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第三章・狂瀾怒濤
第52話 相楽総三、脱出。そして開戦へ(四)
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相楽たちが乗った翔鳳丸は傷だらけの状態でよろよろと西へ向かったが激しい冬の嵐に遭遇して船体は木の葉のように波間をただよい、もはや万事休すといった絶望的な状況に陥りながらも十二月二十九日の夜、どうにかこうにか九鬼港(現、三重県尾鷲市)にたどり着いた。
夜が明けると雪が降ってきた。この日は大晦日だ。旧暦だから三十一日はない。港は正月を迎える準備で人々が慌ただしく行き交い、たいそう賑わっている。まさかこの船が江戸湾で幕府軍艦と戦ってきた船であるとは、誰一人気づく者はいない。
この九鬼で伊牟田、落合、鯉淵四郎(荻野の山中陣屋を襲った時の隊長)の三人だけとりあえず上陸して、陸路京都へ向かった。彼らは伊勢方面から山越えをして奈良へ入り、そこから宇治、伏見を通って京都へ入ったのが一月四日のことだったという。ただし伏見を通ったといっても伏見奉行所のあたりを通ったわけではないだろう。その直前の一月三日の夜に、伏見奉行所をめぐって激しい戦争があったばかりなのだから。
かたや翔鳳丸は九鬼港を出たあと、紀伊半島をぐるっと回って大坂湾へ入り、一月二日の夕七つ(午後四時)頃、兵庫港に到着した。
「やれやれ、やっと関西に到着したぞ」
などと相楽たちが喜んだのもつかの間、港内には同じ薩摩藩の春日丸と平運丸がいたのだが、その二隻は、沖に停泊している開陽丸など五隻の幕府艦隊とただならぬ雰囲気でにらみ合っていた。開陽丸以外の四隻は富士山丸、蟠竜丸、順動丸、翔鶴丸。千トンを超える大型艦は富士山丸だけで他は翔鳳丸と同様、数百トンクラスの小型艦である。
ただし別格なのは開陽丸だ。
幕府がオランダで特別に作らせた世界レベルの戦艦である。二千六百トンで砲二十六門。それも最新鋭のクルップ砲だ。半年ほど前にオランダから日本へと回航されてきた。
対する薩摩側の春日丸は千トンで砲六門。この二ヶ月前に薩摩藩が長崎で買ったイギリス製の蒸気船である。開陽丸と比べれば軍艦と呼べる程の代物ではないが、唯一この船が開陽丸に優っているのは開陽丸の速力が十二ノットであるのに対して春日丸は十六ノットを出せる高速船である、ということだ。もう一隻の平運丸は翔鳳丸と同じく数百トンクラスの小型運送船で、戦力としては話にならない。
実はこの日、鳥羽伏見より一日早く、すでに海上で幕府と薩摩は一戦を交えていた。
薩摩の平運丸が幕府艦隊から砲撃され、被害を受けていたのである。
平運丸は鹿児島から兵士を上京させる際に使用した船で、この日、関西にいた薩摩人の家族などを乗せて鹿児島へ帰還するため出港したところ、幕府艦隊が追いかけて来た。そして明石海峡の近くまで来たところで、幕府側はまず一発空砲を放って威嚇した。「停船せよ」の合図である。
しかし平運丸は「幕府に命令されるいわれはない」とばかりに無視して走りつづけた。
すると幕府艦隊はドカドカと実弾を発射。
その一発が平運丸に命中して、死傷者は出なかったものの船体の一部が損傷した。
平運丸にとっては思いもよらぬ出来事であった。とにかく大事をとって兵庫港へ引き返し、春日丸の同僚と相談したうえで開陽丸の榎本武揚のところへ軍使を派遣。榎本に砲撃の真意を問いただした。
開陽丸の船上で談判がおこなわれ、榎本が薩摩側の軍使に対して答えた。
「すでに十二月二十五日に江戸で我が徳川家と貴藩(薩摩藩)は交戦状態に入っている。しかも大坂と兵庫は徳川家の港である。上様のご命令がなくても我が海軍の一存でいかようにも取り締まることができる。貴藩の船が勝手に港を出ようとしたので空砲によって停船を命じたのだ。それを無視したので実弾を撃った。以後、貴藩の船は一隻たりとも出港することはあいならん。さよう心得よ」
