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第三章・狂瀾怒濤
第47話 抑えきれない心(二)
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今さら言うまでもない話だが、倒幕勢力の主役は薩摩藩である。
京都における王政復古のクーデターも、尾張・越前・土佐・芸州の四藩が協力していたとはいえ主役は薩摩藩で、もっと端的に言ってしまえば西郷吉之助、大久保一蔵、岩倉具視の三人が陰の主役であった。
そもそも尾張・越前・土佐の三藩は幕府擁護の姿勢が強く、倒幕の意志など持っていない。芸州はおまけでくっついているようなものだ。
いわゆる「薩長」などと言っても長州はこのクーデターによってやっと入京が許されるようになった程度で、関西ではまだまだロクに政治活動もできていない。ましてや江戸での活動など論外である。
江戸の倒幕勢力の拠点は三田の薩摩藩邸であった。
西郷が土佐の乾退助から江戸の浪士たちを引き取り、さらに益満休之助と伊牟田尚平を江戸へ派遣した、という話は以前触れた。また、大政奉還の成立をうけて吉井幸輔が益満と伊牟田に関東での挙兵を見合わせるよう手紙を送った話も以前触れた。
吉井はこの頃、再び益満と伊牟田に自重するよう手紙を送っている。
それは王政復古のクーデターの翌日、すなわち猪之吉が武藤家に着いた日のことだった。
クーデターが成功したことによる成果を確保するため、ひとまず挙兵を見合わせるよう再び益満と伊牟田に指示したのだ。
このさき我々薩摩藩が事を起こす場合は、こちらから人を送って連絡するので、それまで江戸の浪士たちを大人しくさせておくように、と吉井は二人に命じた。
けれども、その命令は間に合わなかった。
いや、もし間に合っていたとしても、江戸の浪士たちが大人しくそれに従ったかどうかは疑わしい。が、ともかくも、事はすでに起きていた。
彼らは下野、甲州、相模の三ヶ所で挙兵する計画を立て、それをすでに実行していたのである。
益満と伊牟田以外に、もう一人、江戸の浪士たちの指導的立場にあった人物がいる。
藤太が猪之吉に話していた場面で名前が出ていた相楽総三である。歳は二十九。
彼は薩摩人ではない。彼の父兵馬は下総相馬郡(現、取手市)の豪農だったが相楽自身は江戸赤坂生まれの江戸人である。本名は小島四郎。薩摩藩邸に潜伏するようになってから相楽総三と名乗るようになった。
大身の旗本、酒井錦之助の家来という身分なので一応武士のはしくれではある。その酒井からこの前年、正式に三百石で武士に取り立てるという誘いも受けたようだが相楽は断った。実家の小島家は富豪だったので金に不自由はせず、自由に動き回れる今の身分を好んだのだ。
相楽は文武ともに秀でた男であった。特に学問が優秀で国学を得意としている。
幕末に国学を学んでいれば、川の水が上流から下流へと流れるように、たどり着く先は尊王攘夷と決まっている。
この時代、浪士と呼ばれる人間は水戸の浪士をはじめとして全員もれなく尊王攘夷である。「佐幕開国の浪士」などといったキテレツな輩なんぞいるはずがない。そして浪士の性分といえば「尊王攘夷で過激で無鉄砲」と相場が決まっている。佐幕開国を指向するような利口な人間は、そもそも浪士なんかにならない。
相楽もそういった典型的な尊王攘夷の浪士であった。
横浜鎖港を求めて桃井儀八(可堂)や岩松(新田)満次郎などと上州の赤城山で挙兵しようとしたり、天狗党の乱に参加しようとした経験もあるが、どちらも不発に終わった。横浜鎖港を求めて上州で挙兵するというのは渋沢栄一もやろうとしたことで、当時の尊王攘夷家の典型的な姿である。
