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 ――いい加減に、してほしい。
 幾度となく零れそうになるため息を押し込め、私はゆっくりと騒がしい集団の方へ足を向ける。
 決してそこに用があるわけではない。ただこの道を通らないと目的地へ辿り着くのに時間がかかりすぎてしまうから。
 そうでなければ積極的に〝それら〟に近づこうとは思わない。

 周囲が遠巻きに見る〝それら〟は、白を基調とした制服に身を包む一人の少年と数人の少女で構成されている。
 少女達は誰もが姦しく少年へ声をかけ、少年はその全てに答えようと首を巡らせ笑みを振りまく。
 王侯貴族と才ある平民のみに門戸が開かれるこの王立学園で、こんな光景を目にしたことはなかった……ほんの、数ヶ月前までは。

 きっかけは、少女達に囲まれている少年だ。
 いや、やや幼いがもう青年と言っても差し支えないだろうか。平凡な栗色の髪に同色の瞳。顔は整ってはいるけど麗しいという程でもなく、体型は中肉中背で、殊更目立った外見的な特徴はない。
 そんな彼は数ヶ月前にこの学園に編入してきた青年である。
 騎士の子息で、荒削りながら魔術も剣術もかなりの腕。正義感に溢れた性格で、皆に分け隔てなく優しい。誰からも好かれるような気質を持つのはある種の才能だろう。
 編入してあっという間に皆の中心となった彼は、同じく学園内で知名度のある生徒達とも関わる機会が多かったらしい。青年を囲む少女達はその中でも指折りの有名人であり、青年と彼女達は急速に仲を深めていった。

 この王国の第三王女。騎士団総長の孫娘である侯爵令嬢。青年の幼馴染で当代の聖女。隣国から留学中の第四皇女。
 学園の中心にいた彼女達は、誰もが大輪の花となれる可憐な蕾だった。学園を卒業した際には何処に出ても誇れる素敵な淑女として花開くだろうと、疑うこともなかった。
 ……そう、全ては過去のことだ。

 周囲に憚ることなく声を上げて、慎みなく異性の腕に縋り付く。
 彼女達は自らの立場や地位、肩書きを忘れてしまった。
 だけど少しはその気持ちもわかるのだ。私とて、〝知って〟いなければそうなっていたかもしれないのだから……

 口の中に苦みが走ったような錯覚すら起こしながらも、私の足は止まらない。
 少女達のさえずりに耳を傾けていた青年――セイ・キシュタールはふと顔を上げて私をみとめると、それはもう嬉しそうに笑みを深めた。

「あっ、おはようございます! シェライラ先輩!」
「ごきげんよう、皆様」

 ゆっくりと、わずかに笑みを刷いて。
 誰に対しても常に微笑みを浮かべている私だが、この時ばかりは神経を使う。
 一分の隙も与えない。それを見せた途端、身の内にある妙な感覚が私を支配しようとしてくるから。

 キシュタールが声をかけたことではじめて私を認識した彼女達が、口々に挨拶をしてくれる。
 だけどその視線のどれもが、わずかな敵意と嫉妬を含んだもの。
 彼女達は他人にこんな目を向けるような子達ではなかった。変わって、しまったのだ。

「シェライラ先輩、今日も図書館ですか?」

 彼女達の輪からするりと抜け出したキシュタールが、さも当たり前のごとく私の行動を推測する。
 この瞬間の感覚を、何と言えばよいだろうか。
 胸がきゅう、と締め付けられるような。背筋がざわり、と撫で回されるような。

 〝私のことを見てくれている。たくさんの女の子から好意を向けられても、私を意識してくれて嬉しい〟
 〝挨拶程度しかしない仲でファーストネームで呼ぶなんて、礼を失するのではないか〟