幕府側は二十五日の薩摩藩邸の焼き討ちがあった直後に江戸から船を急行させ、二十八日にはその情報が大坂に伝わっていた。その一方、薩摩側にはまだその情報が届いていなかった。このとき榎本から告げられて初めてその事を知り、さらにこの日、相楽たちが乗った翔鳳丸が兵庫へやって来たことによって彼らから江戸での詳しい経緯を聞くことになったのだった。
このように榎本は強硬な姿勢を示しているとはいえ、この兵庫港にいる限りは一応、砲撃される心配はない。
兵庫港は先月(十二月)七日に開港されて国際港となっており、ここで激しいドンパチをやらかすことは榎本といえども不可能なのである。開港直後のこの兵庫港には開陽丸クラスの外国軍艦が何隻も停泊しており、彼らと事を構えるわけにはいかず、榎本は兵庫港の沖合いに幕府艦隊を展開させて薩摩の船を待ち構える態勢をとっていた。これにより薩摩の船を兵庫港内に封殺し、もし突破してこようとすれば、沖合いでそれを叩くつもりなのだ。
相楽たちの翔鳳丸は、こういった緊張状態にある兵庫港へ飛び込んで来たのだった。
開陽丸から砲撃される心配はないとはいえ、陸上には幕府の陸軍が大勢おり、彼らが翔鳳丸へ襲いかかってくることもあり得る。
大坂の幕府軍はこの一月二日、京都へ向けて大軍を出陣させている。二十八日に江戸から届いた情報によって大坂の幕臣たちが激高し、ついに京都への進軍を開始したのだ。
そんな連中が陸にいる以上、兵庫港にいる相楽たちも油断はできない。
相楽は浪士たちに訓戒した。
「我々はこの兵庫で幕府軍から襲撃されるかも知れぬ。その時は死力を尽くして戦うつもりである。ただし、あくまで我々の目的は京の都へ上って天朝様にご奉公することである。一人でも多く京の都へたどり着けるよう心がけよ」
こうして相楽たちが決戦の決意をかためて船内で緊張の一夜を過ごしていたところ、翌三日の未明(午前四時頃)、数人の薩摩藩士が相楽たちのところへやって来て小船に乗り込むよう命じた。
これはこのとき兵庫にいた五代才助(友厚)が手配した小船だった。五代が大坂の商人から小船を借りてきて、それを翔鳳丸まで送ってよこしたのだ。
相楽たちはそれに乗り込むと西宮へ向かい、そこで上陸した。そして西宮からは西国街道を通って京都を目指した。
ともかくも、相楽たちはこうして密かに船から脱出することに成功したのであった。
相楽たちを降ろした翔鳳丸は、翌四日、幕府艦隊との「阿波沖海戦」に巻き込まれることになった。
薩摩の三隻はこの日の早朝、兵庫港からの脱出作戦を決行したのである。
薩摩側は敵を分断するために二手に別れた。
平運丸は西の明石海峡を目指し、春日丸は翔鳳丸を曳航して南の紀淡海峡(和歌山と淡路島の間)を目指した。
このとき春日丸には、のちの元帥が三人乗っている。
一人は前にも述べた伊東祐亨で、彼はこのとき翔鳳丸から春日丸に乗り移っていた。他の二人は東郷平八郎と井上直八(良馨)である。
伊東二十六歳、井上二十四歳、東郷二十二歳。
余談だが井上直八は五年前の薩英戦争のときに桜島の南西にある沖小島に配備され、イギリス艦隊と激しい砲撃戦をおこなって太ももと尻に重傷を負った。さらに余談として、そのとき沖小島にいた井上たちの小隊がイギリス艦隊へ砲撃せずにやり過ごしていれば、沖小島と桜島の間に敷設してあった最新式の電気水雷によってイギリスの軍艦を撃沈できたはずだ、という伝説が鹿児島には残っているらしい(が、イギリス艦隊がそんな狭い水路をわざわざ通るはずがない、と海音寺潮五郎氏などは著書で述べている)。
薩摩側の三隻は兵庫港から脱出することには一応成功した。
この時たまたま幕府艦隊の封鎖網がゆるくなっていたのだ。
