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終章:おまけ

第二釦の行方

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【第二釦の行方】


 高校の卒業式で、第二釦を失くした。
親友の宅福 史壱(ヤカネ フミイチ)を待つ間に、寝不足だった夏木 羽李(ナツキ ウリ)は爆睡してしまい、目を覚ました時には、学ランから消えていた。
あの釦には、特徴的な傷が付いていたのを覚えている。
サッカーをする時に、よく学ランを放り投げていたからか、殆どの釦に傷は付いていたが、第二釦には偶然にも傷が重なり、wのような傷になっていた。
自然に出来た傷かと思うと、なんとも面白くて気に入っていたのだ。


 釦が失くなったことを史壱はこう言っていた。

「羽李のこと好きな子が貰って行ったんだよ、きっと。今日はそういう日だろ? お前、寝ちゃってるから。可哀想なことしたな」

もしもそうであるならば、申し訳ないことをしたとも思うし、起こしてくれれば良かったのに、とも思う。
もう5年程が経っただろうか。
今更どうもこうも出来ないが、ずっと頭の片隅にあったのは、釦を持ち去ったのは誰だろうか、という好奇心だった。




 大学を卒業し、出版社に勤めることになり、そこで後輩の宮原 神流(ミヤハラ カンナ)と再会した。
色々とあり――本当に語り尽くせないあれやこれやがあり――何だかんだと担当作家の神流との時間は自然と増え、何故だか比例するように行われるエロい行為にも、持ち前の順応力の高さでそれとなく慣れてきた頃であった。


 編集者と作家という間柄、しかも、売れっ子で作品を次から次に出している神流に、担当として張り付いて彼の家に入り浸ることが何かと多くなっていた。
エロいこともしてくるのが玉に瑕だが、仕事はきっちりとこなしているので、羽李としても文句は言えない。
羽李とやるとインスピレーションが湧いて筆が進むと言われてしまうと、「編集者として一肌脱げや」と、あの恐ろしい顔の編集長、澤田 寧(サワダ ヤスシ)に怒鳴られた気分になってしまうのだ。
勿論、そんなことは言われたりしないだろう。
それであれ、「あと一週間で一作取ってこい」だとか、「編集者として作家のお役に立てないでどうすんだ、あぁん!?」と、まるでチャカでも懐から出しそうな雰囲気で良く怒鳴られるものだから、羽李のイメージとして浮かんでくるのだ。


 元々、高校の後輩である神流は、当時、羽李のことを嫌うような態度を取っていたのだが、どうも勘違いで、逆に羽李のことが好きで好きで堪らず、今流行りのヤンデレになりそうな勢いだと言う。
そこまで言われてしまうと、絆(ほだ)される訳ではないが、拒みづらい。
困ったことに、嫌悪感などは感じないし、気持ち良くなってしまうと何も考えられなくなり、結局、毎回神流の良い様に扱われてしまうのだ。
神流との距離の図り方に悩んでいた。


 両親が海外で働いている神流は、祖父母と一軒家に住んでいるらしい。
最初、一人暮らしだと言っていたが、殆ど家におらず、一人暮らしのようなものだと言うことだったようだ。
神流が成人すると、もう一人前だと言うことで、祖父母はクルーズ世界一周など、庶民の羽李には考えもつかない旅行に何度も出掛けているそうだ。
家のことは一通り出来るから特に困らないと言う神流の表情には寂しさは微塵も浮かばない。
寂しくないのか、と聞けば、頻繁に羽李を連れ込んでいるから平気だと、優しい微笑み付きで言われてしまい、わたわたと慌ててしまったのを覚えている。
一人の食事は寂しいだろうと、仕事を口実に神流の元を訪れてしまうのも、もしかしたら神流の策略なのかもしれない。
寂しくないとは言っていたが、羽李とご飯を食べるのが楽しいと笑う神流を、どうにも一人には出来ないのだ。


 この日も、仕事を終えて神流の家に寄る。
泊まることも多いため、スーツや必要最低限の生活用品も置かせて貰っていた。
半同棲状態なのが気にはなるが、編集長の寧は鬼である。
原稿を上げるペースがどんどんと鬼畜になっているのだ。
死んでしまう、と訴えたら「泊まればいいだろう」と返ってきた。
神流の許可は貰っているとのことだった。
職場の上司から半同棲を命令されたのだ。
きっと、これにも裏で神流が絡んでいるに違いない、と思うものの、証拠はないし、何にしても泊まった時に便利だということもあり、甘んじて受け入れていた。


 神流の家は、それなりに立派で、それなりに豪華で、それなりに古い。
アーチ型の門を潜り、庭に敷かれた石畳を少し行くと玄関が見える。
庭には花が植えられていた。
高校時代、緑化委員だった神流が育てているのだろう。
色とりどりの花は、見ていて気持ちが温かくなってくる。


 玄関前に立ち、インターホンを押した。
勝手知ったる他人の家だ。
返事も待たずに戸に手を掛ける。

「邪魔すんぞー!」

ガラガラと音を立て、扉を開け放つタイミングで、スリッパを鳴らして此方にやって来る神流と目が合った。
茶の間から玄関に通じる廊下を小走りで歩く神流は、羽李の顔を見て、それは嬉しそうに微笑むのだ。
赤く染まる頬を隠すように俯く。
そこまで自分との時間を楽しみにされてしまうと、何とも言えぬこそばゆさに襲われた。

