異世界で小学生やってる魔女

ちょもら

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第一章 魔女と子宮を失った彼女

思い出

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「……」

[さあな。0時になったタイミングかも知れねえし、寝て起きたタイミングかも知れねえ。明日のどっかのタイミングでプツッと記憶が書き換えられるかも知れねえし、真相は魔女のみぞ知るってな]

 朝起きてまだ二人の記憶が残っているという事は、メリムちゃんが提示した三つの可能性のうち最後の選択肢が当たりだったという事らしい。二人の事をまだ覚えていられる最も幸福な選択肢で、二人の事を忘れる覚悟を強いられる最も残酷な選択肢。

「いたたた……」

 目を開けた私の後頭部に頭痛が襲いかかった。キャバクラで働いておいてあれだけど、私はあまりお酒が強い方じゃない。お客さんからの指名が続く時は頻繁にトイレに行って吐いているくらいだ。

「……あっはっはっ、飲み過ぎちゃったな」

 でも、不思議と悪い気分はしなかった。どちらかと言うと清々しいまである。自分の家で自分の家族と飲んだ楽しさの代償としては、これしきの頭痛なんてむしろ安いくらいだ。

 こういう仕事をしているからわかるんだけど、お酒っていうのは人と人とを簡単に、そしてより深く繋げてくれる便利なアイテムだと思う。

 お酒を飲むと人は過ちを犯す。酔ってみっともない姿になった自分を晒してしまう。でもそれは相手としても同じ事で、同じ過ちを犯した者同士というのは信じられない勢いで仲良くなってしまうんだ。

 ……。叶う事なら、りいちゃんも一緒に家族三人で同じ過ちを犯してみたかったな。なんて。

 私以外がいなくなったりいちゃんの部屋を見回す。同居人がいなくなると部屋が広く感じるってよく言うけれど、あれって本当だ。昔飼ってた犬が死んだ時も同じ気持ちを味わった。

 りいちゃんが慌てて掃除をしか痕跡があちこちに残っている。部屋の隅っこに積み重なったゴミ袋の山なんかがまさにそう。スマホも置いていってあるし、多分着の身着のまま帰ったんだろうな。私物らしい私物は全部残ってるもん。これらの私物一つ一つにりいちゃんとの思い出が詰まっていると思うと、部屋の隅に積まれたゴミ袋の山でさえ宝物のようで輝いて見える。

「ん?」

 なんかSwitchだけなくなってるような気もする。まぁりいちゃんに買ってあげたものだし、全然いいんだけどね。

 それでもこの部屋にはたくさんの私物が残っている。五年間、私がりいちゃんに買い与えた思い出の詰まった私物達。これらの私物も魔法の痕跡として、今日中に私の記憶と共に消されてしまうのだろう。

 私は布団から起き上がり、不意に目に入ったりいちゃんの学習机に腰を下ろした。四歳で小学校に入学したりいちゃんだ。当時はこの椅子に座るのも一苦労だったっけ。……あ、ランドセルを引っ掛ける金具が折れた跡も残ってる。りいちゃん、見た目は人一倍華奢なのに色々と雑で大雑把だから……。

「……」

 ……って。ダメだな私。ここにいると思い出ばかりが頭を過ぎっちゃう。いい加減一人で生きる気持ちに切り替えないと。このマンションも早めに引き払って、安いワンルームの部屋を見つけないとな。

「よし!」

 私は気合を入れ直し、りいちゃんがいなくなってからもズボラな人間にならないよう家事を励む事にした。

 ……とは言ったものの。昨日こそ色々あったけれど、それまでは私なりにしっかりとお母さんの代わりを勤めていたつもりだ。やり残した家事なんてものは特になく、結局私はリビングのソファに腰を下ろして、お茶菓子とか頬張りながらテレビを見るしかやる事がなかった。

「……」

 一人で見るテレビって、こんなにもつまらなかったっけ。テレビの中の人物がジョークを言うと、会場からドッと笑い声が響いてくる。でも、笑い声が物足りない。昨日までは私の隣からも笑い声が聞こえてきたはずなのに。