というのは、この前日、すなわち一月三日に鳥羽伏見で戦争が始まっており、伏見であがった煙は大坂からも遠望することができた。それで幕府艦隊の一部は念のため大坂の天保山へ引きあげていたのだ。
このことについて後の海軍中将・小笠原長生(この当時、幕府老中をつとめていた唐津藩主小笠原長行の息子)は『思ひ出を語る』という自著の中で「福の神といわれる東郷元帥の運気は、この時分から豪勢なものだったね」と書いている。
春日丸の指揮をしていたのは赤塚源六艦長と林謙三だった。この林謙三も後に海軍中将となるが、その頃は安保清康という名になっている。広島人だが薩摩で船に乗り込んで航海術を学んでおり、薩摩と近しい関係にあったイギリスの船に乗り込んだ経験もある。またアーネスト・サトウや坂本龍馬の友人でもあった。
幕府艦隊がこのとき手薄だったとはいえ、開陽丸は兵庫沖に留まっていた。
そして開陽丸は、西へ向かった平運丸を追うのはあきらめて、春日丸と翔鳳丸を追って南へ向かった。
こうして開陽丸と春日丸は、日本初の蒸気軍艦同士の海戦、いわゆる「阿波沖海戦」をくり広げることになったのである。
その様子は、再び小笠原長生の『思ひ出を語る』から以下に引用する。
(以下、引用。ただし読みやすくするため若干意訳してある)
折りしも春日丸の艦橋上には先任士官林謙三(のち安保清康と改名し中将に至る)が当直士官と共にいたので望遠鏡をとってその巨艦を見ると、まごう方なき榎本司令官の旗艦開陽丸であった。
「きおったわい」
沈着豪快なる林士官は笑みを浮かべてこう叫び、ただちにこれを赤塚艦長に報告した。
「翔鳳丸の曳索を放せ。戦闘配置!」
瞬間にして諸準備は整い、翔鳳丸は単独で先へ進み、春日丸は敵が近づくのを待ち受けた。
艦首に白泡を立てつつ全速力で近づいてきた開陽丸は、さすがに戦闘の秩序をわきまえ、まず空砲を一発放って「停止せよ」との意を表した。
「こしゃくなまねをしおるわい」
秩序などには頓着せぬ春日丸の艦長はすぐに一令を下して島津の紋が入った旗をかかげ、同時に撃ち方はじめの命令が出た。このとき素早く井上直八が操作する百斤砲から巨弾が放たれ、開陽丸のあたりに水柱が立った。
「うわー!」「うわー!」
開闢以来初めての欧式軍艦同士の戦闘だから彼我ともに手心がわからないので意気のみ軒昂し、やっつけ主義の薩摩隼人は得意の棒打ちでもする了見で「チェストー!」と金切り声を張り上げつつ遮二無二撃ち出した。ところで春日丸の砲門は六門に過ぎないが、開陽丸は大小二十六門を有し、砲力春日丸を凌駕しているのみならず、榎本司令官は舶来の腕前を見せたくてならず、薩摩っぽうに海戦の呼吸がわかってたまるかい、失敬だが棒踊りとは訳がちがうぜ、と江戸っ子口調でタンカを切りつつ、クルップ砲やカノン砲を一斉に放って次々と水柱を立てた。撃ちつ撃たれつ、ついに千二百メートルまで接近して砲戦をつづけた。そのとき東郷平八郎が狙い定めて放った一弾が開陽丸の前面に落ち、さらに跳躍して同艦のヤードを打ち削った。榎本の顔はみるみる真っ赤に紅潮し、生意気なとばかりにまたもや十三門の右舷砲を連発したが、一弾が春日丸の車輪にブルッと音をたてて触れ、艦上を躍り越えた。
と、こう記述してくると、いかにも激戦のようで両艦ともに死傷者続出と言いたいところだが、全員すこぶる健全!ノミを潰したほどの血も見なかったというメデタさで、出たものは汗ばかりだったそうな。話がこれに及ぶと東郷元帥はいつもしょっぱい顔をして、
「不思議と命中らんじゃった」
といわれるよ。(以下略)
結局このあと春日丸は十六ノットの速力をいかして開陽丸を振り切り戦線離脱に成功。数日後、無事鹿児島にたどり着いた。そして平運丸も同様に帰国した。
