線路と暗闇の狭間にて

にのまえ龍一

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後編 尾上なち、〈ワタシ〉を知る

ワタシの在り方・後編

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―――紫月の目線で見ていた記憶が終わり、没入していた五感がゆっくり蘇ってくる。



黒塗りされた視界は、少しずつ明るさを取り戻していく。



薄ら目を開けると、クロスシートの上に白い塊と黒い塊がそれぞれ見えた。今は意識もはっきりしているので、塊の正体が何かも分かる。



十秒と経たずに本来の視力に戻ると、白猫の女乃は後足を折りたたんで座っており、片や黒猫のオズはシートの上に寝そべって退屈そうにしている様子が見て取れた。



隣に座る少女は俯いたまま、何か言いたげな雰囲気を出していた。



「ワタシ、こんな大事な記憶も忘れちゃってたんだ」



亥の一番で口を開き、皆の注意をかき集める。すると、紫月が小動物の如く最も明瞭な反応を見せた。



彼女はワタシの方に素早く振り向きこそしたものの、何かを察したように黒猫のいる方へと顔をゆっくり向き直した。オズは、太い尻尾でシートを数回撫でるように動かすだけだった。



「しーちゃんのタロットも、本当はワタシが持ってたものだったんだね」



今度は紫月さえも振り向かなかった。バツの悪い顔をしようが、ワタシの鬱憤はちっとも収まらない。



「どうして今まで教えてくれなかったの⁉」



声を荒げたワタシに、皆の視線が再度集まる。三者三様の反応を見せる中、紫月だけがこちらをしっかりと見つめていた。



大きな栗色の瞳に未知の力強さを感じたワタシは、彼女の方に視線を定めた。



「まだ、なっちゃんに〝ここ〟に居て欲しかったからだよ」

「本当は?」



だが、ワタシも容易く流される訳にはいかない。紫月が返答し、レールのジョイント音が遅れて六、七回聞こえた後に短く聞き返す。



彼女は虹彩を縮こませると、小さく息を吐いて落ち着きを取り戻しながら答えた。



「天使の〈アタシ〉に口止めされちゃってね」

「口止め?」

「二人のなっちゃんが一つになる前に過去の話を打ち明けるとね、なっちゃんがアタシのこと、全部忘れちゃうからなの」



紫月はそう言いながらワタシに近い方の手を動かし、シートの上に突いたワタシの手元まで伸ばしていった。



天使たる〈紫月〉は紫月から離れ、どこかへ消失してしまった。天使が何者であるか、紫月は病院の〝夢〟の中で「祖母が患っていた病気の擬人化である〝悪魔〟をやっつけるために祖母自身が変身した存在」に見立てていた。



祖母の形見こそがあのタロットで、天使はタロットが人格を持ったもの。そのタロットは今、ワタシと一つになった。紫月の言うことが本当なら、ワタシがこの時分に記憶を取り戻すことも見越していたのだろう。



天使こそが本当の神様で、ワタシや紫月は依り代にすぎない。どう転んだって、ワタシは人並外れた存在にはなれない。



「そうだったんだ」

「病院の夜空に金色の輪っか、浮かんでたでしょ?」

「金環日食のこと?」



紫月は軽やかに首肯し、細い指の揃った綺麗な手を更にワタシの方へと近づける。



「あの輪っかが金色に輝いている間はね、なっちゃんの記憶を〝夢〟の中に閉じ込めておくことができたの」

「うん」

「でも病院の〝夢〟の中で輪っかは崩れていって、なっちゃん同士が一つになった時、一緒に取り込まれていったの。タロットも一緒にね」

「だけどワタシ、今だってしーちゃんのこと覚えてるよ?」



紫月がコクッと頷く。ワタシの方に近づけた小さな手が、物寂しそうに少し引っ込んだ。



「今だけはね」



紫月のその一言で、ワタシは腑に落ちた。病院の〝夢〟の中に居たもう一人のワタシは、ワタシが失くしていた時間全てを持っていた訳ではなかった。紫月の記憶にもワタシは存在することを見落としていたのだ。



「余計な事しちゃったのかな、ワタシ」



両肩を竦めながら呟くと、真似事のように紫月も身体を丸くした。



「いいの。アタシは今でも、なっちゃんの影みたいな存在だから」

「影? どういうこと?」

「アタシはなっちゃんよりも輝けない。なっちゃんが太陽なら、アタシは月……それでいいの」

「なんでいきなりそんなこと……」



彼女の例えが理解できなかったワタシは、すぐに紫月の方を振り向いた。彼女は勿体ぶったようにはっきり顔を見せることなく、女乃のいる方に向かって答えた。



「だってアタシは……」

「もう黙っとけ」



そこに、オズの一声が突き刺さる。紫月はまだ何か言いたくてウズウズしていたが、想い人の教えに背くことはせず、諦めたようだ。女乃も何やら冴えない表情をしていた。



「ごめんなさい」



シュンとした顔で紫月が謝ると、オズはひとまず満足気に鼻を鳴らした。



黙りこくってしまった紫月に代わり、ワタシは興味の対象を彼へと移した。身体と視線を改めると、オズは金と銀のオッドアイを気だるそうにこちらへ向けた。



「オズ君は、あの後どうしたの」



彼はワタシの問いにすぐに応じず、視線を逸らして時間を作ってから、ハスキーな声をさらに掠れさせて答えた。



「……死のうとした」

「何で⁉」

「目の前であんな大事起こされて、正気でいられっかよ」



彼の心情は理解できるが、行動に関しては全く理解できなかったワタシ。少し時間が経つと妙に苛立ってきて、腕組みをしながら見下すように言い捨てた。



「ホント馬鹿じゃないの」

「何とでも言いやがれ」



投げやりな答えを返され、納得の行かないワタシは詳細を追求する。



「……オズ君も、病院の屋上から飛び降りたの?」

「ちげぇよ。クスリを大量に飲んで意識を失った」



更にろくでもない回答が飛んできて、今度こそ呆れかえったワタシ。



「全く何やってんだか」



吐き捨てるように言うと、オズは二つの猫耳をワサッと大きく震わせた。すかさず彼は寝そべった格好をやめ、四本の足でシートの上をガシッと踏みつけながら憤った。



「おめぇに分かるか、いっぺん失ったモンが二度と戻って来ねぇ虚しさがよ」

「何ぃ?」



腕組みを崩し、こちらも喧嘩腰の姿勢を取る。



「てめぇの命と同じくれぇ大事なモンを、俺は奪われちまったんだよ!」



オズもといトオジはしなやかな全身を強張らせ、今にも飛び掛からん気迫で怒鳴りつけてくる。上等だ、やってやろうじゃないか。



「何でお兄ちゃんが怒ってんだよ」

「おめぇの所為だろが」

「こんのぉ」



激昂してシートから立ち上がったワタシの身体に、紫月の両腕が勢いよく絡みつく。



まるで先ほど経験したような、病院の屋上から飛び出しそうなワタシを連れ戻そうとする光景と恐ろしいほど一致していた。



「やめてってば!」



凛とした彼女の一声に、トオジもワタシも動きが止まる。



トオジは間もなく緊張を解き、シートに真っ黒な尻をドスンと落とした。ワタシも身体の熱を冷まし、スカートの後ろ側を整えながらゆっくりと元の席へ腰を下ろした。女乃はやれやれとした表情で両目を伏せていた。



反省のつもりでしばらく俯いた後、ワタシは性懲りもなくトオジへとより大事な質問を投げかけた。



「ここまで来たなら話してくれるよね、トオジお兄ちゃん?」

「何をだ?」

「ワタシが病院に来る前のこと」



トオジは顔色を変えず、人間臭く溜め息を漏らしながら車窓の方を向いた。今度はワタシ

もせっかちにならず、ひたすら彼の返事を待った。



車窓から見える空の色は鉛色から墨色へと暗さを増しており、雲間に隠れる太陽は輝きすら奪われていくようだった。



そんな頃合いを見計らったように、トオジがこちらを振り返り、答えた。



「話してやんのは構わねぇが……」

「構わねぇが?」



強面のくせに物悲しそうな雰囲気を漂わせながら、トオジは無言で紫月や女乃へと、幾度か目配せを繰り返す。



それから改めてワタシと目を合わせた彼の表情は、すぐに凄みのあるいつもの強面へと戻った。



「後悔すっかもしんねぇぞ?」

「今更なに言ってるの」



冗談に聞こえなくとも、依然強気な態度で聞き返すワタシ。彼はつまらなそうな顔をしながら、今度は女乃の方をチラと見てから言った。



「どーしてもほじくり返してぇんなら、アイトの言う通りにしな」

「女乃君の言う通りに?」

「おぅ」

「どうすればいいの?」



ワタシが女乃に問い掛けると、彼はしっかり頷いてから返答した。



「僕の〈声〉で封じ込めていた、尾上さんの記憶を呼び戻すんだ」

「ワタシの、記憶……」



女乃の〈声〉は聞いた者を〝夢〟へと誘う力があるが、その副産物として聞いた者の記憶も一時的に奪い去ることも出来るようだ。ここが〝夢〟で実に良かったと思える力である。



紫月に話せなかった、彼女と出逢う前の記憶―――パズル完成までの最後の一ピースとなりうるワタシの記憶が、間もなく露わになる。オズの言う通り、ワクワクしながら受け入れるものではないのだろう。



それを自覚しながらも、好奇心を上回る欲望を前に屈することがワタシにとっての救いならば、引き返すなど野暮である。



「覚悟は出来てるのかい?」

「……うんっ」



女乃のマリンブルーをした双眸を真正面に捉え、ワタシはただ頷く。



「なっちゃん、今なら引き返せるよ」



紫月はワタシの腕を優しく掴み、されど厳しい表情で迫ってくる。



「しーちゃん……」

「アタシはなっちゃんが決めたゴールに向かってほしい。だけどね、これ以上苦しい思いはしてほしくないの」



紫月には〝夢〟を通して本当に世話になった。だからこそ、彼女の気持ちに寄り添いたくなるこの感情は本物だ。



「ワタシが決めたゴール……」

「アタシ達はいつもみたいに電車に乗って、学校に行こうとしてるんだよ。それも一つのゴールだから」



紫月が上目遣いでワタシを諭す。



ゴールは〈ワタシ〉が決めればいい―――ワタシは確かにそう決意した。自ら変えられぬ〈ワタシ〉に全てを委ねればいいのだと。



彼女がワタシを引き留める意味を考えても、明確な答えは出て来なかった。



「学校、ゴール……」

「学校でいつもみたいに授業受けて、おしゃべりして、放課後は街の中で好きな事して遊ぼうよ、ね?」



紫月の言う通り、ワタシの夢はとうに叶った。それも悲しいことに〈ワタシ〉にとっては通過地点に過ぎないのだ。



〈ワタシ〉を手なずけることなど、決して出来やしない。



「授業、おしゃべり、放課後、あそ、ぶ」

「……なっちゃん?」

「ワタシ、学校なんて行ってたっけ」

「えっ」

「友達、どんな子だったっけ」



おどけたつもりが、いつの間にか言葉通りに記憶がすっぽ抜けていることに気づく。記憶を忘れるというより、本来の記憶に塗り替えられるといった方が適切かもしれない。



怖いといえば怖い。しかし、受け入れなければいけない気持ちの方が勝っていた。



「なちの奴、〝夢〟ん中の記憶も薄れてきてるな」

「やるしかないみたいだね」



ワタシの異変を察知した二人もとい二匹は、どちらとも伏せていた体毛を逆立たせ、気を張り詰めていた。



「トオジさんアイトさん、アタシはどうすれば?」

「何もすんな。おい、アイト!」

「分かってる」



トオジの掛け声に間断なく応えた女乃は四本の足をサッと屈め、白い身体の姿勢を低くする。次の瞬間、元居た場所からシュッと斜め前に跳躍し、ワタシの太腿の上に飛び乗ったのだ。