「いらっしゃい、羽李さん。どうされました?」
「何でもない! 執筆、進んでるか?」

怪訝そうに尋ねられ、ブンブンと勢い良く首を左右させ、顔を上げれば仕事の話を持ち掛けた。
靴を脱いで玄関先に上がり込むと、神流の表情が曇る。

「進んでねぇの? 珍しいな」

驚きに眼をぱちくりさせるも、神流の首は否定の形を取った。

「いえ、そちらは順調ですよ。来るなり仕事の話をされるので、何だか面白くなくって」

目線を伏せる神流に、羽李は困ったように頭を掻いて返答出来ずに黙り込む。

「仕事で来てんだ。当たり前だろ」

暫くして言えたのは、それだけだった。
他に何と言えば良いのか、羽李には解りそうにもない。
黙ったまま神流の顔も見れずに俯いた。
最近増えたやり場の解らない、名前の付かない感情が胸に渦巻いている。
いっそのこと、嫌な奴だと思えたならば、逆に神流との関係も楽だったのかもしれない。


 沈黙が重くて、何かを言おうと顔を上げた。
口をパクパクさせるが、結局言葉は出てこない。

「困らせるつもりは、無かったんですが。すいません」

神流は一部始終を無表情で眺め、ふぅ、と息を吐き出せば、苦笑交じりに告げ、踵を返した。
羽李からは背中しか見えなくなる。
何故だか胸が、ギュッ、と痛み、無意識に背中へ向けて片手を伸ばしていた。

「ちがっ! ……いや、違わねえけど。なんて言うか、その、えっと」

神流の服の裾を掴み、しどろもどろ言葉を紡ぐが意味を成す台詞は出て来なく、振り向いた神流の顔を、ただ見詰めることしか出来なかった。

「本当に……もう。……良いんですよ、すぐに答えを出そうとしなくても。ゆっくり考えて下さい」

視線を外されたと思った瞬間、ムニッと両頬を掴まれる。
グニグニと左右上下に動かされる。

「いはい!」

上手く発音出来ない中で痛いと訴えて漸く解放された。
両手で頬を包み込めば神流を睨み付ける。
神流は微笑んでいた。
ただ嬉しそうに、羽李に笑みを向けている。


 狡いと、そう思った。
そんな顔をされてしまえば、何も言えなくなってしまう。
愛しい者を見詰めるかのように、神流の表情はとても柔らかくて、意地悪をする時の彼とはまるで違った。

「ご飯、済んでます? ちょうど出来たところなんで、もし宜しければどうですか?」
「……ん、食べる」

釈然としないのは、自分ばかりが神流の一挙一動に動揺しているからか。
面白くなくて仏頂面になっても、それでも頷いてみせるのは何だかんだで神流との食事が好きだからである。
意地悪な癖に優しくて、その優しさが羽李を引き裂こうとするのだ。
胸が痛い。
苦しいと喘ぐのに、傍にいたくて堪らない。
先を歩く神流の背中が酷く遠くに見えて、慌てて歩き出す。


 コトッ、と音がしたのは、ダイニング手前に差し掛かり、神流が扉に手を伸ばした時だった。
恐らく、神流のズボンのポケットから何かが落ちたのだろう。

「何か落ちたぞ」

しゃがみ込んで目を凝らすと、釦が一つ転がっていた。
見覚えのある釦だった。
手に取ってみると、高校の校章が入っている。
神流に渡そうとして、特徴的な傷が付いていることに気が付いた。
wの傷だ。
失くした羽李の第二釦と同じ傷だった。

「これ……」

理解が追い着かずに神流を上目で窺う。
彼は口許を片手で隠して視線を逸らしている。
その顔は、僅かに赤いようにも見えた。

「もしかして、卒業式の後、宮原さ。俺のとこ、来てくれた?」

嗚呼、と合点がいって、何も喋らない神流に問い掛ける。
逡巡を見せた後、ゆっくりと神流の首が縦に動いていく。

「先輩、寝ていたから。……黙って取って行って、すいませんでした」

徐に立ち上がり、近くなった神流の顔をマジマジと見詰めた。
視線がかち合って、情けない表情を晒す神流が頭を下げる。


 何故だろうか、張り裂けそうに痛んでいた胸が穏やかになっていく。
神流は、高校時代からずっと、羽李を想ってくれていたのだ。
言葉では聞いていたが、どうにも信じ切れない自分がいた。
それでも、嫌いな相手の釦など持っていく人間もいないだろう。
そう納得して、何故だかとても、嬉しくなる。
ほんわかと心臓の辺りが温かくて、自然と顔も火照った。
赤くなる顔を見られるのが恥ずかしくて俯けば、ボソリと呟く。

「……起こしてくれたら、良かったのに」
「あの時、僕は素直になれなかったので。大人になってから捕まえようと思って。その証に、釦を頂いたんです。それが正しかったと、今でも思っています」

神流の腕が伸びてきて、ふわりと抱き込まれる。
顎が彼の肩口に乗っかった。
感じる温もりに、心臓が高鳴る。

「かん、な」

頭を撫でられる感触に顔を上げれば、神流の顔がドアップで映り込んだ。
無意識に掠れた声で名前を呼んでいた。
心臓が速打ちし、煩く鳴り響く鼓動でどうにかなりそうだった。

「やっと、捕まえた」

もう逃がしたくない、と。
吐息を吐くように、羽李の首元に顔を埋めた神流に囁かれる。
切ない響きを持たせたその呟きに、逃げたくないと思った。
何故なのか、そこまでは羽李にも解らない。
それでも、神流の背中に腕を回すのだった。
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