しかしながら翔鳳丸はボロボロの船体のうえに武装もなく、とても開陽丸から逃げ切れるとは思えず、艦長の判断で阿波の由岐海岸(現、徳島県海部郡美波町)に打ち上げ、乗組員を全員上陸させたあとに火をかけて自焼した。そのあと乗組員は全員鹿児島へ帰国できたものの、艦長の伊地知八郎は島津久光への報告を済ませたあと、艦を自焼させた責任を取って切腹した。
この海戦の前日(一月三日)、西宮に上陸した相楽たち二十数人の浪士は西国街道を通って京都を目指していた。
その日の夕方には鳥羽で、夜には伏見で戦いが始まった。
しかし相楽たちはそれを知らずに戦場へ向かって歩きつづけた。この日は昆陽(現、伊丹市)に泊まった。
翌四日。この先で戦争が始まったことはさすがに相楽たちにも伝わってきた。それでも彼らは構わず先へ進んだ。進むにつれて戦場で鳴り響く砲声や立ちのぼる煙にだんだんと近づいていることを実感した。
そして夜には山崎に到着した。その昔、秀吉と光秀が合戦したところだ。
もう鳥羽伏見の戦場は目と鼻の先である。今はこの関門を幕府方の津藩藤堂軍が守っている。有名な「藤堂軍の寝返り」があるのはこの二日後のことで、今はまだギリギリ幕府側の味方をしている状態だ。
こんな緊迫した状況のなか、山崎の関門を通ろうとするなんて非常識にも程がある。
と言って藤堂軍がこの怪しい浪士たちを通さなかったのは、当然といえば当然だった。
ところがこのとき偶然、相楽の知り合いの長州藩士がこの山崎まで来ており、彼の口添えでなんとか通行することが許された。
おそらくこの長州藩士は藤堂軍を寝返らせるための使者として来ていたのであろう。すでにこの段階で藤堂軍もかなり朝廷方に心が傾きかけていたのだ。
関門を通過した相楽たちはこの日、近くの農家に泊めてもらった。
翌五日。相楽たちは山崎を出発した。戦場のすぐ脇をすり抜けて北上し、ついにこの日、京都に到着した
同じ日、戦場では錦の御旗がひるがえり、薩長新政府側の勝利が決定づけられた。
甲州から中山道を通って京都へ向かっていた猪之吉が、京都の勝蔵のところへ帰還したのはこの前日のことだった。
これでようやく京都に役者がそろった。
夜が明けると雪が降ってきた。この日は大晦日だ。旧暦だから三十一日はない。港は正月を迎える準備で人々が慌ただしく行き交い、たいそう賑わっている。まさかこの船が江戸湾で幕府軍艦と戦ってきた船であるとは、誰一人気づく者はいない。
この九鬼で伊牟田、落合、鯉淵四郎(荻野の山中陣屋を襲った時の隊長)の三人だけとりあえず上陸して、陸路京都へ向かった。彼らは伊勢方面から山越えをして奈良へ入り、そこから宇治、伏見を通って京都へ入ったのが一月四日のことだったという。ただし伏見を通ったといっても伏見奉行所のあたりを通ったわけではないだろう。その直前の一月三日の夜に、伏見奉行所をめぐって激しい戦争があったばかりなのだから。
かたや翔鳳丸は九鬼港を出たあと、紀伊半島をぐるっと回って大坂湾へ入り、一月二日の夕七つ(午後四時)頃、兵庫港に到着した。
「やれやれ、やっと関西に到着したぞ」
などと相楽たちが喜んだのもつかの間、港内には同じ薩摩藩の春日丸と平運丸がいたのだが、その二隻は、沖に停泊している開陽丸など五隻の幕府艦隊とただならぬ雰囲気でにらみ合っていた。開陽丸以外の四隻は富士山丸、蟠竜丸、順動丸、翔鶴丸。千トンを超える大型艦は富士山丸だけで他は翔鳳丸と同様、数百トンクラスの小型艦である。
ただし別格なのは開陽丸だ。
幕府がオランダで特別に作らせた世界レベルの戦艦である。二千六百トンで砲二十六門。それも最新鋭のクルップ砲だ。半年ほど前にオランダから日本へと回航されてきた。
対する薩摩側の春日丸は千トンで砲六門。この二ヶ月前に薩摩藩が長崎で買ったイギリス製の蒸気船である。開陽丸と比べれば軍艦と呼べる程の代物ではないが、唯一この船が開陽丸に優っているのは開陽丸の速力が十二ノットであるのに対して春日丸は十六ノットを出せる高速船である、ということだ。もう一隻の平運丸は翔鳳丸と同じく数百トンクラスの小型運送船で、戦力としては話にならない。