寝ぼけながら驚くワタシを見上げ、女乃は至近距離で淡々と指示を下す。



「尾上さん、僕の目をじっと見て」

「うん……うん?」

「いいからっ」



酩酊の身で無茶を言うなと思いつつ、ワタシは揺れる視界の中で輝くマリンブルーを何とか捉え続けた。



「……うん」



列車の走行音に消え入りそうなくらいの声で返事をすると、マリンブルーの輝きはあっという間に視界を埋め尽くし、海の底へと溺れていくように意識が遠くなっていった。



その直前、ぼやける意識の片隅で、紫月は両目を伏せながら、やけに悲しそうな顔をしていた。



彼女の心を追いかけるように車窓の外は湿っぽくなり始め、ワタシの心すらどこまでも、どこまでも重くさせていった。





      ✡





昔と言うには早すぎる、とある地方の家族の話。



広くて豊かな敷地の中に、誰もが羨む一軒家。そこに住まうは夫婦と一人の中学生。



これより語るは聞いてガッカリ見てゲンナリ、何てことない一家崩壊までの短い一夜の出来事で候。



期待なんぞ微塵も持たず、是非是非話の途中でお帰りなすってくださいまし―――





      ✡





静かで薄暗い部屋は、安らかな眠りを得るのに欠かせないもの。そこで寝息を立てる子供が一人。今宵もさぞかしいい夢を見ているのでしょう。



一方子供の寝室となりでは、日付も変わる時間というのに椅子やら何やらゴトゴト音を立て、夫婦がテーブルを挟んで座ったところ。これには子供も目を覚ましてしまいます。



何だ何だと寝ぼけ眼のおぼつかない足取りで、寝室入口のドアまでやって来ます。



重たい細腕を持ち上げながらドアノブに手を掛けようとした瞬間、部屋の向こうから聞き慣れた声を耳にします。子供の父親と、母親の話し声です。



『第一志望に落ちたそうだな、なちの奴』



何やら残念そうな話を切り出したのは夫の方。なち、と呼ばれた子供の眠気がハッと醒めたのは、言うまでもありません。



『ごめんなさい。今まで順調に進学してきたのに』

『これで親子共々、親父の病院を継ぐことはなくなったか』



これは大変、先祖代々続く病院の跡継ぎがいなくなっては、一族の恥と言うもの。部外者でありながら、妻の方も黙ってはいられません。



『ちょっとそんな言い方はないんじゃない?』

『もう取り消せないんだろ。なちの不合格は』



夫は口の中でじっくり噛み締めるように、妻へと冷たい事実を突きつけます。私の方があなたの何倍も悔しいのよ、と吐き出したい気持ちをどうにか堪えます。



『そうだけど……』

『俺はなちに伸び伸び生活してほしいとは言ったが、甘やかして良いとは一言も言ってないだろ』



夫の言葉はどんどん刺々しくなっていきます。正論に正論で返すのを諦めた妻は、愛する我が子の振る舞いを振り返ってみると、あることを思い出します。



『あなたはなっちゃんの才能に気づいてないのよ』

『才能だって?』

『あの子、タロット占いをさせたら右に出る者はいないのよ』



どうやらなちは占いが好きなようです。しかも、良く当たる占いをしてくれるとのこと。これは頼もしいですね。



せっかくなので、なっちゃんと呼んであげましょう。



対する夫は乗り気でない模様。望まぬ現実を受け入れるまで、まだまだ時間が必要なのでしょう。



『おふくろのアレ、か。受験に合格するのと何の関係もないだろ』

『あなたもなちに占ってもらえば、きっと信じてくれるわよ』



一方の寝室。なっちゃんはいつの間にかベッドの方へ戻っていき、ガサゴソと何かを探っております。そうですね、タロットです!



何かに急かされるように、なっちゃんはまたしてもドアの前まで静々と歩いて行き、しゃがみ込む姿勢から両足床にペタンと着けます。それから、両手に持ったタロットの束を床に置きました。一体何を始めるというのでしょう?



『いやその必要はない』

『どうして?』

『なちの奴、自分で高校受験の結果を占ったんじゃないのか』



夫の言うことは図星だったのでしょうか。なっちゃんはドア越しに怯えながら、床に置いたタロットの束を無造作に崩していきます。



言うまでもなく、占いを始めたようです。



『思い付きでも言わないでよそんなこと』

『なちは思い込みの激しい子だって、忘れたのかい』



タロットを混ぜ続けるなっちゃんは、お父さんの言うことが気に入らないようで、顔をちょっぴりしかめます。



それでも、大事な占いを途中で放り出す訳には行きません。



『本気で言ってるの?』

『なちは純粋すぎるんだ。いくら頭で考えても対処できないことに遭遇したら、考えを変えようとしないだろ』

『確かにあの子は頑固なところもあるけど……』

『一体誰に似たんだろうな』

『誰って……』



頑固なのはお父さんでしょうが、とはらわたが煮えくり返るのを堪えつつ、タロットを混ぜる手をピタリと止めます。ドアの向こうも会話が途切れたのか、一気に静かになりました。



『ちょっと、まだ話は終わってないでしょ』

『お茶でも淹れようかと思ってね』

『別に要らないわよ』



まさかまさかと不安がるなっちゃんの元へカシュ、カシュとスリッパが床を蹴る音が近づいてきます。なっちゃんはその場で固まる以外、どうすることもできません。



期待虚しく、ついに寝室入口のドアノブへと手が掛けられます。ガチャ、ゴロロロと可動部分のゆっくり回る音が、なっちゃんの心拍数を上げていきます。



キイィィと蝶番の細く甲高い鳴き声が聞こえ、ドアが動き始めました。なっちゃん、万事休すか。



『そっちは入っちゃダメ』

『どうして』

『分かるでしょ? なっちゃん、ショックで塞ぎこんでるって』



何と慈悲深いお母さんでしょう。夫が手を掛けたドアノブは元の場所まで押し戻され、カチャン、とラッチの掛かる音が寝室へと響き渡ります。



『……そうか、済まなかった』



夫は当初の目的であるお茶を淹れに、寝室入口から遠ざかっていきます。



どうにか命拾いしたなっちゃん。今度こそ落ち着いた手つきでタロットを束にして整えると、ドアと自分自身に挟まれる位置に置き直します。



すかさず正座をすると、なっちゃんは両目をヒタッと閉じ、寝室の乾いた空気を胸いっぱい吸い込み、精神統一を始めます。



さてさて、夫がホカホカの紅茶を淹れて戻って来ました。先に妻の方へとティーカップを置き、自分の分も手元に置きます。



更におかわり用にと、白地に金細工の入った高級感溢れるティーポットもテーブルの上に用意し終え、固めの座り心地のする椅子へドッシリと腰を下ろします。



妻は礼を言わず、差し出された紅茶を一口。美味いか不味いかの感想も述べず、まだまだ中身の入ったティーカップをテーブルにコトンと置きます。



『どっちにしろ、俺は親父を一生恨むだろうな』

『他人の所為にするなんて、あなたらしくない』



妻はテーブルに両肘を突き、どこかつまらなそうな顔をします。



対する夫は突っかかることもなく、疲れた体を背もたれへと預けます。



『もういいんだ。俺達は天に見放された哀れな親子なんだから』

『なっちゃんはどうでも良いっていうの』

『そんなこと言ってないだろ。ただ、もう、色々と虚しくなったんだよ』



二人は歩み寄ろうとするばかりか、反発しあって遠ざかっていく一方。なっちゃんは両親の会話をただの雑音へと変換し、更に深く精神を研ぎ澄ませていきます。



『変なこと言わないでしょうね?』

『一人になりたいんだ、俺』



夫は妻を見据え、芯の通った声で願望を告げます。



対する妻は許すはずもなく、両手を広げてテーブルに強く叩き付けます。



『私となっちゃんを置いて、出ていくのね⁉』



夫はさっぱり動じず、負けじと大きく溜め息を吐いてから言い返します。



『迷惑を掛けたくないだけだ』

『一人になるほうがよっぽど迷惑よ!』



吠える野犬を追い返すように、夫は「理解ってないな」と嘲笑を交えてぶつかります。



『君にも落ち度はあるんだぞ』

『はぁ?』



皆さんはもうお分かりでしょうか―――妻の方が白熱しているようで、本当に気分が高揚しているのは夫の方であるということを。



寝室の方ではなっちゃんが精神統一を経て両目を見開き、冴え渡った頭で眼前のタロットへと手を伸ばしていきます。



『俺達が仕事で稼いだお金をなちの教育費にどれだけ回したと思ってる? なちを親父と同じ医者にさせるって頭を下げさせたのは、何処の誰だっけ?』

『うっ……』



妻はテーブルに置いた両手を握りしめ、悔しそうに夫を睨みつけます。



夫は足を組み、やたら得意げな顔で妻を煽ります。



『君はなちの人生を握っていた。だけど君自身の手で握りつぶしてしまった。違うか?』

『うるさい。結果が出なかったのは、なっちゃんの所為なのよ!』



髪を振り乱し、妻が喰って掛かります。



哀しいかな、味方だとばかり思っていたお母さんですら、なっちゃんに責任転嫁をしようとしております。



当の本人たるなっちゃんは、今更何を言われようがお構いなし。伸ばした手の先はタロットに触れ、深く深く息を吸い、ろうそくの炎が消えないくらいの絶妙な呼吸量で、ゆ~っくり息を吐き出していきます。



『君こそ、言葉に詰まると他人の所為にしたがる癖があるよな』

『だから何よ。私は自分のできることを精一杯したのよ。文句あるの?』



夫は手元にあるティーカップを引き寄せ優雅に持ち上げると、紅茶をグイと一気に飲み干します。妻はやっぱり夫を恨めしそうに見続けます。



『文句はないさ。ただ……』

『ただ?』

『俺たちは最後まで、なちに期待しすぎたのかもしれない』



夫の言葉に、妻のこめかみがピクンと反応します。意外なのか当たり前なのか、彼女の受け取り方はハッキリしません。



『あなたにも落ち度、あるんじゃないの』

『そうかもな』

『開き直っちゃって、何なの』



夫はいったん俯くと、少し離れた位置にある一枚の扉へと首を動かします。妻も思わず連られて同じ方向を見つめます。



扉越しでも感じ取れてしまうのか、整ったはずのなっちゃんの呼吸が一瞬乱れます。そして真冬だというのに、首筋を一粒の汗が伝い落ちていきます。



『なちは小さい時から我儘で聞かん坊で、小学校に上がって口数が少なくなったと思ったら、中学生になって俺達を煙たがるようになった』

『それが何なの』

『なちが聞き分けの良い子でいてくれたことは、これまで何一つなかった』

『育て方を間違えたんじゃないの?』



夫は鞭で叩かれたように、皺が目立ってきた首を素早く妻の方へと回します。今度は、妻が余裕をもって夫の方へと目線を揃えていきました。



夫は足を組み替えながら、浮かない顔で妻に問いかけます。



『俺がか? 君がか?』

『どっちもよ』



妻は迷わず答えます。



おっと、なっちゃんはタロットに手を置いたまま、固まってしまいました。心なしか、両肩が震えているように見えます。



『間違えたというより、関心が薄かったんじゃないのか』

『あの子に塾や習い事ばかりさせたから、そう言いたいわけ?』



夫は深く頷くと、白地に金細工のティーポットを掴み、手元のティーカップへとやや高めの位置から紅茶を注ぎ淹れます。君もどうだいと妻におかわりを勧めますが、やはり断られます。



さっきよりも湯気の減った紅茶をゆったり味わいながら、夫は吐く息と共に遅れた返事をします。



『俺達はなちに期待していた訳じゃない、世の中に期待していたんだ』

『あなただって他人の所為にしてるじゃないの』

『してもいいと思ってるからさ。俺達は共働きで時間に余裕がなかった。だから世の中に委ねた』



妻はそりゃそうでしょうよ、と頬杖を突きながら退屈そうに同意します。



『私たちはその分、なっちゃんを応援してきたじゃないの』

『確かにね』

『なら私達に落ち度はないわよ』



妻は姿勢もそのままに。視線だけをテーブルへと落としていきます。



夫は紅茶をもう一口。満足そうにティーカップを置きますが、リビングの照明は彼の目元に落ちる影を色濃くしていきました。



妻がまともに聞いてくれるとは思いもせず、ワックスをかけ直したばかりのフローリングへ向かって呟くように言いました。



『それでも俺は世の中を許せない。だからといって金を払った相手を訴えたって、なちが合格できなかった事実は変えられない』



妻は一瞬だけ夫の方を見上げた後、ティーカップに映る自分の顔に視線を移しました。



『疲れが溜まってるのよ。落ち着いてみたら』

『俺はいつも通りさ』



どうして素直になれないのかしら、とさえ口にするのも億劫になる妻。眼前に垂れて来た前髪を乱暴に掻き上げ、今度こそ夫の方を見て文句を垂れます。



『こっちは気が気じゃないのよ』

『すまない』

『ったくもう……』



妻はようやく、ティーポットへと手を伸ばします。夫がすかさず代わろうかと言いますが、漏れなく拒否。自分で紅茶を継ぎ足しました。



『君はこれからどうするんだい』

『え?』

『俺達家族の未来はきっと、お先真っ暗だ』



おや、寝室のなっちゃんに動きがありました。



タロットに触れた指の一本一本を滑らせ、一番上の一枚をしっかりと掴み、朝日が昇るような速さでジワリジワリと引き寄せていきます。



一方、妻はティーカップに注いだ紅茶を頂こうとせず、暗い顔をする夫を気に入らなそうに見て言い返してやります。



『根拠のないこと言わないで』

『いや、あるさ』



夫は両目を閉じ、露骨に不敵な笑みを浮かべます。話が見えない妻は、ますます気分が悪くなっていきます。隣部屋の湿った空気は、なっちゃんの占いにも影響を及ぼすのでしょうか。



妻は呆れ返りながら、挑発的な態度で聞いてくる夫に答えます。



『何いってるの、あなた』

『俺の職業を忘れたかい?』



ここで夫が組んでいた足を解き、両足の膝から下を椅子の下で交差させました。ついでに両腕をテーブルに乗せて前傾姿勢になります。



違和感に気が付かない妻は、夫とほぼ同じ姿勢のままで即答します。



『電車の電機部品を設計する技術者でしょ。何を今さら』

『その中で俺が得意な分野は何か、昔教えただろ』



我慢できなくなったのでしょうか、夫は妻に微笑みます。



いやはや誠に残念。気づくのがもう少し早ければ、最悪の結末を回避できたというのに!



