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第二章・激闘
第26話 菊川の手打ち式と犬上の変節
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遠州、つまり遠江とは現在の静岡県西部地方のことをいう。
その中心地は浜松である。そのため明治の一時期、遠州は浜松県と呼ばれた。
中央を天竜川が流れ、そこから西が現在の浜松市に該当する。そして天竜川の東には、当時の東海道の宿場でいうと見附(現在の磐田市)、袋井、掛川、日坂、金谷とつづき大井川にぶち当たる。大井川は遠州の東の境界線であり、この「越すに越されぬ大井川」を渡ると駿河の島田宿がある。
そして大井川の手前の金谷と日坂の間に菊川という小さな川が流れており、そこに菊川宿という間の宿があった。間の宿とは宿場と宿場の間にある休憩所のようなものだ。
その菊川宿で次郎長が宿敵の赤鬼金平と手打ち式をおこなうことになった。
金平はかつて都田の吉兵衛と一緒に伊豆から船で清水を急襲したことがある。その後、兄弟分の吉兵衛は次郎長によって殺された。当然ながら金平は激怒し、それ以降、虎視眈々と次郎長の首を狙っていた。
そういった経緯もあって次郎長は清水を離れて各地を転々としていたのだが、いっそ丹波屋伝兵衛の力を借りて金平と手打ちに持ち込むことを考えたのだった。
ちなみにこれまでの対立構造を簡単にまとめておくと、勝蔵側の勢力は竹居安五郎、大場の久八、赤鬼金平、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、そして死んだ都田の吉兵衛など。
一方、次郎長側の勢力は江尻の大熊、安東の文吉、寺津の間之助など。
ただし、こういった対立構造はそれほど単純なものではなく、明確に次郎長と敵対しているのは大場の久八と赤鬼金平、さらに都田の吉兵衛の兄弟、すなわち常吉と留吉ぐらいのもので、それ以外は別にそれほど激しく対立しているわけではなかった。
次郎長にしても丹波屋伝兵衛とは良好な関係にあり、実は勝蔵も安東の文吉とは懇意である。特にこの伝兵衛や文吉は武名よりも博徒間の仲介役で名を上げている男だ。
実際、博徒たちも他人の縄張りにまで手を出そうとする奴はごく少数派で、戦国時代のような弱肉強食の世界というわけではない。それで、機会を見ては今回のように両者間で手打ち式をおこなって「休戦協定」を結ぶのは、よくあることだった。
伊勢古市の伝兵衛のところでこの手打ち式の話を聞いた勝蔵は、これから本格的に次郎長と戦う覚悟をしていただけに少し拍子抜けした。
とにかく勝蔵自身も手打ち式に出席するため菊川へ向かったのだがその途中、三河の平井で雲風亀吉のところに寄った。
そして「平井の兄弟は出席しないのか?」と聞くと、
「どうせこんなのは名ばかりの手打ち式だ。すぐまた破約になるだろう。それで久八親分も出席しない。だから俺もバカバカしくて出る気がしない」
と亀吉は答えた。
まあ、確かにそんなところだろうな、と勝蔵も思った。
事実、この手打ち式を成立させるために伝兵衛と共に仲介の労を取った増川仙右衛門という男は、伝兵衛の女房の甥でありながら伝兵衛の仲間である金平の子分に父親を殺されたという幾分ややこしい経歴の持ち主なのだが、この仲介役をきっかけにして次郎長の子分となり、後日、次郎長と共に金平の子分に父の敵討ちを果たすのである(余談だがこの話は虎造の次郎長浪曲『秋葉の火祭り』で、仙右衛門の敵討ち相手を竹居安五郎の子分に置き換えて翻案されている)。
しかしそれはともかくとして、勝蔵は「俺は手打ち式に出る」と亀吉に言った。
「あの次郎長という男がこれからどうするのか?そいつをこの目で確かめたい」
だから俺は行く、といって勝蔵は菊川へ向かった。
十月の終わり頃、遠州の菊川宿に約四百人の博徒たちが集結した。「次郎長伝説」による誇張は多少あるにしろ、手打ち式でこれほどの人数が集まったのは博徒の歴史中、指折りの出来事であるのは事実のようだ。
これが正式な宿場である日坂や金谷であれば、役人の目もあって博徒たちがこれほど派手に集合するのは不可能なのだが、その中間の間の宿だからこそ可能だった。普段は利用する人も少ない、閑静な田舎の菊川宿は強面の男どもでごった返した。
むろん、時々通りかかる旅人たちは皆「さわらぬ神にたたりなし」のことわざ通り、彼らの方を見ないように目をそらしながら通り過ぎていった。
世話役の伝兵衛をはじめ、他に仲介人、立会人など多くの関係者が仲介の労を取っているが、中でも大変なのは刀監視役の橋本政吉である。会場内で匕首など刃物を振り回されてはすべてが水の泡となるので会場内に刃物はいっさい持ち込めない。それで政吉が入場者の体を触って身体検査するのだ。恐ろしく神経を使う作業である。