 それからテレビを見るだけの、毒にも薬にもならない時間が淡々と過ぎていった。

 一通りテレビを見終えた後、不意にライン通話が鳴り出した。相手は仕事先の常連さんだった。

「へー。私って女がいながら木梨さん結婚相談所に通ってるんだ?」

『ちょっとその言い方辞めてくれよぉ。俺達キャバ嬢と客の関係だろ?』

「ウソウソ冗談。それでいいお相手は見つかった?」

『うーん……とりあえず候補は三人いるんだけど』

「さーんーにーんー?」

『え……な、何かまずいかな?』

「当たり前! なんで一人に絞らないの?」

『そりゃだって……ダメだった時の保険くらいかけとかないと?』

「ダメだった時って……。木梨さん、その考えがもうダメ! この人が無理でも他にもいるからいいかぁ……じゃ一生結婚出来ないよ? 一人に絞りなさい。一人に絞って、自分にはこの人しかいないって思うの。そうじゃないと全力の恋なんて出来るわけないんだから」

『あー……はっはっ……。相変わらず手厳しいな……』

 常連さんの相談が終わった後も、私の通話に終わりは来なかった。続いての相談相手は同じお店で働く後輩。

『それでですね先輩……。私ってこう見えてクリスチャンじゃないですか?』

「本当だよね。ミサキちゃんみたいなド派手JDパリピキャバ嬢が毎週教会でお祈りしてるとか未だに信じられないよ」

『この事、今の彼ぴに打ち明けようかなって考えてるんですけどどう思います?』

「あー、そういう相談かー。私は黙ってた方がいいと思うよ?」

『えー……。でもそれである日バレたらどんな風に思われるか心配なんですよ。ならいっそのこと先に打ち明けた方がいいかなって気がしません?』

「あのねミサキちゃん。日本人ってほとんどが無宗教なの。そんな国で毎週教会行ってお祈りしてるとか言ってみなよ? やばい奴に勧誘されるかもって警戒されるのが普通だよ」

『じゃあ隠し通した方がいいんですか……?』

「ううん。別に宗教をやめる必要も隠す必要もない。自分から宗教の事は話さない方がいいってだけ。ある程度仲良くなって、向こうから気づいた時に初めて宗教の事を言うの。その時に『これは自分が信じているだけで、あなたには宗教を強要するつもりもお金を要求するつもりもない』ってしっかり伝える事。最初は相手も戸惑うかもだけど、これが一番相手を不安がらせない方法だと思うよ?」

『うぅ……っ、先輩マジで好きぃ……! マジアーメン……! ツタンカーメン……!』

「はいはい」

 後輩の相談が終わった後も、私の通話に終わりは来なかった。とは言え次は私の方から相手に電話をかけたわけだけど。

『もしもし? どうしたの急に。そっちからかけてくるなんて珍しい。もしかしてお見合いの話、受ける気になった?』

「それはない。……ただ、なんとなくお母さんの声が聞きたくなっただけ」

『そう。やっとお見合いの話を受ける気になったのね?』

「こらこら勝手に話を進めない。……まぁお見合い云々は置いといてさ。近いうちにそっち行ってもいいかな?」

『あら、色々忙しいとか言って五年も帰って来なかったくせに。仕事が大変とか、シングルマザーの友達の子供の面倒を一緒に見てあげてるとか』

「大丈夫大丈夫。こっちも色々と片付いてきて、ようやく自分の時間に余裕が持てるようになったから。なんかこう……一気に肩の力が抜けちゃってさ。そしたら急にお父さんとお母さんに会いたくなった」

『そう? まぁ別に構わないけど。お父さんも喜ぶだろうし』

「あ、せっかくだし福(フク)にもちょっかい出したいなー」

『こら、やめなさい今年受験なんだから』

「あはは、ごめんごめん。じゃあ詳しい日程が決まったらまた連絡するね」

『はーい了解。あ、それとサチ』

「ん?」

『お疲れ様』

「……」

『……サチ? 聞こえてる?』

「……うん。うん。聞こえてるよ。……ありがと、お母さん」

 そして母親と通話で世間話をするだけのくだらない時間も過ぎていった。

「ハァ……」

 こうしていよいよやる事を全て失った私は、魔界との最後のやり取りである願いの変更をするべく、ため息をつきながら例の冊子とにらめっこをしている。

 子宮頸がんを患う前の体に戻して欲しいという、この世界の科学技術で実現出来ないこの願いは無効となった。つまり私が受け取れる報酬は

[④四次試験合格。ホストの世界において世界情勢に影響のない範囲で、なおかつ現段階の科学技術で実現可能な願い]

