伊藤とサトウ

海野 次朗

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第二章・尊王攘夷

第9話 土蔵相模

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 ここで高杉晋作という男のことを少し解説しておきたい。

 以前、吉田松陰が斬首された場面で松陰と高杉の関係に少しだけ触れた。言うまでもなく高杉と久坂は松陰の松下しょうか村塾そんじゅくにおける二大巨頭きょとうである。ただし高杉の場合、その村塾の中でも「あばれ牛」の異名を持つほど負けん気が強く、手の付けられない男として有名だった。
 俊輔より二歳年上で、身分は俊輔や山尾などとは比べ物にならない上士じょうしの家柄であり、村塾生の中では最高の家格かかくの持ち主だった。彼は藩の学校にはらず、親の目を盗んでこっそりと夜な夜な村塾へ通った。松陰はこの高杉に非常な期待をかけ、熱心に教育した。
 松陰の死後、高杉は航海術の修行や剣術の修行などに打ち込んでいたが、この年の夏、上海へ視察に行った。この上海視察のことは第1話でも触れた通り、当時サトウも清国(中国)に滞在中だった。
 当時の清国はアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北してからまだ二年足らずで、しかも上海近辺では太平たいへい天国てんごくの乱が猛威を振るっていた。そんな上海の治安を清国政府がたもてるはずもなく、上海はイギリス軍などの外国人軍隊(じょう勝軍しょうぐんのウォードやゴードンが有名。ただしウォードはちょうどサトウ来日と同じ月に戦死した)によって守られていた。
 サトウの上海滞在中、太平天国軍が上海を襲撃しに来たので彼は拳銃ピストルを握ってホテルの外に飛び出てみると上海市民は大混乱になっていた、というサトウの記録も残っている。
 五代才助さいすけ(後のともあつ)達と上海の惨状をの当たりにした高杉は「日本を清国の二の舞にしてはならぬ」と深く心にきざんだ。
 読者の方々は「なるほど。だから高杉は帰国後、過激な攘夷活動に走るのだな」と思ったかも知れない。確かにそれは当たっていなくもないのだが、当たっているのは半分だけである。
 高杉は開国の必要性はわかっている。なにより彼はこの上海視察の前に「西洋行き」を願い出ているぐらいだった。
 ちょうどこの頃、幕府初のけんおう使節団(いわゆる竹内使節)がヨーロッパへ行っている。本来は高杉もこの遣欧使節に加わるはずだったのだが長州からは一名しか加われなかったため代わりにすぎ徳輔とくすけが参加することになった。そのあと高杉は久坂たちと長井ながい雅楽うたを斬ろうとしていたところ、桂がそれをやめさせるために高杉を上海へ行かせたのだ。
 高杉は上海で個人的な買い物として拳銃ピストルを二丁買ってきたが、ついでに藩の買い物として蒸気船も一隻、勝手に長崎で契約してきた。ただしこれは後で藩から却下きゃっかされた。
 要するに高杉としては
「まともな開国をするためには外国から言われたままの開国ではなく、一回ちゃんと攘夷をやって武士のたましいを見せつけてやろう」
 と考えた訳であるが、もっと端的たんてきに言ってしまえば
「薩摩にも西洋にも負けてたまるか」
 という、ただそれだけの気持ちで闘志を燃やしていたのであろう。
 常識をもってしては世の中を変えることはできない。師である松陰が高杉たちに「狂挙きょうきょ」をすすめたように、狂人になって猪突ちょとつ猛進もうしんしなければ世の中は変わらない。
 以後、彼は松陰のあとを引き継ぐかのように「狂挙」を重ねていくことになる。


 ここでもう一人、俊輔の友人である志道しじ聞多ぶんた(後の井上かおる)のことについても、その略歴りゃくれきを述べておきたい。
 聞多も高杉と同じく上士の身分である。生まれ育った湯田ゆだ村(現在の山口市湯田ゆだ温泉おんせん)の井上家も上士格だが、後に養子に入った萩の志道しじ家も上士格であり、年齢は高杉より四歳年上である。ただし彼は松下村塾とは関わりがなく、俊輔と知り合ったのは江戸でのことだった。武士の身分でもない俊輔や山尾から「聞多」と呼び捨てにされるというのは面妖めんような話にも見えるが、どうもそういった部分にはこだわらない性格らしい。そのくせ後世こうせい、短気ですぐ怒るので「かみなりじじい」とあだ名されるというのだから、この男の感覚はまったくつかみどころがない。
 後世の話と言えば、彼は明治時代に汚職おしょく問題などを引き起こした金権きんけん政治家として有名である。西郷隆盛から「三井の番頭ばんとうさん」と呼ばれたように、実際その後も三井家との昵懇じっこん間柄あいだがらはつづき、また今度一万円札の顔になる渋沢しぶさわ栄一えいいちとも昵懇となる。明治時代の政治や財政にまつわる彼の逸話などはあげればキリがないので割愛するが、ある種のトラブルメーカーであったことは事実であろう。
 とにかく大蔵おおくら大臣まで務めることになる人間であり、元々金に関することには自信があったものと見え、それは幕末の彼の活動においてもその片鱗へんりん随所ずいしょでうかがえる。
 彼は尊王攘夷の拠点である松下村塾出身という訳でもなく、逆に江戸で蘭学や砲術を学んだ上に横浜で英学修行までしているのだから、本来高杉たちの過激な攘夷グループとは縁がないはずだった。にもかかわらずこの当時率先そっせんしてイギリス公使襲撃作戦に関わっているのは、よほど高杉に感化されたのか、それとも自分も少し関わった来原良蔵の横浜襲撃未遂みすい事件の影響か、あるいは友人である俊輔からの影響か、その点よくわからない。
 なにしろこの男の行動基準というのは(後世も含めて)よくわからないのだ。


