。そして何度も願ったけど、一度も代価を要求されなかったわ」
 愉し気にそう言うと、直美は祠の扉を開け放った。中には二枚の写真が納められている。一枚は忘年会の時に撮影された、須永守也のもの。そしてもう一枚は──無数のマチ針を突き立てられた、宮下杏子のものだった。
「須永さんは、私のものよ。邪魔するなんて許さない。お前なんて、いなくなればいいのよ。私だけが須永さんの側にいればいいのよ」
 呟きながら、杏子の写真に新たな針を刺していく。
「鬼よ、鬼。須永守也の目に、私だけを写せ。宮下杏子から須永守也を奪え。鬼よ、鬼。須永守也は私のものだ」
 ブツブツと呟きながら一心に針を刺す直美の心に応えるように、地中から背筋を震わすような唸り声が響いた。



 最近の須永は、いつも何かに怯えてビクビクしている。一緒にいても上の空で、杏子の話も聞いていないような状態だった。
「ちょっとぉ! 守也、人の話聞いてるの?」
 須永がハッとして顔を挙げ、気まずそうに謝ってくる。
「ごめん。少し、ボーっとしちゃって──」
 険しい顔付きの杏子は、須永の言葉を遮った。指はイライラと、コーヒーカップの縁をなぞっている。
「この頃、いっつもそうよね。あたしが何か言っても全然聞いてないし、デートにだって誘ってくれない。メール送っても電話しても、守也からは返って来ない。一体、何なのよ!」
 これまで溜まっていた不満を、一気に須永にぶつけているようだ。
「ああ──悪かったよ──」
 正直言って、自分の事で手一杯の須永にとって、杏子の高い声は不快以外の何物でもない。尚も激しく言い募る杏子の声に、頭を抱えていた須永も思わず声を荒げてしまった。
「うるさいな! 悪かったって言ってるだろ!」
 言ってしまってから、須永は『しまった』と口をつぐんだ。杏子がすごい顔をして、須永の事をにらみ付けていたのだ。
「あ、ごめん……。つい──」
 慌てて謝罪の言葉を口にしたが、杏子はふくれて立ち上がる。
「そう……。判った。そんなにうるさいんだったら、もう帰るわ」
 そう言い残すと、足音も荒く店を出て行く杏子の背中を見送り、須永は大きくため息を吐いた。
「何だってんだよ──。勘弁してくれよ……」
 テーブルに突っ伏して、再び頭を抱える須永の周囲には、どんよりと暗いオーラが漂っていた。

「何よ、守也の奴。あんな言い方しなくてもいいじゃない」
 怒り冷めやらぬ杏子は、ヒールの音を響かせながら歩いて行く。
「あたしにあんな事言うなんて、どういうつもりなのかしら。偉そうに」
 バッグの中から携帯を取り出すと、メモリボタンを操作し始めた。携帯を耳に当てた瞬間、誰かに見られているような気がして、杏子は背後を振り返った。レンタルビデオ店とシャッターの降りた洋品店の間、ほんのわずかに口を開けている空間から、誰かの黒い影が自分をうかがっているような気がした。
「──何だ、気のせいか……」
 ホッと息をついた時、耳にあてた携帯が繋がった。
「あ、もしもし──」
『──』
「あれ? 聞こえないの? もしもし?」
『……──』
 電話の向こうの相手は、こちらの声が聞こえているのかいないのか、何も応答は返って来ない。
「何よ、おっかしいなぁ」
 かけ直そうと耳から離した時、何かが聞こえたような気がした。かすかに、ひどく遠いどこかから──。
「もしもし? ねえ、聞こえてるの? もしもし?」
『お前が──のに……。お前な……──……』
 電波が悪いのか、相手の声は非常に聞き取りづらい。
「え? 何? 良く聞こえないんだけど」
 次第に声が荒くなる。もともと機嫌が悪いところに持って来て、この電話である。
「いい加減にしてよね! もう切るから!」
 杏子が携帯に向かって怒鳴った瞬間、不意に相手の声が鮮明に耳に入った。
『お前がいなければいいんだ。お前はいらない。お前なんか、いなくなってしまえ!』
 男のような、女のような。どちらともつかない、気味の悪い声。陰にこもった、不快な声だ。
「──ヒッ!」
 驚いた杏子は、思わず携帯電話を取り落としてしまった。口許に手を当てて、まるでそれ自体が毒を持った未知の生物であるかのように、恐る恐る手を伸ばして携帯を掴む。
「も、もしもし──?」
 しかし携帯から聞こえてくるのは、何の変哲もない無機質な電子音だけ。動揺に震える手で、携帯をバッグに戻し、足早に歩き始めた。徐々にスピードアップしていく。
「何よ──。何なのよ──。何だって言うのよ──?」
 ぶつぶつと呪文のように繰り返しながら、目の据わってしまった表情で自宅へ急ぐ。そこの暗がりからも、ここの路地からも、自分の事を見つめている『眼』があるような気がする。すれ違う人々が、悪意ある人間に見えてきてしまう。
 やっとの事で自宅へ辿り着くと、慌ててドアの鍵を掛けた。ドアにもたれて息を整える。だが杏子の呼吸が静まる前に、リビングで電話が鳴り響く。文字通り、杏子は心臓が飛び出しそうになった。
「ちょっと……。お母さん! いないの?」
 杏子の家は父母と弟の四人暮らし。いつもならこの時間、リビングにいるはずの母親が電話に出る気配はない。仕方なくリビングへ向かう。今晩に限って、他の家族は出払っているらしい。明かりの灯らない真っ暗なリビングで、着信コールを知らせる電話機の明滅だけが際立っている。リビングの明かりを点けると、震える指で受話器を掴んだ。
「……もしもし、宮下です」
『もしもし、杏子? いるんだったら、早く出てよ。いないのかと思っちゃったじゃない』
「ああ、お母さん……」
 杏子は大きく安堵のため息を吐いた。
『何よ、変な声出して。今ね、横浜のおばさんちにいるのよ。急におじさんの具合が悪くなっちゃって。今晩はお父さんと一緒に、こっちに泊まるからよろしくね』
「え、ちょっと待ってよ。そんな急に──」
『それから、今晩はあなた一人だから。戸締りに気をつけて頂戴』
「そんな! 一人ってどう言う事よ?」
「伸明も今晩は帰ってこないから。お友達の所に泊まるんですって。それじゃ、よろしくね』
 そう言うと電話は切れてしまった。受話器を戻すと、周囲の静けさが杏子に迫ってくる。
「何でこんな時に限って、お父さんもお母さんもいないのよ。しかも伸明もだなんて……」
 思わず呟いた自分の声が、予想以上に響いて聞こえる。普段はうるさく感じる伸明の存在が、今は切実に恋しかった。
「こんな時に、一人って冗談じゃないわ」
 杏子は誰かに家に来てもらおうと、戻したばかりの受話器に手を伸ばす。携帯は使う気にはなれなかった。アドレス帳をめくって、友人の家に片っ端からダイヤルしていく。だが、何度コールが響いても、誰も電話口に出ない。どこにかけても同じだ。
「何で? どうしてよ? どうして誰も出ないのよ」
 杏子の耳に響く、規則正しいコール音。諦めかけた彼女が、別の相手の電話をしようとフックに触れた瞬間、手にした受話器からいきなり音が溢れた。甲高い女の笑い声。
「いやあ──!!」
 杏子は受話器を叩きつけると、ヨロヨロと後退った。その拍子にテーブルにつまづき、ソファに倒れ込む。タイミングを見計らったように、今度はファックスが動き出した。排紙の音と共に押し出されてきた用紙には、同じ文章がビッシリと書き込まれている。
『須永守也と別れろ。須永守也から離れろ』
 それを目にして、声にならない悲鳴をあげて逃げ出した。自室へ駆け込んでドアに鍵を掛け、窓のロックを確認してカーテンをしっかりと閉める。部屋の電気を灯したまま、着替えも化粧も落とさず、ベッドにもぐり込んで頭から毛布を被って過ごした。
 ほとんど眠れないまま翌朝を迎え、杏子は恐る恐るリビングへ入って行った。ファックスは用紙が切れるまで排出され続けたらしい。リビングの入口付近にまで散乱した用紙を拾い集めながら昨夜は動転していて見えなかった事が見えてくる。
「こんな嫌がらせ、あいつしかいないじゃない……」
 相手の思う壺に乗せられて、一人で怖がっていたのかと思うと、無性に腹が立ってきた。掴んだファックス用紙を握りつぶし、杏子は歯軋りをした。
 社内の廊下にヒステリックな足音が響いた。聞く者の耳に突き刺さるような足音は、経理部の前で止まる。何も言わずにドアを蹴破るほどの勢いで室内に入って来たのは、物凄い形相の杏子だ。