実はこの日、鳥羽伏見より一日早く、すでに海上で幕府と薩摩は一戦を交えていた。
薩摩の平運丸が幕府艦隊から砲撃され、被害を受けていたのである。
平運丸は鹿児島から兵士を上京させる際に使用した船で、この日、関西にいた薩摩人の家族などを乗せて鹿児島へ帰還するため出港したところ、幕府艦隊が追いかけて来た。そして明石海峡の近くまで来たところで、幕府側はまず一発空砲を放って威嚇した。「停船せよ」の合図である。
しかし平運丸は「幕府に命令されるいわれはない」とばかりに無視して走りつづけた。
すると幕府艦隊はドカドカと実弾を発射。
その一発が平運丸に命中して、死傷者は出なかったものの船体の一部が損傷した。
平運丸にとっては思いもよらぬ出来事であった。とにかく大事をとって兵庫港へ引き返し、春日丸の同僚と相談したうえで開陽丸の榎本武揚のところへ軍使を派遣。榎本に砲撃の真意を問いただした。
開陽丸の船上で談判がおこなわれ、榎本が薩摩側の軍使に対して答えた。
「すでに十二月二十五日に江戸で我が徳川家と貴藩(薩摩藩)は交戦状態に入っている。しかも大坂と兵庫は徳川家の港である。上様のご命令がなくても我が海軍の一存でいかようにも取り締まることができる。貴藩の船が勝手に港を出ようとしたので空砲によって停船を命じたのだ。それを無視したので実弾を撃った。以後、貴藩の船は一隻たりとも出港することはあいならん。さよう心得よ」
幕府側は二十五日の薩摩藩邸の焼き討ちがあった直後に江戸から船を急行させ、二十八日にはその情報が大坂に伝わっていた。その一方、薩摩側にはまだその情報が届いていなかった。このとき榎本から告げられて初めてその事を知り、さらにこの日、相楽たちが乗った翔鳳丸が兵庫へやって来たことによって彼らから江戸での詳しい経緯を聞くことになったのだった。
このように榎本は強硬な姿勢を示しているとはいえ、この兵庫港にいる限りは一応、砲撃される心配はない。
兵庫港は先月(十二月)七日に開港されて国際港となっており、ここで激しいドンパチをやらかすことは榎本といえども不可能なのである。開港直後のこの兵庫港には開陽丸クラスの外国軍艦が何隻も停泊しており、彼らと事を構えるわけにはいかず、榎本は兵庫港の沖合いに幕府艦隊を展開させて薩摩の船を待ち構える態勢をとっていた。これにより薩摩の船を兵庫港内に封殺し、もし突破してこようとすれば、沖合いでそれを叩くつもりなのだ。
相楽たちの翔鳳丸は、こういった緊張状態にある兵庫港へ飛び込んで来たのだった。
開陽丸から砲撃される心配はないとはいえ、陸上には幕府の陸軍が大勢おり、彼らが翔鳳丸へ襲いかかってくることもあり得る。
大坂の幕府軍はこの一月二日、京都へ向けて大軍を出陣させている。二十八日に江戸から届いた情報によって大坂の幕臣たちが激高し、ついに京都への進軍を開始したのだ。
そんな連中が陸にいる以上、兵庫港にいる相楽たちも油断はできない。
相楽は浪士たちに訓戒した。
「我々はこの兵庫で幕府軍から襲撃されるかも知れぬ。その時は死力を尽くして戦うつもりである。ただし、あくまで我々の目的は京の都へ上って天朝様にご奉公することである。一人でも多く京の都へたどり着けるよう心がけよ」
こうして相楽たちが決戦の決意をかためて船内で緊張の一夜を過ごしていたところ、翌三日の未明(午前四時頃)、数人の薩摩藩士が相楽たちのところへやって来て小船に乗り込むよう命じた。
これはこのとき兵庫にいた五代才助(友厚)が手配した小船だった。五代が大坂の商人から小船を借りてきて、それを翔鳳丸まで送ってよこしたのだ。
相楽たちはそれに乗り込むと西宮へ向かい、そこで上陸した。そして西宮からは西国街道を通って京都を目指した。