その渋沢も攘夷活動にのめり込み過ぎて父の説得を聞かずに実家から飛び出てしまったものだが、相楽も父兵馬が心配して、そのころ彼に嫁を取らせて家に落ち着かせようとした。それで相楽は照という武家の娘を嫁に迎え、慶応二年に河次郎という長男が生まれた。
けれども父の期待に反し、相楽は家に落ち着かなかった。相変わらず尊王攘夷活動をつづけ、長男が生まれた慶応二年には京都へ行って様々な有志と知り合った。そういった有志の中に益満と伊牟田もおり、今回、彼ら二人と江戸の浪士たちを指揮することになったのだった。
相楽は、薩摩藩邸に集まった浪士たちの総裁という役職に就いた。
益満と伊牟田は浪士ではなく薩摩藩士なので、あくまで監督的な立場である。
この薩摩藩邸の浪士たちには「浪士組」や「新選組」などといった特定の名前はついていない。密かに工作活動や破壊活動をするゲリラ的な部隊なのだから大っぴらに隊名を付けないのは当然だろう。
相楽総三といえば「赤報隊」の名をすぐに連想しがちだが、別にこの浪士たちが赤報隊なのではない。その名が歴史に登場するのはもう少し先のことだ。さりとて筆者が勝手に「薩摩浪士隊」などと隊名を付けるわけにもいかないので、ここでは彼らのことを「浪士たち」と呼びつづけるしかないだろう。
それらの浪士たちの中には土佐の乾退助から引き取った浪士以外に、相楽が総裁になってから大々的に募集した浪士たちもいる。
人数はなるべく多いほうがいい、と相楽たちは考えた。
この後の歴史を知っている後世の人間からすると、
「西郷は江戸で幕府を挑発するために浪士たちを暴れさせたのでしょう?だったらそれほど多くの人数は必要ないんじゃないの」
と思うかも知れないが、それは結果的にそうなっただけの話で、元々の西郷の戦略は、
「京都、大坂、江戸での三都同時挙兵計画」
だったのだ。
江戸で挑発する、などといった小さな計画ではなく、江戸でも「挙兵する」という計画である。京都と大坂での挙兵に合わせて、それを江戸でも実行するつもりだったのだ。
鳥羽伏見でああいう形になったのは結果論に過ぎない。東西で同時に挙兵するのは幕府の戦力を東西で分断させ、江戸から関西へ援軍を送らせないようにするためだ。
もし西郷が当初計画していた通りに挙兵していたなら、その後の歴史はかなり違ったかたちで推移していただろう。
ただし「歴史にIFは無い」ともいう。
が、その当時の人たちが考えていた複数の選択肢に思いをはせることには意味があるであろうし、その限りにおいては「歴史にIFは有る」。
蛇足として述べると「歴史にIFは無い」という言葉は、「人生にIFは無い」という意味と同じで、過ぎてしまったことを「あの時こうしていれば」などと未練たらしく振り返っても意味はない、という意味であろう。などと筆者の個人的な認識では、そうとらえている。かつて歴史家E・H・カーもそういった事を述べていた、ということを仄聞したことがある。
話を元へ戻そう。
関東で挙兵するつもりだったのだから薩摩藩邸では大々的に浪士を募集した。
「最近は治安の乱れがはなはだしく、江戸城におわす天璋院様の御身が心配である。我が藩が浪士を雇ってお守り申し上げたい」
と幕府に届け出て、薩摩藩は公然と浪士を募集しはじめたのである。天璋院とは薩摩から江戸城へ入った先々代の御台所篤姫のことだ。
幕府にとっては腸が煮えくり返る思いであったろう。
「江戸城の天璋院様は幕臣によってしっかりと守られているのだ!薩摩が集める浪士たちが江戸城の天璋院様を守るとはなんたる言い草か!そもそも治安の乱れをはなはだしくしているのも、その浪士たちのせいではないか!」
こう、幕府としては言いたかったであろうが、薩摩の挑発に乗るわけにもいかず、それを黙認したのだった。
それで三田の薩摩藩邸には浪士たちがぞくぞくとやって来た。