 いつもはキチンとセットされている自慢の髪も、わざと蠱惑的に作られた化粧も、見る影もない。吊り上がった目、真一文字に引き結ばれた唇、全身から立ち昇る異様な気配に誰も言葉を書ける事が出来ない。ヒールの荒い足音を床に叩き付け、握り締めた両手を直美のデスクに打ち付けた。
「ちょっと、あんた! どう言うつもりなの!?」
 唐突に響き渡った杏子の怒声に、経理部にいた全員の視線が集まった。デスクから顔を上げた直美が、眼鏡のレンズ越しに杏子を見返してくる。
「何だって言うんですか? 私に何か用だったら、もう少し静かにして頂けませんか、宮下さん」
 無表情に何の感情も交えず返される直美からの言葉に、杏子のボルテージは上がっていく。
「何よ、しらばっくれる気!? ふざけないでよ! あんたなんでしょ、判ってんのよ!」
 デスクの上に握り締めていたファックス用紙を広げて見せる。シワクチャになっている紙面には、『須永守也と別れろ!』の文字が躍っている。
「これ、あんたが送ってきたんでしょ? あたしの携帯や家に嫌がらせの電話したり。あんたしかいないのよ。あんたがやったに決まってる」
 ヒステリックに声を張り上げる杏子とは対照的に、直美の表情に感情は伺えない。
「私が? どこかに、私がやったという証拠でもあるんですか? 私、宮下さんの自宅の電話も携帯も番号知りませんけど」
 その無表情な直美の態度が、さらに杏子の怒りを刺激した。
「ふざけるんじゃないわよ! 言いなさいよ。あんた、守也が好きなんでしょ? だから、あたしにこんな事するんでしょ? 言いなさいよ!」
 直美に掴みかからんばかりの杏子を、室内にいた男性社員がなだめようとする。しかしそれらを振りほどき、なおも杏子は食って掛かった。
「言いなさいよ、言いなさいってば! 守也と付き合ってるのは、このあたしよ! あんたなんか、守也に付きまとっているストーカーじゃない!」
「いい加減にして下さい。仕事の邪魔です。根も葉もない言いがかりを放言している暇があったら、もう少し頭を鍛えられたらどうですか? 男の人と遊ぶ事にばかり頭使ってないで」
 冷たく言い捨てて立ち上がった直美に、逆上した杏子が掴みかかった。
「何ですってぇ!? もう一度、言ってみなさいよ!」
 捕まれた腕を振りほどこうとした直美の頬が鳴った。杏子のマニキュアで飾られた長い爪が、彼女の頬に赤い傷を付けた。
「何をやってるんだ! 一体、何の騒ぎなんだ!」
 騒ぎを聞きつけた上司が、ようやく止めにやって来た。直美とにらみ合っている杏子との間に割って入り、人垣を見回す。
「何があった?」
 上司の言葉に皆は顔を見合わせていたが、直美の側にいた女子社員が恐る恐る口を開いた。
「宮下さんが──。私たちが仕事をしていたら、宮下さんがいきなり入って来たんです。そして後藤田さんに、自分に嫌がらせしているのは、あんただろう……って」
 周りにいた人間も、彼女の言葉にうなずいた。
「そうなのか? 皆の言っている通りなんだな?」
 上司に問いただされた杏子は、デスクの上に広げたままになっていたファックス用紙を見せた。シワだらけの紙を上司に突き付ける。
「でも、見て下さい。こんな事をするのは、彼女しかいなんです」
 目の前に出されたファックス用紙を手に取ると、じっくりと調べた。そして静かに杏子に視線を戻すと口を開いた。指は用紙の上部、送信者を示す部分を指している。
「宮下君。君のお宅に送られてきたという、このファックスだがね。この番号は、後藤田君の家のものとは違うようだが。もちろん、会社から送信されたものでもない」
「──そんな!?」
 上司の言葉に、杏子は驚いてファックス用紙を奪い取った。間違ってしまった何かを見つけようとするように、用紙を凝視する。
「信じられないと言うのであれば、名簿で調べてみればいい」
 目の前に突き出された社員名簿をノロノロと受け取り、後藤田直美の欄を見てみる。
 ……違う。用紙にプリントされていた送信者の番号は、名簿の直美のものとは違っていた。
「そんな……だって──」
 呆然とする杏子に、上司が冷たく言い放った。
「判ったなら、早く仕事に戻りたまえ。子供じゃあるまいし、こんな騒ぎを起こして恥ずかしいと思わんのかね」
「じゃ、じゃあ、きっと近所のコンビニから送ったのよ。自分の家の番号が分からないように。きっとそうよ!!」
「いい加減にしたまえ!」
 更に言い募ろうとした杏子を、うんざりだといった顔をした上司がどなり付けた。
「さっさと自分の部署に戻るんだ!」
「でも……」
「戻るんだ!」
 言葉を遮られ、杏子は口をつぐむしかなかった。ふらりと杏子が足を踏み出す。人垣が割れ、ヨロめきながら歩き出した杏子から遠ざかった。まるで彼女に触れられる事を恐れるかのように。その背中を見送る直美の口角が、きゅうぅっと吊り上がった。



 翌日からの皆の態度は、杏子にとって辛いものだった。自分の可愛さを鼻にかけていた杏子は、思いの外、周囲から反感を買っていたのだ。同じ様に直美も嫌われてはいたが、謂れのない怒りをぶつけられた被害者として、社員からの非難は杏子に集中したのだ。ごく一部の男性社員を除いて、杏子の味方をしてくれる者はいなくなってしまった。
「あの娘でしょ? 経理の女の子に怒鳴り込んで行ったの」
「そうらしいわよ。よくやるわよね」
 囁かれる陰口は、日を追うごとに増えてった。これまでは猫なで声で頼めば残業を替わってくれた男性社員も、今では冷たくそっぽを向く。日頃から杏子の態度を苦々しく思っていながらも、上辺では笑顔で接していた女性社員などはあからさまに彼女を無視した。溜まっていく一方のストレスを須永にぶつけようにも、あのケンカ以来距離を置かれてしまっていた。
「杏子ちゃん、大丈夫かい?」
 コピー機の前でボンヤリしていた杏子は、背後から急に声をかけられて飛び上がった。
「あ、沢木さん」
「どうしたの、そんな顔して」
「いえ、別に……」
 周囲の視線を気にして言葉を濁す杏子の肩を叩き、沢木が小声で言った。
「気にする事ないよ、杏子ちゃん。須永も呼び出しといてやるから、今晩、ここでね」
 そう言うと、杏子にメモを渡して行った。手の中のメモには、『今晩八時 レストラン風見鶏』と書かれている。久し振りに須永に会えるかも知れない、と、杏子は気持ちが少し軽くなるのを感じた。今日だけは、周りの冷淡な仕打ちも気にならなかった。
 時間より少し前に、指定されたレストランに着く事が出来た。時計を気にしながら須永達を待っていると、十分程して沢木が入って来た。
「やあ、待たせちゃって悪かったね」
「沢木さん一人なの? 守也は?」
 入ってきたのは沢木だけだ。後から入って来るのかとドアの方へ視線をやるが、須永が入って来る気配はない。
「ああ、須永ね。今晩のことは伝えてあるんだけどな。お得意さんとの打ち合わせが思いの外、長引いているんだと思うけど」
 沢木は杏子の正面に腰かけると、喉が渇いていたのか、グラスの水を一気に飲み干す。
「待っていれば、そのうちに来るんじゃないか。先に何か食っておこう」
 杏子は沢木に手渡されたメニューを開き、それもそうかと思い直した。ここにいる事を知っているのなら、打ち合わせが終ればすぐにやって来るだろう。
 このところストレスの多い生活をしていた彼女は、勧められるままに口にしたアルコールの力もあって徐々にリラックスしていった。話上手な沢木との食事は楽しかった。何より沢木は須永の友人だという安心感があった。料理の皿が全部片付けられ、食後のコーヒーを飲む頃には、杏子の頬にいつもの笑みが戻っていた。
「まったく。守也の奴、何してんだろ。まだ来ないなんて」
 腕時計で時間を確認した杏子がボヤくと、沢木が笑いながら答えた。
「杏子ちゃん、もう須永なんかいいじゃん。いっその事、二人で遊んじゃわない?」
「それもいいわね」
 いたずらっぽく笑って、杏子は沢木と連れ立って店から出た。何も考えずに笑っていられる自分こそが、本当の自分なのだと思う。ここしばらくの自分は、別の世界に住む誰かなのだ。そんな事を思いながら、杏子は沢木と腕を組み歩いて行く。
「沢木さん、どこに連れて行ってくれるの?」
「さあ、どこに行こうか? 杏子ちゃん、どっか行きたい所ある?」
