百万の契約

青いピアノ

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第1章 契約と秩序

第30話 契約の尖塔

三角山の山腹。霧の都から遠く離れたこの地には、風の音すらも柔らかく、太陽の光がゆるやかに降りていた。

「……だから、やっぱり自分の意思で契約しまわけじゃないの」

綾香の声は不安と動揺がまだ強く残っていた。彼女の視線は足元の土に落ちている。声に感情が追いつかないまま話を全てを話した。

彼女の頬には、気づかぬうちに涙が一筋流れていた。それが冷えた夜気に触れて光り、頬を伝う途中で止まりかけていた。

椿はゆっくりと、小さな小枝を焚き火にくべた。ぱちっ、と音がして、炎がひときわ強く揺れる。椿は焚き火に小枝を足すと、静かに綾香を見つめた。

「綾香、唯、二人を証人として、本部に連れて行ってもいいかな」

「おお、契約の尖塔《リグナ・コード》だね!私も見れる?契約管理機構《コード・レジスト》の本部施設!」

唯が笑顔で喜びながら手を叩く。

「わたし、あの尖塔、一度見てみたかったんだ。契約の中心地なんて、ワクワクが止まらないよ」

綾香も笑ってみせるが、その胸の奥には、まだ小さな棘が刺さっていた。自分と屋毒の契約のこと、あるいは母の死のことではない。唯と椿のあの夜のことが一番の不安で、心が少し痛かった。

でも、それを今口にするのは違う気がして、綾香は夜空を見上げた。

「今日はもう遅いから、この場で一泊しよう。明朝出発する」

椿がそう言うと、唯が満足げに椿の腕を組んで、飛び跳ねた。

「了解!じゃあ、明日!どうやって行くの?ここから近い?」

「本部から長距離移動用に鳥の魔獣を借りている。空を飛んで、バロー港に行こう。そこからは船だ」

「おお! 鳥さん楽しみ~」

綾香は小さく笑ってから、眠りについた。

朝、椿は草むらの中に立っていた。手にした杖を軽く振り、空へと魔力の波を放つ。

「契約に則り、我に従えし獣よ。我を迎えに来たれ。本部へと連れて行け。来い、『キルセイン』!」

空の遥か上から鳴き声が聞こえた。およそ一時間後、大きな影が山肌に落ちる。

それは巨大な怪鳥だった。全身が光沢ある群青の羽毛で覆われ、翼を広げれば五メートルはあろうかという大きさ。その名を『キルセイン』という。

「キルセインは、本部が管理する魔獣の一体だよ。霞山町周辺で待機してくれていたんだ。ここからだと本部へは少し遠くなってしまったけど、港までは運んでくれる」

唯は颯爽と怪鳥の背に飛び乗って、「たーのしーい!」と叫んだ。

風を受ける姿で笑っていた。三人はそのまま、怪鳥に乗って南東のバロー港へ向かう。

——バロー港は、この地方で最も陽気な町。

石畳の道には花が咲き乱れ、港の風は香辛料と海の香りを運んでくる。あちこちで笛の音や笑い声が響き、契約書を片手にうたた寝する老人までいた。

「この港、みんなだらけきってるね」

唯が笑う。

「ここは“ゆるゆる契約都市”って呼ばれてるくらいで、誰も堅苦しい契約は嫌がるんだ。港としての機能は完璧なんだけどね」

唯はケラケラと笑った。

港から出航した機構用巨大帆船は、魔力で動く特別仕様。船体は黒曜石と白銀、赤の魔法石で飾られ、風の精霊が帆を膨らませていた。

船旅は穏やかだった。唯は精霊と遊び、綾香は椿の横で椿を見つめ、静かに瞳を閉じいた。

二日後——

本部の島が視界に入った瞬間、三人は思わず言葉を失った。

色とりどりの花が咲く町並み、魔法の光で動くカート、空を飛ぶ郵便鳩たち。そして、島の中央にそびえる、三本の白銀の尖塔。

「……あれが、契約の尖塔《リグナ・コード》」

椿の声には、ほんの少しだけ誇らしさが混じっていた。

本部自体は小高い山の頂に位置しており、その周囲には町が広がっている。山麓の町から本部に通う職員も多く、そこには住宅地や商店街が広がり、地元の住民と本部の職員が共に生活している。港から伸びる道は、魔法の生物たちがひらりと飛び交い、空気が輝いていた。道端では一般人が静かに契約を交わし、新たな道を切り開いている様子が見える。三人は魔法の絨毯に乗り、風を切り裂くように契約の尖塔《リグナ・コード》へと向かって進んでいった。