手打ち式は地元の有力者の屋敷でおこなわれる。広い座敷の上座には立会人として国定の金五郎、毛児島の新吉、舞坂の富五郎、宮島の年蔵といった重鎮たち十数名が座り、下座には仲介人の日坂の栄次郎、大和田の友蔵の二人が座る。そして座敷の中央には儀式に使う三宝に置かれた二匹の魚と盃があり、さらに屏風を並べて座敷の左右に座っている次郎長側と金平側をさえぎるようにしてある。
その次郎長側の出席者は次郎長の他、江尻の大熊、大政、相撲常、さらに寺津の間之助の代理人(関三郎)など七名。金平側は金平の他、黒駒の勝蔵、都田の常吉、下田の安太郎など六名。
手打ち式の儀式そのものはあっけないものだ。
まず世話役の伝兵衛が型通りのあいさつを述べ、両者を隔てていた中央の屏風を取り除いて両者がご対面となる。
それから儀式用の魚、これは三宝に鯛が二匹背中合わせで置かれており、これを腹合わせに置き直し、さらに出席者全員が盃を飲み交わす。
最後に全員が三回手を打って、それで、
「御目出度うございます」
と述べて終了となる。
あとは各自の参加者が別室なり別家なりで酒宴をおこなったりするのだが、それも酔っ払って問題でも起こせば手打ち式の障りとなるので早々に切り上げ、さっさと帰る者がほとんどだ。
儀式が始まる前に勝蔵は、身内である金平や常吉と話をしたところ、二人ともこの手打ち式には不満な様子だった。
そもそもこの手打ち式は二人から言い出したものではない。次郎長が伝兵衛に対して、
「今ここで手打ち式の仲介役を引き受けなかったら、後で何が起こってもすべて伝兵衛親分の責任ですぜ」
と脅し、それで伝兵衛がやむなく金平と常吉を説得して、こうなったのだった。主導権をすべて次郎長に握られた上での手打ち式なのである。
常吉などは、兄を殺した次郎長とここで対面するのは反吐が出そうだ、と勝蔵に不平を述べており、勝蔵としてもその気持ちは理解できた。
ただし勝蔵は、この次郎長との抗争の発端が、いま目の前にいる常吉が「石松から香典の二十五両をだまし取ったことから始まった」という裏事情までは知らなかった。
儀式の最中、中央の屏風が取り除かれて両者が対面すると、勝蔵は金平の隣りの席から、正面の次郎長たちと対面した。
勝蔵はずっと次郎長の表情をうかがっていた。
かたや次郎長も、手打ち相手の金平を無視するかのように、ずっと勝蔵の方をにらみつけていた。
それで勝蔵は、式が終わって各人それぞれ席を立ち始めるとさりげなく次郎長に近づき、廊下に出たところで次郎長を庭に誘い出した。
そして二人は庭で立ち話をはじめた。
「おい、勝蔵。こんなところへ俺を連れ出して、まさかケンカでもしようってえのか?それとも俺と相撲でも取りたいのか?」
と次郎長が薄ら笑いをうかべて勝蔵に言った。
「バカを言え。せっかく伝兵衛親分が苦労してまとめた手打ち式を、誰がぶち壊すもんかい」
「じゃあ何の用だ?いいたい事があるなら、さっさと言え」
「それは俺の台詞だ。俺に何か含むところがあるんだろう?お前の顔がそう言っていた」
「……勝蔵。ひとこと言っておく」
「何だ?」
「俺はお前が大嫌いだ」
「そいつは奇遇だな。俺もお前が大嫌いだよ。次郎長」
「俺がなぜ、金平と手打ちしたのか教えてやろう。勝蔵。まず、お前をぶっ潰すためだ」
「ほお~、ずる賢いと評判のお前が自分から手の内を明かすとは珍しいじゃねえか。それほど俺が憎いか?」
「そうだ」
「なぜだ?」
「俺は甲州人が大嫌いだからだ。特に武田信玄にかぶれているお前みたいな野郎が一番嫌いだ」
「……なるほど。お前は義元びいきだったからな」
「今、お前も竹居の吃安もお上から追われているそうじゃねえか。いずれお前も吃安もお上に捕まって縛り首になるぜ。これで甲州の博徒は全滅だな」
「何を言いやがる。そう簡単に捕まってたまるかい。大体、お前自身もお尋ね者だろうが。他人の事が言えるのかよ」
この勝蔵の言い分に次郎長は何も答えなかった。が、その表情を見て勝蔵はピンときた。
「……てめえ、まさか“二足の草鞋”を履くつもりなんじゃねえだろうな?」
「さあな」
「そうか。やはり。お前もお上に取り入って罪状を消してもらって、目明しになろうっていうんだな。汚え野郎だ」
「何を言ってるんだ?勝蔵。俺は何も言ってねえぜ。ただ、俺は権現様(家康)ゆかりの駿河人だ。お上に歯向かうお前やソンノージョーイとやらの悪党どもは、いずれどのみち、一人残らず縛り首になるんじゃねえかと思うぜ」
次郎長はそう言い残して、勝蔵のもとから去って行った。
勝蔵は、この蛇のように執拗で冷酷な男と、いずれ必ずぶつかることになるだろう、と次郎長の背中を見ながら思った。
この菊川の手打ち式が終わったあと、勝蔵は半年ぶりに甲州へ戻った。ただし、単身お忍びで戻っただけで、すぐまた放浪の旅に出る。
帰国する理由は、竹居の安五郎親分のところに、国分の三蔵の用心棒だった犬上郡次郎が寝返ってきた、という噂を聞いたからだった。それで勝蔵は単身、竹居へ向かったのだった。