 高杉が「よし、そいつらを斬ろう!」と叫んだ前回の場面に戻る。

 ところがそれを今度は聞多が止めた。
「公使の護衛にち取られた場合、あるいは首尾しゅびよく公使を斬ったとしても切腹はまぬがれず、どのみち死あるのみだ。それは別に構わんが、今我らはこの相模屋だけでも五十両の借金がある。このまま死んだのでは借金を苦にして死んだと思われるだろう。それでは武士の面目めんぼくが立たぬ」
 高杉が聞多に言い返した。
「俺が上海で買って来た西洋式のくさり時計をお前に渡しただろ。あれを売れと言ったではないか。途中で落っことしたんじゃないだろうな?」
「あんな壊れかけた時計が売れるものか!まず誰かに修理してもらえ!とにかく、他の借金や金沢への討ち入り費用を考えると合計百両の金は必要だ」

 これほどの金を用意するとなると、やはり藩の会計にけ合うしかない。江戸藩邸の会計担当者は来島きじま又兵衛またべえである。
 一同は誰が又兵衛に掛け合うかを決めるために藤八拳とうはちけん(お座敷ざしきげいの一種で“きつね拳”とも言い、ジャンケンと同じようにきつね猟師りょうし庄屋しょうやの三種類のポーズで勝ち負けを決める)でホイッ、エイヤッと勝負をして、結局聞多が負けた。
 金の工面くめんにかけては自信のある聞多としても今回はさすがに自信がない。
 なにしろこの前もらった横浜での英学修行用の百両もすでに使い果たしているのだ。しかしこの晩、聞多はこの土蔵相模で馴染なじみのおさとと寝物語で話している時に一つの妙案を思いついた。

 二日後、なぜかとうの来島又兵衛が土蔵相模にやって来た。
 いや、もちろん聞多たちに会いに来たのではない。又兵衛の馴染みのおなつという女郎じょろうに会いに来たのだ。
 来島又兵衛というと大体大河ドラマでは禁門きんもんの変(はまぐり御門ごもんの変)の場面で馬に乗って槍を振り回して最後には薩摩の西郷に討ち取られる、という印象が強い。とにかく武骨で好戦的というイメージが流布るふしているように思われる。こういった会計担当者として登場するのは、おそらく大昔に作られた「幕末の土蔵相模を舞台にしたぼう白黒映画」ぐらいのものであろう(ただし又兵衛が会計担当者だったのは史実しじつであるらしい)。

 又兵衛が時々この土蔵相模に来ていることは聞多も薄々うすうす承知しており、聞多はお里から又兵衛の馴染みがお夏であることを聞き出した。そして「お夏が又兵衛に会いたがっているから店に来てくれるように」とお夏に手紙を書かせたのだ。

 又兵衛がお夏との逢瀬おうせを楽しんでいる部屋に、聞多はいきなり乗り込んできた。そして代わりにお夏は部屋から出ていった。もちろんすべて事前の打ち合せ通りである。
「聞多、これは一体何事なにごとか!」
 又兵衛はカンカンに怒った。当たり前であろう。聞多はすぐさま頭を下げて又兵衛に懇願こんがんした。
「横浜での学費百両拝借はいしゃくの件、なにとぞお聞き届け頂きたくお願いにあがりました」
「そのようなことは藩邸で申すがよかろう。大体お前たちには前に一度百両渡してあるではないか。おおかた遊郭にでも出入りして使い果たしてしまったのであろう。これ以上は一両も貸せぬ」
「なるほど確かにたまには息抜きのため遊郭へも参りましたが、横浜では家賃や物の値段が高く、それで前の百両はほとんど使い果たしてしまいました。なにとぞ、あと百両お下げ渡しくださるようお願い申し上げます」
「とにかく、そのような金はない」
「お言葉ではございますが、来島様のふところにはお夏からの手紙といっしょに百両があるのではございませんか?」
 又兵衛はアッという表情をして真っ青になった。