「そうねぇ。もう少し飲みに行かない?」
「分かった。雰囲気のいい店、知ってるんだ」
「沢木さんて、優しいのね」
 杏子は嬌声を挙げると、沢木の腕に頬を摺《す》り寄せた。
「でも、こんなトコ、誰かに見られたらマズイよね。特に須永とか」
「えー、大丈夫よ。誰も見てやしないわ。それに、たとえ守也に見られたって平気よ。構ってくれない彼が悪いのよ。あたしが悪いわけじゃないわ」
 二人はビルの立ち並んだ一角に来ると、その中の店を目指す。明かりの落とされた地下へと続く階段は、なにやら不思議な世界への入口のようだ。二人は階段を降りて行き、クラシックな店のドアを開けた。
「へえ、いい感じのお店ね。素敵じゃない」
「気に入った? それなら、また二人で来ようよ」
 店内に客は少ない。奥のボックス席に二人、カウンターに一人いるだけだ。杏子と沢木はカウンター席に腰かけ、バーテンに酒を注文する。
「守也は、こんなお店に連れて来てくれた事ないわ」
 目の前に置かれたカクテルのグラスを手に、杏子が不満気に呟いた。
「須永は俺みたいに遊んでないから。でも真面目な、いい奴だろ」
「男にとって『真面目な』っていうのは、『つまらない』っていうのと同義だと思うのよね、あたし」
「そりゃ、ヒドいなぁ。だったら何で、須永と付き合ってるんだい?」
 苦笑気味に投げかけられた問いに、杏子はグラスの縁を指でなぞりながら答えた。
「そうねぇ。顔もスタイルも良かったし。性格も優しそうで、何でも言う事聞いてくれそうな気がしたのよね」
 カウンターの頬杖をつき、口唇を尖らせて続ける。
「社内の女子社員の憧れの的だったしね。でも、付き合ってみたら面白くなくて。学生のデートじゃないって言うのよ」
「そしたらさ、須永と別れて俺と付き合わない? 俺だったら、杏子ちゃんにつまらない思いさせたりしないぜ」
 沢木が身を乗り出して、自分をアピールしてくる。
「それもいいかも知れないわね。──でも、やぱりダメ。あたしって、欲張りなの。一度手に入れたモノは、そうそう簡単に手放したくないの。ましてや、他の誰かが欲しがっているって判っているのに、ソレを手放すなんて絶対に、イヤ」
 そう言うと、杏子はグラスの酒を飲み干した。
「そっか。それならさ、須永は須永でキープしておいて、俺とも楽しまない? 遊びと割り切ってさ」
 沢木がニヤリと笑う。それにつられて、杏子も共犯者の笑みを浮かべた。二人はそのままグラスを重ね、時間が経つにつれ程良く酔いも回ってくる。
「悪い。ちょっと」
 沢木がそう断って席を立った。杏子は一人で小皿に盛られたチョコを摘みながら、笑いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
「そうよ、こうでなくっちゃ。あんな、後藤田みたいな女に、あたしが負ける訳ないんだから。今に見てなさいよ。この仕返しは必ずしてやるんだから」
 吐き出すように呟いた言葉に、思いがけない所から返答があった。
「何をエラそうな事言ってるの。須永さんに隠れて、二股掛けて遊ぼうなんて。本当に嫌な女ね、あなたって」
「何? 誰よ?」
 杏子が声のした方に目をやる。彼女達が来た時からカウンターに座っていた女性客だ。
「何なの、あんた? 誰だか知らないけど──」
 そこまで言ってから、杏子は気が付いた。どうしてこの女が、守也の事を知っているの? まさか? でも、髪型も服装も全然違う。そんなはずはない。でも──。
「どうしたの? 言いたい事は、最後までキチンと言った方がいいわよ」
 その女性がゆっくりと杏子の方を向いた。
「あ、あんた、どうしてここにいるの!?」
 杏子の方へ向けられた顔は、紛れもなく後藤田直美のものだ。髪型も服装も別人のものだが、直美に間違いない。
「私がここにいちゃ、おかしいかしら。私だって。お酒ぐらい飲みますよ」
 カウンターの上のグラスに手を伸ばす。
「さすがよね。あれだけ私の事を罵倒したくせに、自分はしっかり、他の男を捕まえてるなんて。須永さんがこの事を知ったら、どんな風に思うのかしら」
 グラスの酒を一口含むと、杏子に向かって皮肉気に笑って見せた。
「あんたの言う事なんか、守也が信じる訳ないじゃない。どうせ、また何かおかしい事言ってるぐらいにしか思わないわよ」
 杏子が直美に反論すると、カウンターの上に何かを置く音がした。目をやれば、小型のデジカメが視界に入る。
「そうね。須永さんは信じないかも知れない。でも社内の人達はどうかしら? このカメラの中にある写真を見たら、何人くらいが信じると思う?」
 そう言って笑う直美の目は笑っていない。底の見えない濁ったような眼差しで、じっと杏子を見ている。
「これ、貼り出した方がいいと思う? それともパソコンに送り付けましょうか」
 直美の言葉に、杏子は反射的にカメラに手を伸ばした。だがそれは、一瞬早く直美の手によって隠されてしまった。
「ダメよ。大事な写真が入ってるんだから。宮下杏子という女が、どれだけ遊んでいる女なのか、会社の皆に知ってもらわなくっちゃ」
 杏子はカウンターのグラスを掴むと、勢い良く直美の顔に中身をぶちまけた。
「何するのよ!!」
 相手が怒りと驚きの混じった声を挙げるのも構わず、杏子は掴みかかっていく。
「寄越しなさいよ! そのカメラを、寄越しなさいって! このストーカー女!」
「やめろ! やめるんだ、杏子ちゃん!」
 フロアにいた店員と、席に戻って来た沢木が慌てて杏子を止めに入った。相手の髪の毛を掴み、まなじりを吊り上げてさけんでいる杏子を、沢木は背後から羽交い絞めにして大きな声を挙げる。
「杏子ちゃん、やめるんだ! 一体どうしたって言うんだよ!」
「こいつが! 直美が! あたし達の写真を! 直美の奴が!」
 逆上して叫ぶ杏子に、沢木も必死で訴えた。
「どこに後藤田がいるって言うんだ! どこにもいやしないじゃないか!」
「何を言ってるの、沢木さん。いるじゃないの! ここに、目の前にいるじゃないの!」
 指をカギ爪のように曲げ。なおも掴みかかろうとする杏子を無理矢理自分の方へ向き直らせ、沢木は彼女をゆさぶった。
「しっかりしろよ! 君こそ、何を言ってるんだ! 後藤田なんて、どこにもいないじゃないか。いいか? さっきから君が掴みかかっているのは、俺達とは関係のない、ただのお客さんだよ!」
 その瞬間、まるで電池の切れた人形のように杏子は動きを止めた。
「え──? 何ですって?」
 ゆっくりと、ゆっくりと、後ろを振り向く。そこにいたのは後藤田直美……ではなく、彼女のまったく知らない女性だった。
「どうして……?だって、直美だったのよ? 直美だったんだから! どうして!?」
 相手の女性は、杏子のぶちまけたグラスの酒を滴らせ、髪を振り乱した見知らぬ他人だった。
「何なのよ、この人! おかしいわよ!」
 恐怖の色を浮かべた瞳を見開き、震える口からこぼれた叫びで、彼女は杏子を糾弾した。
「だって──直美だったのよ──。直美がいたのよ!」
「杏子ちゃん! とにかく、相手の人に謝るんだ。いいね?」
 沢木が噛んで含めるように杏子に言った。ノロノロと杏子が顔を向けると、女性は怯えたように身をすくませた。納得のいかないまま、杏子はわずかばかりの謝罪を口にした。クリーニング代として沢木が幾らかの金を渡し、呆然としている杏子を店から引っ張り出した。
 夜風に当りながら歩いていると、少し頭がスッキリしてくる。なぜ、あんな事になったのだろう。あれは確かに後藤田直美だった。でも実際には、見た事もない全くの他人だった訳で。見間違いだったのだろうか? しかし、あれだけの会話を交わしたのだ。それさえも何かの間違いだというのか。
 黙って考え込みながら歩いていた杏子は、沢木に声をかけられて我に返った。
「じゃ、俺はここで帰るよ」
「え、そんな……。だって、今日は一緒にいてくれるんじゃないの?」
「あ、ああ。そのつもりだったんだけどね。やっぱり今日はやめとくよ」
 杏子の視線から逃れるように、沢木は数歩離れた所に立っている。
「沢木さん……」
「何があったか知らないけど、さっきみたいな杏子ちゃん、らしくないよ」
 その一言に、一旦は静まった頭に再び血が昇った。何よ。あたしだけが悪いって言うの?