 キシュタールに甘い好意を持つ自分と、キシュタールにわずかな嫌悪を抱く自分。
 この男の前に立つと、私は常に自分がふたりに分裂したかのような思考に囚われる。

 しかし、私はそのひとつが自分の感情そのものではないことを理解している。
 なぜかと言えば……私は〝知って〟いるから。

「いえ、今日は別の用があります。わたくしは、これで失礼しますね」
「えっ……こうして会えたんだし、ちょっとだけでもお話ししませんか? これから皆とお茶会をしようと思ってて」
「せっかくのお誘いですが、少々急いでおりますので」

 ため息を殺し過ぎて、吐き気すらする。
 妙に食い下がってくるキシュタールに微笑みかけて、そのまま視線を巡らせた。

「では、皆様……あまり廊下の中央で立ち止まっていてはいけませんよ」

 そう言うと少女達の幾人かは謝りながら端に寄ろうとし、残りの幾人かは更に私へ敵意を向ける。
 ……いい加減にしてほしい。
 彼女達に怒りたいのではない。こうなる原因を作った男、キシュタールに怒りが募る。

 なぜ、この男はこの学園を変えてしまったのだ。
 この舞台は、この世界は、こんなにギスギスしたものではなく、もっとほろ苦くも甘く優しい世界だったはずなのに。

 『魔術騎士と花の淑女』
 それがこの世界のタイトル――私がひとつ前の人生で出会った恋愛シミュレーションゲームだ。



× × ×



 私の生家はやや特殊な家系で、一世代にひとりだけある能力を持って生まれてくる子どもがいる。
 その子どもは己の魂に刻まれた記憶の全てを覚えているのだ。

 私もまたその能力を有するため、前世もその前の世も、更に前の世も覚えている。
 ただし私はそれらの人生を経験しているわけではない。それぞれの『人生』という名の本を熟読して記憶してあると言った方が表現としては正しいだろう。

 『魔術騎士と花の淑女』は私が前世で大いにのめり込んだゲームだ。
 主人公が男性だったので男性向けのゲームだとは思うのだが、性別関係なく人気を博した作品だったようだ。
 ファンタジーの世界観だが特に世界を救う戦いなどがあるものではなく、攻略対象なる淑女達との恋愛ストーリーに主軸を置いたシナリオで、前世の私はよく泣きながらプレイをしていた。
 淑女達の心に寄り添うために心身共に強くなっていく主人公は好感が持てたし、最後には隠しヒロインなるものを含めた攻略対象の八人の淑女の誰と結ばれてもお似合いと思えるような、立派な青年へと成長するのだ。
 私はその世界が好きだった。
 この学園の話を耳にした時にもしや、と思ったのだが、やはり私の予想は間違っていなかった。

 しかし、ここはゲームの世界……というには大いに語弊がある。
 ここは紛れもなく現実であるが、前世のゲームと今世の現実がリンクしていると言った方が正しい。

 私の積み重なった記憶によれば、こういったことはよくあるのだ。鏡のように別世界を映し出す縁が生まれることが。
 数多の世界はどこかでリンクしている。それはひとつであることも、いくつも重なることもある。
 五つ前の世ではおとぎ話に七つ前の世と九つ前の世の国々が出てきたし、逆に三つ前の世は二つ前の世で大人気だった長編映画そのものだった。そんなリンクが今回は前世のゲームという形だっただけだ。
 世界のリンクに順序や法則などはなく、リンクしているからと言って何か特別なことが起こるわけでもない。私も前世という概念こそ理解していても、今世で能力を得るまでリンクなど全く知らなかったくらいだ。
 だから私は自分が虚構の人間などと思うこともない。
 『魔術騎士と花の淑女』の中に登場する、攻略対象のひとりだったとしても。

 リディシオン王国ヒメネス辺境伯のひとり娘、シェライラ・ヒメネス。
 それが私の立場であり、『魔術騎士と花の淑女』の攻略対象とも全く同じでもある。
 王女に侯爵令嬢に聖女に隣国の皇女、そして辺境伯令嬢。メインの攻略対象はその五人だ。