京都の勝蔵のところへやって来た子分の中にも生活苦を訴えていた者が多かったが、江戸でもそういった者が多かった。相楽は市中に出かけて見どころのありそうな浪士を物色し、そういう浪士たちを見つけると「食うに食えないのであれば三田の薩摩藩邸へ来い」と言って誘った。場合によってはわざとケンカを売って叩きのめし、しかるのちに金を与えて仲間に引き込んだりもした。
また、相楽自身もそうだが、関東では三年前の天狗党の乱で失敗した尊王攘夷家がゴロゴロいる。そういった連中の中には「今度こそは」と意気込んでいる者もおり、純粋に尊王攘夷の思想的な目的のために薩摩藩邸へ駆けつけた者もいた。
集まった浪士の人数は五百人に達するほどだったとも言われるが、おそらく二、三百人ぐらいだったと思われる。
それらの中で有名な志士としては落合源一郎、権田直助、竹内啓などがいる。
落合は甲州街道の小仏関(駒木野)出身で、権田と竹内は北武蔵(現、埼玉県)出身である。三人とも尊王攘夷を志す国学者で、落合は副総裁、権田は大監察の役職に就いた。そして竹内は下野の出流山で挙兵する部隊の隊長となった。
彼ら浪士たちは京都の西郷や吉井の指示を待たずに動き出してしまった。
尊王攘夷を志す浪士というのは元々ほとんどがそういった連中である。
「幕府なんてぶっ倒してしまえ!異人なんて打ち払ってしまえ!」
などと声高に叫ぶ血の気の多い連中なのだから、よほど厳格に取り締まっておかない限り、たちまち暴発するに決まっている。
なにしろ彼らの監督役である薩摩藩士の益満と伊牟田にしてからが、かつて清河八郎と一緒になって攘夷活動(例えばアメリカ人通訳のヒュースケン殺害といった暗殺活動)をしていた過激派なのだ。それゆえ、
「兵は拙速を尊ぶと言うではないか。ぐずぐず言ってないで、さっさと倒幕の兵を挙げるべきだ!」
と勢い任せで暴発する浪士たちを、益満や伊牟田が止めるはずもなかった。
そして相楽たちは、
「下野、甲州、相模の三ヶ所で挙兵して幕府の拠点を押さえ、その三方から江戸城を攻める」
という作戦を立て、それを実行に移したのである。
最初に動いたのは下野へ向かう竹内の部隊十数人だった。
彼らは十一月二十四日に薩摩藩邸から出発して日光街道へ向かった。
千住、草加、越ヶ谷、粕壁(春日部)と過ぎて二十七日に栃木宿へ入った。鉄砲や槍などの武器を持って歩いていたため当然のごとく途中の関所で尋問を受けたが、彼らは薩摩藩の紋章を見せて薩摩藩士と名乗り、
「出流山の満願寺へ行って、我が主君(島津茂久)の奥方様のために代参するのだ」
と、ぬけぬけと言い放って関所を突破した。
そして二十九日、出流山の満願寺(現、栃木市)に入り、そこで竹内が倒幕挙兵の檄文を読み上げて決起した。この檄文に応えて周辺から人々が集まり、その数は百五十人ほどになった。
その集まった者の中に、国定忠治の実子で大谷千乗と名乗る僧侶がいた。
彼はこの挙兵に参加するにあたって還俗し、大谷刑部国次と名乗った。歳は二十四。
大谷刑部といえば戦国時代の大谷吉継が有名だが、この国次がなぜ大谷刑部と名乗ったのかは不明である。彼の史料はほとんど残ってないらしい。国定忠治といえば北関東では押しも押されもせぬ大物で、しかも反幕府的で有名だった男だ。その遺児と名乗る彼に、周囲は大きな期待を寄せた。
竹内が下野で挙兵したのに合わせて大監察の権田直助は隣りの上州(上野)へ行き、かつて相楽が桃井儀八と共に決起の盟主として担ぎ出そうとした岩松(新田)満次郎を今度こそ引っ張り出そうとしたのだが、やはり今回も満次郎は立たなかった。
なぜこうまでして皆が満次郎を引っ張り出そうとしたのかというと、彼は後醍醐天皇に仕えた新田義貞の末裔を称しているので尊王の志士たちが彼の出馬を嘱望したのである。