門前で、厳しい顔をした本部防衛局の衛兵、コードガードが三人を出迎える。

「施設入場には簡易契約書を。外部者には必須だ」

「えーっ、やだよ契約~。私契約嫌いなんだよねー」と唯がふてくされる。

「これはただの立ち入り用だから」と椿が微笑むと、唯はしぶしぶサインした。

本部施設に近づくにつれ、建物の壮大さと威圧感が増していった。

本部は、世界の中心に位置する千三百平方キロメートルほどの広大な島の中央に建てられている。島の周辺には、契約に基づく秩序を維持するための施設が密集しており、まるでひとつの街を形成している。

「着いたよ、機構の本部、契約の尖塔《リグナ・コード》。三本の白銀の尖塔は、仲裁、監査、執行を象徴している。周囲には、医療局、本部防衛局、訓練所、魔法科学実験場、契約官たちの寮や宿舎、食堂、商店、倉庫などが並んでいる」

巨大な扉を開けると、内部は異世界のように広がっている。床を覆う白い石が冷たい光を反射し、無数の扉と回廊が迷路のように続いている。金属音だけが静かな空間に響き渡り、まるで時間が止まったかのような冷徹な雰囲気が漂う。

椿は、契約管理指揮官の待つ部屋へ向かう途中、施設を説明しながら歩き続けた。

管理指揮官の部屋に着くと、その扉は自動的に開き、中に入ると、広大で無機質な部屋が広がっていた。

指定された部屋へと移動すると、白い壁に高い天井、中央には長いテーブルがあり、その周囲に複数の上位契約管理官たちが並んでいる。ここが、契約のすべてを取り仕切る場所だ。指揮官は高背の男性で、黒い装束を身にまとい、顔を見せずに手元の書類を整理していた。

入室し、椿は早速報告を始めた。

「報告を致します。調査の結果、偽装契約であることが確認されました。大火観綾香本人の同意なしに、綾香の母がサイン。…それと、屋毒は我々に内容を確認されないよう、妨害魔法を意図的に使用していました」

椿の言葉を聞いた指揮官は、しばし黙ったまま何も言わなかった。その間に、綾香はほんの少しだけ身を固くしていた。指揮官の視線は鋭く、冷徹だった。

「……ふむ」

指揮官がようやく口を開く。

「これは大きな問題だ。しかし、契約が偽装であることが確認できたのであれば、即時対応が必要だ。綾香、君はこの後、処理担当者に引き渡されることになる」

「……ただ、契約は既に履行されました。内容は、綾香が十五歳になるまで屋毒は命をとらない、十五歳になると綾香の封印を弱め、屋毒の求めていた物を渡すというものでした」

「つまり、契約は完了したと?」

「はい」

「……ふむ。一旦こちらで引き取ろう。後日、再び綾香を連れてここに来てくれるか。詳細は別途連絡する。…椿、とりあえずお前の初任務は完了だ。ご苦労だったな」

その瞬間、椿の左手首の鎖が淡い光を放ち、鎖の真下に「1」の数字が浮かび上がった。

「これは……?」

綾香と唯は驚きの声を漏らす。

「任務完了ごとに数字の契約印が浮かぶんだ。つまりこの数字=任務完遂数ということ」

椿は冷めた目で、どこか哀しそうにその数字を眺めていた。

外に出ると、綾香の目を見て呟いた。

「忍び装束をなんとかしよう。それと、傷を治そう。よかったら、ついてきてくれる?」

その声に、綾香は一瞬迷ったが、すぐに微笑んだ。

「うん、行く」
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