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第四章・戊辰大乱
第67話 世にもまれなる出世のかがみ
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この日あった「旗巻峠の戦い」において、徴兵七番隊で戦死したのは綱五郎ただ一人だった。
新政府軍全体の戦死者は七人。仙台藩軍の戦死者は四十六人。
悲惨じゃない戦死者などいるはずもないが、この日すでに城中では降伏の方針が決まっていたにもかかわらず、そのうえで戦死した仙台藩の四十六人は、とりわけ悲惨である。まるで「降伏のためのいけにえ」となった感すらある。
五日後、仙台藩は新政府に対して正式に降伏した。
そのころ仙台の外港にあたる松島湾には榎本艦隊が集結していた。
周知の通り、彼らはこのあと箱館(函館)へ行って翌年の春まで抵抗をつづけることになる。
これに仙台藩士の星恂太郎率いる額兵隊が加わった。額兵隊は星が結成した洋式兵制の部隊で、この戦争の期間中に出陣の準備を整えていたのだが、いざ出陣しようとした矢先、いきなり降伏が決まってしまった。それで、隊の一部の者が藩から脱走して榎本艦隊へ身を投じたのだ。
余談だが五稜郭落城の寸前に新政府軍から最後の手向けとして榎本軍に酒樽が贈られた際、毒が入っているのでは?と恐れて誰も手をつけようとしなかったところ、平気でそれを飲んで皆を安心させたのが、この星恂太郎である。
ただし、このとき松島湾にいた榎本艦隊はボロボロの状態だった。
江戸湾を出発したあと、八月二十一日の深夜に房総沖で暴風雨に遭遇して艦隊は四散。マストが折れるなど損傷した船も多く、開陽丸ですら舵が壊れて流されてしまった。急場しのぎとして開陽丸は樽を取り付けて舵の代わりにするという有り様だった。四散した艦隊は三々五々松島湾へやって来たのだが、美賀保丸と咸臨丸はついに到着しなかった。
美賀保丸は暴風雨のあと銚子犬吠埼の黒生浦に流れ着き、座礁沈没した。この船には伊庭八郎をはじめ旧幕府兵およそ六百人が乗っており、沈没時に十数人が水死した。そして上陸に成功した兵士たちの境遇も、新政府軍に討伐された者、投降した者、逃亡した者と様々な運命をたどり、とにかく部隊は壊滅の憂き目にあった。
その中で伊庭八郎は、箱根山崎の戦いで左手首を切断されていたため不自由な体ではあったが、なんとか上陸して逃げのびた。そして、それでも節を曲げずにふたたび箱館へ向かい、のちにそこで戦死する。
そして咸臨丸は、三本マストの内二本を切り倒して暴風による転覆は避けられたものの、もはや満身創痍で戦線離脱を余儀なくされていた。蒸気機関が壊れたままなのは前に触れた通りで、とにかく残り一本のマストを使ってなんとか下田港へたどり着いた。
そこへ同じく艦隊からはぐれた蟠竜丸がやって来て、両船ともに修理をするため清水港へ移った。下田港には新政府軍の船も入ってくるため、田安亀之助に七十万石で与えられた駿河の清水港へ避難したのだ。
とはいえ榎本艦隊は「脱走艦隊」であり、駿府の徳川家としてもこの二隻の扱いに苦慮した。とりあえず蟠竜丸は蒸気機関の修理が終わった九月十一日、清水港を出発して再び松島へ向かった。
一方、咸臨丸は半死半生の状態でとても戦線復帰は望めず、隊員およそ二百人は上陸して脱走したことを徳川家に謝罪し、謹慎することに決めた。そして咸臨丸の武装も取り外し、船体の修理と留守番のために二十人ほどが船内にとどまった。艦長の小林文次郎は上陸したため副艦長の春山弁蔵が残留組の責任者となった。
ところが九月十八日、新政府軍の富士山丸、飛龍丸、武蔵丸の三隻が清水港へやって来た。
富士山丸はかつて幕府艦隊の旗艦をつとめたこともあり、幕府時代は咸臨丸の僚艦であったのだが「江戸開城」の降伏条件として新政府に引き渡されていた。
そしてこの三隻の新政府軍は、いきなり咸臨丸に対して砲撃を開始した。この攻撃を指揮したのは柳川藩だった。
咸臨丸には武装もなく、春山たち船員には戦う意志もなかった。
それなのに新政府軍は問答無用とばかりに咸臨丸へ兵を送り込んで春山たち二十数人をことごとく虐殺した。そしてその死体をすべて海へ投げ捨てた。
一体どのようないきさつからこのような蛮行におよんだのか、まったくの謎である。
