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第1章 契約と秩序
第9話 宿屋のヒヨ
しおりを挟む宿では簡易契約書を交わすのが一般的だ。
基本的な宿の利用方法を確認し、利用者は署名した後、料金又は対価を払う。契約印は不要。
通されたのは、二階の並んだ二つの部屋。畳敷きの室内には簡素ながら清潔な寝具が用意されており、窓からは月明かりがさしていた。
部屋に荷物を下ろすと、椿は畳に腰をおろして大きく息をついた。
コンコンと扉を叩く綾香は椿に声をかけた。
「疲れた?」
「そうですね…」
「あのさ、タメ口でいいよ?この先も敬語で話しかけられたら堅苦しくて私が疲れちゃうよ…」
上目遣いで言う綾香が可愛らしくて顔が赤くなる椿。
「あ…!は…はい…」
ゆっくりと、でもたしかに二人の距離は縮んでいた。
「だから!契約はちゃんと結んだだろって言ってるだろうが!」
「でも、困りますって……!」
ヒヨの声だ。
二階の部屋で一息ついていた椿と綾香は顔を見合わせた。
「契約のトラブルみたいだね」
「……見に行ってみる?」
椿は頷き、足音を忍ばせて階段を下りていった。
広間では、ヒヨと、農作業着姿の中年男が一触即発の空気で睨み合っていた。傍には竹でできた大きなカゴに入った野菜がいくつも積まれている。どうやら地元の契約農家が今朝の納品に来たらしい。
「うちのナスは“特等級”の契約だったはずだ。昨日だってそれで納めて問題なかっただろうが」
「でも、それは!今朝の分は一部に虫食いもあって、品質基準に合わないって……」
「おいおい、毎回そんな細かいこと言ってたら出荷なんてできやしねぇよ!」
ヒヨが言葉を探して口ごもったとき、椿が一歩前に出た。
「お騒がせしてすみません。契約管理官機構、|《コード・レジストリ》所属の椿と申します。もしよければ、中立の立場で状況を整理させていただけませんか」
ヒヨは、まるで救いの手を見たような顔で頷いた。
「……お願いします。私も、ちょっと手に負えなくて」
農家の男も、椿の落ち着いた態度に気圧されたのか、頷いた。
椿は二人から、ひとつずつ情報を聞き取っていく。契約書を確認し、納品基準や等級区分の記述に目を通した。
「ふむ……確かにこの契約では、『見た目および味において、特等級基準を満たすもの』とありますね。しかし、この定義がやや曖昧です」
椿は静かに、だが芯の通った口調で続けた。
「本日納品されたナスのうち、およそ八割は明らかに特等級に該当しますが、残りの二割は虫食いや傷があり、この地域の基準に満たないと判断できます」
「ちぇっ……たったそれだけで?」
「どうですか、二割を引いた分を“準等級”として扱い、価格調整を行うのは。納品自体を拒否するのではなく、品質に応じた対応をする形ですね」
ヒヨが目を見開く。
「そんな風に……分けて扱ってもいいんですね」
「契約は、文面の趣旨に沿った運用が求められます。双方が合意できるのであれば、既存契約に追記事項を入れましょう。それで対処可能です」
農家の男はしばらく無言だったが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……まあ、確かに、今回は手を抜いたって言われりゃそうかもな。わかった、調整で頼む」
「ありがとうございます。では、明日からの分は特等級のみで、分けて納品してください」
椿がそう締めくくると、場の空気が一気に静まった。
綾香は階段の途中からじっと見つめていた。
ヒヨもふうっと安堵の息をつき、椿に深く頭を下げた。
「本当に助かりました。なんとお礼すれば良いか。…そうですわ、良ければ、露天風呂をお使いください。本日は他にお客様もおりませんので、どうしようかと思っていましたが、ぜひお二人に使っていただきたいわ」
椿は頷いた。
「お言葉に甘えます。こちらは契約書不要ですね?」
椿がいたずらっぽく冗談を言うと、ヒヨはふふふと笑い「もちろんです」と言った。
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