さらに余談を付け加えると、この満次郎の娘がのちに井上馨と結婚して「鹿鳴館の華」と呼ばれることになる井上武子である。武子は夫と共にイギリスへ行くことになり、尊王攘夷の象徴であった新田家からこのような外国通の夫人が出るというのは、少なくとも権田たち尊王攘夷派からすれば皮肉な話であった。
さて、竹内たちが挙兵した出流山の近くにある栃木宿では三年前の天狗党の乱の際、天狗党内の過激派である田中愿蔵隊が強盗、殺人、放火といった蛮行をおこなったため、その悪夢を覚えている住民たちは竹内たちの挙兵をうけて「出流天狗」と呼んで恐れをなした。
事実、彼らは天狗党と同じく尊王攘夷を志しており、三年前の天狗党の乱の雪辱を果たすつもりでいる。
この出流天狗を討伐するために幕府は関東取締出役の渋谷鷲郎(和四郎)を下野へ派遣した。関東取締出役とは、この物語で前に何度か名前が出た関八州の博徒を取り締まる「八州廻り」のことだ。
が、もはやこれは博徒を取り締まるといった次元の話ではない。完全な戦さ仕様である。指揮官の渋谷は近隣の農民や目明し(二足の草鞋の博徒含む)に鉄砲を持たせて農兵部隊を組織し、彼らを率いて出流天狗の討伐に向かった。その数およそ千二百人。
十二月十一日より出流山およびその南方にある岩船山周辺で戦争となった。
戦争は、物量と火力に勝る幕府軍の圧勝に終わった。
竹内たち出流天狗は多くが戦死し、また捕縛された者もことごとく処刑された。忠治の子、大谷刑部国次は騎馬隊の一人として奮戦したが最後には捕縛され、やはり処刑された。
一部の者は敵の包囲を突破して三田の薩摩藩邸へ逃げ帰ったものの、竹内はその逃亡の途中に下総で捕まり、二十四日に松戸で斬首された。これは竹内たちが下野で打ち破られたことへの報復として、薩摩藩邸の浪士たちが江戸の渋谷の自宅を襲って家族を殺傷したため、渋谷が竹内の首を斬ったとも言われている。
こうして下野へ向かった部隊が全滅していたころ、薩摩藩邸から鯉淵四郎率いる十名ほどの浪士たちが相模の厚木へ向かった。
十二月十五日の夜、鯉淵たちは厚木の近くにある荻野の山中陣屋(現、厚木市下荻野)に着いた。その頃には近隣の博徒や志士たちを募って三十七人の部隊になっていた。
さらにこの十五日には甲州へ向かう上田修理率いる十人の浪士たちが薩摩藩邸を出発した。
甲州で藤太と猪之吉が待っている十人の浪士とは、この上田たちのことである。
そしてこの相模と甲州へ向かった二つの部隊はお互いに連携して動いていた。
というのは、相模の山中陣屋を所有しているのは大久保長門守(教義)といい、小田原藩の大久保加賀守(忠礼)の分家なのだが、この三ヶ月前に小田原藩の大久保加賀守は甲府城代の任に就いており、浪士たちが攻めようとしている二つの場所は、どちらも大久保家の所領なのである。
実はこの前年、甲州は幕府役人が支配する甲府勤番制度を取り止めて、譜代大名に甲府城代を勤めさせるかたちに変わっていた。その城代の役目を小田原藩大久保家が任されたのであった。といっても藩主の大久保忠礼は大坂へ行っているため甲府にはおらず、このときは小田原も甲府も手薄な状態となっていた。
そこを狙って浪士たちは相模と甲州を同時に攻めたのだ。山中陣屋を襲った部隊はあわよくば小田原まで攻めるつもりでいる。
山中陣屋への襲撃作戦は成功した。
鯉淵たちは陣屋へ乗り込み「新政府のために御用金を差し出せ」と談判したが、大久保家の家臣はこれを拒否した。
すると、たちまち浪士たちは陣屋を襲撃してその家臣たちを殺傷し、そのうえ金穀や武器を奪い、挙句の果ては陣屋に火を放って焼き払った。
これに対して小田原の大久保本家が援軍を出動させて厚木の近くまでやって来た。援軍は百人以上の大部隊だ。
その軍勢を見て鯉淵たちはさすがに小田原襲撃をあきらめ、分捕った大砲などを引っ張りながら退却し、三田の薩摩藩邸へと帰還した。