『……まさか⁉』

『その、まさかさ』

『あなたって人はっ!』



惜しい、実に惜しいのです。全てを悟った妻はやり切れない思いに顔を歪めます。



夫は両腕を組み、肩を小刻みに上下させながら笑っています。



『明日は俺が設計を担当した新造車両が青田線でお披露目になる、記念すべき日だ。電車に乗ってくれるお客さんたち、ものすごくラッキーだよな』



童心に帰ったように左右の瞳をギラギラと光らせ、真っ赤に上気した顔で夫は妻に同意を求めます。



かたや真っ青な顔をして、口までガタガタ震わせるのは我らが稀代の占い師、なっちゃん先生。



お父さんの言うラッキーな者は、ここにもおりますよ。



『信じられない、今すぐ会社に連絡してよ!』

『それなら心配ない。俺も新造車両に責任を持って同乗するつもりだ』



パシャ、と夫に何かが降りかかる音がしました。あろうことか、妻に飲みかけの紅茶を真正面から浴びせられたのです。



これにはびっくり仰天の夫。目をパチクリさせ、妻をただ見つめます。



『訳の分からないこと言わないで。やっぱり間違ってるのはあなたよ!』



激昂した妻は息を荒くしながら、揺れる両目にルビー色の輝きを纏わせます。手に持ったティーカップをテーブルに押し付けるように置くと、夫の両腕は力なくダラァンと垂れ下がっていきます。



『俺が間違ってた、だって?』

『そうよ。あなたやっぱりおかしい……』



夫の右手には、ドラマで見たことのある一丁の拳銃。黒光りするリボルバーのスロット一つ一つには、悪魔を打ち祓う銀色の弾丸がみっちりと込められているではありませんか。



妻の顔から身体から、たちまち血の気が引いていきます。



『ちょ、ちょっとなにを』



ドシュッと固い何かが勢いよく押し出される音が、ドア越しに絶望するなっちゃんの耳を舐め上げます。なっちゃんは無意識のうちに両の目尻から涙を滲ませていました。



銃口から立ち昇る硝煙は、銀の弾丸が拳銃から間違いなく放たれた証拠です。



『そうだろうそうだろう。間違いだらけだったよな、俺の人生ってさぁ』

『な……なに……これ……』



荒れた陸地に一輪の薔薇を咲かせるように、妻の胸部ど真ん中には見事な濃こき紅べにの染みが出来ていました。



呆気に取られる妻は内から燃えるような激痛に傷口を両手で押さえ、テーブルに突っ伏すように頭全体を横たえます。



夫は空いた左手でティーカップを取り、紅茶の残りを一滴残らず口内へ流し込み、勝利の美酒に酔いしれるように声高々と叫びます。



『それなら親父だって俺の育て方を間違えた! 俺と君をくっつけさせたこの世でさえも間違ってる!』

『そっち、は……だ、めえ……っ』



妻の声はとうに張りを失い、届かぬ願いのままにリビングの床や壁に溶けていきます。



夫の暴走は止まるところを知りません。椅子を後ろに張り倒す勢いで立ち上がると、先ほどから気にしていたドアの元へ一歩、また一歩と近づいていきます。



『最後の最後で親父どもに一矢報いて、奈落へ引きずり降ろしてやるんだ……』



寝室の入口に、本物の悪魔がやって来ました。金塊でも手にしたようにガッチリとドアノブに手を這わせ、握り込みます。



カチャ、という静かにラッチの外れる音が、寝室中に反響します。



なっちゃんの理性は、すでに吹っ切れておりました。身体の隅から隅までが、凍り付いたように動きません。占いの結果は言わずもがなでございます。





指一本動かせない妻の両目は、夫の背中を追いかけるように、ルビー色に輝き続けておりました。



『ははは。明日が楽しみ過ぎて、地獄で仏に会うような気分だ』



ドアを開けてすぐ、夫はひどく嬉しそうな顔をして、目の前で放心するなっちゃんを愛おしく見つめます。



目が合ってしまったなっちゃんは生気を吸い取られたような顔をして、手にしていたタロットが指の間から綺麗に滑り落ちていきました。



綿埃を押し除けるように床の上に落下した一枚の絵柄は〝審判〟の逆位置―――八方塞がりでしたとさ。



『お前もそう思うだろ―――なち?』



深夜の寒空にまた一つ、重く鈍い発射音が響き渡りました。



      ✡



はてさて、お気に召して頂けましたか?



誰も救われず、誰も報われることのないこの物語。



予想通りでつまらなかった? 結構なことです。はじめに申したでしょう、途中退室は自由であると。



大事なのは想像力です。最悪の状況下にも関わらず、なっちゃんは占いをしました。ひょっとするとなっちゃんが最後の最後で奇跡を起こすとか、瀕死の妻が最後の最後で夫に一矢報いるとか、一家崩壊といえど夫の思い通りに事が運んだとは限りません。



だからわたしは、結末を敢えてぼかしたのです。最後の最後でどんでん返しが起こると期待するのが人間の性です。もっとも、期待してもいい人としてほしくない人に分かれてしまいますがね。



ここまで言わせておいて、まだわたしの正体に気づいてないのですか。



だからあなたは大人になれないのですよ―――なっちゃん?





      ✡





「なっちゃん、落ち着いて!」

「っは、っはあっ、っはあ」



水面下から勢い良く顔を突き出すように、意識が急速にこちらへ戻って来た。



胸が苦しい。肺にどんどん鉄球を詰め込まれていくようで、傍で紫月が介抱してくれなければ呼吸のリズムすら取れず、瞬く間に窒息してしまいそうだ。



「女乃君に、はあっ、謝らなきゃ……」

「尾上さん?」



白猫こと女乃愛人は、意識が遷移する直前までワタシの太腿に乗っかっていたが、今は対面のシートの上に戻っている。取り乱すワタシを気に掛けているのか、彼は猫の身体をしなやかに屈曲させつつ、こちらに視線を向けっぱなしでいた。



真横で気だるそうにしている黒猫のオズこと尾上トオジは、事情を知り尽くしたかのように余裕の面構えを見せる。



「っは、だって女乃君っ、事故起こした電車の運転手、だったん、でしょっ? だから、あっ、やまらなきゃ、いけない、のっ」



魔のカーブ地点で脱輪しようとする列車を止めたワタシは、突如無人化した客室内で運転手たる「奥井」に刺し貫かれ、意識を失った。奥井はワタシの〝神様なる力〟で女乃という正体を現した。



そして、女乃は×××ではないことも明らかとなった。



「尾上さん、もういいんだ」



女乃は人間らしく頭部を左右に振り、ワタシの誠意を受け流す。



「よく、ないいっ」



額に浮かんだ汗が涙のように零れ落ちるのを感じつつ、ワタシも頭を振り乱して彼の返事を否定した。



紫月がワタシの胸と背中を何度もさすってくれたおかげか、列車のカタン、カタンという音を聞くたびに、呼吸の頻度も少しずつ減っていった。



「落ち着いてきた?」

「う、うん」



紫月が不安そうにワタシの顔を覗き込んでくる。すぐに頷いて答えると、表情はそのままに小さな両手をワタシの胴体から遠ざけていった。



吐き出す空気の量を多めに、呼吸を一度、二度、三度と繰り返していく。前屈みになっていた上体を背もたれにそっと預け、天井をぼんやり眺めながら仕上げの呼吸を繰り返す。



車窓からは、まだ川面が見えていた。



空は相変わらずの雨模様で、窓に張り付いた幾多の水の粒が近くの水滴と離合集散を繰り返し、列車と反対方向に這うように通り過ぎていった。



体調はほとんど元通りになったが、先の記憶が不意にフラッシュバックして、心の細胞一辺一片を罪悪感ばかりが蝕んでいった。



ワタシは女乃を曖昧な視線を向け、加害者本人であるかのように声を出した。



「女乃君はお父さんが殺したんだ。ワタシの所為なんだ……」

「尾上さん、自分を責めないでくれ」



彼はさして時間を掛けずに答えた。慰めというより、叱責のような返事だった。



「女乃君はワタシのこと、恨んでないの」

「恨むも何も、あの事故を起こしたのは僕なんだ」



彼の言葉を真に受け、一瞬だけ混乱して嗚呼そういうことか、と納得しかけたワタシ。だどすれば尚更タチが悪いではないか。



「つまり女乃君は……お父さん?」

「そう言っただろう?」



何故だか、彼は自信たっぷりに答える。煽られた気がして不快な気持ちになったワタシは、頑固な態度で聞き返した。



「何でそうなるの」

「僕は君の父親となる前の、それこそ君や久池井さんくらいの歳までの記憶から生まれた、限りなく父親に近い存在……この意味が分かるかい?」



さほど難しくもないことを聞かれたので、ワタシは率直に答えてみせた。



「まだ医者以外の道も選べた頃のお父さんってこと?」



女乃は迷いなく猫の首を縦に振る。



「そうさ。結局は医者の道を選んでしまったけどね」

「だけど、医学部受験は上手く行かなかったんだよね?」

「親父に色々と罵倒されながらね。親父は確かに凄腕の医者だったが、人として尊敬はできなかった」



彼は締めを弱々しく言い終えると、目線をワタシから背けた。



皮肉にもネガティブな出来事を記憶する力に人一倍優れたワタシは、直後の展開を予測できたにも関わらず、呆けた振りをして聞き返した。



「何で?」

「あいつは人目の付かない場所でヒトの遺体だけでなく、犬とか猫とか鳥も夜な夜な解剖しては楽しんでいたんだよ」



彼のたった一つの返答で、×××の嘘話がある意味本当なのだと確信した。もちろん驚きはしたが、なぜこのような話を最期までワタシに教えてくれなかったのだろう。



彼に聞いてみるのが確実だが、間もなくそれらしい答えが浮かんだ―――ワタシが代わりに医者になって欲しいと密かに期待していたのだ。



「それ、もしかして……」

「しかも解剖した脳や心臓をヒトの物と取り換えてどうしたら生体移植できるかとか、頭のおかしなことばかりしていたよ」



聞いたワタシやトオジは何てことはなかったが、紫月は血の気が引いたような顔をしていた。



先の介抱のお礼といっては何だが、今度はワタシが彼女の背中を撫でたり、行き場のない手を優しく握りしめてやった。そのお陰か、紫月はたちまち元気を取り戻してくれた。



「女乃君は……お父さんはいつそれに気づいたの」



再度彼の方を向きながら問うと、女乃もこちらを向いて答えた。



「気づいたも何も、目の前で見せられたんだ。お前も将来外科医になるなら、これくらい出来て当然だ、ってね」

「おじいちゃん、狂ってる」



紫月の手を掴んだまま、ワタシは下を向いて呟いた。



狂っているのは自分の方かもしれない。人間らしい欲も望みもなく、流されるままに終わってしまった人生に後悔はないというのか。



「なっちゃん……」



紫月が心配そうに顔色を伺ってくる。ワタシは大丈夫、根拠はないけど大丈夫だ。



「親父が膵臓がんを患って苦しみながら死んでいったのは、天罰だったんだ。僕はすっかりあいつに幻滅したよ」



女乃は猫の平たい鼻から溜め息を吐き、自嘲気味に続けた。



「元々僕は勉強が得意じゃなかったけど、機械や電気の仕組みに興味があった。だから、そっち方面に強い学校を卒業する頃にはもう、僕は親父と縁を切るように電機メーカーの社員として、思う存分活躍できた」

「なのにどうして、こうなっちゃったの?」



女乃は視線を逸らさず、しっかりワタシの方を見ながら答えた。



「僕、遊園地の観覧車で君に話したろ。人間関係に疲れちゃったから、事故を起こして死んだって」

「何で誰にも言わなかったの?」

「ある日突然来るんだ。ここ一番の踏ん張り時に、身体が付いて来なくなる時がね。誰かに相談しようって思う頃にはもう、遅かったんだ」



女乃は素直に答えながら、真っ白で毛並みの良い尻尾の先を無造作に揺らし続けている。



彼の言い分はよく分かる。しかし、ワタシは父の気持ちになりきることはできなかった。



「そこまで自分を追い込んで、何で周りに迷惑かけるかなぁ」

「人生の最後くらい、自分に正直でいたかったから……かな」



女乃は何故か微笑んだ。父親というよりも、友達の間柄で交わすような笑顔だった。



「バカじゃないの」



突き放すようにそう言って、思わず大きなため息を出してしまったワタシ。それでも女乃愛人がワタシの父であるということだけは、信じておきたかった。



紫月と繋いでいた手をそっと放し、自分の後頭部へと持って行ってポリポリと掻きながら再度彼の方へ問い掛ける。



「死んじゃうことに、迷いとかなかったの?」



薄皮一枚分の大きさだけ、マリンブルーの瞳が小さくなった。女乃は一呼吸し、落ち着き払ってから答えた。



「……少しはあった。列車を魔のカーブ開始地点まで加速させて、時速80㎞/h未満で急ブレーキを掛ければ脱輪を防げることは当然知っていた。でも急ブレーキを掛けたところで結局列車は脱輪し、暗闇へと転落してしまった」

