百万の契約

青いピアノ

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第1章 契約と秩序

第29話 椿と唯の交わり

夜の森に、虫の声が静かに響く中、ふと耳を掠める音があった。柔らかくて、湿った、まるで蜜をそっと味わうような音。ちゅっ…と、まるで夜に溶ける秘密の囁きのよう。

「椿くん…?何の音だろう…?」  

心の中で呟きながら、私はそっと首を傾げた。椿くんの姿を思い浮かべると、胸が温かくなるのに、今はその温もりに小さな棘が刺さる気がした。

音は続き、息遣いが混じる。荒々しくて、でもどこか切なげな吐息。はぁ…はぁ…と、夜の空気に溶け込むように響く。私は息を潜め、耳を澄ませた。  

「これ…何…?椿くん…?唯ちゃんと…?」

二人の気配が、闇の中で絡み合うように感じられた。木々の隙間から漏れる月明かり。火に揺れる影が見えた。布が擦れる音、まるで誰かが心の鎧をそっと解くように。
  
「なにこれ…服…脱いでるの…?」  

私の心は、知らない答えを探して彷徨った。

ひそひそと、唯ちゃんの声が聞こえた。  

「…恥ずかしいよ…初めてだから…」  

その声は、まるで夜露に濡れた花びらのようになびいていた。

椿くんの声が続く。  

「唯…綺麗だよ…」  

その言葉は優しく、でも私の胸を深く、鋭く、突き刺した。

二人の影が、月の下で一つに重なる瞬間を、私は見てしまった。ゆっくりと、まるで時間を慈しむように動く影。息遣いと、夜の静けさに溶ける甘い囁き。唯ちゃんの小さな笑い声が、風に運ばれて私の耳に届くたび、心が締め付けられた。

「椿くん…唯ちゃん…」  

頭が真っ白になり、胸の奥で何かが砕ける音がした。バクバクと鳴る心臓が、まるで私を裏切るように騒ぐ。信じたくなかった。信じられないのに、影は揺れ続け、音は途切れない。

どれだけの時が流れたのかわからない。一秒が、途方もなく長く感じた。二人の囁きと笑い声が、夜の帳に響き合うたび、私は目を閉じたくても閉じられなかった。胸が張り裂けそうで、涙が頬を濡らす。  

「どうして…こんな気持ちに…」  

椿くんの愛おしさと現実の痛みが混じり合って、息ができなくなる。

朝の光が森を照らし始めた頃、二人の声は静かになった。ふふっと笑い合う声が、まるで夜の秘密を封印するように消えた。私は動けなかった。涙が止まらず、胸の奥で叫びが響く。  

「椿くん…唯ちゃん…おめでとうって、言わなきゃいけないのに…」  

でも、心は喜べなかった。愛する人の幸せを願うのに、こんなにも苦しいなんて。


日が暮れ始めた頃、ゆっくりと目を開けると二人が私のそばにいた。心配そうに覗き込む椿くんの瞳と、唯ちゃんの優しい微笑み。  

「綾香、よかった…!」  

二人の声が重なり、温かさに包まれる。でも、私の心はまだ冷たいままだった。  

「ありがとう…助けてくれて…」  

そう呟きながら、私は笑顔を浮かべようとした。だけど、胸の奥では、椿くんへの想いと、夜に見た影が、静かに疼いていた。
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