浪士たちの中から死者一名と負傷者二名が出たものの、この相模攻めは一応成功の部類に入れても良いだろう。敵からすれば「神出鬼没」と言わざるをえない手際の良さである。
京都における王政復古のクーデターも、尾張・越前・土佐・芸州の四藩が協力していたとはいえ主役は薩摩藩で、もっと端的に言ってしまえば西郷吉之助、大久保一蔵、岩倉具視の三人が陰の主役であった。
そもそも尾張・越前・土佐の三藩は幕府擁護の姿勢が強く、倒幕の意志など持っていない。芸州はおまけでくっついているようなものだ。
いわゆる「薩長」などと言っても長州はこのクーデターによってやっと入京が許されるようになった程度で、関西ではまだまだロクに政治活動もできていない。ましてや江戸での活動など論外である。
江戸の倒幕勢力の拠点は三田の薩摩藩邸であった。
西郷が土佐の乾退助から江戸の浪士たちを引き取り、さらに益満休之助と伊牟田尚平を江戸へ派遣した、という話は以前触れた。また、大政奉還の成立をうけて吉井幸輔が益満と伊牟田に関東での挙兵を見合わせるよう手紙を送った話も以前触れた。
吉井はこの頃、再び益満と伊牟田に自重するよう手紙を送っている。
それは王政復古のクーデターの翌日、すなわち猪之吉が武藤家に着いた日のことだった。
クーデターが成功したことによる成果を確保するため、ひとまず挙兵を見合わせるよう再び益満と伊牟田に指示したのだ。
このさき我々薩摩藩が事を起こす場合は、こちらから人を送って連絡するので、それまで江戸の浪士たちを大人しくさせておくように、と吉井は二人に命じた。
けれども、その命令は間に合わなかった。
いや、もし間に合っていたとしても、江戸の浪士たちが大人しくそれに従ったかどうかは疑わしい。が、ともかくも、事はすでに起きていた。
彼らは下野、甲州、相模の三ヶ所で挙兵する計画を立て、それをすでに実行していたのである。
益満と伊牟田以外に、もう一人、江戸の浪士たちの指導的立場にあった人物がいる。
藤太が猪之吉に話していた場面で名前が出ていた相楽総三である。歳は二十九。
彼は薩摩人ではない。彼の父兵馬は下総相馬郡(現、取手市)の豪農だったが相楽自身は江戸赤坂生まれの江戸人である。本名は小島四郎。薩摩藩邸に潜伏するようになってから相楽総三と名乗るようになった。
大身の旗本、酒井錦之助の家来という身分なので一応武士のはしくれではある。その酒井からこの前年、正式に三百石で武士に取り立てるという誘いも受けたようだが相楽は断った。実家の小島家は富豪だったので金に不自由はせず、自由に動き回れる今の身分を好んだのだ。
相楽は文武ともに秀でた男であった。特に学問が優秀で国学を得意としている。
幕末に国学を学んでいれば、川の水が上流から下流へと流れるように、たどり着く先は尊王攘夷と決まっている。
この時代、浪士と呼ばれる人間は水戸の浪士をはじめとして全員もれなく尊王攘夷である。「佐幕開国の浪士」などといったキテレツな輩なんぞいるはずがない。そして浪士の性分といえば「尊王攘夷で過激で無鉄砲」と相場が決まっている。佐幕開国を指向するような利口な人間は、そもそも浪士なんかにならない。
相楽もそういった典型的な尊王攘夷の浪士であった。
横浜鎖港を求めて桃井儀八(可堂)や岩松(新田)満次郎などと上州の赤城山で挙兵しようとしたり、天狗党の乱に参加しようとした経験もあるが、どちらも不発に終わった。横浜鎖港を求めて上州で挙兵するというのは渋沢栄一もやろうとしたことで、当時の尊王攘夷家の典型的な姿である。
その渋沢も攘夷活動にのめり込み過ぎて父の説得を聞かずに実家から飛び出てしまったものだが、相楽も父兵馬が心配して、そのころ彼に嫁を取らせて家に落ち着かせようとした。それで相楽は照という武家の娘を嫁に迎え、慶応二年に河次郎という長男が生まれた。