 になるわけだけど。

「願いって言われてもなー」

 困った事に何も思いつかない。こういう時、まず外さない選択肢としてはお金持ちになりたいが一番の有力候補に上がるだろう。

 お金持ちになりたい。結局人間社会で生きる上では最も簡単に幸せになれる方法だと思う。でも、なんかピンと来ない。お金で幸せになる私のヴィジョンが思い浮かばない。なんなら両親に温泉旅行をプレゼントしてあげてくださいとか、歳の離れた弟が大学受験に合格したら合格祝いをプレゼントしてあげてくださいとか。そういうのでも良いような気さえしている。なんで私、自分の幸せにここまで鈍感なんだろう。

 ……。

 あぁ、そっか。私は幸せだったんだ。この五年間、本当に幸せな日々を過ごせた。十分幸せな生活を送れていたからそれ以上の幸せがイメージ出来ないんだ。有生 幸(アリセ サチ)。辛い事もあったけど、そんな自分の名前に恥じない幸せな五年間だった。なるほどなー、そっかそっか。……なら、私の叶えるべき願いって一つだけだ。

 私はペンを取り、そして願いの修正に取り掛かる。

『魔法で叶えてくれる必要はありません。この願いを見た人は魔界でホリーちゃんが何かにつまづいて苦しんでいる時、ほんの少しでいいから彼女の力になってあげて欲しいです』

 そんな願いを書き連ねる自分を思わず笑ってしまった。両親への温泉旅行や弟への合格祝いは自分で買ってあげれば良いと思った。

 私、結局最後の最後までりいちゃんの事で頭がいっぱいだなぁ。でもこれでいいよね? これが一番私らしいよ。何も今から一人で生きる準備をする必要はないんだ。それは記憶を失った後の私が勝手にやってくれる。今日の私はりいちゃんの事をめいっぱい思い出そう。記憶を失くすその瞬間まで、ずっと思い出そう。私はりいちゃんとの思い出を辿るように街へと駆り立てた。

 桜はとっくに散っていて、かといって照りつけるような日差しも存在しない五月の街。私はこう言った中途半端な世界が好きだ。夏や冬より春や秋。白や黒より灰色。それは悪く言うとどっちつかずや八方美人と呼ばれるけど、良く言えばお互いが譲歩し合った結果の妥協点だ。相手を想い譲り合う様が、どこか尊い。……ま、かく言う私はここで一方的にりいちゃんを押し付けられたようなものだけど。

 りいちゃんがダンボールに入れられ放置されていた大通りを見ながら思い出す。その出来事やその出来事と巡り会えた己の運命に、後悔は微塵もない。とても充実した五年間だった。母になれない私が紛いなりにも母を知る事の出来た良い五年間だった。

 ふと。そんな私の人生に大きな影響を植え込んだきっかけとなったこの大通りを、一人の男の子が泣きながら歩いている姿が目に入った。こっちの世界に来たばかりのりいちゃんくらいの背丈だろうか。四歳か五歳か……、少なくとも小学生でないのは確かだ。

 道路を挟んだ向こう側には交番があるのだけれど、交番のドアにはパトロール中の立て札がかけられている。仕事としてあの子を絶対に助けてくれるヒーローはお出かけ中らしい。

「……」

 あれから九年が経ったのに変わらないな、この街は。あの日と全く変わらない。日中だからこそ通行人の数は極端に少ないけれど、それでも大通りなだけあって道行く大人はそれなりにいる。にも関わらず、男の子の姿が見えている大人は一人もいない。男の子の姿を見ようとしている大人は一人もいない。あの頃のまんまだ。

 私はあの頃を思い出すように、啜り泣く男の子に向かって歩を進めた。その時。

 私の後ろから、一組のカップルらしき学生が全力疾走で私の事を追い抜いた。顔付きの幼さからして中学生だろうか。二人は男児の前まで駆けつけると、綺麗な制服が汚れる事なんて知ったもんかとばかり膝をついて、男児と目線の高さを合わせた。

