燈火が消える前に

蒼良

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1,消えた花婿

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はらりと何かが床に滴り落ちた。それはブーケの花びらだったのかもしれない。幸せな花弁はひらりひらりと足元に落ちては消えていく。一枚、二枚と消えるたび、野獣の手に残された最後の一枚の花びらが目の奥に映った。

ああ、これが恋かと。

彼はそうつぶやいた。


どこにでもある平凡な日常の中にふとした瞬間、気づくときがある。それは、家族だと思っていた人の自分の知らない姿。彼だってそうだ。彼は、いつもチェック柄のシャツにジーパンという代わり映えしない服装が好きだった。

「お待たせ、絵美。仕事長引いちゃって」

彼は、頭をかきながらぺこぺこして彼女の方を見た。彼は大手の銀行マンで期待の若手らしく、仕事が忙しい。

「別に待っていないけど」

彼女は、うつむきがちにそういった。その言葉とは裏腹に彼女の額には汗がにじんでいて、前髪が額にぺたりと張り付いていた。

「とりあえず、今日も飯行こうか。明日も仕事だし、絵美は休みだっけ?」

「まあね」

彼は嬉しそうに絵美の手をとってぶんぶんと振りながら、いつもの定食屋さんへと足を進めた。彼女たちのデートはいつもこの定食屋で行われる。二人は常連として知り合い、常連の中で付き合い、そして二年が経った。そして、彼女はいつの間にか、彼に対して結婚を意識するようになっていた。

定食屋に着き、ガラガラと扉を開けると、
「いらっしゃーい」という大将の大声が響き渡った。

「絵美ちゃんと大くん、最近来ないからどうしたのかなーってみんな言ってたのよー」

大将のその女言葉に彼は「やめてくださいよ」と牽制した。

「大、あれからどうなんだ?順調かー?絵美ちゃん、嫌なことでもされたら、爺に言うんだぞ」

ご近所の重爺が、茶々をいれるように彼の背中を叩いた。

「大丈夫ですよ」

彼女は控えめにそう言った。

「今日、どうかした?元気ないじゃん」

彼は、席に着くなり、彼女の顔色を窺いつつそう言った。
彼女は、重い頭を挙げて、彼を見た。彼はいつも通りの見た目でいつも通りの服装で何も変化がない。彼女はそんな彼にほっとしつつも、重い口を開いた。

「大さ、私たちについてどう思う?」

「どうって?どうしたの改まって…」

「ほら、最近さ結婚式行ったって話したじゃん」

結婚というワードが彼女の口から飛び出した時、定食屋の雰囲気ががらりと変わった。

「なになに、結婚するの?」

重爺が大声でそういうと、周りががやがやと口々に祝福の言葉を言い出した。

「いや…」

彼は、言葉を濁しつつ彼女の手を取った。

「絵美、今話すことじゃないよね?」

彼は困ったようなそんな表情で彼女を見つめた。
でも、今日の彼女はいつもとは違った。彼女はここに来るまでずっと考えていたのである。

「大は、何も考えていないのかもしれないけど。私はもう27歳なの。で、子供だって欲しいし、いつまでも独身でいるわけにはいかないの。それに、いつも結婚って言ったら話逸らすでしょ?だから今日は言うって決めていたのよ」

古い窓ががたがたと彼女の剣幕に揺れた。いつもはうるさい重爺もだんまりしてしまった。元気な大将は固唾をのんで二人を厨房の奥から覗いていた。誰もが微動だにもしないせいで、時が止まったようだった。

「大、そろそろ一緒になろうよ。私さ、友達の結婚式でブーケを受け取ってからずっとこのことばかり考えてた。いつか私も幸せになりたいって。その相手が大だったらいいなーって」