けれども父の期待に反し、相楽は家に落ち着かなかった。相変わらず尊王攘夷活動をつづけ、長男が生まれた慶応二年には京都へ行って様々な有志と知り合った。そういった有志の中に益満と伊牟田もおり、今回、彼ら二人と江戸の浪士たちを指揮することになったのだった。
相楽は、薩摩藩邸に集まった浪士たちの総裁という役職に就いた。
益満と伊牟田は浪士ではなく薩摩藩士なので、あくまで監督的な立場である。
この薩摩藩邸の浪士たちには「浪士組」や「新選組」などといった特定の名前はついていない。密かに工作活動や破壊活動をするゲリラ的な部隊なのだから大っぴらに隊名を付けないのは当然だろう。
相楽総三といえば「赤報隊」の名をすぐに連想しがちだが、別にこの浪士たちが赤報隊なのではない。その名が歴史に登場するのはもう少し先のことだ。さりとて筆者が勝手に「薩摩浪士隊」などと隊名を付けるわけにもいかないので、ここでは彼らのことを「浪士たち」と呼びつづけるしかないだろう。
それらの浪士たちの中には土佐の乾退助から引き取った浪士以外に、相楽が総裁になってから大々的に募集した浪士たちもいる。
人数はなるべく多いほうがいい、と相楽たちは考えた。
この後の歴史を知っている後世の人間からすると、
「西郷は江戸で幕府を挑発するために浪士たちを暴れさせたのでしょう?だったらそれほど多くの人数は必要ないんじゃないの」
と思うかも知れないが、それは結果的にそうなっただけの話で、元々の西郷の戦略は、
「京都、大坂、江戸での三都同時挙兵計画」
だったのだ。
江戸で挑発する、などといった小さな計画ではなく、江戸でも「挙兵する」という計画である。京都と大坂での挙兵に合わせて、それを江戸でも実行するつもりだったのだ。
鳥羽伏見でああいう形になったのは結果論に過ぎない。東西で同時に挙兵するのは幕府の戦力を東西で分断させ、江戸から関西へ援軍を送らせないようにするためだ。
もし西郷が当初計画していた通りに挙兵していたなら、その後の歴史はかなり違ったかたちで推移していただろう。
ただし「歴史にIFは無い」ともいう。
が、その当時の人たちが考えていた複数の選択肢に思いをはせることには意味があるであろうし、その限りにおいては「歴史にIFは有る」。
蛇足として述べると「歴史にIFは無い」という言葉は、「人生にIFは無い」という意味と同じで、過ぎてしまったことを「あの時こうしていれば」などと未練たらしく振り返っても意味はない、という意味であろう。などと筆者の個人的な認識では、そうとらえている。かつて歴史家E・H・カーもそういった事を述べていた、ということを仄聞したことがある。
話を元へ戻そう。
関東で挙兵するつもりだったのだから薩摩藩邸では大々的に浪士を募集した。
「最近は治安の乱れがはなはだしく、江戸城におわす天璋院様の御身が心配である。我が藩が浪士を雇ってお守り申し上げたい」
と幕府に届け出て、薩摩藩は公然と浪士を募集しはじめたのである。天璋院とは薩摩から江戸城へ入った先々代の御台所篤姫のことだ。
幕府にとっては腸が煮えくり返る思いであったろう。
「江戸城の天璋院様は幕臣によってしっかりと守られているのだ!薩摩が集める浪士たちが江戸城の天璋院様を守るとはなんたる言い草か!そもそも治安の乱れをはなはだしくしているのも、その浪士たちのせいではないか!」
こう、幕府としては言いたかったであろうが、薩摩の挑発に乗るわけにもいかず、それを黙認したのだった。
それで三田の薩摩藩邸には浪士たちがぞくぞくとやって来た。
京都の勝蔵のところへやって来た子分の中にも生活苦を訴えていた者が多かったが、江戸でもそういった者が多かった。相楽は市中に出かけて見どころのありそうな浪士を物色し、そういう浪士たちを見つけると「食うに食えないのであれば三田の薩摩藩邸へ来い」と言って誘った。場合によってはわざとケンカを売って叩きのめし、しかるのちに金を与えて仲間に引き込んだりもした。
