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1章

1章 10話

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愛那の部屋に鍵はかかっていなかった。
隙間からそうっと入ると、窓辺を小さな背が覆っている。
話しかけようとした瞬間、
「プリメール?」
温度のない声が静寂を打った。
「……愛那」
「さっきは置いていってごめんね。身体は大丈夫なの?」
思いやりのあるはずの言葉が虚ろに滑る。
夜の匂いが愛那の輪郭りんかくを蒼く、冷たく縁取っている。
「ねえ愛那。空を飛んでみたくない?」
気づいたら声に出していた。
「……空?」
「あたしの手を引いたら誰にも見られずにずっと高くまで飛べるわよ。どう?」
早口で迫ると、愛那はゆっくりと視線を空に向ける。
そして、黙って手を差し出した。



春の夜風はほんのりと暖かい。
ガウンを羽織った愛那の手を引いて、ビル3階分くらいの高さをふわふわと漂った。
「怖くない?大丈夫?」
「……うん」
まだ声はぎこちないけれど、顔色や手の温度は普通だった。
空には星が瞬いている。十数メートル上昇したくらいじゃ近くに感じられもしないけど、愛那はぼうっと天を見上げていた。
「あそこに座りましょう」
通学路を一周してから戻り、家の屋根を指さす。
羽根から敷物を取り出してかける。愛那はそこに座った。
「……愛那、その」
「プリメールは恋したことある?」
思いもかけない質問が来る。
「え、いや」
妖精が恋をしない、わけじゃない。ただ人間よりも「種族を残す」という使命感が強い分、あまり自由恋愛が介入する余地がないだけで。
「ええっと……忙しくてそんな暇もなかった、かな」
「……そっか。そのほうがいいのかもね」
「愛那?」
「好きな人に好かれるために自分の気持ちを伝えるって難しいもん。ふつう人に嫌われないためには自分の気持ちを隠すものなのに、なんかおかしいよね」
体育座りの膝がぎゅっと縮こまる。
「愛那……」
夜の空気が肺に吸い込まれる。
「ひどいこと言っちゃった。新藤にもおじさんにも」
「ひどくなんかないわ。あなたは自分の気持ちを伝えただけでしょう」
「だからそれが──」
「愛那」
短く囁き、羽根を広げて息を吸う。
吐いた息が煌めく星屑になって、夜空に弧を描いて吸い込まれていく。
「……きれい」
やっと顔を上げてくれた。
「正直ね、あたしも思うわよ。自分の気持ちを伝えるなんて面倒にしかならないって。それでもその面倒の後にちょっとしたご褒美がやってくることもある。本音を隠したままじゃ手に入れられない、相手を大事に想う気持ちが」
脳裏に蘇ったのは木の上でのやりとり。お互い愛那が可愛いあまり、売り言葉に買い言葉で言い争ったこと。
その後、ほんの少し距離が近くなったこと。
……この場で思い出すのもシャクな気がしたけど、まあとにかく。
「そのちょっとしたご褒美のためにヒトは足掻くのよ。他人には見えないところで。愛那が今そうしてるように」
そんな彼らを手助けするために妖精あたしたちがいるのだ。
「新藤も……?」
あたしは力強くうなずく。
愛那の瞳には光が戻っていた。
夜空のどんな星屑よりまばゆい煌めきが。
「……新藤と初めて喋ったのはね、新学期にクラス替えしてすぐ。いっつも遅刻ギリギリだったから先生に注意を頼まれたんだけど」
コンクリートの床に片手を突く。
「注意だけしてどうにかなると思わなかったから、『私が先生を説得するから理由を教えて』って言ったの。そしたらいきなり『じゃあ桜庭さんのために早起きする』って言いだして。そこからなんていうか……懐かれ出して、あんな感じに」
初めて登校した日の台詞はそういうことだったのか。
「そこまで言ってくれた経験がなかったのかもね、新藤くんには」
「そういうものかな……」
お互いふっと口元を緩める。
「ずっと何考えてるのかわからなかった。わからないまま、いつのまにか好きになってて……今日、やっとわかりそうになったのに」
もう片方の手を星に伸ばす。
「ここで終わりたくない。傷つけちゃったかもしれないけど、まだ諦めたくない。新藤のこと」
愛那の指先に触れた。
「そう言ってくれるなら、あたしも最後まで駆け抜けられるわ」
あたしたちも、と心の中で付け加えて。
最後にもう一度、澄み渡る夜空の広さに想いを馳せた。



月曜日は曇りだった。
「おはよう、委員長!」
「ねー桜庭さん、この髪型どう思う?」
登校するなりいつものように女の子グループに囲まれる愛那。
「おはよう。髪切ったんだ?春っぽくて可愛いね」
何も知らない立場からすれば、まるきり普段通りに見えるだろう。
けれど──
教室のドアをがらりと開ける。
真っ先に視界に捉えたのは、男子にヘッドロックをかけられている新藤くんの姿だった。
まだ早起きは辞めてなかったんだ、とまずほっとする。
新藤くんがこちらに気づく。
彼が愛那を避ける前に、
「お、おはよう!」
──上擦った声が誰から発せられたものか、クラス一同すぐにはわからなかったようだ。
声の主は震える手をぎゅっと握り、凛と背筋を伸ばして立っている。
あたしにはそんな愛那の姿が、この場の誰よりも眩しく視えた。
「……お、はよう」
新藤くんも返した。
というより、言葉が自然に零れたように見えた。
新藤くんの周りから男子が離れたのを見計らい、あたしはそっと彼の胸ポケットに紙片を忍ばせた。
「みんなー、宿題やってきましたか?」
先生が教室に入ってきて、あっけにとられていた皆も恐る恐る席に着いた。
紙片に気づいた新藤くんがちらりとこちらを振り返る。
彼の目もまた、昨日までとは違う覚悟をたたえていた。

『昨日はごめんなさい。
まだもし私のことを信じてくれるなら
今日の放課後、中庭に来てください。まだ話したいことがあります』

ピースは揃った。
あとは当事者同士がどれほど勇気を出せるか。
そして、あたしとレンがどれほどその勇気を引き出せるかだ。

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