晩秋の落葉を踏みしめながら御坂山地の山道を越えて竹居村に着くと、そこでたまたま竹居一家の子分たちと出会った。そして彼らから安五郎親分の居場所を聞き、さらに犬上郡次郎の評判も確かめ、ついでに戸倉にいる玉五郎を呼んできてくれるように頼んだ。
勝蔵が安五郎の隠れ家に到着すると、そこに安五郎と犬上がいた。そしてしばらくすると玉五郎もやって来て久しぶりに再会した。
犬上と対面するのはこれが初めてだった。背はやや高めでがっしりとした体つきをしており、いかにも柔術使いといった体格だ。顔は面長で目つきが鋭い。いや、鋭いというか、何を考えているのかさっぱり分からない氷のように冷たい目つきだ。以前、いくぶん頭がイカれているらしいと玉五郎から聞いていたが確かにそうかも知れない。歳は自分と同じで三十ぐらいだろう。と勝蔵は思った。
この席で勝蔵が犬上から聞いた話というのは、こうである。
祐天仙之助が縄張りにしている勝沼で相撲大会が開かれるというので、犬上の雇い主の三蔵と仙之助が犬上に相撲大会に参加するよう勧めた。それで何の疑いもなく土俵にのぼったところ突如として仙之助が「犬上は牢破りの罪人だから捕縛せよ!」と捕り方に命じた。
褌一丁の丸裸で刀も持ってない犬上は捕り方たちによってあっけなく捕縛されてしまった。確かに犬上が前年、館林で牢破りをしたのは事実なので、目明しの仙之助はその罪状をもって犬上を館林の牢屋へと送還したのだった。
ところが犬上は再び牢破りに成功し、甲州へ舞い戻って来た。そして「自分をだました祐天と三蔵にどうしても復讐したい」と言って安五郎の側に寝返ってきた、という話だった。
なるほど筋は一応、通っている。
が、しかし、不審な点がない訳でもない。
「よく、そんな簡単に牢破りができるものだなあ」
と勝蔵が犬上に尋ねた。
これに対し犬上は表情も変えずに、冷たいまなざしのまま答えた。
「実を言うと、拙者はある牢役人の不正を知っているので、彼を脅して牢破りを手伝わせた。それゆえ以前も、その方法で牢破りができたのでござる」
「ふん。なるほど」
(しかし、以前もやったことがあるんなら、今度こそ館林の牢番も厳重に取り締まりそうなもんだが……)
そう思いつつも勝蔵は、ひとまずこれ以上、犬上を追及しないことにした。
そのあと犬上は、仙之助や三蔵に対する怨みごとをくり返し述べた。
どうしても奴らに仕返しがしたい。しかし連中の子分は多いので自分一人ではどうにもならず、なんとかあなた方と一緒に戦って仙之助と三蔵の首を取りたい。以前、あなた方の敵として戦ったことは誠に申し訳なかった。
そう、何度も頭を下げて犬上は弁明した。そして仙之助や三蔵の戦力および内情について詳しく勝蔵たちに教えてくれた。
話を聞きながら勝蔵は、虫のいい話だ、と思った。
こんなにペラペラと昔の仲間の情報を密告する奴は、すぐまた敵に寝返って俺たちのことを密告するだろう、と。
その一方で、安五郎は犬上の言うことをすっかり信用しているようだった。なんせ用心棒として自分のそば近くに置いているぐらいなのだ。
「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」という安五郎の太っ腹な性格の表れ、ということでもあるのだろうが、これについては勝蔵もある種の自責の念を感じている。
(俺が甲州を抜け出してから、安五郎親分を守る人間がいなくなってしまった……。親分が犬上のような用心棒に頼るようになったのは、俺の責任でもある……)
それで勝蔵としては、犬上の寝返りに多少の抵抗感はあるものの、安五郎の意向を尊重したのだった。
勝蔵はそのあと別室で玉五郎と二人きりで話し合った。
「どうだ。黒駒の様子は変わりないか?」
「心配要りません。黒駒では皆、達者に暮らしてます。祐天や三蔵も、犬上からの復讐を恐れてか、今はナリをひそめています」
「そいつは良かった。それで各地へ散った子分たちのことは何か聞いてないか?」
「黒駒にもいろいろと話は届いてますが、そりゃあやっぱり、良い話なんてあるわけがないでしょう。金に困った子分が強盗をやったとか、ごくわずかではありますが、たまにそんな話が聞こえてきます」
「う~む。やはりそうか……」
あれだけの人数がいたんだから、中にはそんなことをやる奴もいるだろう。いやむしろ、元々ヤクザなんだから、そんなことがあったとしても何ら驚くにあたらない。
なんにせよ、早く一家を再興して彼らを呼び寄せてやらねばならない、と勝蔵は痛感した。
それから勝蔵はあらためて玉五郎に黒駒での留守番を頼み、甲州を去って再び東海道へ戻って行った。
それから一月と経たないある日のこと。
安五郎は例によって武藤家へ行って外記と囲碁を打って楽しんだ。そして日が暮れると竹居へ帰るために屋敷を出た。
武藤家のある黒駒から竹居まではおよそ一里の距離だ。その夜道を安五郎は歩いて帰る。護衛として、提灯をぶら下げた犬上郡次郎が安五郎に付き添って歩き、その後ろに子分が二人、付き従っている。
季節はもう冬に入っている。雪は積もってないが冷気が厳しい。空に月はなく、星明かりがわずかにある程度だ。