戊辰戦争中、各地の戦場で見られた傾向ではあるが「賊軍」の戦死体を勝手に埋葬するのはご法度とされていた。そのため波間に漂う春山たちの死体に手をつけようとする者は誰もいなかった。特にここは戊辰戦争によって打倒された徳川家の地元なのだから、なおさらである。
このとき清水次郎長が敢然と立ち上がった。
「事の良し悪しは俺には分からねえ。だが、こんな仁義に外れた仕打ちは放っておけねえ。漁師の皆も『海がこんな様子じゃ漁もできない』と困っていなさる。お上が何と仰せになろうと構うこたあねえ。おい、大政。皆で手分けして、あの幕臣の方々の遺体を引き上げてこい!」
こうして次郎長の命令によって子分たちが小船に乗って沖へ漕ぎだし、見つけた遺体をすべて回収した。
回収したのは春山弁蔵、春山鉱平(弁蔵の弟)、長谷川得蔵、長谷川清四郎(得蔵の弟)、今井幾之助、高橋与三郎、加藤常次郎の七人の遺体だった。
そしてその遺体を向島という、次郎長たちの地元から見て巴川の向かい側にある砂浜の、松が立っているところに埋葬した。
この次郎長の勝手な行動に対し、新政府からお咎めがあるのを恐れた徳川家は次郎長を駿府へ呼び出して事情聴取することにした。
次郎長と面談したのは駿府藩の幹事役・山岡鉄太郎である。
「かりにも朝廷から賊軍とされた者を、お主はどのような了見で勝手に弔ったのだ?」
これに次郎長が答える。
「ご時世によって賊軍となったとしても、罪があるのは生きてるあいだのことだけで、死ねば皆、仏でしょう。官軍のムゴいなさりようを放っておけなかったから、やったまでのことでございます。もしこれが悪いとおっしゃるのなら、どのような罰でも受けましょう」
もとより山岡自身も次郎長のやったことをそれほど悪いことだとは思っていなかった。というよりも、むしろ「良くやってくれた」とさえ思っていた。そして次郎長の言葉を聞いて「この男は大したものだ」と感じ入った。
次郎長と山岡の関係はこの時から始まり、これ以降、ずっとつづくことになる。
この「咸臨丸と次郎長」の事件は、次郎長にとってその名を高める大きな出来事だったというだけでなく、山岡鉄舟という、後に明治政府内で重きをなす人物の後ろ盾を得る、そのきっかけになったという点でも次郎長にとって人生最大の事件だったと言えよう。
さらに言うと天田愚庵も明治に入ってから山岡の門人となり、その山岡の紹介で次郎長を知ってのちに次郎長の養子となり、次郎長の名を高めるのに最も貢献する『東海遊侠伝』を書くのである(ただし天田は三年後に養子を辞める)。
そして翌明治二年には向島に埋めた春山たちの墓を建てることになり、墓石に山岡が揮毫した「壮士墓」の文字が刻まれ、その墓石が現在も当地に残っている。また明治二十年には興津の清見寺に旧幕臣の榎本たちが中心となって「咸臨丸殉難碑」を建立する。
ちなみにこういった侠客による「賊軍の戦死体の埋葬」というと次郎長以外にもいくつか事例がある。前にも少し触れた会津の小鉄は鳥羽伏見で戦死した会津兵を埋葬した。また箱館で榎本軍の戦死体を埋葬してのちに碧血碑を建てたのは柳川熊吉という侠客で、さらに上野で戦死した彰義隊を円通寺に埋葬したのは三河屋幸三郎という侠客である。
どれも「官軍」からの処罰を恐れず勇敢におこなった義挙である。
そろそろ場面を東北へと戻す。
米沢藩と仙台藩が降伏したことによって東北戦争は終わりが見えた。
それからほどなく、とうとう会津藩も降伏した。九月二十二日のことである。
つづいて庄内藩と盛岡藩も降伏し、東北戦争は終了となった。そして榎本艦隊は箱館へ向かった。
四条総督の軍勢はしばらく仙台に留まっていた。責任者の処罰や武器の回収など様々な戦後処理をおこなうためである。その間、勝蔵たち親衛隊が四条総督の警護に就いていた。
東北の鎮定作業をひとまず終えた四条総督は十月末に軍勢を率いて仙台を出発し、東京へ向かった。もちろん勝蔵たちも一緒だ。
そして十一月十四日、東京に凱旋した。
この頃すでに江戸は東京と改称し、年号も明治となっている。
しかも明治天皇は東京に行幸して東京城、つまり元の江戸城に入っていた。
九月二十日、ちょうど駿河で咸臨丸の事件が起きた直後ぐらいに天皇は京都を発輦(出発)し、そのあと東海道を下って駿府を通り、十月十三日、東京に着輦(到着)した。