 聞多はお夏の手紙に「お夏が最近物入ものいりで手元が苦しく、金子きんす百両をお貸し願いたい」とも書かせていたのである。お夏にご執心しゅうしんの又兵衛がそれを断るはずがなく、またこの事を口外こうがいできるはずもないことを承知の上で、聞多はそのように仕組んだのだった。

 ともかくも、こうして聞多はまんまと藩から百両せしめた。
 その百両を持って聞多が高杉たちのところへ戻ってみると、高杉と久坂が怒鳴どなり合いのケンカをしていた。
 久坂は高杉に言う。
「イギリス公使を斬ったところで何になる。長州が幕府から責められるだけではないか。我々はまさに犬死にだ!」
 高杉がこれに反論する。
「犬死にではない!我が長州の攘夷が本気であることを世間に見せつけることが一番重要なのだ。さすれば世間は長州を信用する!」
 しかし久坂は納得しない。
「今、京と江戸では尊王攘夷の気運が高まってきているのだ。攘夷を実行するために日本中の志士が力を合わせ、一致協力して外国に戦争をしかけるべきだ」
「そんなのは書生しょせい論だ。時勢じせいは待って出来るものではない。誰かが率先そっせんしてやらねば出来ぬものだ。邪魔するようなら異人を斬る前にお前を斬るぞ、久坂!」
「おお、斬るなら斬れ!藩に迷惑をかけるぐらいなら今斬られたほうがマシだ!」

 この二人のケンカには誰も手が出せなかった。しかし戻って来たばかりの聞多が置いてあった酒をガブガブと飲みはじめ、カラになった徳利とっくりを投げつけて叫んだ。
「俺がこんなに苦労して百両作ってきたというのに、お前らは何だ。俺は面白くないぞ!」
 それから手当たり次第に酒や料理を高杉と久坂めがけて投げつけ
「お前らにはこの百両はやらん!」
 と言って部屋から出て行こうとしたので皆が「まあまあ落ち着け」と聞多をなだめにかかった。それで結局、高杉と久坂のケンカは消えてしまった。

 そして金沢での襲撃計画は予定通り十一月十三日に決行と決まり、その前日に神奈川宿の旅籠はたご下田屋しもだやに集合することになった。
 この計画に参加したのは高杉、久坂、聞多、山尾庸三たち総勢十数名であった。


 一同は決行前日に下田屋へ入り、ここで一晩を過ごした。
 そして翌早朝、皆が金沢への出陣準備をしていると山尾が外の異変に気がついた。
「おいっ、外の様子が変だ」
「何?計画がバレたのか?」
「どうやらそうらしい。幕府の同心どうしんらしき連中が二、三十人ほど集まっている」
 すかさず高杉が刀をつかんで立ち上がり、皆に下知げちした。
「やむを得ん。斬り開いて突破するぞ」
 皆が「おう」と刀をつかんで建物を出ようとすると、ちょうど三条、姉小路の両勅使ちょくしからつかわされた使者が久坂あての書状を持って下田屋へやって来た。

 その書状には「幕府は攘夷実行を受けいれそうなので、今は暴挙をつつしむように」と勅使からの命令が書かれていた。
 久坂から回された書状を高杉が読み終わらないうちに、聞多が叫んだ。
「聞くな、聞くな、そんな命令!ここまで準備して今さら引き下がれるか!」
 この男は以前、来原の横浜襲撃を止めるため説得しに行ったことがあるくせに、自分は人の説得を受けいれないというわがままな男であった。
 しかし、そうは言っても勅使からの命令を無視するわけにもいかず、皆がああだこうだと言い合っているうちに、今度は定広からの使者である山県やまがた半蔵はんぞう(後の宍戸ししどタマキ)がやって来た。
君命くんめいである。全員、梅屋敷まで出頭せよ。そこで若殿がお待ちだ」
「山県さん!なぜ我々のことが若殿のお耳に入ったのですか?」
「うむ。土佐の容堂公から若殿のところへご注進があったようだ」

 おそらく両勅使と容堂への情報漏洩ろうえいは、この計画に反対していた久坂玄瑞からなされたものと見るのが妥当だとうだろう。いくら高杉とはいえ、定広からの命令には逆らえない。皆ぞろぞろと蒲田かまたの梅屋敷へ向かった。