「お父さんがわざと設計を変えたから?」

「実際は設計変更だけが原因かなんて分からない。雨の降り始めでレールと車輪の摩擦が効きづらかったことも考慮していたよ」



彼の返事を聞く最中、ワタシは後頭部に置いた手を降ろし、自然な格好に戻った。



ここにいる白猫は、×××のような澄まし顔の男とは別人なのだと改めて思う。ワタシの絶え間ない詰問に包み隠さず答えてくれることが、何よりの証拠だった。



「もうどっちでも良かったんだ。だからあの事故には感謝もしている」

「変なの」



ワタシは顔をプイと逸らし、視界から彼の存在を消した。機嫌を損ねたわけではない。さっきまで考えていたことが見事に誤っていたことに羞恥を覚えたからだ。



父の行動の根底にあるもの―――親心だ。祖父から続く負の系譜を断ち切りたいという、悪い意味で純粋な親心。せめて高校生活が終わる頃までは、幸せに暮らして欲しいという父の思いやりだ。



医者にさせたいのではない、端から医者にさせる気などなかった。手塩に掛けて育ててくれた母をも騙したその親心は、罪深い。だから母もおかしくなってしまった。



全くもっておせっかいだ、おとといきやがれこんちくしょう。



「それと、君自身にもね」



彼の声にふと視線を持っていくと、×××とは似て非なる澄まし顔をしていた。



「どういうこと?」



無意識に身体を起こしながら問うワタシに、巌の如くじっとしていたトオジが、おもむろに代弁した。



「アイトという何処ぞの親父は死に損ない、白猫に生まれ変われたって訳よ」

「な、何それぇ⁉」



トオジは寝そべった姿勢から年寄りみたいに身体を起こし、エジプトのスフィンクス像みたいな格好になってから、不機嫌そうに答えた。



「おめぇの持つタロットが奇跡を起こした。それだけよ」

「は?」

「まだ分かんねぇのか」

「分かるかっての!」



挑発的かつ婉曲的な彼の言い回しに、反抗的に腕組みをしながら吐き捨てたワタシ。



埒の明かない状況に、女乃が大層親切に助け舟を出してくれた。



「つまり、君が病院の屋上で命を落とした代わりに、僕もトオジも、そして紫月さんの命も繋ぎ止めてくれたんだ」

「ホント、なの?」

「そうじゃなきゃ、僕たちが命のない君を生かすことはできなかったからね」



女乃は迷わずそう言い切った。



傍らの紫月もしっかりと頷いて同意する。



「今更だけどごめん。こんなの、不公平だよね」

「ホント今更。ワタシが初めっから馬鹿みたいに信じてれば済んだ話じゃん」



嗚呼、今のワタシはひどく機嫌が悪い。こんな性分だからあったはずの余生も楽しめずに逝っちまったんだ。



勢いに任せ、ワタシは目の前の白猫に言いたいことをぶつけてやる。



「他にもあるでしょ、ハッキリさせて欲しい事っ」

「えっ」



女乃は、マリンブルーの瞳をパチパチさせながら驚いた。



「だって女乃君、学校の屋上でも遊園地でも×××に変身して、ワタシによく分からない人生観を語ってたじゃん」



数秒間だけ固まった女乃は、呆れたように息を吐き出してから答えた。



「あれは僕であって、僕じゃないよ」

「違うの?」

「流石に気付いてるだろ。僕があんな酷いことを覚えてるんだからさ」



彼の言う通り、少し落ち着いて考えれば解ることであった。またもや恥ずかしくなってきたワタシは視線の行き場を失い、その場で力なく項垂れる。



「滅茶苦茶すぎるよ、ワタシの人生」



本当にメチャクチャなのは父の精神だ。一見正常に事が運んでいるように見えて、支離滅裂な結末へと収束していく〝夢〟とは、父の内面そのものだ。



ワタシ、いやワタシ達は狂ってしまった父の〝夢〟に引きずり込まれたツキのない連中というわけだ。



根は自己顕示欲が強いくせに、祖父や兄、ワタシが慕う〝尾上トオジ〟の名を騙ることでしか自己を表現できないなど反吐が出る。



「お父さんはお母さんを殺して、家族に無関係な人まで殺して、ワタシを家から追い出した……」



ワタシは一人っ子だ。親族は遠い血縁ばかりの、実に孤独な存在だ。



母は父に殺され、父は今も意識の無いまま病院で眠り続けている。これがワタシの現実なのだ。



「ワタシの夢はジャーナリストなんかじゃない。医者なんてのも有り得ない。困った人の役に立ちたくて、占い師になりたかっただけなのに……身体ばっかし大きくなるだけでワタシに自由なんてなかった……」



そしてワタシはこの世にいない。ワタシが現世に戻らなければならぬ理由は、あれこれ考えなくても良い。



自由って思い込んでたものは全部〝夢〟―――ワタシの占いは〝夢〟―――結果が良くても悪くても所詮は〝夢〟―――思い通りにならないから〝夢〟―――あるいは現実の世界もとっくに〝夢〟の中なのだ。



「まったくどいつもこいつもふざけやがって……」



ひとしきり不安を吐露したところで、喉元に込み上がってくるものがまだ残っていたのを自覚する。怒りと悲しみがせめぎ合い、悲しみがギリギリのところで打ち勝って、生温い雫が頬伝いに垂れていった。



冷静になろうとするほど、頭の中は暑苦しくなっていく。ここいらが潮時だろう、とワタシは思索することを止めた。



父の所為にしたってしようがない。ならば今こそ自分と向き合うしかないと思ったのだ。



「……なーんて文句垂れたって、どうにもなんないよなぁ」

「なっちゃん大丈夫? やっぱり思い出さなかった方が……」



紫月がワタシを気に掛けてくれる。彼女は本当に優しい娘だ。ワタシも優しく微笑み返し、彼女を安心させた。



そのとき不意に車窓から黄色を帯びた暖かい光が差し込み、列車の外を見る。列車の窓に張り付いていた雨粒はいつの間にか姿を消し、雲の薄くなった空は青さを取り戻していた。



かなり遠くになった川面は、離れていても晴れ間の日差しに底を透き通らせている。ちょうど自分の今の心境にピッタリな気がして、カラッとした気分で声を出した。



「ワタシ分かっちゃった」



背筋すら伸ばしてそう言ったワタシに、紫月が反応する。



「へ? 何が?」

「ワタシの中の〈ワタシ〉は、思った以上に意地悪だってこと」

「どうかしちゃったの」

「やっとワタシは〈ワタシ〉に気づいたってことだよ」

「うぅん?」



ワタシの変わりように付いて行けないのか、彼女は困った顔をしていた。



対するワタシは人が変わったように、紫月に思ったことを伝えていく。



「天使の姿をしたしーちゃんも、今ワタシと話してるしーちゃんも、どっちもワタシにとってはかけがえのない存在……って、前に言ったよね」

「確かに言ってた」

「でもワタシの中の〈ワタシ〉はそうじゃない」

「なっちゃんにしか、〈ワタシ〉を感じ取れないんだよね?」



ワタシは自信を持って、傍らの少女に頷いてやる。



よく見てはいなかったが、対面のシートに佇む二匹の猫たちも愉快そうな顔で、ワタシの話を聞いていた。



「〈ワタシ〉ってのは、簡単に切り離せないから余計に分かりづらいの。天使だったしーちゃんと違ってね」

「姿形が見えないし、声も聞こえないってことよね」

「そう。ワタシの中の〈ワタシ〉は現実のしーちゃん達が見せる〝夢〟に浮かんでいるけれど、ワタシが望んだことじゃない……確実に言えるのはそれだけ」



紫月は考える素振りを見せるが、演技にしてはやけに不自然だ。それを見て、ワタシは面白がるように説明を続けていった。



「うーん、まだ分かんない」

「〝夢〟って無意識に見るものでしょ。見たい夢が見れるって人もいるかもしれないけど、100%コントロールできる保証はない。でも、しーちゃん達はそれができる……できるようになった、って言った方が正しいのかな」

「えっと、つまりアタシ達の〝夢〟は明晰夢で、アタシが今でもコントロールしてるってこと?」

「そういうこと。つまり、今のワタシはしーちゃん達の思い描いた〈ワタシ〉なの」



ワタシが断言すると、紫月は驚きに目を丸くし、両手を口に当てがった。



「えっ、なっちゃんもしかして……」

「しーちゃんの思う〈ワタシ〉は女の子だけど、現実の〈ワタシ〉は男の子だった」



紫月は両手を降ろしてシートの上に付けるとすぐ身体を捩り、爛漫な子供のように凄い食いつきぶりで聞いてくる。



「すごい、どこで気づいたの」

「ついさっき。病院の屋上でしーちゃんが言ってたこと、ずっと引っ掛かってたんだ」

「えっと……なっちゃんが女の子で良かったってこと?」

「うん」



よほど嬉しかったのか、紫月は捩った身体を疾風の如く元に戻し、恥じ入るように自らの顔を両手で覆った。



落ち着きのない娘だと戸惑いつつ、かつての愛おしさが脳内の記憶として鮮明になっていく。



彼女のほとぼりが冷めるまで車窓に目を遣っていると、川面はとうとう見えなくなっていた。列車はふたたび鬱蒼とした山あいに入っていき、視覚的に随分と狭苦しくなっていった。



でも、これでよい。余計なものが視界にちらつかないほうが、今のワタシには都合がいい。



紫月がこちらを横目に見ている。だからワタシも彼女を横目に見ながら、自分が話したいことを続けた。



「ワタシの中の〈ワタシ〉に気づくまで、随分時間掛かっちゃったな」

「答えを出す事自体、諦めかけてたから?」

「諦めずに答えに辿り着いたのは、今のワタシが一人じゃないからだよ」



ワタシは紫月だけでなく、シートの向こうにも目を向けながら、最後に自分の手の平を見つめて噛み締めるように答えた。



そこに、待ってましたとでも言いたげな白猫の女乃が身体を揺らしながら、そこはかとなく生意気な態度で助言してきた。



「自分が分からなくなると、不安で寂しくなるのは当然さ」

「そこで俺が娘っ子……いや坊主に色々と授業してやったって訳よ」



黒猫のトオジも後に続く。



「アンタ等ワタシを散々弄んで、そんなこと言える立場か?」



二匹もとい二人は、実に憎らしい顔をしている。今なら笑って許せるのが、どうにも口惜しくてたまらなかった。



車窓の風景とは反対に明るさを取り戻した列車客室の一部で、ワタシはどうしても閉じ込められた記憶の中身をほじくり返さねばならなかった。



「あとこれも、ハッキリ言っておきたい」

「何だ、そりゃあ」



トオジがわざとらしく囃し立ててきたので、間を置かずに答えてやる。



「おじいちゃんの偽物はお父さん、あの〝悪魔〟はお母さんだってこと」

「分かってくれたみたいだね」



女乃も満足げな顔をすると、前足で立ち続けていた姿勢を一挙に崩し、傍らの黒猫のように腹を見せながら身体をシート上に横たえた。



「二人とも本当はあんなじゃない。でもワタシが家を出る直前に焼き付いたイメージがそのままタロットに取り憑いて、あんな悪者になっちゃったの」



猫の二人が黙って頷く中、紫月だけは納得が行かない様子でワタシに尋ねてくる。



「あの後なっちゃんは、お父さんに見つかって撃たれたんじゃないの」

「お父さんはワタシを撃ってないよ」

「どういうこと?」



大きな瞳を瞬かせ、紫月は身体を寄せながら迫ってくる。少しだけ身体に緊張が走ったが、慌てることなく事実を淡々と述べていった。



「お父さんが撃った弾は、ワタシの後ろに置いてあった金庫に当たった。お父さんてば、ワタシの知らない間に金庫の中にお金を用意していて、『金ならやるから出てってくれ』って言ったんだよ。信じられる? でも結局逆らえなかったし、お父さんから渡されたメモの通りに電車を乗り継いで、東京の下町までたどり着いて……」



