狩猟

丸宮亜門

文字の大きさ
2 / 8

2_子鹿狩り

しおりを挟む
 少女の指差す先へヴィーリが振り向くと、二股に割れた木の裏から子鹿が顔を覗かせている。つぶらな瞳を二人へ向け、興味深そうに見つめている。幸運なことに、二人は獲物を見つけることができたのだ。

「あの子、こちらを見ているわ。人間が怖くないのかしら?」
「本当だ……この森は農民が来ないから、人間のことを知らないのかも」
「なら、近寄っても逃げたりしないわよね……」

 リーズはゆっくりと、手を振りながら子鹿へと近づいていく。子鹿はその様子を不思議そうに眺めているが、立ち去る様子はない。

「危ないよ、リーズ」
「大丈夫。大丈夫よ……ほら、こっちよ。ほら」

 リーズは十歩ほど子鹿へ寄ると、次はそちらが歩み寄る番だとばかりに手招きする。
 彼女の意思が通じたのか、子鹿は木から身を乗り出したものの、それ以上近寄ってこない。リーズはしばらく鹿を誘い続けたが、それ以上に距離を縮めることはできなかった。そこで、秘策を使うことにした。

「こっちへ来て。ほら、美味しいパンをあげるわ」

 リーズは懐から柔らかな白パンを取り出して、子鹿へちらつかせる。これは彼女が間食のために用意したもので、その香ばしい匂いにヴィーリも思わず釣られそうになる。子鹿も同じ気持ちなのだろう。ゆっくりと、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄り始める。

「よしよし、その調子……いい、ヴィーリ? 鹿がこちらに来たら、一気に仕留めるのよ」
「……わかった」

 少しでも軽くなるよう、背負ったものを地に降ろしてヴィーリは身構えた。槍を握りしめ、いつでも飛び出せるように――鹿が暴れたら、リーズのことを守れるように、身を屈めて脚に力を溜める。
 一方の子鹿は彼の姿や鋭い目つきには気づかないようで、リーズの傍へ近づいて行く。
 リーズは子鹿を更に誘い込むべく、パンを少しだけ千切って口元へ運んでみせた。パンを口の中に入れ、ゆっくりと、笑顔で咀嚼する。これは食べられるものだ。これはとても美味しいものだと、子鹿に語りかけているのだ。
 彼女の狙い通り、子鹿は警戒心を忘れてパンの下へと駆け寄ってくる。そして、リーズに届くまであと僅かの距離まで寄ってきたその時――

「やああぁっ!」

 弩から放たれた矢のように、両手に槍を構えたヴィーリが子鹿へ飛びかかる。木の葉のように広がった槍先が子鹿へ刺さり、ピィー! という甲高い悲鳴とともに赤い鮮血が飛び散った。

「きゃあっ!」

 子鹿は苦痛に悶え、そのつぶらな瞳が恐怖に染まる。それでも子鹿は必死に身体を振り回して、襲撃者を振り払いにかかった。その力は凄まじく、ヴィーリはなんとか喰らいつこうと槍を抑えるも、呆気ないほど簡単に、槍ごと振り解かれて地面へ打ち付けられてしまった。
 だが彼は痛みを感じることもなく立ち上がると、逃げ出す獲物を追跡せんとばかりにいきり立つ。

「逃がすかっ」
「ま、待って、ヴィーリ」

 しかし、彼は追いかけることができなかった。声に振り向くとそこには、地面にへたり込み、頬に鹿の血を付けて、今にも泣き出しそうにしながらも両手を抱えるように震えるリーズの姿があったのだ。

「リーズ、どうした? すぐに追いかけないと逃げられちゃう」
「わ、私、怖くて動けないの……」
「怖い?」

 リーズの言葉の意味が、ヴィーリには理解できなかった。自分が槍を突き刺して、子鹿は逃げ出した。今この場においては自分達が狩人であり、子鹿の命運を握っているのだ。傷つけられていないのだから恐怖を感じる必要などない。彼はそう思っていた。それどころか、この状況にある種の高揚感すら感じているのだ。

「怖くなんてないさ! しっかり刺さったから、そう遠くには逃げられないよ。早く行こう!」
「駄目よ……」

 しかし、リーズは動くことができないようだ。泣きべそを書きながら、弱々しくヴィーリの服の裾を掴んでいる。

「どうしたのさ。もしかして、血が目に入ったの?」
「ううん。入ってない……でも、私、怖くて…………あんなに血が出るだなんて、思わなかったの。可哀想だわ」

 ヴィーリは一瞬、呆れ返ってしまった。彼女は鹿のことを、槍で刺しても血を流すことのない、鉄で出来た生き物とでも思っていたのか。それに、狩猟に行こうと言い出したのは彼女の方なのだ。