「沢木さんは見なかったから、そんな事が言えるのよ。あれは確かに直美だったわ。何か──。そうよ、何かの方法で入れ替わったのよ。そうなんだわ!」
「杏子ちゃん──。杏子ちゃん! いいかい? 俺がフロアに戻ったのは、ちょうど君があの人にグラスを酒をブッかけた時だ。それで慌てて君を止めに入った。でも俺には、あの人は後藤田には見えなかった。初めから終りまで、俺達の知らない赤の他人だったんだよ」
 そして大きく息を吐き、杏子から顔をそらして沢木は言った。感情のこもらない疲れた声で……。
「家に帰って、ゆっくり休んだ方がいいよ。何だか疲れてるんだろうし……。──じゃ、俺、帰るから」
 沢木は杏子に背を向けると、客待ちで停車していたタクシーに乗り込んだ。一人残された杏子は、ただ立ち尽くしてそれを見送るしかない。走り去るタクシーのテールランプが見えなくなる頃、ようやく杏子はノロノロと歩き始めた。



 一体何が起こったというのか。考えれば考える程、思考は深みへはまっていく。『どうして』と『なぜ』が頭の中で渦を巻く。重たい足を引きずりながら、杏子は地下鉄の階段を降りて行く。薄暗い地下道を歩きながら、杏子はふと、背後に人の気配を感じて振り返った。誰もいない坑道の明かりが急に瞬いた。
「え? 何?」
 彼女が不安気に辺りを見回す。
「あら? 沢木さんには、フラれちゃったんですか?」
 嘲るような笑いを含んだ声が聞こえてくる。今まで誰もいなかったはずの通路に、一人の女性が立っている。チカチカと点滅する照明が、女性の表情を読み取れなくしていた。だが杏子に向かって、こんな言葉を投げ付けるのは──一人しかいない。
「あんた……直美ね」
「そうよ。私は後藤田直美よ、宮下杏子さん」
 うつむいて立っていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。そこにいるのは、間違いなく後藤田直美だ。
「一体、何なの? どういうつもりなのよ!」
「そんな大声を出して。みっともないですよ、宮下さん。だから、沢木さんにもフラれちゃうんじゃないですかぁ?」
 言葉の端々に、杏子に対する棘が伺える。
「あたしに何の用なのよ。あんたの顔なんて、見たくもないわ」
「それは、こっちの台詞です。私だって、好きであなたの顔を見に来た訳じゃないんですから」
 直美が通路に靴音を響かせて、杏子に近寄って来る。その眼に、底知れぬ悪意を秘めて。
「あなたが悪いのよ。須永さんは私のものだって、何度も言っているのに。なのにあなたが、彼につきまとったりするから。だから──」
 杏子の目の前まで来て、立ち止まる。その静かな迫力に、杏子は僅かに後退った。だが直美の姿は、まるで杏子に貼り付いてでもいるかのように、音もなく移動する。
「だから私、あなたに遠慮するのを、やめる事にしたのよ」
 そう言って直美は、にいぃぃぃっと嗤《わら》った。背筋に嫌な汗が伝う。人の浮かべる表情ではない。もっと『邪悪』なモノが浮かべる表情に違いない。
 鼻と鼻が触れる程近くに直美の顔がある。縫い付けられたように視線をそらす事の出来ない杏子は、限界まで目を見開いて彼女を見つめていた。その喉からは、かすれた呼吸音がもれている。
「ねえ、宮下さん。須永さんは、私がもらうから。あなたはもう──必要ないのよ」
 そう言った瞬間、直美の顔付きが変わった。口唇が大きく左右に裂け、尋常ではない長さの赤黒い舌がダラリと垂れる。
「ひっ──!!」
 体を仰け反らせ、少しでも直美から離れようとする杏子を見る彼女の瞳は、まるで猫のような縦長の様相を呈している。ダラリダラリと舌を揺らし、直美は甲高い声で嘲笑った。
「ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤアァァァァ──!!」
 鼓膜に突き刺さる声に、杏子は両耳を押さえて走り出した。そんな杏子を追いかけて、直美の笑い声が通路に響く。
 なんで? どうして通路に誰もいないの? 地下鉄の通路を、改札口に向かって走りながら、杏子は辺りに目をやった。数ある出入り口からつながる分岐点。そこからも人がやって来る気配はない。聞こえるのは自分の息遣いと靴音、そして追って来る者の靴音と嘲笑。
「はっ、はっ、ど、どこまで行けば──?」
 どれだけ走っても、あるはずの改札口が全く見えてこないのだ。先程の酒のせいもあって、だんだんと動きが鈍くなっていく。
「はっ……、も、もう、だめ──」
 激しく呼吸を繰り返し、壁に手をついて体を支えた。
「あ、あいつ……。一体、何モノなの?」
 恐る恐る背後を確認する。大丈夫だ。直美が来る気配はない。ホッと大きく息を吐き出し、杏子は視線を戻した。その瞬間──。
「ひあっ──!!」
 体を支えるために壁についた左手の脇に、直美の顔が浮かび上がっているのだ。コンクリートの色をした直美の輪郭が盛り上がり、閉じていた目蓋《まぶた》が開く。赤く染まった縦長の瞳。左右に大きく裂けた口から垂れ、糸を引く唾液にまみれた赤黒い舌。杏子が身動きも取れず、ただそれを見ている間に、直美の全身が壁の中から生まれ出た。
「どうしたの? もう逃げないの?」
 口許から長大な舌を垂らしたまま、直美が杏子に問いかける。杏子は通路の床にヘタリ込み、ただ目の前に出現した直美の姿に声も出ない。服が汚れるのも構わず、尻でいざりながら後退る。
「じゃ、もう終わりにしましょうか。ね、宮下さん」
 醜悪な笑顔。三日月形に細められた目は、全く笑ってはいない。首を振りながら後退する杏子が、必死の思いで立ち上がる。疲れと恐怖でバラバラに動く手足を使って、まるで邪魔な空気をかき分けるようにして、もがきながら前に進もうとする杏子の背中を、直美の両手が渾身の力で突き飛ばした。
 息を吐き出しきっていた肺の中に空気なく、疲れ切った喉からは声も出ない。反射的に踏み出した足は、だが床に触れることはなかった。何も考える間もなく、杏子の体は宙に放り出された。自分の身に何が起きたのか理解できないまま、ただ落ちていくしかない。全身に激しい衝撃を感じた瞬間、周囲に人の気配が蘇った。あちこちから悲鳴が上がり、騒然と空気が震える。
 杏子は突然出現した階段を転げ落ちながら、階段の頂きに立ち、実に楽しそうに嗤う直美の姿を認めた。そして、そのまま意識を手放した。



「姉さん──」
「ええ、そうね。あのお姉さん、とうとう一線を越えてしまったようよ」
 ビスクドールを抱いた、黒いドレスの少女が、その幼い容姿に似合わぬ妖艶な微笑みを浮かべた。
 しかし、十歳程の少女を『姉』と呼ぶのは、十五・六歳の青年だ。
「綵《さい》。あなたが気にしていた、あのお兄さんは大丈夫なの?」
 綵、と呼ばれた青年は、少女の抱いたビスクドールの髪をなでながら、静かに答えた。
「ええ。今は少し弱ってますけど、彼には『護り』をつけておきましたから」
「そう。それにしても、この池の祠に手を出すなんて。あの人、随分と気に入られたみたいよ」
 クツクツと、口許に手を当てて笑う少女の前には、暗赤色の水をたたえた池と古びた祠。少女と青年の存在を嫌っているのか、池の水面は風もないのに波立っている。
「ふふ。あたしがここにいるのが、そんなに嫌なの? そうよね」
 ビスクドールの浮かべるアルカイック・スマイルは、少女のソレと良く似ている。
「翔《かける》姉さん。そろそろ行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」