「おい大丈夫? 迷子?」

「あそこの交番に連れてこうよ! ……あ、パトロール中って書いてある」

「マジかよ……。え、どうしよ」

 頼みの綱である交番が無人だと知るや否や困ったように狼狽える二人の中学生。神様はそんな二人に更なる試練をけしかけた。

 あの二人は泣いている子供を放っておけなかったのだろう。しかし子供からすれば、親を見失って不安な時に、突然大きな体の巨人が全力疾走で自分の元まで駆けて来たわけだ。そりゃあ怖いだろう。より一層不安と恐怖を刺激されるだろう。男児の啜り泣きは、ある瞬間を境に悲鳴にも近い絶叫へと姿を変えた。

 誰かに救いの手を差し伸べる事はとても尊い行為だと思う。そして自分が差し伸べた手で誰かが幸せになってくれると、差し伸べた方にも幸せな気持ちが伝染するものだ。この国の殆どの人はそれを知っているはずなのに、実際に誰かを助けようとはしない。でも、それも仕方がないんだ。

 助けるという行為はタダじゃない。助ける者には助ける者なりの責任が生まれる。その責任と向き合ってまで誰かを助ける行為を、多くの人は忌避する。あのカップルも、手に負えない程泣き喚く男児を目の当たりにしてようやく気づいたようだ。迷子を認知してしまった者の責任に。誰かを助けようとした責任に。誰かを助けると言うのは、自分が思っているよりも遥かに面倒で、リスクもあって……。

「この辺、結構公園多いよな。そっから来たんじゃね?」

 ふと、男の子が呟いた。

「あ、じゃあ近くにお母さんいるかも」

「俺ダッシュで探してくる。ごめん、こいつ任せていい?」

「オッケー! 一応私も百十番で警察の人呼んどくね」

 男の子はそれだけ言い残し、鞄をその場に放り捨てた。そして騒音にも近いけたたましい叫び声で、迷子を見つけた事を周囲に知らせながら街の奥へと駆けていった。

 女の子も女の子で百十番通報をした後、スマホでゲームでも起動してあげているのだろう。男児にスマホを触らせながら、懸命に不安感から気を逸らせようと話しかけ続けた。

「……」

 そんな二人の光景を見て、声にこそ出なかったものの、少しだけ笑みが溢れたような気がした。何かこう、暖かいものが心臓の奥に注がれていくような感触がした。

 私もせめて彼らの助けになってあげようと女の子の元まで近づこうとしたが、どうやらその必要はないようだ。近くの公園にお母さんがいるかもと言う彼らの推測通り、すぐに男の子がお母さんを引き連れて戻ってきた。恥を恐れず、迷子の存在を大声で知らせたその勇気の賜物だった。

 この街は冷たい。これだけ多くの人で溢れているのに、誰もがみな自分以外に興味を示さない。それはそれでもちろんメリットはあると思う。みんな他人に無関心だから争い事も起きにくく、この国は世界的にも高水準の治安が維持出来ているんだろうし。

 でも、それと同じくらい虚しさも感じる。仕事場が繁華街にあるだけに、酔い潰れた中高年が道端で寝転がっている様を見た事が何度あっただろう。確かに彼らの殆どは酔い潰れただけの酔っ払いなのかもしれないけれど、中には本当に危険な状態で蹲る人だっていたたはずだ。なのにこの街の人達は、そんな彼らに見向きもしなかった。数百人もの人が行き交っていながら、彼らは道端の石ころと倒れる人の区別もつかないかのように通り過ぎていった。それがこの街の普通なんだ。

 ある人は私に言った。こんな無関心な世界で誰かに手を差し伸べられる人は変人だと。けれど私はそうは思わない。その人は勇敢で、優しくて、それでいて誰よりも暖かい英雄なんだと思う。

 私は小さな命に手を差し伸べた二人の英雄に敬意を払い、二人の英雄と彼らに感謝する親子の姿を静かに見届けた。りいちゃんのいなくなったこの街に、りいちゃんのような英雄がいる事実に安心感を覚えた。二人の英雄の背中に、りいちゃんの姿が重なった。