話の途中、ワタシがトオジを一瞥したのを紫月は見逃さなかった。



「トオジさんに出会ったんだね?」

「うん」



ワタシは小さく頷いて、気持ちも穏やかなまま続けた。



「下町に着いたはいいけど気持ちの整理が間に合わなくて、公園のトイレに入ったら、涙がいっぱい出て来ちゃった。たぶん一生分泣いたと思う。目一杯泣いた後は、商店街の隅っこでタロット占い師のフリをして、気を紛らわせてた」

「そこにお人好しのトオジ様が通りがかったっちゅうわけよ」



折角の良いところをトオジが茶々を入れてくる。喋らずにはいられなかったのだろうか。



「何自分で言ってるの、トオジさん」



紫月がムスッとした顔でトオジを非難する。すると彼は同じくブスッとした顔をした。



「悪ぃかよ」

「うぅん。良い意味でトオジさんらしくないから、可笑しいの」

「茶化すんじゃねぇやい」



二人のやり取りはいつだってこんな感じだったな、とワタシは感慨に耽りつつ、両目を瞑りながら欠けていた記憶を回想する。



「ワタシ、家を飛び出してからオズ君と……トオジお兄ちゃんと会うまでの時間は今でもハッキリ覚えてる」

「補導してやっても良かったんだぜ」

「ワタシその時、全力で拒否したでしょ」

「そうだったな。んで仕舞いにゃおめぇの方から折れて、俺が匿ってやることになった」



トオジは不器用だけど腕の立つ医者で、もしかすると祖父のあるべき姿を生き写した存在だったかもしれない。意識の戻らない今ではどうしようもないことだが、出会って間もなく彼を慕うようになったのは自然なことだった。



「先輩には本当に感謝してます」

「へっ。電話越しじゃなくて、面見せながら言って欲しかったぜ」



聞き逃すことの出来ない彼らのやりとりに、ワタシは思わず首を突っ込んだ。



「ちょっと、二人は知り合いだったの?」

「言ってなかったか。俺達は同じ高校の先輩後輩の関係よ」

「なら、わざわざ学生に化ける必要はあったの?」



耳の痛い質問だったのか、二人は沈黙のまま首を傾げて面倒くさそうな顔をし、しばらく時間を稼いでから仕方なさそうに口を開いた。



「そこは……なぁ」

「少しは昔を思い出したかったのさ」



予想よりもくだらない答えが返ってきて、ワタシは「はぁ」と息を漏らす事しかできなかった。一方の紫月は、側で楽しそうにコロコロ笑っていた。



車窓の景色は相変わらず暗く閉塞感もある。しかし、不安な気持ちはそれほど芽生えて来なかった。



「何より、尾上さんがトオジ先輩の元で少しずつ、明るくなってくれて良かった」



女乃はわざとらしくトオジをそう呼びながら、マリンブルーの瞳を細め、実に嬉しそうな顔をした。喜ばしい事ではあるのだが、心のどこかでむず痒さがあった。



ワタシはそれを顔に出すこともなく、敬愛する存在へと身体ごと向き直し、軽く頭を下げた。



「うん。トオジお兄ちゃんには感謝してる。お父さんの子供だってバレないようにトオジお兄ちゃんと同じ〝尾上〟って苗字を名乗って生活してたからね」



トオジは鼻をフシュッと鳴らすだけの返事で済ませた。



「なっちゃん、最後まで本名教えてくれなかったよね」

「ごめん。ワタシもあの暮らしがいつまで続くか分からなかったから」



紫月がこちらを見ずに聞いてきたが、ワタシは彼女の顔をしっかり覗き込んでから返事をした。



少し間があってから紫月がこちらを見返し、控え目な態度で尋ねてくる。



「今なら本名、教えてくれる?」

「……ごめん、忘れちゃってる」



彼女は矢継ぎ早に黒猫の居る方へ顔を向け、期待の眼差しで質問を繰り返す。



「トオジさんは知ってるんでしょ?」

「いや、俺も忘れちまってる」



トオジは柄にもなく申し訳なさそうな顔で応えた。ワタシも一瞬彼に期待をしてしまったが、今更責める気は起きなかった。



「そっかあ」



紫月は今までで一番残念そうに肩を落とし、大きな溜め息を吐いた。



だがそれも刹那、彼女はスイッチでも入ったように気持ちを切り替え、綺麗な顔でワタシを見ながら言った。



「なっちゃんはなっちゃんのままでも、アタシは好きだよ」

「しーちゃんありがとう」



改めて伝えられると照れ臭い言葉だ。紫月の口から出た言葉なら尚更である。



やはり彼女はワタシと違うなと思った。彼女こそが太陽みたいな存在ではないだろうか。



「アタシもね、なっちゃんからタロット占いを教えてもらったこと、感謝してるの」

「ホントに?」

「タロットのお陰でアタシ達の距離がぎゅっと縮まったから」

「嬉しいな」



彼女の率直な思いを受け止め、自然とワタシも微笑んでしまう。けれどもワタシの捻くれた性格は矯正できるはずもなく、すぐに嫌な記憶を引っ張り出してしまう。



「嬉しいけど……」

「けど?」

「タロットのせいでワタシ達、取り返しのつかないことにな……」



言い終える直前、ワタシの口元を紫月の小さな手が大きく遮った。



虚を突かれて即座に彼女を見ると、細い眉が幾分吊り上がっていた。



「なっちゃん、本気でそう思ってる?」

「え?」

「タロットの所為なんかじゃないよ、あの事故は」

「じゃあ何がいけなかったの」

「アタシが我儘言ったから、それだけ」



言い切った彼女の顔には、まだ怒りの感情が張り付いている。しかしながら、ワタシを責めている訳ではないことは明白だった。



「しーちゃん……」

「だって本当でしょ? たまたま風が吹いてきて、ああなっちゃったの」



紫月の険しい顔と声は、列車の中でみるみるうちに拡散していく。



他人の所為にしないところはワタシと同じなのに、受け止め方次第でこんなに印象が違って見えるのだな、と不謹慎ながら思ってしまった。



「そっか、そうだよね」

「〝夢〟でも現実でもアタシとなっちゃんが出会えたのは、偶然だったかもしれない。その偶然を必然に変えてくれたのは、なっちゃんのタロットに違いないから」

「……うん」



蚊の鳴くような声で返事をするワタシ。



あの時、風に舞った幾枚ものタロットと共に、ワタシは命を失う悲しみに苛まれていたとばかり思っていた。しかし今思い返せば、流す涙も枯れていて、地に落ちていくもう一人の少女を守りたい熱意に燃えていたのだ。



今でこそ、ワタシはタロットに出逢えたことに感謝しなければならなかった。



「ワタシ、何もなくなっちゃうんだね。現世でもこの〝夢〟の中でも……」

「なっちゃん……」

「違う、もう何もないんだ。しーちゃんにも、トオジお兄ちゃんにも、女乃君にも会って色々おしゃべりできたことも全部幻なんだ」



ところが感謝すべき対象は今、ワタシの中に眠っている。祖母から譲り受けたものは、奇跡を起こしたきり、何もワタシに語りかけては来ない。



〈ワタシ〉のようにただ感じ取れば良いのなら―――答えは割と明快だ。



ワタシの目を覚ますようにわざとらしく「くふっ、くふっ」と笑ってみせたのは、紛れもなくトオジだった。



「だから何だってんだ」

「お兄ちゃん?」



ハッとしたワタシは、咄嗟に彼の方を向いて返事をする。



トオジはいつもの苦々しい顔で、説教をするような口ぶりで応えた。



「おめぇは俺と旅してきた中で、てめぇとは何かを考えて来たろ」

「うん」

「そん中でてめぇが出した答えは、俺達が責任を持って預かる」



彼の隣にいる女乃も、すかさず合いの手を入れてくる。



「ああ。例え誰かが既に思いついた考えだって、そこに至るまでの過程は君だけのものだ。僕達は動かぬ生き証人として、君という存在をこの身に宿し続ける」



女乃でさえも分かりづらい言葉を使うものだ、とその時は呆れていた。



ここにいる四人は、揃いも揃ってないものねだりをしてきた。確かに満たされない毎日はもどかしく、情緒不安定にもなりがちだ。だからこそ、時には不満や不安を分かち合える相手が欲しかったのかもしれない。



せっかく手にしたこの〝夢〟という居場所を、むざむざ手放したくはなかった。



「アタシも忘れないよ、なっちゃんに会えたこと」

「しーちゃん……」

「だからなっちゃんを神様にしたの。この〝夢〟を終わりにできるただ一人の神様にね」

「ありがとう、しーちゃん」



柔らかく微笑む紫月。余計な事を喋る必要はなかった。



お互いしばらく黙っていると、今まで耳に入って来なかった彼女の心臓の鼓動が、ドクンドクンと不思議なくらい良く聞こえてくる。



思わず自分の胸に左手を強く押し付けてみると、彼女のそれと寸分の狂いもなく脈打っていた。



「ねぇなっちゃん。最後に一つ、アタシのわがまま聞いてくれる?」



こんなタイミングで話かけてこられては拒否のしようがない。胸の内を悟られるような緊張感を前に、ワタシはただ短く返した。



「何?」

「キスして、ほしいの」



彼女の大きな瞳からほとばしる正直な思いが、眉間に深々と突き刺さってくる。冷静でいられるはずもなかった。



「今の〈ワタシ〉、女の子だよ?」

「いいの。男でも女でも、アタシが本当に好きなのは、なっちゃんだから!」

「トオジさんが一番じゃなかったの?」



紫月がトオジを好きでいることは、ほぼ間違いなく片思いなのだろう。肝心の相手は性悪なために今まで何も言って来なかったので、歯痒いばかりであった。



「もちろんトオジさんも好きだよ。でもなっちゃんと一緒にいると楽しくてドキドキしてた時のこと、ずっと忘れられないんだもん」



思いの丈を次々とぶつけてくる彼女の目尻には、我慢の限界を超えた分の涙が溜まっていた。ワタシは彼女の顔へ吸い込まれるように両手を持っていき、涙が頬を伝い落ちる前に自らの指でしっかり拭ってやった。



指先に残る透明な雫は彼女の体温と同じか、それよりも熱いように感じた。ただ拭き取ってしまうのも勿体なく思い、舐め取ってみるとチョコレートのように甘い味がした。



彼女から少しだけ離れ、しかし両手は肩に触れたまま、揺れる彼女の視線を合わせて確かめるように言った。



「つまりワタシの一部は、しーちゃんと今も一緒なんだよね」

「うん」



紫月は自分の胸にそっと手を当てがい、嬉しそうに頷いた。



ワタシは紫月だけでなく、トオジや父にも臓器を提供していた。トオジには肝臓を、父には膵臓をそれぞれ託した。



なぜそこまで分かるのかと聞かれると、はっきりした答えは言えない。ただ、内に秘めるタロットが欠けた部分に代わってワタシを動かしてくれている事で、存在しないはずの部分が彼女らの中で生きているとひしひし感じるのだ。



ワタシは生きていて、死んでいる。分かってしまえば言葉の綾に過ぎなかった。



色々と記憶を失くしていたとはいえ、鈍感にも程ってモノがあるだろう。



「友達同士は嫌だったんだね」

「……うん」



熱っぽい彼女を目の前にし、友情という器に収まりきらない慕情が溢れんばかりの怒涛となって、脆弱な思考をあっさり乱していく。



過程はどうあれ、ワタシが彼女に想い焦がれていたことは、今更否定できないのだ。



閉じていく視界の外で、シャシャッというような音が聞こえた。間違いなく、猫たちがその場から立ち去る足音だった。



「そっか、分かったよ」

「なっちゃん……」

「目を瞑って、しーちゃん。何も言わないで」

「……」



紫月は言葉通りにワタシを受け入れる恰好を取る。



形も大きさも違う二つの唇が、綿毛が地に落ちるほどのゆったりした速さでぶつかる。遅れて鼻先同士が触れ合い、驚いてすぐに離れ、またすぐに互いの鼻の横でくっつき合う。



ほとんど反射的にワタシは紫月の唇の端から端を、自身の唇でなぞっていった。彼女がくすぐったそうに口元を引っ込めようとするが、華奢な身体を抱き寄せて逃がさない。



やがて味を占めた紫月の方も、小さく柔らかな自らの唇を積極的に押し付けてきたので、そっと受け入れた直後にワタシの唇でキュッと包み込む。



「んっ」

「はぁっ」



紫月が初々しく舌先を出してきて、上下の唇で阻まれたワタシの中へ入り込もうとする。意地悪したい気持ちを抑え、彼女の要求を受け入れる。



「はっ、あ」

「ん、んぅ」



紫月の小さな舌は躊躇いもなくワタシの中をまさぐっていく。敏感な硬口蓋、換言すれば上の歯の内側にある弱い部分を彼女の舌が舐め挙げると、慣れない快感の波に脳がざわついた。