ともかくも、相楽たちはこうして密かに船から脱出することに成功したのであった。
相楽たちを降ろした翔鳳丸は、翌四日、幕府艦隊との「阿波沖海戦」に巻き込まれることになった。
薩摩の三隻はこの日の早朝、兵庫港からの脱出作戦を決行したのである。
薩摩側は敵を分断するために二手に別れた。
平運丸は西の明石海峡を目指し、春日丸は翔鳳丸を曳航して南の紀淡海峡(和歌山と淡路島の間)を目指した。
このとき春日丸には、のちの元帥が三人乗っている。
一人は前にも述べた伊東祐亨で、彼はこのとき翔鳳丸から春日丸に乗り移っていた。他の二人は東郷平八郎と井上直八(良馨)である。
伊東二十六歳、井上二十四歳、東郷二十二歳。
余談だが井上直八は五年前の薩英戦争のときに桜島の南西にある沖小島に配備され、イギリス艦隊と激しい砲撃戦をおこなって太ももと尻に重傷を負った。さらに余談として、そのとき沖小島にいた井上たちの小隊がイギリス艦隊へ砲撃せずにやり過ごしていれば、沖小島と桜島の間に敷設してあった最新式の電気水雷によってイギリスの軍艦を撃沈できたはずだ、という伝説が鹿児島には残っているらしい(が、イギリス艦隊がそんな狭い水路をわざわざ通るはずがない、と海音寺潮五郎氏などは著書で述べている)。
薩摩側の三隻は兵庫港から脱出することには一応成功した。
この時たまたま幕府艦隊の封鎖網がゆるくなっていたのだ。
というのは、この前日、すなわち一月三日に鳥羽伏見で戦争が始まっており、伏見であがった煙は大坂からも遠望することができた。それで幕府艦隊の一部は念のため大坂の天保山へ引きあげていたのだ。
このことについて後の海軍中将・小笠原長生(この当時、幕府老中をつとめていた唐津藩主小笠原長行の息子)は『思ひ出を語る』という自著の中で「福の神といわれる東郷元帥の運気は、この時分から豪勢なものだったね」と書いている。
春日丸の指揮をしていたのは赤塚源六艦長と林謙三だった。この林謙三も後に海軍中将となるが、その頃は安保清康という名になっている。広島人だが薩摩で船に乗り込んで航海術を学んでおり、薩摩と近しい関係にあったイギリスの船に乗り込んだ経験もある。またアーネスト・サトウや坂本龍馬の友人でもあった。
幕府艦隊がこのとき手薄だったとはいえ、開陽丸は兵庫沖に留まっていた。
そして開陽丸は、西へ向かった平運丸を追うのはあきらめて、春日丸と翔鳳丸を追って南へ向かった。
こうして開陽丸と春日丸は、日本初の蒸気軍艦同士の海戦、いわゆる「阿波沖海戦」をくり広げることになったのである。
その様子は、再び小笠原長生の『思ひ出を語る』から以下に引用する。
(以下、引用。ただし読みやすくするため若干意訳してある)
折りしも春日丸の艦橋上には先任士官林謙三(のち安保清康と改名し中将に至る)が当直士官と共にいたので望遠鏡をとってその巨艦を見ると、まごう方なき榎本司令官の旗艦開陽丸であった。
「きおったわい」
沈着豪快なる林士官は笑みを浮かべてこう叫び、ただちにこれを赤塚艦長に報告した。
「翔鳳丸の曳索を放せ。戦闘配置!」
瞬間にして諸準備は整い、翔鳳丸は単独で先へ進み、春日丸は敵が近づくのを待ち受けた。
艦首に白泡を立てつつ全速力で近づいてきた開陽丸は、さすがに戦闘の秩序をわきまえ、まず空砲を一発放って「停止せよ」との意を表した。
「こしゃくなまねをしおるわい」
秩序などには頓着せぬ春日丸の艦長はすぐに一令を下して島津の紋が入った旗をかかげ、同時に撃ち方はじめの命令が出た。このとき素早く井上直八が操作する百斤砲から巨弾が放たれ、開陽丸のあたりに水柱が立った。
「うわー!」「うわー!」
