百万の契約

青いピアノ

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第5章 契約と誓約の戦

第254話 レイチェルと椿の時間

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椿がレイチェルに会うために診療所を出ると、サナエたちはすぐに医療道具の清掃に取り掛かった。静かな室内には、布と器具が擦れる音だけが響いていた。

一人気を落とした雰囲気で黙々と机を拭くサナエに、メルスがゆっくりと歩み寄る。少し躊躇いながらも、姿勢を低くして耳元に顔を寄せると、小声でささやいた。

「……すみません。椿と二人の時間を作ろうとしたのですが、余計でしたか…?」

その言葉に、サナエの肩が小さく跳ねた。彼女は、椿との関係が誰にも知られていないものと思っていた。体が一瞬固まり、手の動きが止まる。顔を上げるときには、すでに精一杯の作り笑顔を浮かべていた。

「あら?そうだったの…?私は別に、彼と二人きりになる必要はないわ…。彼との魔力融合も、あくまでも研究のためよ」

その言い方に、メルスは少しだけ目を細めたが、表情は崩さず「そうですか」とだけ静かに返した。その背後では、リカが布を握ったまま立ち止まり、目を伏せながらその会話をそっと聞いていた。

椿はレイチェルとの待ち合わせに、彼女が以前好きだと言っていた香水ショップを選んだ。
少し早く着いた彼は、棚に並んだ香水の中から、レイチェルの好みだった花と果実の香りを試してみた。ふとした瞬間、ふわりと風が店内に吹き込むと、ほのかに甘くて清楚な香りが混じった。

「お待たせ」

その声に振り返ると、そこには白いワンピースをまとったレイチェルが立っていた。柔らかな白金の髪は背中でゆるやかに揺れ、リボンが色を加える。彼女の豊かな胸元としなやかな腰の曲線はワンピースの下でもはっきりと分かり、周囲の視線が自然と集まるほどだった。けれど当の本人はいつもと変わらず、明るい微笑みを浮かべて椿に歩み寄ってきた。

「…その香り、覚えてたのね」
「うん。レイチェルが好きって言ってたから」
「ふふっ、椿ってほんとに…律儀だね」

いくつか香水を試したあと、レイチェルが気に入った一本を椿が差し出した。

「これ、プレゼント」
「ほんと?…うれしい!大切にするね」

その後、二人は街で話題のカフェへ移動し、厚めのパンケーキを向かい合って食べた。
椿がフォークを運ぶ手を止めて、「レイチェル、なんだか雰囲気変わったね。リボンのせいかな」と言うと、彼女は軽く髪に触れて、「ちょっとね。最近、堅すぎるかなって」と笑った。
会話は甘いものからファッションの話へ移り、やがて自然と、社会の出来事に話題が移っていった。菜の花の国の飢饉、西の荒地の奴隷兵たちの脱走、そして霧ノ都の内乱。

「…実は、雷雨大名の娘、夏希さんに協力を頼まれたの」

「そうなんだ。希望の魔力、必要とされているのね」

「でも、それだけじゃなくて――機構の契約管理官としての仕事もね。霧ノ都は契約と誓約をバランスよく取り入れようと努力していた。雫の国が崩壊して以降、契約そのものが敬遠されることが増えたけど、まだ都内には理解しようとしてくれてる人たちもいる」

「うん、雫の国って…契約と誓約のバランスを取るのがうまかった国だったよね。だからこそ、復興を目指すなら、契約の力も必要。だからこそ、機構の協力が必要なんだと思う」

「そう。だから本来は敵対するべきではないんだ、雷雨大名と機構は。…機構が襲撃されたとき、一部の従事者が反撃を躊躇った理由はそこにある。それを双方気づいているんだよ」

「それは…仕方ないよ。でも大丈夫。レイチェルは心配しないで。僕がちゃんと考えて動いてるから」

レイチェルは少しだけ目を伏せ、それからまた目を上げた。

「…もう。私、椿のそばにいるって、ちゃんと言ったでしょ。忘れたの?」
「え?いや、覚えてるけど…」

「昏睡してた間も、毎日お見舞いに来てくれてたよね。私、全部は覚えてないけど…でも、椿の魔力、ちゃんと感じてた」

彼女の大きな胸がそっと上下して、息を整えるのが見えた。そのまま、二人は目を見つめ合ったまましばらく黙っていた。 静かな空気が流れ、どちらからともなく笑みが浮かんだ。するとレイチェルが、ふと思い出したように言った。

「そういえば――綾香はまだ帰ってきていないのよ。あの子、すごく強くなって帰ってくるんだろうな」

「…あ、うん。そうみたいね…。サナエ…さんから聞いたよ。綾香も希望の魔力を開花させるんだって。会うのが楽しみだな」

椿の返事を聞いたレイチェルは、しばらく黙ったまま彼の横顔を見ていた。その視線は、ほんのわずかに沈み込むような色を帯びていて――けれど、やがてパンケーキに戻ったフォークの動きでそれを誤魔化すように、静かに笑った。
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