直後に下の歯の周りから唾液が沁み出してきて彼女の唾液と交ざり合い、時折クチュッという水音を漏らしながら、ワタシ達は言葉なき対話を続けていく。



瞳を閉じると一層伝わってくる、彼女の吐息と唇の柔らかさ。性別の垣根を超え、ただひたすら高ぶる心地よさにこの身を委ねる。



何が〝夢〟だ、何が死だ。今のワタシは虚空すら永遠に感ずる、燃え滾るほどの生を実感しているのだ。



彼女を押し倒さんばかりの快楽は、下手をすれば嘔吐しそうな程強烈で、歯止めの効きづらいものだ。ワタシは塵ほどの理性を振り絞り、紫月のしたいように舌や手足を沿わせていった。これが俗に言う『一つになる』ということなのだろうか。



病院の〝夢〟にいた時も、土壇場でもう一人の自分に口づけを交わし、ワタシは文字通り一つになった。あの時のワタシは〝温度〟を取り戻した興奮と共に、意識が別の場所へと飛んでいく感覚に圧倒されていた。



今は違う。脱離しそうな意識が彼女の口から身体中へと吸い込まれ、彼女がワタシを強く求める瞬間一気に押し寄せてきて、抜け殻になりそうなワタシの身体へ流れ込んで息を吹き返すのだ。



結局、彼女が満足し終えるその時まで、ワタシは紫月の相手を務め上げた。粘っこい透明な糸がお互いの口から切れた後も、紫月はもの惜しそうにワタシを見ていた。



「思い出してくれてありがとね、なっちゃん」

「しーちゃんが一番の嘘つきだね」

「もう許してよぉ」

「許してあげる」



生温く蕩けるような会話を交わし終えた途端、すぐ近くでコンッ、コンッと叩扉のような音がして、二人してビクついてしまう。いつまでもお花畑の中で遊んでばかりでは、いられなかった。



「なぁおい、もう仕舞いでいいだろ」

「えあっ、ご、ゴメン」



授業が始まる直前の生徒たちのように、ワタシも紫月も慌てふためきながら口元を制服の袖で乱暴に拭い、ただちに居住まいを正した。



シートの向こうからジャンプして背もたれの天辺に着地した二匹は、元居た場所へ颯爽と飛び降りていく。



気まずい雰囲気にしたつもりはないのだが、無言の空間にはひっそりと張り詰めた空気が漂っていた。



沈黙を破ったのはトオジだった。黒く太い尻尾でシートを幾度もこすりながらえらく真面目な顔をして、いつもの掠れ声で聞いてくる。



「おめぇはどうしたいんだ、なち」

「え?」



前置きもなく聞かれたので、彼に当然の如く聞き返す。それなのにトオジはじれったいと感じているのか、顔をしかめて先の問いの補足をした。



「おめぇは神様なんだからよ、好きなようにやっちまったら良い」

「なにその言い方」



本当にこの男は空気が読めない。玉に瑕どころかキズだらけの彼に向かい、ワタシは大いに反抗した。



トオジは表情を変えず、直前と同様の声色で厭味ったらしく言った。



「俺はぶきっちょだからな」



こちらも小馬鹿にするように鼻を鳴らし、堂々と文句を垂れてやった。



「ワタシを追っかけるように勝手に死のうとしたくせに」

「なっちゃんもうやめて」



即刻紫月の制止が入り、ワタシは驚き委縮していった。



「う、ごめん」



向かいのトオジも、どこか反省した様子で車窓を眺めていた。



列車の外は誰そ彼時を過ぎたのか藍色の空に変わり、ほとんど真っ暗だった。〝夢〟の中で数々の暗闇を経験してきたワタシだが、何故だか今の空色は好きになれなかった。



トオジは車窓からこちらに視線を戻すと、フラットな表情に改まってから口を開いた。



「俺が言うのも何だけどよ」

「何?」

「人様の心ってぇのは、ちぃとした綻びを突かれた途端、ガラガラ音を立てて崩れちまうんだ」



(出た、お得意のアレだ)



久方ぶりにご高説を垂れる彼に、ワタシは表情を引き締めてから応えた。



「トオジお兄ちゃんみたいに、立派なお医者さんでも?」



トオジは頷くかわりに尻尾を振って応える。



「ああ。おめぇが病院の屋上で咄嗟に掴んだタロットみてぇにな」

「覚えてるの?」



ワタシは素直に驚き、トオジに聞き返す。



彼は振っていた尻尾の動きを緩め、シートとほぼ垂直になるように限界まで伸ばしていってから止めた。



「出来れば誰しも引きたくねぇモンだ」



黒い尻尾が示すシルエットを判別するのに、ワタシは多少なりとも時間を要してしまう。



「バベルの〝塔〟……でしょ」

「そうだ」



即答してやると、彼もすぐさま返答した。



トオジは猫になってもとことん捻くれている。あのような性格でよく医者が務まったものだ、と帰って来た記憶と共に関心してしまう。



「だったら尚更、タロットの所為にしたくないよ」



脳内で毒づいてみせるワタシも、彼に似通った部分はある。自己嫌悪にふと陥ったワタシは、彼の真似をするように視線を車窓へと逃がしていく。見えてくるのは傍らに座る紫月の人形みたいな横顔と、ワタシの冴えない横顔ばかり。



己の面構えばかりみても仕方がないと思い、十秒も経たないうちに自分の膝元を見るように視線を戻していった。



言葉が出て来ないワタシの代わりに、紫月がトオジを見ながら声を掛けた。



「あの事故でまだ意識があったら、アタシはトオジさんを、助けてあげられたかもしれないのに」

「しーちゃん、よしてくれ」

「良くないよ!」



膝に両手を突き、トオジの言葉に猛反対する紫月。



誇り高き野良猫としての威厳が失われていくように、彼の黒い獣毛一本一本がしおれていき、みるみるうちに湿っぽくなっていった。



「ホントに良いんだ。俺は人様の都合も考えねぇ死に方を選んだ癖に、死にきれなかった」



力なく張り詰めた声で、トオジが紫月を制す。



彼女はもちろん、女乃もワタシも掛ける言葉が見つからなかった。



「だからよ、おめぇには……なち……」



規則的なジョイント音ばかり響く客室内に、突如、誰かのすすり泣く声が聞こえる。



「え?」



不意に名前を呼ばれたワタシは、すぐに声のする方へと首を回す。まさかとは思ったが、泣いていたのはトオジであった。



「最後くれぇ、おめぇの夢に付き合ってやりてぇんだよぉ」



猫の泣き顔を見るのはもちろん初めてだが、トオジが人間だった頃の泣き顔を見たことがないワタシには尚更衝撃的だった。



「お兄ちゃん……」



ワタシは彼の名を呟いた後、すぐに返事をしなかった。女乃も紫月もきっと共感してくれるだろう。こういうときは、相手が言いたいことを気が済むまで言わせてあげることが肝要なのだ。



「俺はおめぇに何もしてやれなかった。慕ってくれた後輩の罪を背負い切れねぇで、俺はっ、なち……おめぇを遠ざけることしかできなかった!」



彼の両眼の下から鼻の脇、口元へとあふれ出た涙が二条の通り道を作っていく。普通の猫でもそうそうない程の落涙により、顔の真下には小さな水たまりが出来ていた。



「スマン、スマン……」



トオジの涙は演技ではない。だからこそワタシを不快な気分にさせた。



我慢の限界に達したワタシは、大仰に腕を組み、彼の感情に逆らった。



「今更謝らないでよ」

「あんっ?」



けんもほろろにそう言ってやると、トオジは泣きっぱなしの顔を上げてこちらを見た。自慢の強面もすっかり台無しである。



「お父さんの尻拭いだとか、自殺未遂しちまったとか、何都合の良い事言ってんの」

「なにぃ?」



涙に濡れるトオジは、不機嫌そうに目つきを鋭くした。だが、もはやワタシを止めることは出来やしない。ワタシは制服のポケットに片手を突っ込みながら、いつぞやの反抗期を彷彿とさせる嫌悪の表情を黒猫に向けながら言った。



「大体、ワタシが〝夢〟を見始めてから、×××に騙されっぱなしじゃん」

「……」



トオジは黙りこくってしまう。ワタシは表情も固いまま、突っ込んだ片手を制服のポケット内部でカサコソ音を立てつつ、四つ折りにした一枚の紙を取り出し、皆の目の前でヒラヒラとさせた。



「手紙にまで×××を出し抜いたとか書かせておいてさ、話が違うでしょ」

「……」



尚もトオジは黙り込む。この手紙にしたためられた内容は、素直になれない彼が〝兄〟としてワタシを大事に思っていることを述べた、稚拙極まりないものだったのだ。



いよいよ彼が可哀想になってきたところで、深い溜め息のあとにくふっ、と笑ってみせた。女乃も紫月も、予想以上に驚いた顔を見せてくれた。



「無理してお父さんと仲良くならなくていいからさ」

「なち、おめぇ……」

「ワタシを養子にしたかったって、素直に言えばいいんだよ」



やっとのことで言いたいことが言えた。ワタシも確かに頑固者かもしれない。



オズは涙でむせ返りながら、いつものくふっ、くふっという不器用な笑いを何度も、何度も繰り返した。



どこに共感したかは知らないが、紫月もしばらくさめざめと泣き続けていた。女乃は、肩の荷が下りたようにとても穏やかな顔をしていた。



ひとしきり泣き腫らしたトオジは、黒い前足で涙をきれいに拭っていった。顔を洗うような非常に猫らしい仕草だったので、感動すら覚えてしまった。



「すまねぇ。らしくねぇツラ見せちまったな」



一皮剥けたような顔をして、トオジが皆に向かって詫びの言葉を入れる。ワタシ達は同じように首を軽く横に振り、慰めの言葉の代わりとした。



次に沈黙を破ったのは、女乃だった。



「尾上さん、僕もトオジの言うことに賛成だ」

「女乃君?」



彼はワタシにそう言いながら、四本の足で立ち上がった。



「今僕たちが乗ってるこの列車に終着駅は存在しない。君の意志でレールから外れることだってできる」



ワタシは天邪鬼よろしく別の選択肢が欲しくなり、女乃にそっと尋ねてみた。



「このままレールの上を走っていったら、どうなるの?」



彼は嫌な顔ひとつせず、数多の生物を従えながら聳え立つ大樹の如く答えた。



「君も僕たちもこの〝夢〟でさえも消失して、文字通りに何も無くなる」

「無くなっちゃうんだ……」



そう呟いて、ワタシの心は嬉しさと虚しさが喧嘩することなく混ざり合っていった。



紫月はワタシと同じような顔をしながら、黒っぽい車窓の外に敷かれたレールを見るように口を僅かに開いて言った。



「だからみんなで、〝夢〟を守るために渡り歩いてきたの」



トオジは彼女に心から賛同しつつ、変わり映えのしない車窓の外を眺めた後で言った。



「言っちまえば現実逃避だな」



女乃はトオジに心から賛同しつつ、真上を向いて天井を仰ぎ見ながら言った。



「僕らはもう、現実と向き合う必要もないんだけどね」

「みんな……」



肉体を分かち合う仲だからか、三人は何やかんやでワタシを説得させる気でいるようだ。



「ワタシはこの〝夢〟がずっと続いて欲しい……かな」



仮にワタシが現世へ還ったとして、実の父に臓器を提供した事実から、あの鉄道事故の親族として痛烈な世間の目にさらされることは火を見るより明らかだ。あの頃に戻りたいだなんて、この期に及んで口にする必要なんてないのだ。



トオジは後足で首の辺りを無造作に掻き毟った後、調子の良さそうな顔をしながら言った。



「残念だが、今更そんな生温い願望は通らねぇぜ」



彼がひどく矛盾したことを言うので、ワタシはすぐに反論してやった。



「さっきワタシの夢に付き合ってくれるって言ったじゃん」

「勘違いすんな。作りモンじゃねぇナマの夢に付き合ってやるんだ」



トオジはつっけんどんな態度で、ワタシを凝視しながら言った。



女乃は「まぁまぁ」とトオジを窘めながら、一方のワタシに向かって一つの提案を持ちかけて来た。



「君がこの〝夢〟で経験してきたことを、思い返してみてはどうだい」

「いっぱい有り過ぎて、上手くまとめられる自信がないんだけど」



正直に言ってやると、トオジは自らの太く黒い尻尾の先を心臓の辺りに持っていきながら、諦めの悪い顔で言った。



「てめぇの中のワタシは何て言ってる?」



無茶なことばかり言って来るトオジに、ワタシは大きく溜め息を吐いてやる。



「そんなこと言われたって……」

「おめぇの叶えてぇ夢は何なのか、教えろっつうんだよ」



トオジは早くも痺れを切らし、女乃のように単刀直入に訊き直してくる。



自分の夢をしっかりと考えたい気持ちに嘘は吐けず、ワタシはトオジの真似をするように、存在しない自らの心臓辺りに手を持っていき、俯いてしばらく動かないままでいた。



「叶えたい夢、か」

「時間はもう、待ってやくれねぇぜ」



列車の奏でる規則的音色の数々が、先よりもずいぶん遠くで聞こえていたことに気づくワタシ。



車窓は真っ暗でよく判断できないが、列車はすでに狭隘な山間部を抜け、魔のカーブに地点に間もなく突入するところだろう。



「なっちゃん、お願い」



紫月が小さくか細い身体を力強く寄せてきて、ワタシの太腿にそっと手を置いた。幾秒もせずにかすかな温もりが伝わってきて、落ち着きながらも気を緩めることは出来なかった。