 柔らかな髪を黒いレースのヘッド・ドレスで飾った、不思議な少女・翔は、ゴシックロリータのドレスを翻《ひるがえ》して歩き始めた。
「さあ、行きましょう」

 もうこれで、私を邪魔する者はいなくなったわ。宮下杏子も、大分こりた事だろう。もっとも、邪魔をしようにも、病院の集中治療室のベッドの中からでは、手も足も出せないだろうけど。
 満足気な微笑みを貼り付けて、直美は会社の廊下を歩いて行った。
「えー? 宮下さんって、入院しちゃったの?」
「何でも、地下鉄の階段の上から転げ落ちたって」
「沢木と飲みに行った帰り、酔って落ちたらしいぞ」
「じゃあ、酔っ払った宮下を一人にして、自分だけ帰ったのか、沢木の奴」
 社内のあちこちで囁かれる会話に、直美の笑みはますます深くなっていった。
 直美と杏子の確執を知っている社員達が、すれ違うたびに道を開ける。まるで禍神《まががみ》の祟りを恐れるように直美に道を譲るのだ。
(そうよ。みんな、私を恐れなさい。私はやっぱり、人とは違う。特別なのよ)
 食堂に入って行くと、ザワめきが一瞬で静まり視線が直美に集中する。そんな中を、直美はあるテーブルに向かって足を進めて行った。
「須永さん、ここ、いいかしら?」
 相手の返事も待たず、須永の正面に腰かける直美。目の前の食事にほとんど箸もつけず、うつむいていた須永は、のろのろと顔をあげた。
「どうしたの、須永さん。そんなにヒドイ顔をして」
 テーブルに頬杖をつき、須永を見つめる女はまるで、爬虫類のようだ。狙った獲物を追い詰め、ジワジワと虐《いた》ぶる。
「何の用だよ……? もう、俺に関わらないでくれよ」
 生気の感じられない声で直美に告げると、緩慢な動きで立ち上がった。
「どこへ行くの、須永さん?」
「あんたの顔の見えない所だよ。どこでもいいだろ」
 勝利を確信する気持ちと、針の先程の違和感。直美は胸に浮かび上がった、何とも言えない奇妙な思いを振り払った。須永を追って立ち上がった彼女は、傲慢な笑みを浮かべる。
「須永さん!」
 廊下を歩いて行く須永の名を呼び、急ぎ足で追いかけようとした直美。だがどうした事か、自分の思うように足が進まない。まるで何かが足に絡み付いているような、軟らかい泥の中を歩いているような。
(何よ、これ。須永さんに追いつかないじゃない。冗談じゃないわ。ようやく、邪魔な宮下さんがいなくなって、彼が私のものになるって言うのに!)
 重い足を無理矢理に動かし、ぎこちなく歩いて行く。須永の姿は、すでに廊下から消えている。慌てて周囲を見回せば、視界に屋上へと向かうエレベーターが映った。
「そうか。誰の邪魔も入らない屋上で、二人きりになろうって言うのね」
 空いていた別のエレベーターに乗り込み、ためらいなく屋上へのボタンを押した。かすかなモーター音。上へ上へと昇っているはずなのに、不思議と、地下へ降りていっているような変な感覚がする。
 モーター音がやみ、軽い揺れを残してエレベーターのゲージが止まった。開いた扉の向こうは、どんよりと曇った空に覆われた、無機質な屋上の風景。
「須永さん? どこにいるの? 隠れていないで、顔を見せてよ」
 エレベーターから降りると、開け放したままのドアを抜けて足を進める。周りへと目をやりながら、直美は一歩一歩足を運ぶ。
「どこに隠れているの? 出てきて、顔を見せてよ。もう誰も、私達の邪魔をする人はいないの。ねえ、出てきて、須永さん」
 キョロキョロと落ち着かなげに物陰に目を凝らす。その表情は、尋常ではない。
「どこにいるの? 須永さん、ねえ、須永さん! 出てきなさい! 私から逃げ出すなんて、許さない。出てきなさいよ──。出てくるんだ!」
「みっともないですよ、お姉さん。あなたがいくら声を張り上げても、無駄です」
 涼やかな、若々しい声が答えた。それを聞いた直美が、弾かれたように声の方を振り向いた。そこに立っているのは、詰襟の青年。ただ立っているだけなのに、その存在が、堪らない嫌悪感を直美に抱かせる。
「初めまして、ですね。後藤田直美さん」
 不思議と感情の色の伺えない、透明な声で青年は告げた。
「誰だ、お前は?」
 その声は、これまでの直美のものとは似ても似つかぬ程、しわがれて濁っている。果たして直美自身は、自分の変化に気付いているのか?
「僕の名前は、神崎綵と言います。僕の姉とは、もうお会いになっているはずですよね」
 直美の声に比べて、綵と名乗った青年の声は、どこまでも澄んでいる。
「姉? 何の事だ。そんな事より、あの男はどこだ。隠さずに出すんだ」
 ギラギラと剣呑な光を宿して、直美は綵に近付こうとした。だが気持ちとは裏腹に、体は一定の距離より青年に近寄る事を拒む。
「僕が側にいる事が、あなたにとっては、かなりの苦痛なんじゃないですか? あなたは、その嫌悪感を以前にも感じているはずです」
 声を荒げるでもない。穏やかな表情で立っている青年から受ける、何とも言えない圧迫感と嫌悪感。そう、この感じは──。
 直美の脳裏に、黒いドレスとビスクドールのような、白い顔が思い浮かんだ。
「お前は、あの……!」
「ええ、そうです。あなたが今、思い浮かべているのが、僕の姉です」
「姉? あの小娘が、お前の姉だと?」
 肩をすくめて、直美の言葉に苦笑する。
「僕達の一族は特殊でしてね。身内に持てる力が大きければ大きい程、その特徴が体に現れるんですよ。でも、そんな事が知りたい訳ではないでしょう?」
「ああ、そうだ。あの男はどこだ? あの男は、私のものだ。誰にも渡さない。早く出せ! 私の前に、あの男を出せ!!」
 直美の首は前方へ傾斜し、ひどい猫背の状態になっている。綵へ向かって両手を突き出し、しわがれた声で叫ぶ。
「もう、ここにはいません。あのお兄さんは、僕達が保護しました。あなたに渡す訳には、いかないんですよ」
「黙れっ!!」
 怒号を発し、嫌がる体を無理矢理に動かし、直美は青年に掴みかかった。だがその手は、虚しく宙を切る。
「だますようで、申し訳ありません。僕も姉も、そして須永守也さんも、あの池のほとりにいます。あなたがいらっしゃるのを、お待ちしていますよ。後藤田直美さん」
 神埼綵の姿が、陽炎のように揺らめいて消えた。一人残された直美の喉から、獣のような叫びが溢れた。両手の指を曲げ、髪を振り乱した姿の直美が、コンクリートの床を蹴る。運悪く屋上のドア付近にいた、数人の社員を跳ね飛ばして行く。
 階段を駆け降り、廊下を走り抜ける。その姿を目にした人々から、次々と悲鳴があがった。それ程に、今の直美の姿形は変わり果てていたのだ。



「彼女が来るよ、姉さん」
「ええ、綵。分かっているわ」
 相変わらず、池は妙な静けさをまとい、見せかけの落ち着きを保っている。祠の前に佇む不思議な姉弟に挟まれて、所在なさげに須永守也が立っていた。
 会社の食堂を出た後、廊下でバッタリと出会った少女は、彼には理解の出来ない格好をしていた。フランス人形のような、フリルに飾られた黒いドレスに身を包み、妖しい微笑みを浮かべた少女。
「すべてを終わりにしてあげる。見届ける気持ちがあるのなら、ついていらっしゃい」
 年齢に似合わない大人びた態度で、須永に一方的に告げると背を向けた。何を言われたのか理解できずに立ち尽くす須永。動けないで入る彼に向かって、少女が背中越しに声をかけた。
「終わりにしたいの、したくないの? 男ならはっきりしなさい。あなたには、事の次第を見届ける義務があるのよ。例え、あなたが望むと望まざるに関わらず」
「ぎ、義務って──。一体、何なんだよ?」
 訳が分からない。何がどうなっているって言うんだ?