寒いので自然と早足になる。安五郎は大きな体を揺らしながら、犬上に話しかけた。
「こう寒いとお前さんも人肌が恋しくなるだろう?女をそばに置かねえで平気なのかい」
「いや。別に。その点は心配ご無用に願います」
「さっき八反屋敷で、お茶を運んできた若い娘に見とれていただろう?」
「いえ、決して、そのようなことは……」
「あの娘に手を出してはダメだよ。あれは武藤家の娘で、勝蔵の女だからな」
「ほう、あの勝蔵殿の……。いやいや。ですから別に、拙者は女なんぞに見とれてはおりませぬ」
「そうさなあ。俺のおりはだったらくれてやってもいいぞ。あの武藤家の娘ほど若くはないが、器量はなかなかのもんだよ。あいつも昔、浪人と連れ添っていたから、案外、お前さんとはお似合いかも知れないな」
「はあ……」
「いずれ機会があれば、あいつをお前さんのところへ連れてきて紹介してやろう」
「……」
「こうして、いつもお前さんに守ってもらっているからな。そのお礼として、もらって欲しいんだ。……嫌なのかい?」
「いえ、別に……」
それから犬上は言葉数が少なくなった。安五郎が何を聞いても生返事を返すだけだ。
(何だ、こいつ?女のことで世話を焼かれるのが気に入らねえのか?案外、気取った野郎なんだな……)
と安五郎は訝しく思った。
それからしばらく歩くと安五郎たちは黒駒と竹居の中間にある大野寺村にさしかかった。この辺りは一面、桑畑だ。
そのとき突然、犬上が持っていた提灯の明かりが消えた。
「も、申し訳ござらぬ。すぐに明かりをつけまする」
そう言って謝りながら犬上が提灯の火をつけ直そうとした。それで安五郎たち三人も立ち止まり、暗闇の中でたたずみながら待つことにした。
暗闇が安五郎の心に不安を誘う。
それで、なぜか一瞬、新島にいた頃に経験した暗闇のことが脳裏に浮び、島の生暖かい空気の感じと波音が安五郎の五感に再現された。
が、安五郎の五感が現実の危機を察知し、その非現実の感覚を一瞬にして振り払った。
自分の周囲、つまり桑畑から複数の人間が接近して来る気配を感じたのだ。これまで何度も危機をくぐり抜けてきた安五郎の危機察知能力は超一流である。
「今すぐ逃げろ!」
と低い声で子分たちへ言い放ち、それからすぐに道を駆けだそうとした。二人の子分はすぐに走って逃げた。
ところが、逃げようとした安五郎の右腕を犬上がつかんだ。
そしてすかさず腕を極めて地面に押し倒し、腕を極めたままがっちりと押え込んだ。
ゴキッ!
と安五郎は右肩を脱臼し、犬上の体の下でジタバタともがいている。
腕の痛みと無念さと、さらに犬上に対する憎しみから、声にならないうめき声が「ウガア!」と安五郎の口からあふれ出ている。
犬上が、押さえ込んでいる安五郎に向かって言った。
「竹居の親分。悪いがあんたの女は遠慮させてもらうよ。これで俺の仕事は終わった。もう竹居とはおさらばだ」
それからすぐに桑畑の中から二十人ほどの男たちが安五郎のところへ集まって来た。
提灯に灯がともると、そこに仙之助や三蔵の姿が浮かび上がった。
二人の顔には「してやったり」という会心の笑みが浮かんでいる。
こうして安五郎は、ついに捕縛されたのである。
すべてはお上が仕組んだ罠であった。
その仕組みを作り上げた首謀者は三人いる。
国分の三蔵こと高萩の万次郎、その同僚の道案内(目明し)江戸屋虎五郎、そしてこの直前に石和代官所に赴任してきた代官、内海多次郎である。
内海多次郎は安五郎たちによって殺された新島の名主、吉兵衛の血縁者で、安五郎の捕縛に執念を燃やしており、普通幕臣は誰も行きたがらない「山流し」の甲州へ自ら進んで赴任してきた男だった。それゆえ、安五郎を捕まえるためなら罠だろうと何だろうと手段を選ばず何でもやる、という意気込みで甲州へ乗り込んできた。
そして江戸屋虎五郎は万次郎と同じく二足の草鞋の博徒として八州廻りの目明しを勤めている。地元は犬上と同じ館林である。それで、犬上を館林の牢屋から出してやり、その代わりに安五郎の捕縛に協力させたのだった。
むろん、仙之助が相撲大会で犬上を捕縛したのも最初から仕組まれたものであり、目明しである仙之助が石和代官の内海の指示通り動いたまでのことである。
ちなみに内海はこの後すぐに甲州から他所へ転属となり、ほとんどこの仕事のために送り込まれたようなものだ。
内海、万次郎、虎五郎の三人が謀略を練り上げ、仙之助、三蔵、犬上の三人がその謀略の実行部隊として活動し、ついに幕府の念願だった安五郎の捕縛に至ったわけである。
これにより島抜けから八年余におよぶ安五郎の逃亡生活に終止符が打たれ、彼は石和代官所の牢獄に収監された。
そして三ヶ月後、すなわち文久二年(1862年)二月、牢獄内で病死した。
毒殺であった、ともいう。また、死亡したのは十月だった、という説もある。
なんにせよ安五郎の死には謎めいた点が多い。
それは彼の存在を、お上が闇に葬ったせいであったに違いない。