 こうして私の街巡りは続いていく。

『りいちゃん、そんなにご本いっぱい持って大丈夫?』

『だ、だいじょ……このくらい……! あぁっ⁉︎』

『りいちゃん!?』

『べ、べつにこのくらい……全然いたく……』

『……あのね? こういう時は遠慮なく私に頼って欲しいかな。私も困った事があったらりいちゃんにお願いする事もあると思うの。お互い様になろうよ?』

 かつてりいちゃんと一緒に行ったこの本屋は、四歳のりいちゃんが大量の本をぶちまけた苦い思い出のある場所。あの頃はりいちゃんも来たばっかだったし、まだお互いぎこちなかったな。私はそんな本屋の中を周りながら、今後の自分の為に何か資格を取ったり再就職でもしようかと思い立ち、それらしい本を数冊購入した。

『サチ! 見てくださいあれ! 景品にSwitchがあります! うまくいけば二百円でSwitchゲットですよ! すげえ!』

『あの、りいちゃん。それはやめた方が……』

『あーっ、なんで⁉︎ なんで落ちんだよ! 今絶対掴んだろ! ふざけんなてめえぜってえゲットしてやる……っ』

『やめよりいちゃん? もう無理だよ、ね? ね?』

『……うっ……うぅ……。がえぜよ私のおごづがい……うぅっ……』

 りいちゃんと一緒に行ったこのゲームセンターでは、かつての思い出に浸っていくつかのゲームをプレイした。ちなみにその二週間後のクリスマスに、りいちゃんがサンタさんからSwitchを貰ったのはまた別の話。

『それなんですか?』

『これ? コーヒーゼリーだよ?』

『げぇっ……、あんな苦いものゼリーにして客に出すとか正気ですか? ヤクザが経営してるんじゃないんですかねこのお店。あの店員とか金髪だし絶対ヤクザですよ』

『うん、りいちゃんちょっと静かにしようか。でもほら、騙されたと思って一口食べてみない? 美味しいよ? あーん』

『えー……まぁサチが言うなら……。……おゔぇっ! クソマジい! ヤクザに殺される! あの金髪が毒盛りやがった!』

『ごめんりいちゃんクリームかけ忘れたのは謝るから静かにしてお願い!』

 りいちゃんと一緒に行った喫茶店はそれまで常連だったのに、あれ以来居心地が悪くて三年くらい行っていない。けれど流石にもうそろそろ時効だろうし、私は久しぶりのその喫茶店に立ち寄った。

「……」

「お久しぶりですね」

「……ん? え?」

 休憩がてら紅茶を飲みながら先程購入した本を軽く読んでいると、不意に喫茶店のマスターが近くまで歩み寄っていた。本に夢中だったとは言え、その唐突過ぎる出来事に私は思わず情けない声を出してしまう。

「専門学校ですか?」

「そ、そうですね……。ていうかあの……もしかして私の事覚えてます?」

「もちろん。あそこまで賑やかなお客さんには中々出会えませんよ」

「あ……あはは……その件はどうも」

「いえいえ。私としても、息子にはもういい歳なんだから髪を黒くして欲しいと、前々からお願いしていたんです。今まで何度言っても生返事をするばかりだったのに、あの後すぐに染めてくれましてね。ほら」

 マスターが視線を送った先を辿ると、そこではカウンターの奥でコーヒー豆を挽いていた一人の黒髪の男性の姿があった。彼はこっちに気がつくと気まずそうに一瞥し、軽く頭を下げる。私も釣られてぎこちない笑みを浮かべなが頭を下げてしまうのだった。

「娘さんは学校ですか?」

「あぁ……、まぁ。そうですね。はい」

「そうですか。ではよかったらこれを」

 そう言ってマスターはエプロンのポケットから数枚のクッキーが入ったお菓子袋を私に差し出した。

「今度は是非娘さんと一緒にいらしてください。クリームがなくても甘い、毒抜きコーヒーゼリーを作ったんですよ」

「……。はい、楽しみにしてます」

 それから十数分ほど静かなティータイムを過ごす。ふと気がつくと時刻は既に夕方だった。他にも回りたい所は色々あるけれど、その全てを周りきる事は不可能だろう。私は会計を済ませ、自宅目掛けて足を向けた。
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