開闢以来初めての欧式軍艦同士の戦闘だから彼我ともに手心がわからないので意気のみ軒昂し、やっつけ主義の薩摩隼人は得意の棒打ちでもする了見で「チェストー!」と金切り声を張り上げつつ遮二無二撃ち出した。ところで春日丸の砲門は六門に過ぎないが、開陽丸は大小二十六門を有し、砲力春日丸を凌駕しているのみならず、榎本司令官は舶来の腕前を見せたくてならず、薩摩っぽうに海戦の呼吸がわかってたまるかい、失敬だが棒踊りとは訳がちがうぜ、と江戸っ子口調でタンカを切りつつ、クルップ砲やカノン砲を一斉に放って次々と水柱を立てた。撃ちつ撃たれつ、ついに千二百メートルまで接近して砲戦をつづけた。そのとき東郷平八郎が狙い定めて放った一弾が開陽丸の前面に落ち、さらに跳躍して同艦のヤードを打ち削った。榎本の顔はみるみる真っ赤に紅潮し、生意気なとばかりにまたもや十三門の右舷砲を連発したが、一弾が春日丸の車輪にブルッと音をたてて触れ、艦上を躍り越えた。
と、こう記述してくると、いかにも激戦のようで両艦ともに死傷者続出と言いたいところだが、全員すこぶる健全!ノミを潰したほどの血も見なかったというメデタさで、出たものは汗ばかりだったそうな。話がこれに及ぶと東郷元帥はいつもしょっぱい顔をして、
「不思議と命中らんじゃった」
といわれるよ。(以下略)
結局このあと春日丸は十六ノットの速力をいかして開陽丸を振り切り戦線離脱に成功。数日後、無事鹿児島にたどり着いた。そして平運丸も同様に帰国した。
しかしながら翔鳳丸はボロボロの船体のうえに武装もなく、とても開陽丸から逃げ切れるとは思えず、艦長の判断で阿波の由岐海岸(現、徳島県海部郡美波町)に打ち上げ、乗組員を全員上陸させたあとに火をかけて自焼した。そのあと乗組員は全員鹿児島へ帰国できたものの、艦長の伊地知八郎は島津久光への報告を済ませたあと、艦を自焼させた責任を取って切腹した。
この海戦の前日(一月三日)、西宮に上陸した相楽たち二十数人の浪士は西国街道を通って京都を目指していた。
その日の夕方には鳥羽で、夜には伏見で戦いが始まった。
しかし相楽たちはそれを知らずに戦場へ向かって歩きつづけた。この日は昆陽(現、伊丹市)に泊まった。
翌四日。この先で戦争が始まったことはさすがに相楽たちにも伝わってきた。それでも彼らは構わず先へ進んだ。進むにつれて戦場で鳴り響く砲声や立ちのぼる煙にだんだんと近づいていることを実感した。
そして夜には山崎に到着した。その昔、秀吉と光秀が合戦したところだ。
もう鳥羽伏見の戦場は目と鼻の先である。今はこの関門を幕府方の津藩藤堂軍が守っている。有名な「藤堂軍の寝返り」があるのはこの二日後のことで、今はまだギリギリ幕府側の味方をしている状態だ。
こんな緊迫した状況のなか、山崎の関門を通ろうとするなんて非常識にも程がある。
と言って藤堂軍がこの怪しい浪士たちを通さなかったのは、当然といえば当然だった。
ところがこのとき偶然、相楽の知り合いの長州藩士がこの山崎まで来ており、彼の口添えでなんとか通行することが許された。
おそらくこの長州藩士は藤堂軍を寝返らせるための使者として来ていたのであろう。すでにこの段階で藤堂軍もかなり朝廷方に心が傾きかけていたのだ。
関門を通過した相楽たちはこの日、近くの農家に泊めてもらった。
翌五日。相楽たちは山崎を出発した。戦場のすぐ脇をすり抜けて北上し、ついにこの日、京都に到着した
同じ日、戦場では錦の御旗がひるがえり、薩長新政府側の勝利が決定づけられた。
甲州から中山道を通って京都へ向かっていた猪之吉が、京都の勝蔵のところへ帰還したのはこの前日のことだった。
これでようやく京都に役者がそろった。
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青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
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