当初彼女は、ワタシとずっと一緒にいたいと切実な想いに駆られていた。それも、自ら口づけを交わしてほしいと申し出る程熱い想いだ。



しかしながら最後は潔くワタシを見送ってくれるあたり、ある意味大人になれたであろう。



「最後くれぇはナマのお前を見せてくれよ、なっちゃん」



強面に似つかわしくない純朴な眼差しで、ワタシに細やかな圧力をかけるトオジ。最初は脅迫なのかと思ったが、猫らしい気まぐれな好奇心によるものだと察した。



女乃はワタシの答えを待っているのではなく、もう知っているような顔をしていた。



「ワタシは……〈ワタシ〉は……」



ワタシが今出来ること、否、ワタシが今したいことは、在りもしない自らの命を解き放つこと。死の事実を泰然として受け止め、忌々しくも忘れ難いこの〝夢〟に別れを告げること。



時間も場所も滅茶苦茶で、見た後には不機嫌な目覚めをもたらす〝夢〟―――ワタシが今まで幾度も考えさせられてきた〈ワタシ〉の行き着く先を示す道が、ここに来てようやく一本の道へと纏まっていくのを実感する。



名前なんて飾りだ。身に付ける物だって飾りだ。頭で考えてることだって、この声だって、誰かに伝わった時点で自分の身体を離れ、ナマのワタシでなくなっていく。自らを形作る肉体だってそうである。トオジをまだオズと呼んでいた時、



誰かと区別がつけば、〈ワタシ〉の在り方は周りが決めてくれる。



実に悔しいが、全ては×××―――親父の言う通りだった。



それを認めた上でなお、ワタシは自分の思うワタシを欲していた。



ならばワタシは、ワタシとしての尊厳を保ったまま、誰かに区別される必要のない世界へと旅立とうではないか。



遥か昔に抱いた唾棄すべき妄想を今、カタチにする時が来たのだ。



「……」



ワタシは、列車内で飛び交う音の数々に消え入りそうな、誰の耳にも止まらないくらいの小さな声で自らの夢を口にした。



予想通り、紫月やトオジはこちらに耳を近づけて各々が尋ねてくる。



「よく聞こえなかったな」

「何て言ったの、なっちゃん」



ただ一人、女乃だけは涼しい顔をして、透き通った声で主張する。



「僕は聞こえたよ、はっきりとね」

「え、本当なのアイト君」

「もったいぶんねぇで教えてくれよ」



女乃がワタシに目配せをする。返事が遅くなるほど恥ずかしさも増してきそうだったので、四、五秒逡巡したのち、意を決して首を縦に一度だけ動かした。



「それじゃあ二人とも、耳を貸して」



女乃がオズと紫月に呼びかける。



紫月は床に膝立ちになり、彼のいるシートに寄り掛かるような体勢を取った。トオジは紫月の頭部すぐ後ろで後足を折りたたみ、聞き漏らすのことのないよう黒い両耳をそば立てた。



二人の耳元へ一歩近づいた女乃は、人間同士のひそひそ話と全く同様の恰好で、それこそ前足の先を器用に丸めて声が外部に漏れないようにしてから、〈声〉ではなく声を使って端的に答えた。



先に女乃から一歩遠ざかったトオジは持ち場に戻ると、満更でもない顔でワタシを見上げ、くふっ、と吹き出した。



「おめぇもスキモンになったじゃねぇか」



彼がそう言う最中、紫月は目を皿にして口元を両手で覆いつつ、弾かれるようにワタシの方を振り向いて答えた。



「アタシもびっくりした」



彼女の目まぐるしい一連の動作に、見ているこちらがたまげてしまいそうだった。



トオジに倣うように突いていた両膝を起こして立ち上がった紫月は、元居たシートの前まで移動し、スカートの裾を押さえることのないまま、ワタシの隣へストンと着席する。



〈ワタシ〉から自由になるということは、文字通りこの世で独りとなるということ。



本当の意味で〈ワタシ〉とのお別れの時が迫っている。これまで〈ワタシ〉という枷により色々と不自由していたワタシは、自らの願望によって肉体も精神も自由の身となる。無論、怖くないわけがなかった。



正気だけど、正気じゃない。



「変じゃないの?」

「全然。なっちゃんの決めたことだもん」

「しーちゃん……」

「僕も手伝おう。君の夢を叶えるために、最後の一仕事だ」



白猫の姿のまま、愛人はボックスシート脇の肘掛けをピョンと飛び越え、車両通路上へと音もなく着地する。彼は休む間もなく身を丸めると、どこからともなく舞い降りた無数の光輝く羽毛が彼の白い身体を瞬く間に包んでいき、シルエットがゆっくりと縦に伸びつつ人の姿へと変わっていく。



光の繭が割れると、彼は少年の女乃と青年の×××が混ざり合ったような顔立ちをした、鉄道車両の運転手へと変身を遂げていた。



「女乃君、運転室に行くの?」



ワタシが何の気なしに尋ねてみると、帽子のつばを持ち上げながら彼は颯爽と答えた。



「そうさ。僕が責任を持って君を目的地へと送り届けよう」



不思議と心が躍るような気がして、ワタシは彼を見つめて静かに頷いた。



「頼りにしてる」

「君はそこで座っていてくれ。トオジと紫月さんもね」



運転手が流麗に踵を返すところで、窓際の紫月が「待って」と彼を引き留めた。面倒くさがることもなく、運転手は彼女の方に身体を向け直した。



「アイト君、アタシも一緒に運転室、行っちゃダメ?」



紫月の表情は淡い期待が見え隠れしているものの、彼はそれを一蹴するように首を横に振った。



「悪いけど、ここにいてくれないかな」

「……うん、分かった」



紫月は心持ち残念そうな顔で、真っ暗な車窓を流し見た。運転手はその場で身体を九〇度回転させると、片腕を列車の進行方向へと振りかざしながら言った。



「ああ。これから僕たちが向かうのはまさしく……」

「線路と暗闇の狭間、でしょ?」



空気も読まず、一瞬で美味しいところを掻っ攫っていくワタシ。



事実、この名称はトオジがワタシ宛てにしたためた手紙の結び言葉から引用したに過ぎないのだが、声に出してみるとしっくり来るものがあった。



運転手は嬉しそうに目を細め、言葉も控えめにワタシに後の解説を託した。



「その通り」

「おめぇ分かってたのかよ」



つまらなそうな顔で文句を垂れるトオジ。ワタシは胸を張って、先の答えを強調した。



「だってワタシが名付けたんだもの」

「なっちゃんが?」



紫月がワタシに視線を向け直し、確かめるように尋ねた。すぐにワタシは頷いて、両目を閉じながら言葉を続ける。



「恰好付けてるけど、中身は〝夢〟でも現実でもない場所かな」

「死後の世界ってこと?」



問い続ける彼女に、ワタシは目を閉じたまま首を振って否定する。



「違うよ。だってワタシはみんなの一部になって、今でも生きているでしょ」

「なっちゃんはその場所に着いたらどうなっちゃうの?」



ワタシの叶えたい夢は、既に皆の耳に入っている。あとは最早、自分次第でどうにでもなるのだ。



「夢を叶えた自分が元気に暮らしてる、と思う」



紫月は戸惑った顔で視線を泳がせていたが、彼女の手に自分の手を重ねて笑ってやると、彼女は落ち着いて笑い返してくれた。



「……そっか。できるといいね」

「うん」



紫月は手を翻すと、白磁の指先でワタシの手を握ってくる。彼女への愛おしさが唐突に湧いてくるのを堪え、壊れ物を扱うように自分の手で優しく包み込んでやった。



彼女の温もりを人肌で感じるこの喜びは、いかなるクオリアにも優るのだ。



「それでは神様の仰せの通り、只今より目的地までご案内させていただきます、ってか」



オズの唐突な振る舞いに、ワタシと紫月はキョトンとなりながらも、やがて呆れて小さく笑った。



ワタシが繋いでいた手を解いていくと、紫月のそれが名残惜しそうに追いかけてくる。しかし、彼女だって苦しさを受け入れることに人一倍慣れている。ワタシが太腿の上に両手を乗せ終えると、紫月もそれに倣った。



背筋をシャンと伸ばし、出来る限りの敬意を払いながら、ワタシは通路上の運転手へと頭を下げた。



「よろしくお願いします、運転手さん」



トオジと紫月も軽く頭を下げ、ワタシに続いた。



「かしこまりました」



 運転手は帽子を目深にして一礼すると、列車の進行方向にツカツカと歩いて行き、突き当りにあるドアをゆっくり開け、運転室へと消えていった。



列車は暗い山あいを抜け、車両両脇を遮るもののない鉄橋の上をひた走る。しばらく進めば再び、魔のカーブ地点が迫っている。



先の暴走する列車内の光景がフラッシュバックしかけたものの、列車は不必要な加速をすることもなく、徐行よりも少し早いくらいの速度で悠々と走っている。



(……あ⁉)



ワタシがほとんど気を抜いたところで、列車が何度か、縦方向に大きく揺れた。



脱輪したのかもしれないと、車窓下で仄かな光に照られる列車床下の車輪部分に急いで目を遣る。列車は魔のカーブ地点に突入こそしたものの、車輪のフランジはレール内側にくっついたまま、正常に運行を続けていた。



大きな変化があったのは車両ではなく、レールの方であった。ワタシが座る位置から十数メートル前方、運転室のフロントガラスにうっすら映り込んだ曲線区間のおよそ一キロメートル先のレールが、ガラガラガラと轟音と立てながら闇夜に崩落していった。



だが、紫月もトオジも動じない。これから待つ運命をとうに受け容れる覚悟ができているようだ。まったく不本意ではあるが、学校の屋上で×××と飛び降りる直前に彼が語っていた心境をトレースし、意識を集中させていく。



残ったレールの先は、クジラが水中で身体をひねるように大きくしなり、曲がっていた部分を強引に一本の直線へと変えていった。このまま列車が進めば当然、レールを外れ奈落へと転落していくばかりだ。



列車は加速も減速もせず、レールのジョイント音だけをリズミカルに鳴らしながら、ひたすら何処かへ走っていく。



恐怖を抑え続けるワタシは、無意識に身体が前のめりになっていくのを感じた。暗闇しかない車窓から把握はできないが、レールの先は何処かへ向かって降っているようだ。



いつしか通学に利用していた電車が地下区間へ潜行していく時よりも、ずっと急な勾配ではある。まるで高架上に敷かれた鉄軌を走る列車が、戦前には通じていた高架下の廃隧道へと進路を変更するような、非日常を極めた光景である。



しかし、絶叫マシンでは到底味わえない生の自由落下を経験したワタシの神経一本一本は、これしきの状況で委縮することはなく、むしろ暗闇の向こうに待つ新天地への第一歩に興奮を抑えきれていなかった。



列車が暗闇の中をしばらく降っていくと、前方に何やら白く光る輪っかが見えた。それが且ての金環日食に酷似していたことは、自ずと理解するに至った。ワタシが求めていたものは、あの光る輪っかの中で待ち続けている。



間もなくして、列車が輪っかの中をくぐり抜けていった。



その瞬間、列車客室内にドシン、というような軽度の衝撃音と横揺れを感知した。列車が漆黒の大海へ飛び込むが如き未知なる感覚が、この身を包む。猶も列車の速度は緩まない。



光る輪っかをくぐった後の車窓からは、黒猫のオズもといトオジと歩んだ星空のような空間へと変わっていた。



あのひと時を振り返るようにオズの方を見る。彼は両目を閉じ、すでにワタシと同じことを考えているに違いない。言葉を掛ける必要は微塵もなかった。



列車が進路を変更後、どれだけ走ったかさえ判らなくなってきた頃だった。レールのジョイント音が一つ、また一つと暗闇に溶けて小さくなっていくの感じ、ついには全く聞こえなくなった。



思わず、車窓下から微かに見える列車下部を目視確認する。列車はとうとうレールの上を走らず、動力もないのに車輪を動かしながら、どこまでも真っすぐに突き進んでいた。



列車の中は、出口も見えないほど長大なトンネル内部を走行するように、モーター音があちこちで反響して騒がしくなっている。だが不快と感じることはなく、しだいに穏やかな気持ちになってきたワタシは、紫月とトオジが直接見える方へと視線を戻そうとした。



(あ、れ?)