勝蔵は駿河の地を旅回りしている頃に、この「安五郎逮捕」の報に接することになるのだが、それはこれよりいくらか後のことである。
その中心地は浜松である。そのため明治の一時期、遠州は浜松県と呼ばれた。
中央を天竜川が流れ、そこから西が現在の浜松市に該当する。そして天竜川の東には、当時の東海道の宿場でいうと見附(現在の磐田市)、袋井、掛川、日坂、金谷とつづき大井川にぶち当たる。大井川は遠州の東の境界線であり、この「越すに越されぬ大井川」を渡ると駿河の島田宿がある。
そして大井川の手前の金谷と日坂の間に菊川という小さな川が流れており、そこに菊川宿という間の宿があった。間の宿とは宿場と宿場の間にある休憩所のようなものだ。
その菊川宿で次郎長が宿敵の赤鬼金平と手打ち式をおこなうことになった。
金平はかつて都田の吉兵衛と一緒に伊豆から船で清水を急襲したことがある。その後、兄弟分の吉兵衛は次郎長によって殺された。当然ながら金平は激怒し、それ以降、虎視眈々と次郎長の首を狙っていた。
そういった経緯もあって次郎長は清水を離れて各地を転々としていたのだが、いっそ丹波屋伝兵衛の力を借りて金平と手打ちに持ち込むことを考えたのだった。
ちなみにこれまでの対立構造を簡単にまとめておくと、勝蔵側の勢力は竹居安五郎、大場の久八、赤鬼金平、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、そして死んだ都田の吉兵衛など。
一方、次郎長側の勢力は江尻の大熊、安東の文吉、寺津の間之助など。
ただし、こういった対立構造はそれほど単純なものではなく、明確に次郎長と敵対しているのは大場の久八と赤鬼金平、さらに都田の吉兵衛の兄弟、すなわち常吉と留吉ぐらいのもので、それ以外は別にそれほど激しく対立しているわけではなかった。
次郎長にしても丹波屋伝兵衛とは良好な関係にあり、実は勝蔵も安東の文吉とは懇意である。特にこの伝兵衛や文吉は武名よりも博徒間の仲介役で名を上げている男だ。
実際、博徒たちも他人の縄張りにまで手を出そうとする奴はごく少数派で、戦国時代のような弱肉強食の世界というわけではない。それで、機会を見ては今回のように両者間で手打ち式をおこなって「休戦協定」を結ぶのは、よくあることだった。
伊勢古市の伝兵衛のところでこの手打ち式の話を聞いた勝蔵は、これから本格的に次郎長と戦う覚悟をしていただけに少し拍子抜けした。
とにかく勝蔵自身も手打ち式に出席するため菊川へ向かったのだがその途中、三河の平井で雲風亀吉のところに寄った。
そして「平井の兄弟は出席しないのか?」と聞くと、
「どうせこんなのは名ばかりの手打ち式だ。すぐまた破約になるだろう。それで久八親分も出席しない。だから俺もバカバカしくて出る気がしない」
と亀吉は答えた。
まあ、確かにそんなところだろうな、と勝蔵も思った。
事実、この手打ち式を成立させるために伝兵衛と共に仲介の労を取った増川仙右衛門という男は、伝兵衛の女房の甥でありながら伝兵衛の仲間である金平の子分に父親を殺されたという幾分ややこしい経歴の持ち主なのだが、この仲介役をきっかけにして次郎長の子分となり、後日、次郎長と共に金平の子分に父の敵討ちを果たすのである(余談だがこの話は虎造の次郎長浪曲『秋葉の火祭り』で、仙右衛門の敵討ち相手を竹居安五郎の子分に置き換えて翻案されている)。
しかしそれはともかくとして、勝蔵は「俺は手打ち式に出る」と亀吉に言った。
「あの次郎長という男がこれからどうするのか?そいつをこの目で確かめたい」
だから俺は行く、といって勝蔵は菊川へ向かった。
十月の終わり頃、遠州の菊川宿に約四百人の博徒たちが集結した。「次郎長伝説」による誇張は多少あるにしろ、手打ち式でこれほどの人数が集まったのは博徒の歴史中、指折りの出来事であるのは事実のようだ。
これが正式な宿場である日坂や金谷であれば、役人の目もあって博徒たちがこれほど派手に集合するのは不可能なのだが、その中間の間の宿だからこそ可能だった。普段は利用する人も少ない、閑静な田舎の菊川宿は強面の男どもでごった返した。
むろん、時々通りかかる旅人たちは皆「さわらぬ神にたたりなし」のことわざ通り、彼らの方を見ないように目をそらしながら通り過ぎていった。
世話役の伝兵衛をはじめ、他に仲介人、立会人など多くの関係者が仲介の労を取っているが、中でも大変なのは刀監視役の橋本政吉である。会場内で匕首など刃物を振り回されてはすべてが水の泡となるので会場内に刃物はいっさい持ち込めない。それで政吉が入場者の体を触って身体検査するのだ。恐ろしく神経を使う作業である。
手打ち式は地元の有力者の屋敷でおこなわれる。広い座敷の上座には立会人として国定の金五郎、毛児島の新吉、舞坂の富五郎、宮島の年蔵といった重鎮たち十数名が座り、下座には仲介人の日坂の栄次郎、大和田の友蔵の二人が座る。そして座敷の中央には儀式に使う三宝に置かれた二匹の魚と盃があり、さらに屏風を並べて座敷の左右に座っている次郎長側と金平側をさえぎるようにしてある。