また、相楽自身もそうだが、関東では三年前の天狗党の乱で失敗した尊王攘夷家がゴロゴロいる。そういった連中の中には「今度こそは」と意気込んでいる者もおり、純粋に尊王攘夷の思想的な目的のために薩摩藩邸へ駆けつけた者もいた。
集まった浪士の人数は五百人に達するほどだったとも言われるが、おそらく二、三百人ぐらいだったと思われる。
それらの中で有名な志士としては落合源一郎、権田直助、竹内啓などがいる。
落合は甲州街道の小仏関(駒木野)出身で、権田と竹内は北武蔵(現、埼玉県)出身である。三人とも尊王攘夷を志す国学者で、落合は副総裁、権田は大監察の役職に就いた。そして竹内は下野の出流山で挙兵する部隊の隊長となった。
彼ら浪士たちは京都の西郷や吉井の指示を待たずに動き出してしまった。
尊王攘夷を志す浪士というのは元々ほとんどがそういった連中である。
「幕府なんてぶっ倒してしまえ!異人なんて打ち払ってしまえ!」
などと声高に叫ぶ血の気の多い連中なのだから、よほど厳格に取り締まっておかない限り、たちまち暴発するに決まっている。
なにしろ彼らの監督役である薩摩藩士の益満と伊牟田にしてからが、かつて清河八郎と一緒になって攘夷活動(例えばアメリカ人通訳のヒュースケン殺害といった暗殺活動)をしていた過激派なのだ。それゆえ、
「兵は拙速を尊ぶと言うではないか。ぐずぐず言ってないで、さっさと倒幕の兵を挙げるべきだ!」
と勢い任せで暴発する浪士たちを、益満や伊牟田が止めるはずもなかった。
そして相楽たちは、
「下野、甲州、相模の三ヶ所で挙兵して幕府の拠点を押さえ、その三方から江戸城を攻める」
という作戦を立て、それを実行に移したのである。
最初に動いたのは下野へ向かう竹内の部隊十数人だった。
彼らは十一月二十四日に薩摩藩邸から出発して日光街道へ向かった。
千住、草加、越ヶ谷、粕壁(春日部)と過ぎて二十七日に栃木宿へ入った。鉄砲や槍などの武器を持って歩いていたため当然のごとく途中の関所で尋問を受けたが、彼らは薩摩藩の紋章を見せて薩摩藩士と名乗り、
「出流山の満願寺へ行って、我が主君(島津茂久)の奥方様のために代参するのだ」
と、ぬけぬけと言い放って関所を突破した。
そして二十九日、出流山の満願寺(現、栃木市)に入り、そこで竹内が倒幕挙兵の檄文を読み上げて決起した。この檄文に応えて周辺から人々が集まり、その数は百五十人ほどになった。
その集まった者の中に、国定忠治の実子で大谷千乗と名乗る僧侶がいた。
彼はこの挙兵に参加するにあたって還俗し、大谷刑部国次と名乗った。歳は二十四。
大谷刑部といえば戦国時代の大谷吉継が有名だが、この国次がなぜ大谷刑部と名乗ったのかは不明である。彼の史料はほとんど残ってないらしい。国定忠治といえば北関東では押しも押されもせぬ大物で、しかも反幕府的で有名だった男だ。その遺児と名乗る彼に、周囲は大きな期待を寄せた。
竹内が下野で挙兵したのに合わせて大監察の権田直助は隣りの上州(上野)へ行き、かつて相楽が桃井儀八と共に決起の盟主として担ぎ出そうとした岩松(新田)満次郎を今度こそ引っ張り出そうとしたのだが、やはり今回も満次郎は立たなかった。
なぜこうまでして皆が満次郎を引っ張り出そうとしたのかというと、彼は後醍醐天皇に仕えた新田義貞の末裔を称しているので尊王の志士たちが彼の出馬を嘱望したのである。
さらに余談を付け加えると、この満次郎の娘がのちに井上馨と結婚して「鹿鳴館の華」と呼ばれることになる井上武子である。武子は夫と共にイギリスへ行くことになり、尊王攘夷の象徴であった新田家からこのような外国通の夫人が出るというのは、少なくとも権田たち尊王攘夷派からすれば皮肉な話であった。