「来るの、来ないの? ぐずぐずと悩んでいないで、早くなさい」
 ただ少女の気迫に圧倒され、須永はフラフラと後について行った。そして気が付いてみれば、不気味な静けさを持つ、薄暗い池のほとりに立っていたのだ。そこには、以前に駅で出会った事のある、不思議な青年が待っていて、須永に向かって軽く会釈してきた。
「君は確か──」
「この間は、失礼しました。お疲れだろうと思いますが、もう少しだけ付き合って下さい」
 申し訳なさそうな青年の口調に、須永は少し戸惑いを感じた。
「君は、この間会った時と随分印象が違うな。ええと──」
さいです。神崎綵。あの時は、出来るだけ外見に見合った放し方をしようとして。いきなり初対面の子供が、こんな口調で話しかけてきたら、無用に警戒されてしまうかもと思ったものですから」
 確かに、こんな大人びた物言いで話しかけられたら、新興宗教の勧誘だと思ったかもしれない。
 ようやく落ち着きを取り戻した須永は、自分の立っている場所へ視線を移した。
 住宅地を抜けた一角にある、まばらな雑木林に囲まれた、薄気味悪い池と隣接された公園。人の気配どころか、鳥や虫の気配すら感じられない。もちろん水面下に、魚の気配などあろうはずもない。
「何だか、気持ちの悪い場所だな……」
 須永の呟きに答えたのは、人形を抱いた黒いドレスの少女。
「ここは、生き物の住む場所ではないわ。この池は、凝った念の集まる所」
「凝った念?」
「そう。怨み辛み、嫉妬や憎しみ、怒りや苦しみといった念が集まってくるの。そしてこの池の奥底で、『鬼』となって蠢き始める」
 白くて細い指が、古びた祠を示す。
「集まって肥大した『鬼』は、自らの意思を持って、自分の力を増すために更に念を呼び込んでいった」
「悪い事に、その『鬼』を私利私欲のために利用する輩も出てきました。使役された『鬼』は術者の魂を取り込み、より強力になっていったのです。やがて力のある術者が現われ、この池に『鬼』を封じました。それが、この祠です」
 少女の後を引き取って、綵という青年が続けた。
「『鬼』──?」
 須永がその言葉に反応した。確か以前、直美がそんな事を言っていた気がする。
「私には『鬼神』を操る力がある──」
 思わず呟いた言葉を、少女が聞きとがめた。
「何ですって?」
「後藤田が……前に言ってたんだ。そんなような事を」
 黒いエナメルのクツを履いた、小さな足が下生えを踏んで行く。祠の前で立ち止まり、妙に通る声で言った。
「長い間この祠に『鬼』を封じ、札によって出口をふさいであったの。その札をはがし、封じられていた『鬼』を解放したのは、彼女よ」
「後藤田さんは、自分が解放した奴らの力を使って、人を傷付けてきました。幾度も幾度も。彼女は理解していなかった。『鬼』達は、無報酬で働いたりしない。必ず、その代価を要求されるんです」
 不思議な少女と青年が、交互に話をする。それらの話に耳を傾けているうちに、須永は自分の立っている世界が、ひどく曖昧なものに変化してしまったような気になってきた。
 今、自分がいる場所は、果たしてどこに位置するものなのか。それは、怖ろしく心を不安にする感覚だった。
「月のない夜に、人に見られぬようにしておいで。池のほとりの祠に願いを告げれば、鬼神が叶えてくれる。だが、その願いの見返りに、自分の持つ一番大切なものを持って行かれてしまう」
 胸に人形を抱いた少女が、まるで老婆のようにしゃがれた声で語った。
「だから、軽々しく望みを口にしてはいけないよ──」
「そしてあれが、禁忌を破ってしまった者の末路です」
 綵が形の良い指を伸ばして、指し示した先。池の反対側に立っていたのは──。
「後藤田……なのか?」
 そこに現われた姿は、もはや、須永の知っている直美のものとは、似ても似つかぬものだった。
 いつも引っ詰めて結われていた髪は、バラバラにほどけておどろに乱れている。首は前へ傾き、指は猛禽のカギ爪のように曲げられている。
「ああ、そんな所にいたのね、須永さん。さあ、一緒に帰りましょう。迎えに来たのよ」
 醜く歪んだ手を差し伸ばし、直美が須永を誘う。
「もう、邪魔をする奴はいないのよ。あなたと二人になるために、私が宮下さんを」
「何でだよ! どうしてそんなに、俺にこだわるんだ!?」
 自分の言葉が通じない事が判っていながら、須永は思わず叫んでいた。
「どうして? 今さらおかしな事を言うのね。あなたと私は、運命で結ばれているのよ。知っているでしょう? 誰も二人の邪魔をする事は出来ないの」
 そこで初めて、直美は視線を動かした。
「邪魔をする奴は、私が許さないわ」
 須永の左右に立っている少女と青年が、直美の視線を遮るように前に出た。
「この人を、あなたに渡すわけにはいかないと、先程も申し上げましたよ」
 綵の言葉に、直美の顔が険しくなった。
「また、お前か。ガキがでしゃばるな。さっさと、その男を渡せ」
「あれだけ忠告したのに、やっぱり駄目だったのね」
 少女が蔑みの混じった声で、直美に語りかけた。
「人を見かけで判断しちゃいけないって、ちゃんと教わらなかったのかしら? こう見えても、あなたより長く生きているわ」
「お前──お前は……」
「あら。偉そうな事を言っている割には、記憶力が悪いのね。前に会った時に、教えてあげたでしょう?」
 俺たちより長く生きている? どう見たって、十五・六の高校生と、十歳前後のこしゃまっくれた小学生じゃないか。からかっているのか?
 だがこの状態で、冗談を言えるとは思えない。ならば、本当に──? そう言えば、綵は少女の事を「姉」と呼んでいなかっただろうか。
「仕方ないわね。改めまして、後藤田直美さん。あたしは神崎かける。あの子はさい。あなたの天敵である『鬼喰おにはみ』の一族よ」
『鬼喰み』──。直美の知らないはずのその単語は、それでも確かに彼女の身裡にある、大きく黒い、濁った何かをざわつかせた。
「鬼……何だと?」



「あたし達は自分の内に鬼を取り込み、その力ごと存在を封じ込める。文字通り『鬼』を『喰む』一族よ。あなたも随分と憑けているみたいだけど」
 翔の言葉を聞きながら直美は、じりじりと獣が獲物を狙うように姿勢を低くしながら、三人の様子をうかがっている。
「よくもまあ、そこまで大きくしたものね。よほど相性が良かったと見えるわ」
 どうしていいのか判らずに、ただオロオロと事の成り行きを見つめるしかない須永に向かって、綵が声をかけた。
「僕達の側にいる限り、彼女はあなたに手が出せません。離れないで下さい」
「君達の?」
「ええ。後藤田直美さんと同化しているモノが、僕達の存在を嫌がるんです。一族の中でも、僕と姉さんの力は抜きん出ています。彼女は近寄りたくないでしょう」
 彼の言葉を裏付けるように、直美はウロウロと動き回っているが、三人の方へ寄ってこようとはしない。
「姿は魂に左右されると言うけれど、まさしくその言葉通りね。魂の醜さそのままに、自分の姿形が変わっていっている事に、あなた自身は気がついているのかしら?」
 翔と名乗った少女の言葉が、直美には理解できないようだ。
「姿形……だと?」
 いぶかしげに眉をひそめる直美に向かって、翔は言葉を続けた。
「気付いていなかったのね。いいわ。水鏡に映してご覧なさい。あたしの言っている事の意味が判るわ」
 少女の方へ警戒の眼差しを送りながらも、直美はゆっくりと池に寄って行った。恐る恐る首を伸ばし、己の姿を水面に映す。わずかな風にも揺れる水面は、それでも直美の姿を映し出した。
「……そんな──!」
 池に映る自分の姿に、彼女は言葉を失った。震える指で顔に触れ、虚像の動きを確かめる。
「う、そ……嘘だ。これが、私だと……? 嘘だっ!」
 節くれだち赤黒く変色した両手は、鋭く伸びた長い爪に縁取られている。水鏡に結ばれた虚像の両手も同じものだ。その手が頬に触れ、髪に触れた。
 肉が削げ落ち、くぼんだ眼だけがギラギラと凶光を放っている。油気の抜けた髪は四方へ広がり、感触もゴワゴワとしたものに変化している。
「なんで──、どうして──?」
 池の端にへたり込み、直美が呆然と呟いた。
「教わったでしょう? この池の祠に願を掛けると、成就の見返りを求められるって。あなたは今、そのツケを要求されているのよ」
 その声に、わずかに込められた憐れみを感じたと思ったのは、須永の気のせいだろうか。
「だって──。今まで一度もなかったのに、いきなり、どうして?」
 しわがれた声はそのままだが、口調は直美のものに戻っている。
 「あなたは、よほど奴らと性が合っていたのね。あなたが祠に願うたびに、魂の最奥に染み付いた鬼達は、ヌクヌクと太っていった。居心地のいい寝床を見つけて、大喜びでね」
「嘘っ! 嘘よ! 須永さん、助けて! こんなの私じゃない!」
 その直美の姿を見て、須永は思わず隣に立っている綵に問いかけた。
「彼女を何とかしてやる事は、出来ないのか?」
