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一章:幸せを知らない男は死にたいらしい
存在しない男 06
「あ、あの、キリヤさん。それ、何ですか?」
おずおずと尋ねると零仁の視線が手に持つ物とサチを交互に見遣り、嗚呼、と呟いた。
「眼鏡もご存知ないのですね。これはメガネと言って、物を見易くする道具です。サチさん、食事が終わったら、勉強をするようにと言付かっています」
眼鏡を掛けている零仁の言葉はサチには難しいものが多い。
くてん、と首を倒し「べんきょー? ことづかっ……?」と口の中で転がす。
零仁の表情が固まりジッと凝視されてしまった。
「学校に通ったことがないと言うのは、本当なのですか?」
暫時流れた沈黙を破った零仁の顔には緊張が浮かんでいる。
「がっこー、って何やの?」
思ったままに聞いたサチに小さく笑うと零仁の首が左右に揺れる。
「いえ、気にしないで下さい。その内に幸在さんから教えて貰えるでしょう。とにかく、貴方に必要なことは理解しました。よくもまあ、今まで生きてこられましたね」
何やら感心した風情の零仁が立ち上がり、サチの前髪を払う。
胸ポケットから取り出したもので留められた。
顔を覆っていた髪がなくなり視界がクリアになる。
「おおきに、です。あの、ユキさんは、何処におりますのやろ? オレ、ユキさん、会いたい」
知らない言葉を沢山聞いて不安が募り、誤魔化そうとご飯を頬張る。
「試合、と言っても貴方には解りませんね。……仕事に出掛けていると思って下さい。勉強は、貴方がする仕事です。終わる頃には帰ってくるでしょう」
んぐんぐ、と口を動かし、ごくん、と飲み込み、零仁に腕を伸ばす。
「オ、オレ、仕事、したことないねん」
「大丈夫ですよ。簡単なことですから」
手を取られ、にこり、と笑い掛けられると、サチは何も言えなくなってしまった。
食事を平らげ食器を洗うと学習机に座らされ、鉛筆を持たされる。
「これは鉛筆。これで字を書きます。持ち方はこうです。親指と人差し指で挟んで中指で支えます」
早速始まった仕事にサチは緊張してしまう。
後ろから零仁の体にすっぽりと包み込まれるような体勢で指を弄られる。
指と指の間に木の棒を挟まれ、零仁の掌に手を取られ、紙の上を走っていく。
「これが"あ"です。書く順番も決まっていますから覚えて下さい」
何度か一緒に書いた後に自分で書いてみたが、上手いこと書けず不格好な形の"あ"となった。
それでも零仁は「上出来です」と頭を撫でてくれた。
表情と仕草から褒められているのだと察する。
あ行から始まりた行まで一通り書けるようになった頃に、玄関から物音が聞こえてきて、サチは顔を上げた。
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