その次郎長側の出席者は次郎長の他、江尻の大熊、大政、相撲常、さらに寺津の間之助の代理人(関三郎)など七名。金平側は金平の他、黒駒の勝蔵、都田の常吉、下田の安太郎など六名。
手打ち式の儀式そのものはあっけないものだ。
まず世話役の伝兵衛が型通りのあいさつを述べ、両者を隔てていた中央の屏風を取り除いて両者がご対面となる。
それから儀式用の魚、これは三宝に鯛が二匹背中合わせで置かれており、これを腹合わせに置き直し、さらに出席者全員が盃を飲み交わす。
最後に全員が三回手を打って、それで、
「御目出度うございます」
と述べて終了となる。
あとは各自の参加者が別室なり別家なりで酒宴をおこなったりするのだが、それも酔っ払って問題でも起こせば手打ち式の障りとなるので早々に切り上げ、さっさと帰る者がほとんどだ。
儀式が始まる前に勝蔵は、身内である金平や常吉と話をしたところ、二人ともこの手打ち式には不満な様子だった。
そもそもこの手打ち式は二人から言い出したものではない。次郎長が伝兵衛に対して、
「今ここで手打ち式の仲介役を引き受けなかったら、後で何が起こってもすべて伝兵衛親分の責任ですぜ」
と脅し、それで伝兵衛がやむなく金平と常吉を説得して、こうなったのだった。主導権をすべて次郎長に握られた上での手打ち式なのである。
常吉などは、兄を殺した次郎長とここで対面するのは反吐が出そうだ、と勝蔵に不平を述べており、勝蔵としてもその気持ちは理解できた。
ただし勝蔵は、この次郎長との抗争の発端が、いま目の前にいる常吉が「石松から香典の二十五両をだまし取ったことから始まった」という裏事情までは知らなかった。
儀式の最中、中央の屏風が取り除かれて両者が対面すると、勝蔵は金平の隣りの席から、正面の次郎長たちと対面した。
勝蔵はずっと次郎長の表情をうかがっていた。
かたや次郎長も、手打ち相手の金平を無視するかのように、ずっと勝蔵の方をにらみつけていた。
それで勝蔵は、式が終わって各人それぞれ席を立ち始めるとさりげなく次郎長に近づき、廊下に出たところで次郎長を庭に誘い出した。
そして二人は庭で立ち話をはじめた。
「おい、勝蔵。こんなところへ俺を連れ出して、まさかケンカでもしようってえのか?それとも俺と相撲でも取りたいのか?」
と次郎長が薄ら笑いをうかべて勝蔵に言った。
「バカを言え。せっかく伝兵衛親分が苦労してまとめた手打ち式を、誰がぶち壊すもんかい」
「じゃあ何の用だ?いいたい事があるなら、さっさと言え」
「それは俺の台詞だ。俺に何か含むところがあるんだろう?お前の顔がそう言っていた」
「……勝蔵。ひとこと言っておく」
「何だ?」
「俺はお前が大嫌いだ」
「そいつは奇遇だな。俺もお前が大嫌いだよ。次郎長」
「俺がなぜ、金平と手打ちしたのか教えてやろう。勝蔵。まず、お前をぶっ潰すためだ」
「ほお~、ずる賢いと評判のお前が自分から手の内を明かすとは珍しいじゃねえか。それほど俺が憎いか?」
「そうだ」
「なぜだ?」
「俺は甲州人が大嫌いだからだ。特に武田信玄にかぶれているお前みたいな野郎が一番嫌いだ」
「……なるほど。お前は義元びいきだったからな」
「今、お前も竹居の吃安もお上から追われているそうじゃねえか。いずれお前も吃安もお上に捕まって縛り首になるぜ。これで甲州の博徒は全滅だな」
「何を言いやがる。そう簡単に捕まってたまるかい。大体、お前自身もお尋ね者だろうが。他人の事が言えるのかよ」
この勝蔵の言い分に次郎長は何も答えなかった。が、その表情を見て勝蔵はピンときた。
「……てめえ、まさか“二足の草鞋”を履くつもりなんじゃねえだろうな?」
「さあな」
「そうか。やはり。お前もお上に取り入って罪状を消してもらって、目明しになろうっていうんだな。汚え野郎だ」
「何を言ってるんだ?勝蔵。俺は何も言ってねえぜ。ただ、俺は権現様(家康)ゆかりの駿河人だ。お上に歯向かうお前やソンノージョーイとやらの悪党どもは、いずれどのみち、一人残らず縛り首になるんじゃねえかと思うぜ」
次郎長はそう言い残して、勝蔵のもとから去って行った。
勝蔵は、この蛇のように執拗で冷酷な男と、いずれ必ずぶつかることになるだろう、と次郎長の背中を見ながら思った。
この菊川の手打ち式が終わったあと、勝蔵は半年ぶりに甲州へ戻った。ただし、単身お忍びで戻っただけで、すぐまた放浪の旅に出る。
帰国する理由は、竹居の安五郎親分のところに、国分の三蔵の用心棒だった犬上郡次郎が寝返ってきた、という噂を聞いたからだった。それで勝蔵は単身、竹居へ向かったのだった。
晩秋の落葉を踏みしめながら御坂山地の山道を越えて竹居村に着くと、そこでたまたま竹居一家の子分たちと出会った。そして彼らから安五郎親分の居場所を聞き、さらに犬上郡次郎の評判も確かめ、ついでに戸倉にいる玉五郎を呼んできてくれるように頼んだ。
勝蔵が安五郎の隠れ家に到着すると、そこに安五郎と犬上がいた。そしてしばらくすると玉五郎もやって来て久しぶりに再会した。