「彼女を? あなたは、彼女のことを憎んでいたんじゃないんですか?」
 振り返った綵の目は、驚きに少しだけ見開かれている。
 確かに直美には、さんざんな目に合わされた。杏子も直美のせいで、入院する羽目になったらしい。そのような状態で、彼女を助けてやってくれと頼む須永の台詞は、綵には理解できなかったのだろう。
 否、綵だけではない。事の経緯を知っている者ならば、到底理解できない台詞である。
「別に憎んでいたって訳じゃ……。これから先、俺や杏子に付きまとわないようにしてくれれば。それに、あんな風になってしまったのは少しかわいそうかな、とも思うし」
 いまいち歯切れの悪い須永の返答に、綵は薄く笑った。
「それがあなたの優しさですか、須永守也さん。実に中途半端で手前勝手な優しさですね。彼女があのような事になってしまって、自分に責任が及ぶのが怖いんですか?」
「中途半端って──」
 さすがにムッとした須永に、翔の容赦のない言葉が飛んで来た。
「彼女がこんな姿になったのは、あたしの忠告を聞かずに、恋敵に呪いを放ったから。そしてその元凶は間違いなく、あなたのその無責任な優しさよ」
「じゃあ、あの時、困っていた後藤田を放って置けば良かったって言うのか!」
「そうね。確かにあなたは『いい人』なんでしょうね。でも誰かれ構わず優しさを振り撒くのは、考え物よ。彼女が困っていたのは、自分でまいた種。本来なら、彼女が一人で対処しなければいけなかった」
「──? どういう意味だ?」
 直美に視線を注いでいた翔が、初めて須永に目をやった。その瞳はあくまで冷たく鋭い。
「ここまで『鬼』が育ってしまったのは、彼女の魂の有様。でも、最後の一歩を踏み越えたのは、あなたが原因だわ。だからあなたにも、この件を見届ける義務があるのよ」
「だから、どうして!?」
 納得のいかない須永が、翔にさらに食い下がった。その背中に綵の静かな声が響いた。
「今、あなたの目の前にある現実。それがその答えです。あなたがかけた優しさを、自分の都合のいいように解釈する者もいる。その事実をあなたは知るべきだ。たとえ、すべてがあなたの責任ではなかったとしても」
 須永が視軸を戻すと、直美の変化は更に進んでいる。
「あなたが助けてやりたくても、もうすでに手遅れよ」
 暗赤色の水をたたえた池が波立ち、水面からドス黒い煙のようなものが湧き上がっていた。その煙の先端が直美の身体に巻きついている。手足に絡みついた煙は範囲を広げ、彼女を飲み込もうとしているようだ。
「何よコレ? 何なのよ!?」
 次から次へと絡みつく煙を引き剥がそうと、直美がジタバタともがくが、虚しい抵抗である。徐々に全身がドス黒く染まって行く。
「聞こえるかしら? 新しい仲間を迎えて喜ぶ、奴らの歓喜の声が。見えるでしょう? あなたが使役していると信じていた、この池の鬼達よ」
 人形の髪をなでながら、翔は直美に告げた。
「鬼? 鬼って……どうして? 私は選ばれたんじゃないの? 私は特別な人間なのよ!」
 やがて須永の目にも、その煙の異常性がはっきりと見て取れた。
 ウゾウゾと蠢く煙の中に、無数の人面が浮かんでいるのだ。池からは気味の悪い、骸骨のような手が揺れている。あまりの気持ち悪さに、須永は思わず口許を押さえた。
「あれが、池に凝っていた悪念です。この世にあるいかなるものより、人の思い程やっかいで怖ろしいものはありません」
 歳若い綵の言葉が、須永の胸に重く響いた。
「あなたが長い間、願いを叶えてもらいながらも見返りを求められなかったのは、その魂の有様が鬼達と似ていたから。自分の欲望のために、他人を犠牲にしても構わない。そういう心の有様がね」
 濃度を増していく黒煙の中で、もがきながら直美が叫ぶ。いや、煙ではない。ぼんやりとした存在だった人影は今や実体となり、直美に覆いかぶさっている。さらに見てみれば、それらの人影は彼女の内部へと入り込み同化しようとしているように見える。
 翔と綵の姉弟が『鬼』と呼ぶ人影が、直美の身体と重なるたびに、ギチギチと音を立てて変貌が進んでいく。
「なぜ……なぜだあぁぁ!? 私は他の人間とは違うんだ! 私は選ばれた、特別な人間なんだ! こんな──こんなぁ!!」
「ええ、そうね。確かにあなたは選ばれたの。あなたのそのドス黒い心が、そいつらを地獄から呼び戻したんだから」
 すでに直美の姿は人のそれではない。全身に黒煙をまとわりつかせた彼女の姿は、さながら内側から劫火に焼かれているようだ。
「そんなになってしまったら、もうどうしようもありません。誰であっても。あなたを元に戻す事は出来ないんです」
 直美にかけられたはずの綵の言葉に、なぜか須永がたじろいだ。青年の前に回り込み、何かを言おうと口を開いた須永は、綵の哀し気な表情に言葉を飲み込んだ。
「出来ればこんな風になる前に、彼女に思い止まって欲しかったんですが──」
 目を伏せる綵に、須永は肩をつかんでいた手を離した。
「綵。同情は要らないわ。この結果を招いたのは、後藤田直美本人よ。余計な憐れみは命取りだわ」
 鞭のようにしなる声が、二人の耳朶《じだ》を打った。変貌を遂げた直美と対峙する、幼い少女の声。その手は、抱えていたビスクドールの口許に添えられている。
 何を始めるのかと、いぶかしげに目を細めた須永の前で、人形は作り物の口唇から光の球を吐き出して見せた。手の平に受けた光球を、翔は迷いのない所作《しょさ》でコクリと飲み込んだ。
 途端に、少女を中心に、強烈な風が巻き起こり視界をふさぐ。わずかな時間吹き荒れた風は、始まりと同じように唐突に終った。
 ソロソロと目を開けた須永は、一瞬、事態が理解できなかった。
 それまで翔が立っていた場所には、少女ではなく妙齢の女性が立っている。長い髪が緩やかに波打ち、白い手足がスラリと伸びている。着衣は黒い喪服のようなゴシック・ロリータのドレス。見る者の胸に、不吉な翳りを呼び込むアルカイック・スマイル。
「か──翔なのか?」
 信じられない、と呟いた須永に、綵が答えをくれた。
「姉さんは一族の中でも、鬼を封じる能力に長けています、ただ、その強大な力ゆえに色々と差し障りがあるんです。だから普段は、力の大半をあの人形に移して、必要に応じて戻すんです」
 あり得ない話だ。にわかには信じがたい。だが、自分の目の前にある現実。翔の姿は確かに、成長した女性のそれだ。



「さあ、もう終わりにしましょう。あなたはもう戻れない。あなたはすでに、『人間』ですらない。『鬼』に堕ちてしまった者は、あたし達『鬼食み』に食われる事でしか救われる道はないのよ」
「ガ……ガア……ガアァァ……」
 直美の口からもれるのは、意味を成さない獣の叫び。声帯がすでに、人のものではなくなったようだ。もう言葉を発する事もできない。ボコボコと変形した手足をかざし、苦しげにうめく直美は、両眼から血の涙を流していた。
 そんな直美の姿に表情を変えるでもなく、翔は右手を一振りした。真っ白な手の平に鮮血の色をした、禍々しい刀が出現する。途端に、池の底から不気味な怪音が響いて来た。
「いや、これは──。音というよりも──」
 須永が周りを見回し、ニ、三歩後退って呟いた。
「声……?そう、声だ。でも、一体どこから聞こえてくるんだ?」
 足の裏から伝わる振動が、胸の奥をザワつかせる。
「鬼達のうめきです。姉さんの力を感じて、怯えているんですよ」
 丈の短い草を踏みしだき、翔は直美に近付いていく。鮮血の色をした刀を握り、自分に向かってくる死神のような姿をした少女に、泣きながら直美は両手を差し出した。変形した腕と指。歪曲した爪。左右にいびつに裂け、犬歯が異様に伸びた口から、不明瞭な言葉を発する。
「ゴ……ガ…アアア……。ア、ア…ジゲ…デ……。ダァ…ズ……ゲ──」
 翔は澄んだ瞳で静かにうなづいた。だが、彼女の接近に、うなりはますます大きくなっていく。すると、直美の右腕がボコボコと波打ち、いきなり翔に向かって伸びた。直美自身が左手で止めようとするが、間に合わない。
 爪を鳴らしながら、一直線に襲い掛かってくる直美の腕を、翔は刀を一閃させて迎え討った。辺りの草に、音を立てて黒い血が飛び散った。途端に異臭を放ちながら、土と草が溶ける。
 漂って来る、鼻を刺す異臭。須永は思わず鼻と口を押さえ、こみ上げてくるものを必死になってこらえている。
「ゲアアアアァァァァ──!!」
 肘から先を断ち切られ、右肩を押さえて絶叫する直美。唾液と黒血を撒き散らしながら、周囲の土草を溶かし、苦痛にのた打ち回る。
 正面から抵抗しても到底構わないと悟ったのか、直美の中に巣食った瘴気は目標を転じた。
「う、うわあああ!?」
 直美の体から膨れ上がった瘴気が、成す術もなく立ち尽くす須永を襲う。
『アノおんなダケデハ、ふそくダ。オマエモいっしょニクルガイイ!』
 池から響いてくるうなりに、明瞭な言葉が浮かび上がった。否、そう聞き取ったのは、須永だけか?