彼は彼女をじっと見つめつつも口角を上げた。

「そっか、ごめん。絵美がそういうこと思ってたなんて、俺気づかなかったよ」

彼の声は穏和で、彼女を包み込むようであった。

「そうだね、そろそろ一緒になろうか」

その言葉一つで店内に花が咲きはじめた。「おめでとう」の言葉が飛び通い、「今日はお祝いだ」といってはしゃぐ常連客の姿がそこにはあった。何も言っていないのに、大将は酒を厨房から持ってきて「俺のおごりだ」と言った。こうしてどんちゃん騒ぎが始まった。

こうしたお祝いが終わったのは深夜をとっくに過ぎていた。酔いが回った状態の彼女たちは、夜道を肩を並べて歩いた。

「大、ごめんね」

「謝る事じゃないでしょ。俺の方こそ、男気なくてごめん。ほんとは俺からいうべきなのに」

彼女はそんな彼を愛おしく見つめた。何事も自分からなかなか行動に移すことができない彼のことが彼女は好きだったのだ。

「いつものことでしょ」

彼女は満足げにそう言った。



結婚式の段取りは驚くほどスムーズに進んだ。大将や重爺をはじめとした定食屋の面々がいろいろとサポートしてくれたためである。式場もすんなりととれ、あとは、式を挙げるだけとなった。

そんな中、事件は起こったのである。

その日はいつもと同じように定食屋に行く約束をしていた日であった。彼女は彼のことをいつもの待ち合わせ場所で待っていた。式を目の前に控えていただけあって彼女は幸せいっぱいであった。彼女はいろいろと結婚後のことを妄想しては夢と希望でいっぱいだった。

ブブー

ポケットに入れていたスマートフォンの振動が彼女の足に伝わった。彼女は慌ててスマートフォンをとった。そこには、彼からの連絡があった。

そして、その文面を見て、彼女は―――。


「絵美
 君が愛した男は俺じゃないよ
 君は俺と結婚したいといったけど、俺はあんなださいシャツなんて着ないし
 女に告白させるほど、気の弱い男じゃない

 大という男は存在しない
 もういないんだ」

思わず定食屋へと駆け出した。何がどうなっているのか、この言葉が本当なのか彼女にはわからなかった。ただ走って走って、そしてほんのりとした明かりが灯る、いつもの定食屋に着いたとき、彼女はほっとして涙が零れ落ちた。

ガラガラと引き戸を引くと、大将が笑った。

「絵美ちゃん、いらっしゃーい」

彼女はそんな元気な大将に歩み寄ると、かすれた声で言った。

「大将、大は?」

「大?誰だい、それ?」

大将は真顔で、彼女を見つめた。

「ほら、私とよく来ていた、大だよ!結婚式も挙げる予定で…」

「絵美ちゃん、なんか夢でも見たんじゃないの?」

重爺がお茶をすすってそう言った。

「結婚の夢なんて幸せだねー。そういえば、ブーケ取ったって言ってたもんね。じゃあそろそろいい人にめぐりあえ…」

「めぐり合ってたでしょ?この定食屋で!」

彼女は、そう言ってからぐるぐると世界が反転したような気がした。誰も彼のことを知らない、誰も覚えていない。自分の見ていた大は本当に実在していたのか。

そして、そこで彼女は初めて気づいたのである。大という名前以外に彼のことを何も知らないと。

「絵美ちゃん、そういえば本好きだったよね?うちの家内がね、ドライフラワーでしおり作ったから渡してって」

大将はそういうと、ドライフラワーがはさまったしおりを彼女に渡した。

「えー、どんなどんな」

彼女の受け取ったしおりを見ようと常連客達は、彼女の周りに集まった。
彼女は、そのしおりを見て絶句した。それは白い花であった。彼女がブーケで受け取った花と全く同じの。

あの日、彼女が受け取った花びらは生き生きとしていてみずみずしくて生命力が感じられた。一枚一枚がひらひらと舞っても、その一枚一枚にも生命が宿っているかのように散っていた。

だけど、この花は、無理やり平らにされ生命力もなく、そしてしぼんでいた。

彼女はそこで悟ったのである。




彼は野獣だったのだと。
そして、彼女は彼を救うことができなかったのだと―――。











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