 ……そう、非常に頭の痛いことに、キシュタールを囲んでいた彼女達は全て攻略対象である。
 キシュタールの周囲には私以外の正規ヒロインが勢揃いなのだ。しかも、全員があからさまにキシュタールに好意を抱いている。

 ここまでくれば当たり前だろうが、『魔術騎士と花の淑女』の主人公はキシュタールだ。
 前世の記憶を鑑みるに。現状はゲームのボーナスステージという全ての攻略対象と結ばれた後でニューゲームを選ぶことで開かれるハーレムルートというものに似通っている。確かエンドとしては全員を連れて世界を股に掛ける冒険者になるのだったか。
 ハーレムなる単語はいかにも俗っぽくて好ましくないが、結婚ではなく一夫多妻とも違うのでそう表現するしかないだろう。

「だけど、あれは……」

 人気のなくなってきた廊下では、誰も私の呟きを拾うことはない。
 それをよいことに、私は我慢していたため息を吐き出してしまう。

 キシュタールが来て、学園はおかしくなった。
 彼はゲーム通り、三年制の学園に二年生から編入してきた。そしてすぐに、ハーレムルートへ突入したのだ。
 ストーリーに沿うなら一年間で絆を深めるはずなのに、半年もなくヒロイン達が皆恋の深みに落ちている。そして誰もが判を押したように周囲を顧みず恋に狂った少女と化した。

 私は彼女達全員と交流があった。
 非常に親しいとまではいかないが、誰もが私とふたりきりで過ごしたことがある仲だったのだ。

『ごきげんよう、ヒ、ヒメネス様……その、大変お恥ずかしいのですが、折り入ってお願いが』
『……まあ、試験が追試に? それはいけませんね、今日からお時間はありますか?』
『勿論です! お手数をおかけして心苦しいばかりですが、非常にありがたい……』

 ――真面目で礼儀正しい侯爵令嬢は、頭を使うより身体を動かす方が好きだと零していた。

『今日のお茶はどうですか? シェライラ様、わたし、上手に淹れられましたか?』
『ええ、美味しいですよ。濃さも渋みも茶葉を引き立てるものになっています。頑張りましたね』
『やっ、やったぁ! ありがとうございます!』

 ――やや幼げで無垢な聖女は、やはり私の淹れた紅茶の方が美味しいと笑っていた。

『ねぇ、遙か南方の密林部族には特殊な婚姻式があると聞いたけど。知ってる?』
『それでしたら確か……こういった本に書かれていましたね』
『……さすが。本当に、わたしの未知を知ってるあなた自身が図書館のよう……ふふふっ』

 ――どこかつかみ所のない皇女は、紹介した本を抱えて楽しそうに読んでいた。

『わたくしの話を聞きなさい、シェライラ・ヒメネス!』
『どうされたのです? どうぞ、こちらへお掛けになってください。今は手元にこれしかありませんが、よろしければ』
『……っ、もらってあげるわ』

 ――いつも素直になれない王女は、渡した焼き菓子を気恥ずかしそうに食べていた。

「…………」

 目を閉じれば、いくらでも思い出が浮かんでくる。
 よき学友であり、後輩。
 変わったところがあったり、それぞれ苦手なこともあったりと、何もかもが完璧というわけではない。
 だがそんな彼女達のことを、私は好ましく思っていた。
 ……思って、いたのだ。

 彼女達はその気質は違えど、誰もが人を惹きつける輝きを備えていた。
 その輝きが、薄れたのではなく消えてしまったのだ――恋をしたことで。

 キシュタールがゲームの登場時とは違い非常に女性慣れしているため、もしかしたら彼女達と絆を深めやすいのかもしれない。
 しかし彼女達の変化はそれで済ませられるようなものではないのだ。本当に、人が変わってしまったかのよう。
 キシュタールが喜ぶなら、キシュタールが輝くためなら、誰を貶めようとも自らがどう見られようとも構わない。そんな風に思わせる言動ばかりなのである。
 その恋は呪いではないのかと、見ているこちらが寒気を覚える程に。