 驚愕に見開かれた目の前で、今にも自分を飲み込まんと崩れ来る瘴気。
「僕の事を忘れてもらっては、困ります。彼は渡さないと、僕は言いましたよ」
 気配もさせず近寄ってきた綵が、滑らかな動きで右手をかざした。須永へ向かって落ちかかっていた瘴気の塊が、鋭角を描いて方向を変える。見えない力に抗うように震えていたが、やがて力尽きたのか、青年の右手に吸い込まれていく。
「姉さん程ではありませんが、僕も『鬼食い』の能力を引き継いでいますからね」
 須永の目の前にわだかまっていた黒い粒子は、今やほとんどが綵の右手の中だ。その手に、かすかに明滅する光が見える。白く形の良い掌にあるのは、青とも緑ともつかぬ、不思議な光を放つ勾玉だ。それが、綵の肌に埋め込まれている。それとも、肌の上に浮き出してきたのか。しかも、あれだけの暗黒を吸収していると言うのに、曇り一つ見つけられない。
 ほんの一瞬、直美の意識が綵に向いた。その隙を見逃さず、翔が一気に距離を詰める。直美が体制を立て直すより早く、その胸元に刀が吸い込まれる。白い手が握る鮮血の刃。それが深々と直美の体に突き立っている。なのに、傷からは一滴の血も流れていない。
「ギギャアアァァァァァ──!!」
 裂けた口を一杯に開き、苦痛の叫びを挙げる。赤黒く変形した舌が、まるで独立した生き物のようにのた打ち回っている。
「その苦しみも、その恨みも、その憎しみも、すべてを終わりにしましょう」
 まるで歌うように告げた翔は、刀から手を離す。そして優しささえ感じさせる動きで、苦しみにうめく直美を抱き寄せた。
「あなたも一緒においでなさい。あたしがあなたを引き受けてあげるから」
 これまでの峻厳さを消し、柔らかく微笑むと、直美の口に接吻を落とした。瞬間、直美の体が震え、わずかに抵抗を見せる。が、すぐにその動きを止めた。
「これで終わりです。あの鬼は、姉さんに捕らえられました」
 醜く変わってしまった直美の体から、物凄い勢いで瘴気が噴き出す。それと同じく、暗褐色の水面からも恐ろしい程の瘴気が湧き上がった。苦しげなうめきは一層高くなり……、やがて細く細く消えて行った。瘴気は、高く舞い上がった先で、さらに姿を変える。
「え? あれは、蝶?」
 直美の身体も輪郭が解け始める。瘴気の変じた、無数の黒い蝶がはためく池のほとりで、須永は呆然とその光景を見ていた。未練ありげに須永の周辺を飛び回っていた蝶は、黒衣の美女が掲げた右手の中へ吸い込まれて行った。いや、正しくは、翔の右手の手の平に浮かび上がった、鮮紅の勾玉の中へ、だ。
 まるで、最初から誰もいなかったかのように、池の水面を風が渡っていく。言葉もなく、ただその場に立ち尽くす須永に、綵の柔らかい声がかけられた。
「この祠も、もう用済みですね。池に巣食っていた悪念達も、すべて姉さんの中ですから。須永さんも、これで自由になれましたよ」
「自由──?」
 思いもしなかった言葉を耳にして、須永はノロノロと頭を巡らせた。じんわりとその意味が、脳の中に染み込んでくる。
 そうだ。後藤田直美は、もういない。これからは、あの薄気味の悪いワライを見る事もない。つきまとってくる彼女から、解放されたのだ。ただそれだけを、ずっと願っていたはずだ。追って来る直美から自由になる事を。なのになぜ、素直に喜べないのだろう?
 哀れな女の末路を目にしたからだろうか。胸の奥に凝った何かを、払拭する事が出来ない。
「その、無節操な憐れみを、垂れ流すのをやめなさいと言うのよ」
 軽い足音がして、物思いにふける須永に叱声が飛んだ。ビスクドールに似た白い顔が、彼を見上げている。いつの間にか、翔の姿は少女のそれに戻っていた。胸に抱いた人形の表情が、心なしか悲しんでいるようにも見える。
「あなたが彼女に与えた哀れみが、最終的に彼女を狂わせる引き金になったのよ。これからは『いい人』を演じるのも程々になさい」
「『いい人』だって?」
 翔の言葉に、さすがにムッとした様子で須永が口を開くと、鋭く切り返される。
「自分以外の誰かの目が気になる。常に相手にどう思われているのか、どのように見えているのか、そればかり考えている。誰にでも優しくするのは、他人に嫌われたくないから。だから『いい人』を演じているのよ。違う? 彼女がいるなら、彼女にだけ優しくすれば良かった。『僕はこんなにいい人です。だから皆さん、僕を好きになってください』。そうアピールしていないと、不安でしょうがないんでしょ」
 一言一言が、須永の心臓を深くえぐる。
「先程も言いましたが、あなたの善意を、丸ごと受け入れられない人だっているんです。あなたも、自分の行動にはキッチリ責任を持たなくては」
 綵が告げた言葉は、どこか寂しげに聞こえた気がした。
「馬鹿ね、綵。こういうのは『善意』とは言わないのよ。『好意の押し売り』って言うの。それと、あなた。よく覚えておきなさい。『鬼』を作るのは環境じゃないわ。いつだって、関わる側の人間の心次第で、誰でも『鬼』になれるのよ。もちろん、あなたもね」
「姉さん、何もそこまで言わなくても」
「いいのよ。あたし、こういう男って、大嫌いなんだから。さあ、用事は済んだわ。綵、行くわよ」
 黒いドレスの美少女は、胸の抱いたビスクドールの頬をなでながら、弟に声をかける。その表情からは、すでに須永に対して何の興味も抱いていない事を知る事が出来る。
「それじゃ、須永さん。僕達はこれで失礼します。もう二度と、お会いする事もないでしょう。これからは、無闇やたらと同情を振り撒かないように」
 次にあなたと会う時は、あなたが鬼になった時ですよ。須永に向かって軽く一礼し、先を行く姉を追いかける寸前。綵は小さく、そう告げた。
 一人残された須永は、消化できぬ思いを抱えたまま、池のほとりに立ち尽くしていた。
 奇妙な姉弟からもたらされた数々の言葉は、納得できるようで、それでいて丸呑みにはできない棘がある。
 心の奥にわだかまった不快感を持て余す須永を、ただ草を揺らす風だけが見守っていた。



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