犬上と対面するのはこれが初めてだった。背はやや高めでがっしりとした体つきをしており、いかにも柔術使いといった体格だ。顔は面長で目つきが鋭い。いや、鋭いというか、何を考えているのかさっぱり分からない氷のように冷たい目つきだ。以前、いくぶん頭がイカれているらしいと玉五郎から聞いていたが確かにそうかも知れない。歳は自分と同じで三十ぐらいだろう。と勝蔵は思った。
この席で勝蔵が犬上から聞いた話というのは、こうである。
祐天仙之助が縄張りにしている勝沼で相撲大会が開かれるというので、犬上の雇い主の三蔵と仙之助が犬上に相撲大会に参加するよう勧めた。それで何の疑いもなく土俵にのぼったところ突如として仙之助が「犬上は牢破りの罪人だから捕縛せよ!」と捕り方に命じた。
褌一丁の丸裸で刀も持ってない犬上は捕り方たちによってあっけなく捕縛されてしまった。確かに犬上が前年、館林で牢破りをしたのは事実なので、目明しの仙之助はその罪状をもって犬上を館林の牢屋へと送還したのだった。
ところが犬上は再び牢破りに成功し、甲州へ舞い戻って来た。そして「自分をだました祐天と三蔵にどうしても復讐したい」と言って安五郎の側に寝返ってきた、という話だった。
なるほど筋は一応、通っている。
が、しかし、不審な点がない訳でもない。
「よく、そんな簡単に牢破りができるものだなあ」
と勝蔵が犬上に尋ねた。
これに対し犬上は表情も変えずに、冷たいまなざしのまま答えた。
「実を言うと、拙者はある牢役人の不正を知っているので、彼を脅して牢破りを手伝わせた。それゆえ以前も、その方法で牢破りができたのでござる」
「ふん。なるほど」
(しかし、以前もやったことがあるんなら、今度こそ館林の牢番も厳重に取り締まりそうなもんだが……)
そう思いつつも勝蔵は、ひとまずこれ以上、犬上を追及しないことにした。
そのあと犬上は、仙之助や三蔵に対する怨みごとをくり返し述べた。
どうしても奴らに仕返しがしたい。しかし連中の子分は多いので自分一人ではどうにもならず、なんとかあなた方と一緒に戦って仙之助と三蔵の首を取りたい。以前、あなた方の敵として戦ったことは誠に申し訳なかった。
そう、何度も頭を下げて犬上は弁明した。そして仙之助や三蔵の戦力および内情について詳しく勝蔵たちに教えてくれた。
話を聞きながら勝蔵は、虫のいい話だ、と思った。
こんなにペラペラと昔の仲間の情報を密告する奴は、すぐまた敵に寝返って俺たちのことを密告するだろう、と。
その一方で、安五郎は犬上の言うことをすっかり信用しているようだった。なんせ用心棒として自分のそば近くに置いているぐらいなのだ。
「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」という安五郎の太っ腹な性格の表れ、ということでもあるのだろうが、これについては勝蔵もある種の自責の念を感じている。
(俺が甲州を抜け出してから、安五郎親分を守る人間がいなくなってしまった……。親分が犬上のような用心棒に頼るようになったのは、俺の責任でもある……)
それで勝蔵としては、犬上の寝返りに多少の抵抗感はあるものの、安五郎の意向を尊重したのだった。
勝蔵はそのあと別室で玉五郎と二人きりで話し合った。
「どうだ。黒駒の様子は変わりないか?」
「心配要りません。黒駒では皆、達者に暮らしてます。祐天や三蔵も、犬上からの復讐を恐れてか、今はナリをひそめています」
「そいつは良かった。それで各地へ散った子分たちのことは何か聞いてないか?」
「黒駒にもいろいろと話は届いてますが、そりゃあやっぱり、良い話なんてあるわけがないでしょう。金に困った子分が強盗をやったとか、ごくわずかではありますが、たまにそんな話が聞こえてきます」
「う~む。やはりそうか……」
あれだけの人数がいたんだから、中にはそんなことをやる奴もいるだろう。いやむしろ、元々ヤクザなんだから、そんなことがあったとしても何ら驚くにあたらない。
なんにせよ、早く一家を再興して彼らを呼び寄せてやらねばならない、と勝蔵は痛感した。
それから勝蔵はあらためて玉五郎に黒駒での留守番を頼み、甲州を去って再び東海道へ戻って行った。
それから一月と経たないある日のこと。
安五郎は例によって武藤家へ行って外記と囲碁を打って楽しんだ。そして日が暮れると竹居へ帰るために屋敷を出た。
武藤家のある黒駒から竹居まではおよそ一里の距離だ。その夜道を安五郎は歩いて帰る。護衛として、提灯をぶら下げた犬上郡次郎が安五郎に付き添って歩き、その後ろに子分が二人、付き従っている。
季節はもう冬に入っている。雪は積もってないが冷気が厳しい。空に月はなく、星明かりがわずかにある程度だ。
寒いので自然と早足になる。安五郎は大きな体を揺らしながら、犬上に話しかけた。
「こう寒いとお前さんも人肌が恋しくなるだろう?女をそばに置かねえで平気なのかい」