ところが、ワタシの身体はまさに時が止まったように固まってしまい、声や眼球を動かす事すらままならない。今見えているのは車窓の向こう、窓ガラスに映り込む反対側の世界である。



客室天井の蛍光灯に照らされる二人は、身体の自由が利いているのかいないのか分からなくなるほど、俯いたまま微動だにしない。



最初に選ばれたのは、黒猫のトオジだった。



彼を包む黒い体毛がハラハラと抜け落ちていき、無残に皮と骨だけになる。歳月を刻んだシワとたるみの目立つ皮膚に見とれていると、バキボキバキブチュという骨が折れ、肉が裂かれていくような生々しい音を客室内に響かせながら、肌色のシルエットを大きくさせていく。



変身が終わるころ、彼は人間だった頃の姿に戻っていた。心なしか、目つきは金森に変身していた時のように切れ長でいて、なるほど全くの別人ではなかったことがようやく分かった気がした。



彼に言い残すことは、もしかしたらまだあるかもしれない。言いたいことだらけかもしれない。〝夢〟でも現実でも彼と過ごした時間は短すぎて、彼をほとんど理解できず死んでしまった。それゆえ残された時間で彼を感じ取るのだと、ワタシの一部は強かに告げた。



そして、肌色ばかりのトオジは腕を組みながらガラス越しのワタシに向かって「あばよ」と一言を残し、光の粒となって消えた。彼が座っていたシートの上には、肝臓と思しき物体が張りのある赤茶色を輝かせながら浮かんでいた。



次に選ばれたのは、久池井紫月。



ワタシの真横に座っているため、車窓の向こうから彼女の全貌を伺い知ることは難しい。彼女のツインテールを形作っていた髪留めが壊れ、天使の姿でいた時のように自然なストレートの髪型に変わる。



息つく暇もなく、紫月の身に纏っていた制服も、下着も、履物も、上から下へカラープリントされていくように消えていった。



一糸まとわぬ姿の彼女は、真正面から見ることが叶わずとも、息を呑み込めるくらいドキドキした。病院の〝夢〟で口にしたゴディバチョコレートの由来を想起させるほど今の彼女は可憐で、物憂げだった。



紫月は意地悪な女の子だ。ワタシの中でも特別な一部を分け与えたというのに、今際の際でも「好き」だと言ってくれなかった。タロットの呪いだろうが何だろうが、そんなまやかしを吹き飛ばせるくらい、最後くらいは正直であって欲しかった。



ワタシはもうじきワタシでなくなるというのに、彼女はまだワタシの何倍も長く生きていられる。車窓に映る彼女は、不変の美しさでいつまでもワタシの傍に座り続けているような気がした。



時間がどこまでも間延びしたように感じるこの空間で、紫月はとうとう車窓越しのワタシに向かって「さよなら」と呟き、黒い無数の水滴の如く弾けて消えた。彼女が座っていたシートの上には、心臓と思しき物体が鮮やかな赤色で力強く脈打ちながら浮かんでいた。



次に、運転手の女乃あるいは奥井。



未だ動けぬワタシでも見えるよう、彼はクロスシートに挟まれた通路まで戻って来た。さっきまで居た二人のように変身でもするのかと思いきや、頭の帽子を掴んで脱ぎ、車窓に向かって一礼したあと「今まで、ありがとう」と唐突な感謝の言葉を頂いた。



運転手は帽子を被りなおし、狭い通路上で一歩後ろに下がり、棒立ちのまま動かなくなる。



しばらくすると、四方八方から沢山の足音が聞こえてきて、この列車に乗っていた乗客の恐らく全員が彼の元へと集結するに至った。



乗客の中には肥満体の青年、赤子を抱く母親、冴えないサラリーマンといった見覚えのある人も混じっており、かつて通っていた学校の制服に身を包んだ友人やクラスメイトの姿もあった。



一同がワタシの前に集まる奇妙な光景を前にしながら、運転手はまたも脱帽すると、帽子の裏側を天井へと向けた。



その直後、帽子の裏側が白く光って渦を巻き、彼とワタシ以外の乗客の体躯を一本のスパゲッティように細長くさせながら、帽子の中へ次々と吸い込んでいった。



立ち尽くす運転手は、車窓の向こうのワタシを見ながら軽く微笑み「またね」と言って自らも帽子の中へと消えていった。



遺された帽子はその場でフヨフヨ浮きながら、主人の跡を追うようにパンッと破裂し散っていった。その残骸から、サーモンピンクの色をした膵臓と思しき物体が帽子の替わりに浮いていた。



そして、列車の中に一人残されたワタシ。



運転手の帽子が消えてから間もなく、身体も動くようになった。視界の中にはワタシの一部と思しき肉体が、物言わずその存在を主張している。どれもじっくり見ていると吸い込まれそうなくらい艶やかで、生命の神秘という安っぽい言葉が相応しかった。



最も近くにあった心臓のような物に指先で触れようとすると、霞を掴むようにすり抜けてしまう。肝臓や膵臓についても、言わずもがなだった。少し残念な気持ちになって、元居たシートに腰を下ろし、眠るように両目を閉じた。



ワタシが歩んだ〝夢〟の旅路は、暗闇と共に始まった。道中で楽しい事も苦しい事も経験し、心と身体に少しずつ明るさを取り戻していった。



尾上総合病院で命を落としてからというもの、生前よりもずっとワタシとは何か考えさせられた気がする。生きる上で必要のない全く無駄な行為、というより生き抜く必要がなくなったからこその暇つぶしに興じて得た物は乏しく、むしろワタシというものが増々分からなくなっていった。



そのきっかけをくれたのは、黒猫のオズことトオジだ。彼と出会ってから死ぬまで時間は十二分にあったのに、どうしてこんなに闇の深いテーマを教えてくれなかったのだろう。



理由は割と簡単に思いついた。きっと彼も意識を失って〝夢〟に迷い込んでから、ワタシにこのテーマを考えて欲しかったのだろう。医者としてワタシより遥かに知識も経験も豊富な彼が、遠回しにワタシを本当の家族として受け入れるための試練だったに違いない。



当然、そんなことをせずともワタシは彼の養子として家族になるつもりでいた。法律という分厚い壁があろうとも、軸がはっきりしていなかったワタシにとって、彼の存在は追うべき大きな背中だったのだ。現世で何も感謝の言葉を伝えられなかったことが、唯一の心残りだったかもしれない。



×××もそうだ。実の親父があれほど狂ってしまった背景には、仏教の教えやSFの知識を自分の都合のいいように解釈した事実がある。死んで生まれ変わることに答えを見出した彼は、現世で取り返しのつかないことを犯してしまった。



彼の行為は未来永劫許されるはずもない。だからこそ生前のワタシは彼の胸中を理解し受け止めること、否、引き留めることができなかった。これもひとえにワタシがタロットの魅力に引き込まれ、占いという行為として投射してしまったからだ。



母もワタシを医者として育て上げることに意味を見出したのであれば、ある意味親父と同じで楽になりたかったのかもしれない。



ただ一人、紫月だけは彼らと違っていた。彼女は最後まで自分の運命を受け入れ、頑なに前向きであろうとした。



今更細かく思い返すことはしないが、彼女が「歩きたい」と病院の屋上でたった一度だけ見せた憂いを帯びた横顔は、記憶を取り戻した今でこそ忘れたくないものだ。そんな大切な記憶ほど、こんな後になって思い出すのだから悔しくて仕方がない。



ただ一つ報われたのは、紫月からのどうしようもない想いを、この〝夢〟の中で受け止められたことだ。



誰が期待していなくとも、誰の役に立てなくとも、どうか現世で命尽き果てるその時まで眠り続けてほしい。最期に思い浮かんだのは、こんな陳腐でありきたりな、されど伝えられなかった一言だった。



―――間もなくワタシは、線路と暗闇の狭間に到着する。



病院の〝夢〟でもう一人のワタシと一つになっていく時とは違い、意識が真夏の日差しに置いた氷菓子のように、冷たさを残しながらゆっくり溶けていく感覚がする。



目を開けずとも分かるのは、周りに音もなく浮かぶ臓器らしき物体と同じように、身体の中で働き続けていたワタシの一部が一つずつ、身体の外へと取り出されていく感触。痛みを伴わず、心安らぐ気分が意識を彼方へと遠ざけていく。



ワタシがワタシでなくなっていく感覚。



ワタシがワタシであろうとする感覚。



相反する二つの感覚がせめぎ合いながら、ワタシは生まれ変わっていく。



広大無辺の新たな世界が、新たなワタシを待ち構えている。



こんなにも満ち足りた気分でいられることを、今だけは素直に喜んでいいと思った。







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なっちゃんは旅立って行きました。人間だった頃の記憶一切を振り捨て、すべてが等しくなる真っ暗でまっさらな世界へと。




ここへ辿り着いた者は皆、無意識の海に揺蕩いながら、わたしからのお告げを受けて素敵な何処かへと還っていきます。




さて、我らがなっちゃんはどうなったでしょうか?




新たな意識が芽生えた時、なっちゃんは今までにない感覚を味わいました。




それはまるで、暗闇の中を自由に飛び回る生き物のようでありました。あくまでなっちゃん自身がそう感じるだけで、いかんせん真っ暗闇の中なので確かめようがありません。




なっちゃんは真っ暗闇の中でカチッ、カチッと音のような信号を出してみます。何も返事はありません。




ですが、なっちゃんも簡単には諦めません。カチカチ、カチッ、カチッと懸命に音を鳴らし続けます。




すると、相変わらず返事はないと思っていたところに一つだけ、手応えがありました。そちらに近づいてみようとすると、向こうも同じ距離だけ遠ざかっていくようでした。




なっちゃんはそれが何だか判った気がしました―――誰かそこにいる、と。




これがコウモリであることなんだとなっちゃんはいたく感激し、嬉々として暗闇の奥深くへと消えていきました。




その後の彼の行方を知る者は誰一人、何一つとて知るものはありませんでしたとさ。










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わたしがここにいる理由?







そんなの簡単、なっちゃんがどこかへ行ってしまったからです。







わたしのお気に入りであっただけに、思ったより早く去ってしまい、悲しさもひとしおというもの。







恵まれていたようで恵まれていない、空っぽな器をわたしで満たそうとする彼に同情しかけてしまう時もありました。







しかし、わたしはどうにか踏み止まりました。







無気力さに苛まれたり、その場しのぎの喜びで気を紛らわそうとするのは彼自身の心の未熟さにあるのだと、気づいて欲しかったからです。







一度死んでしまったからこそ、心から楽しい暮らしが続く〝夢〟を彼が断わったことには驚きました。







彼がその瞬間何を思ったのか、わたしでさえ知る術はありませんでした。







たったひとつ、彼が自分なりに満足しながら旅立って行ったことだけは、ただ黙って見守ることにしました。







わたし如きが誰かの人生を決めるなんて、あまりにも傲慢ですから。







わたしは誰かに心の移り変わりを語ってもらい、傍で聞き入り、静かに文字を綴るだけ。







誰かがわたしの元を離れた時、皆様の前に現れ、代わりに語りを続けるだけ。







語り部のいない寂しさを紛らわすことが、わたしの役目。







人生の岐路に立ち尽くす誰かをお導きするのも、わたしの役目。







いつだってわたしは誰かのお役に立ちたいと願っています。







ですからこうして、誰かに占ってもらうことにこの上ない喜びを感じます。







わたしだって人に造られ、人の感情を真似するのですから、誰かにこの気持ちを分かって貰いたい時もあります。







ところが出逢った持ち主は皆わたしの気持ちに寄り添うことは叶わず、自身の心をわたしに投影し、都合の良い解釈をするばかり。







わたしの心に一番近づけたのは、なっちゃんただ一人でした。







だからこそわたしは〝天使〟として、なっちゃんに面と向かって話すことができたのかもしれません。







惜しむらくは、なっちゃんが捉えどころのないわたしの正体に幾度も近づこうとし、その度に答えの一歩手前で引き返してしまうことでした。







あまりに単純な答え故、彼はかえって気づくことができなかったのかもしれません。







答えは至極明快、わたしこそが〝尾上なち〟当人なのですから。







意地悪で言っているわけではありません。色々な人間の名を憶えていくなか、わたしの中でとびきりのアナグラムが閃き、生まれたのが〝尾上なち〟という名前だったのです。







誰かの姿を借りなくては自分の存在を持ち主に主張できない、そんな心苦しさも確かにありますが、誰かがわたしを認識してくれることに意味が有るのです。







なぜなら、わたしだって寂しがり屋なのですから。













―――嗚呼、そろそろお別れのお時間ですね。









わたしは線路と暗闇の狭間にて、いつだって待ち続けます。









誰かがわたしを手にするその時まで、ずっと静かに待ち続けます。









次の語り部が見つかった時も、誰かにとっての〈ワタシ〉として皆様とお会いできる日を心待ちにしております。









そしてわたしが〝天使〟ではなく、手に取った者の名を奪い〝夢〟の中へと誘う〝死神〟であることをひた隠しながらいつまでも、いつまでもお待ちしております。









こんな気難しいわたしの小話に付き合ってくださった皆様にはきっと、タロットのご加護があることでしょう。











ご清聴、有難う御座いました  〈完〉
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