さて、竹内たちが挙兵した出流山の近くにある栃木宿では三年前の天狗党の乱の際、天狗党内の過激派である田中愿蔵隊が強盗、殺人、放火といった蛮行をおこなったため、その悪夢を覚えている住民たちは竹内たちの挙兵をうけて「出流天狗」と呼んで恐れをなした。
事実、彼らは天狗党と同じく尊王攘夷を志しており、三年前の天狗党の乱の雪辱を果たすつもりでいる。
この出流天狗を討伐するために幕府は関東取締出役の渋谷鷲郎(和四郎)を下野へ派遣した。関東取締出役とは、この物語で前に何度か名前が出た関八州の博徒を取り締まる「八州廻り」のことだ。
が、もはやこれは博徒を取り締まるといった次元の話ではない。完全な戦さ仕様である。指揮官の渋谷は近隣の農民や目明し(二足の草鞋の博徒含む)に鉄砲を持たせて農兵部隊を組織し、彼らを率いて出流天狗の討伐に向かった。その数およそ千二百人。
十二月十一日より出流山およびその南方にある岩船山周辺で戦争となった。
戦争は、物量と火力に勝る幕府軍の圧勝に終わった。
竹内たち出流天狗は多くが戦死し、また捕縛された者もことごとく処刑された。忠治の子、大谷刑部国次は騎馬隊の一人として奮戦したが最後には捕縛され、やはり処刑された。
一部の者は敵の包囲を突破して三田の薩摩藩邸へ逃げ帰ったものの、竹内はその逃亡の途中に下総で捕まり、二十四日に松戸で斬首された。これは竹内たちが下野で打ち破られたことへの報復として、薩摩藩邸の浪士たちが江戸の渋谷の自宅を襲って家族を殺傷したため、渋谷が竹内の首を斬ったとも言われている。
こうして下野へ向かった部隊が全滅していたころ、薩摩藩邸から鯉淵四郎率いる十名ほどの浪士たちが相模の厚木へ向かった。
十二月十五日の夜、鯉淵たちは厚木の近くにある荻野の山中陣屋(現、厚木市下荻野)に着いた。その頃には近隣の博徒や志士たちを募って三十七人の部隊になっていた。
さらにこの十五日には甲州へ向かう上田修理率いる十人の浪士たちが薩摩藩邸を出発した。
甲州で藤太と猪之吉が待っている十人の浪士とは、この上田たちのことである。
そしてこの相模と甲州へ向かった二つの部隊はお互いに連携して動いていた。
というのは、相模の山中陣屋を所有しているのは大久保長門守(教義)といい、小田原藩の大久保加賀守(忠礼)の分家なのだが、この三ヶ月前に小田原藩の大久保加賀守は甲府城代の任に就いており、浪士たちが攻めようとしている二つの場所は、どちらも大久保家の所領なのである。
実はこの前年、甲州は幕府役人が支配する甲府勤番制度を取り止めて、譜代大名に甲府城代を勤めさせるかたちに変わっていた。その城代の役目を小田原藩大久保家が任されたのであった。といっても藩主の大久保忠礼は大坂へ行っているため甲府にはおらず、このときは小田原も甲府も手薄な状態となっていた。
そこを狙って浪士たちは相模と甲州を同時に攻めたのだ。山中陣屋を襲った部隊はあわよくば小田原まで攻めるつもりでいる。
山中陣屋への襲撃作戦は成功した。
鯉淵たちは陣屋へ乗り込み「新政府のために御用金を差し出せ」と談判したが、大久保家の家臣はこれを拒否した。
すると、たちまち浪士たちは陣屋を襲撃してその家臣たちを殺傷し、そのうえ金穀や武器を奪い、挙句の果ては陣屋に火を放って焼き払った。
これに対して小田原の大久保本家が援軍を出動させて厚木の近くまでやって来た。援軍は百人以上の大部隊だ。
その軍勢を見て鯉淵たちはさすがに小田原襲撃をあきらめ、分捕った大砲などを引っ張りながら退却し、三田の薩摩藩邸へと帰還した。
浪士たちの中から死者一名と負傷者二名が出たものの、この相模攻めは一応成功の部類に入れても良いだろう。敵からすれば「神出鬼没」と言わざるをえない手際の良さである。
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