「いや。別に。その点は心配ご無用に願います」
「さっき八反屋敷で、お茶を運んできた若い娘に見とれていただろう?」
「いえ、決して、そのようなことは……」
「あの娘に手を出してはダメだよ。あれは武藤家の娘で、勝蔵の女だからな」
「ほう、あの勝蔵殿の……。いやいや。ですから別に、拙者は女なんぞに見とれてはおりませぬ」
「そうさなあ。俺のおりはだったらくれてやってもいいぞ。あの武藤家の娘ほど若くはないが、器量はなかなかのもんだよ。あいつも昔、浪人と連れ添っていたから、案外、お前さんとはお似合いかも知れないな」
「はあ……」
「いずれ機会があれば、あいつをお前さんのところへ連れてきて紹介してやろう」
「……」
「こうして、いつもお前さんに守ってもらっているからな。そのお礼として、もらって欲しいんだ。……嫌なのかい?」
「いえ、別に……」
それから犬上は言葉数が少なくなった。安五郎が何を聞いても生返事を返すだけだ。
(何だ、こいつ?女のことで世話を焼かれるのが気に入らねえのか?案外、気取った野郎なんだな……)
と安五郎は訝しく思った。
それからしばらく歩くと安五郎たちは黒駒と竹居の中間にある大野寺村にさしかかった。この辺りは一面、桑畑だ。
そのとき突然、犬上が持っていた提灯の明かりが消えた。
「も、申し訳ござらぬ。すぐに明かりをつけまする」
そう言って謝りながら犬上が提灯の火をつけ直そうとした。それで安五郎たち三人も立ち止まり、暗闇の中でたたずみながら待つことにした。
暗闇が安五郎の心に不安を誘う。
それで、なぜか一瞬、新島にいた頃に経験した暗闇のことが脳裏に浮び、島の生暖かい空気の感じと波音が安五郎の五感に再現された。
が、安五郎の五感が現実の危機を察知し、その非現実の感覚を一瞬にして振り払った。
自分の周囲、つまり桑畑から複数の人間が接近して来る気配を感じたのだ。これまで何度も危機をくぐり抜けてきた安五郎の危機察知能力は超一流である。
「今すぐ逃げろ!」
と低い声で子分たちへ言い放ち、それからすぐに道を駆けだそうとした。二人の子分はすぐに走って逃げた。
ところが、逃げようとした安五郎の右腕を犬上がつかんだ。
そしてすかさず腕を極めて地面に押し倒し、腕を極めたままがっちりと押え込んだ。
ゴキッ!
と安五郎は右肩を脱臼し、犬上の体の下でジタバタともがいている。
腕の痛みと無念さと、さらに犬上に対する憎しみから、声にならないうめき声が「ウガア!」と安五郎の口からあふれ出ている。
犬上が、押さえ込んでいる安五郎に向かって言った。
「竹居の親分。悪いがあんたの女は遠慮させてもらうよ。これで俺の仕事は終わった。もう竹居とはおさらばだ」
それからすぐに桑畑の中から二十人ほどの男たちが安五郎のところへ集まって来た。
提灯に灯がともると、そこに仙之助や三蔵の姿が浮かび上がった。
二人の顔には「してやったり」という会心の笑みが浮かんでいる。
こうして安五郎は、ついに捕縛されたのである。
すべてはお上が仕組んだ罠であった。
その仕組みを作り上げた首謀者は三人いる。
国分の三蔵こと高萩の万次郎、その同僚の道案内(目明し)江戸屋虎五郎、そしてこの直前に石和代官所に赴任してきた代官、内海多次郎である。
内海多次郎は安五郎たちによって殺された新島の名主、吉兵衛の血縁者で、安五郎の捕縛に執念を燃やしており、普通幕臣は誰も行きたがらない「山流し」の甲州へ自ら進んで赴任してきた男だった。それゆえ、安五郎を捕まえるためなら罠だろうと何だろうと手段を選ばず何でもやる、という意気込みで甲州へ乗り込んできた。
そして江戸屋虎五郎は万次郎と同じく二足の草鞋の博徒として八州廻りの目明しを勤めている。地元は犬上と同じ館林である。それで、犬上を館林の牢屋から出してやり、その代わりに安五郎の捕縛に協力させたのだった。
むろん、仙之助が相撲大会で犬上を捕縛したのも最初から仕組まれたものであり、目明しである仙之助が石和代官の内海の指示通り動いたまでのことである。
ちなみに内海はこの後すぐに甲州から他所へ転属となり、ほとんどこの仕事のために送り込まれたようなものだ。
内海、万次郎、虎五郎の三人が謀略を練り上げ、仙之助、三蔵、犬上の三人がその謀略の実行部隊として活動し、ついに幕府の念願だった安五郎の捕縛に至ったわけである。
これにより島抜けから八年余におよぶ安五郎の逃亡生活に終止符が打たれ、彼は石和代官所の牢獄に収監された。
そして三ヶ月後、すなわち文久二年(1862年)二月、牢獄内で病死した。
毒殺であった、ともいう。また、死亡したのは十月だった、という説もある。
なんにせよ安五郎の死には謎めいた点が多い。
それは彼の存在を、お上が闇に葬ったせいであったに違いない。
勝蔵は駿河の地を旅回りしている頃に、この「安五郎逮捕」の報に接することになるのだが、それはこれよりいくらか後のことである。
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