 そして恐ろしい変化は、私にも襲いかかってくるのだ。

「どうして、この胸が高鳴るのでしょう」

 はっきり言って、私は全くキシュタールのことを好ましいと思えない。
 それなのに彼に話しかけられたり笑いかけられたりすると、勝手に脳が彼を好ましいと判断し胸がときめいてしまうのだ。
 私は彼に恋をしていると、そう思い込んでしまう。

 ゲームに現実が引きずられている?
 ゲームの設定が強くリンクしている?
 どうしてそうなってしまうのか、考えてもわからない。ただただ、強烈に恋心を抱くのだ。

 ――まるで〝攻略対象は主人公に恋をする〟というルールから逃れられないとでもいうように。

 私はそれが気味の悪いものに思えてならない。
 恋とは、こんな感情ではないのだ。少なくとも私はこれを恋と信じない。

 そう断言できるのは、きちんと理由がある。
 ひとつ、己の魂に刻まれた記憶で幾度も本気の恋をしたことがある。
 ふたつ、好ましくない相手に胸を高鳴らせるのはおかしい。
 みっつ、私は今世も……

 思考に深く潜りながらも動かしていた足が、とうとう目的地に辿り着く。
 走っていたわけではないが呼吸を整えてしまう自分が子どものように思えて、つい笑ってしまう。
 口元を抑えて微笑み程度に抑えてから、私は目の前にあるガラスの扉を開けた。

「――ごきげんよう」

 色とりどりの薔薇が咲き誇る温室。
 その隅に置かれた長椅子に腰掛けているのは、ひとりの青年だった。

 その姿形や纏う雰囲気に至るまで、全てが光輝くかのごとく。
 私の声に反応して首と巡らせたその方は、艶やかなプラチナブロンドの髪をふわりと揺らす。
 つり上がった深い青色の瞳が私をみとめ、薄く形のよい唇を歪める。
 まさに傲慢そのものを笑みの形にした彼は、それでも一欠片も自身の魅力を損なうことがない。
 まるで薔薇のよう、と形容してもふさわしく思える方。

「ヒメネス嬢。今日もわざわざご苦労なことだな」

 棘のある、だが甘やかに響く声。
 返ってきたのは挨拶ですらなく、ましてや私の訪いを歓迎する言葉ではない。しかしそれが拒否ではないというだけで充分だ。

 胸がじわりと熱を持つ。
 一気に焦がす程の熱量ではなく、身体の隅々まで温かくされて、そのまま消えなくなるような熱。
 熱は頬にまで上がってきたが、それを出すことはなく私は微笑んだ。

「わたくしが何の苦労をしたのでしょう。この扉を開くことを望んだのは、わたくし自身です」
「ハッ……物好きなことだ」

 肩口にかかるようにひとつに結った髪を背に払いのけ、彼が目を眇める。
 その仕草ひとつですら、どうしようもなく魅力的だ。

「お隣、失礼してもよろしいでしょうか」
「お前程の淑女が男と並んで座るのか」
「ええ、お許しいただけますか?」
「好きにしろ」

 ふた月は前だったろうか。
 私は今と同じやりとりとして、彼の隣に座った。
 それからもう幾度となく、この温室での時間が続いている。
 許可をもらい、隣に座り、とりとめのない話をして、帰って行く。
 お茶のひとつもないこの不思議な時間は、交流というには堅すぎて、逢瀬というにはずいぶんぎこちない。

 アンブロジオ・フォルトス・リディシオン――それが彼の名だ。
 私と同じ学園の最上級生にしてこの王国の第二王子であり、『魔術騎士と花の淑女』においてはキシュタールのライバルとして登場する、いわゆる悪役。

 そして何より、私の想い人である。
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