「何言ってるんだよ……動物なんだから、刺したら血が出るよ。それに狩猟ってのは、こうなんだろ?」
「でも……」

 リーズはヴィーリの顔を見つめ、震えながらも考えをまとめようとしている。だがその目線が左へ逸れて、彼が握る血塗れの槍が目に入ったとき、彼女は思わず目を背けた。

「ごめんなさい、ごめんなさい。……私、その、びっくりしちゃって。分かってたのに、あの鹿の悲鳴を聞いて、怖くなったの」
「リーズ……」

 彼は本当のところ、すぐにでも獲物を追いかけたかった。鹿の傷は浅い。もう一突き二突きしてやらねば仕留めることはできないと、右腕に残る感触が伝えている。獲物をむざむざ取り逃がすことが、耐え難い屈辱のように感じられるのだ。

(でも、リーズを置いていく訳には……)

 ヴィーリは振り向いて返事をすると、彼女の側へ座り込む。そして背嚢からボロ布を取り出すと、まず彼女についた赤い雫を拭ってから、次に槍にべったりと付着した赤黒い血を取り除いた。彼には、この赤色がリーズを怯えさせているように思えたのだ。だが、それでもリーズは泣き止まない。
 こんなときに、どうやって慰めてやればよいのか彼は知らなかった。自分が泣いていたときはどうだったかを思い起こそうとして、最後に泣いたのがいつかすら思い出せなかった。涙を流す彼女を前に何もできない自分が情けなく思えてきて、身を包んでいた狩りの興奮は一気に冷めきってしまった。

「リーズ、えっと……こ、怖くないよ?」

 なんとか絞り出した慰めの言葉にも、リーズは返事をしない。声が届いていないのか、言葉選びを間違えたのか、ヴィーリにはまるでわからない。彼はただただ彼女の悲しみを拭ってやりたかったが、それができない。リーズのことが、わからないのだ。
 不意に、周囲がざわざわと鳴り始めた。風が吹きだして、枝を激しく揺らしている。ヴィーリはせめて、風から守ってやろうと思ってリーズの背後へ移動して、羽織っていた外套を――随分と汚らしい外套なので、一瞬躊躇したが――リーズの背に掛けてやった。

「ひっく…………あ、ありがとう。ヴィーリ……」

 するとリーズは振り向いて、小さく笑みを作ると外套の両端を握り締め、自身を包むようにしっかりと羽織った。それで落ち着きを取り戻したのか、彼女の泣き声は次第に小さくなってゆく。そしてぽつりぽつりと、雫をこぼすように話し始めた。

「私、知ってたのに……狩りをすると獲物はどうなるのかって、知ってたのに」

 リーズが話し始めたとき、ヴィーリはほとんど無意識に、彼女の小さな手のひらに自身の手のひらを重ねていた。何と返事をすれば良いかわからなくとも、話を聞いていると伝えたかったのだろう。

「お父様の話を聞いて、狩りってかっこよくて、誇り高いことで……楽しそうって思ったの。さっきだって、パンでおびき寄せて。私、子鹿と遊んでいる気分だったの。でも、あの子すごく苦しそうで、目が、痛い、痛いって」
「リ、リーズのせいじゃないよ。やったのは、俺だから……」
「私の所為なの! 私、立派になったつもりで、ヴィーリに命令して……私が、あの子を――」

 リーズの悲しみがぶり返して、再び肩が震えだす。その時だった。風に揺られる枝の音にまぎれて、ひときわ大きな音――草木をかき分けてこちらへ向かうなにかの足音がきこえてきた。音のなる方へヴィーリが振り向くと、そこには先程の子鹿がいた。そして、その遥か頭上で煌めく角が見える――

「え…………」

 そしてもう一匹、子鹿の倍は大きいであろう鹿がその前に立っていた。ヴィーリよりも大きいその鹿はひどく興奮した様子で、彼を睨みつけながら頭を下げている。その仕草は決して友好的な挨拶ではない。鹿の頭から生えた角が、その鋭い先端がヴィーリへ向けられているのだ。まるで先程、彼が子鹿へそうしたように。そして、その続きを再現するかのように、大鹿が走り出す。

「リーズ!」

 ヴィーリはとっさにリーズの手を引いて、大鹿の進路から逃げ延びた。鹿は曲がることができなかったのか、二人が居た場所を通り過ぎて、その先にある大木へ身体をぶつけた。しかし怯むことはなく、ゆっくりとその身を翻した。

「何? 何? どうしたの?」
「親を連れてきたんだ。逃げないと!」

 状況が掴めないながらも、リーズはなんとか彼の動きに合わせて脚を動かした。ヴィーリは彼女を引っ張って、ただひたすらに逃げ出した。茂みへ入り、段差を上り、あの怒り狂う親鹿から少しでも遠くへ逃れようとする。
 今や両者の立場は完全に入れ替わってしまった。二人は、狩猟される側なのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

処理中です...