 皆が梅屋敷に到着すると、そこでは定広が待っていた。
 ちなみにこの梅屋敷は一ヶ月前にサトウも立ち寄ってムスメたちに見とれていた、あの梅屋敷である。
 定広自身が梅屋敷まで馬を飛ばして家臣たちを止めにきたのは、下手へたに部下を派遣して薩摩が伏見ふしみでやったこと、すなわち「寺田屋事件の二の舞になるのを恐れたから」ということもあるだろうが、おそらく数ヶ月前に「来原の説得に一旦成功しながらも切腹させてしまった」という自責じせきの念から今回は自分自身でやって来た、ということでもあったろう。

 土下座して恭順の姿勢を見せている高杉たちを前にして、定広はこんこんと説諭せつゆの言葉を述べた。
「諸君の志には誠に感服するが、今は勅使のお役目を補佐するために不才ふさい微力びりょくな私に力を貸してほしい。諸君のような有志ゆうしの若者を死なせるのはしい。どうか思いとどまって藩に帰参きさんしてもらいたい」
 このように主君から親身に説得されたので一同は感涙かんるいにむせんだ。そして大人しくその命に従った。
 ただし高杉だけは涙も流さず、平然と計画の本質を順序立てて定広に説明したといわれている。
 このあと定広から一同に酒が下され、ささやかな酒宴となった。


 ところがこの場にあの周布すふ政之助まさのすけも、すでに酒が入った状態でやって来て更に酒を飲みはじめた。
 の悪いことに、この場には容堂から派遣されてきた土佐藩士四名も来ていた。その内の一人は後に日清戦争などで勇名をはせる「独眼どくがんりゅう将軍」山地やまじ忠七ちゅうしち(後の元治もとはる)である。
 周布と土佐藩士というと、この八日前にもひと悶着もんちゃくあったばかりだが、案の定この日も帰り際に一騒動、起きてしまった。まあ先日の騒動の第二ラウンドとでも言うべきであろうか。

 酔っ払った周布は馬上から土佐藩士たちにむかって放言ほうげんした。
「容堂公の尊王攘夷は口先だけでござろう!幕府が攘夷に踏み切らぬのは容堂公が尊王攘夷をチャラかしなさるからだ!」
 この暴言を土佐藩士たちが許すはずもなかった。
「一度ならず二度までも我が主君を侮辱ぶじょくするとは、もはや許せん!」
 そう言って山地たちが周布に斬りかかろうとしたので、久坂や聞多たちがそれをなだめて制止しようとしたところ、高杉が刀を抜いて
「なるほど貴殿きでんらの怒りはもっともである。お手をわずらわせるには及ばない。代わりに拙者がこの男を斬り捨てる。それでは周布殿、お覚悟めされよー!」
 そう言って周布にバッサリと斬りつけた。
 が、馬の尻を少し斬っただけで、馬はヒヒーンと悲鳴をあげて周布を乗せたまま駆け出し、あっという間に遠くへ走り去って行った。

 まったくもって芝居か歌舞伎のようでちょっと出来過ぎな話であるが(昔TVドラマでもこのようにやったらしいが)実際史書にもちゃんとそのように書かれているエピソードである。

 ただ一点疑問があるのは、よく史書の中の説明で
「聞多が聞いた話では、十一月十三日は西洋ではサンデー(日曜)という休日で、その日は遊山ゆさんに行く習慣があるので公使たちは金沢へ行くのだ」
 という記述があるが、実際この十一月十三日はサトウとウィリスが話していたように西暦では翌年の1月2日にあたり、この日は日曜日ではなくて金曜日なのだ。外国には日本のような「正月三が日」という習慣もない。聞多が情報を聞き違えたのだろうか?真相はよくわからない。

 この話はこの後、土佐藩側がこのままでは納得しなかったため結局定広が土佐藩邸へびに行ったり、ばつとして周布を国許くにもとへ帰すと約束しながら改名だけさせて江戸に残留させたり、といった余談もあるが、そろそろ俊輔に再登場してもらわないといけないので、それらは割愛かつあいする。

 とにもかくにも、高杉たちが武州金沢でイギリス公使(実際のところニールは代理公使なのだが)を襲撃する計画はこのようにして立ち消えとなり、ニールやサトウたちは金沢への遊覧旅行から無事帰ってきたのであった。


 この事件の後、高杉たちは藩邸へ引き戻されて謹慎きんしんを命じられた。しかしながら彼らはその「攘夷実行」の決意を変えなかった。
 この謹慎中に高杉たちは「御楯みたてぐみ」を結成した。
「金沢での計画は失敗したが百折ひゃくせつ不屈ふくつの決意で「攘夷実行」を貫徹かんてつして国の御楯みたてとなる。次は必ず攘夷のじつをあげてみせる」
 こういった血盟書けつめいしょを作って全員で署名、血判けっぱんした。

 この御楯組にはその後つぎつぎと同志が加盟してきたのだが、ちょうどこの頃江戸に到着した俊輔もただちにこれに加盟した。
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