天皇はしばらく東京に親臨(滞在)したあと、十二月八日に東京を発輦して京都へ還幸することになった。
そして、信じられないような話だが、この京都への天皇還幸に、四条少将配下の勝蔵たち徴兵七番隊も供奉することになったのである。
この天皇の京都と東京の往復は「東京遷都(奠都)」への布石という意味合いもあるのだが、これまで御所の外へ出ることがほとんどなかった天皇を民衆の目に触れさせて「天皇による御一新」を印象づけるためにおこなわれた一大行事でもあった。
その晴れの行事に、ついこの前まで「博徒の親分」だった勝蔵が「御親兵」として供奉するのである。
まさに空前絶後である。
ただし当然ながら行列の大半は諸藩の兵が占めており、勝蔵たち徴兵七番隊は行列の殿として一番最後についていく。それでも名誉であることに変わりはない。勝蔵は馬に乗り、黒駒一家の連中を従えて行列の最後尾を進んでいった。
十二月といっても現代の暦でいえば一月から二月へ移る頃にあたり、一番寒い季節だ。東海道なので雪が積もるという事はなかったようだが、風は身を切るように冷たい。とはいえ、寒いの冷たいのと言っている場合じゃない。天皇の行列に供奉しているのだ。一瞬たりとも気を緩めることはできない。
この行列を駿河で眺めていた次郎長も、まさか行列に勝蔵が混ざっているとは想像もしなかったであろう。もし勝蔵に気がついたとしても、もちろん半年前の再会の時と同じく、手も足も出なかったであろうが。
十二月二十二日、天皇は無事京都に着輦した。それで勝蔵たちも、ようやく責任の重圧から解放された。
と思いきや、三ヶ月後、ふたたび東京行幸がおこなわれることになり、今度も勝蔵たちが供奉することになったのである。
東京行幸はこれが最後となり、以後、事実上、東京が日本の首都になる。
そして勝蔵たちの徴兵七番隊は「東京第一遊撃隊」と名称を変更することになった。
立てつづけに行幸に供奉する勝蔵は、まさに「御親兵の親衛隊」とでもいった栄達ぶりであった。
明治二年三月七日、現在の暦では四月十八日、まだ桜の花が残っている京都の町から天皇の行列が発輦。以後、京都は千年以上にわたる都の地位を失うことになる。
今回も御幸の道は東海道。
桜舞い散る春うらら、といった東海道を勝蔵はまたもや行列の最後尾からついて行く。
この明治初め頃に発行された「新板甲州、黒駒勝蔵評判くど記」というかわら版がある。
そこに勝蔵の出世ぶりについて書いてある。
以下、それを引用する(読みやすくするため若干修正してある)。
「上之巻-白いサア黒いは、世の善悪と数多大方の言い慣わして、世にも稀なる出世の鑑、所はいづこと尋ねてみれば、国は甲州八代郡、沼津街道御坂のふもと、城を真下に黒駒村に、いまだ由(由緒)ある百姓なるが、何も不足のなき身であれど、娑婆の例えの三道楽に、迷い込んだるこの一筋に、博打渡世でその日を送る。
音にその名は勝蔵と言うて、わが身大事の子分をとりて、昼夜限らず博打の渡世。今はお上の厳重ゆえに、住居慣れたる故郷に住めず、何処なりとも棲家はならぬ。めぐりめぐりて美濃路へ入り、岐阜の名高き弥太郎どのへ、足をとどめてしばしの間、数多子分と休息いたす。(中略)
下之巻-子分サアエ、大勢皆引き連れて、美濃を立ち出で三河の国へ。ここに名高き雲風どのへ。たどる人数は七十五人。時の一礼みなあい済めば、さあさあがれと雲風どのも、言えば一同そのお言葉に、さればご免とわらじを取って、酒や肴で一座の騒ぎ、美濃や甲州の話も長し、そこで雲風申さることに、甲斐の兄弟、貴殿もわしも、博打渡世の身分であれば、狙う火口へ並べた的、度胸定めて京都へ上り、たとえ京都の下役であろと、下知につくなら身の大慶と、そうじゃそうじゃと勝蔵どのも、数多子分を引き連れまして、京の都へとたちのぼる。
どこをあてどもなき身であれば、宿屋住まいでしばしの間、時も時かや、よい折りも折、こんど東京へ御天子様が、御下向なされるその供どもに、仰せつけられ勝蔵どのは、冥加至極と喜び勇み、数多子分を皆狩り集め、名字池田と拝領いたし、勝之進とて三百人の、武兵頭でこと厳重に、お駕籠脇やら、御前の供で、長い道中東海道を、日々の駐輦(天皇の滞在)さてはなやかに、花の東へお下りなさる。
ここに稀なる出世の鑑。ヤンレイ」
かわら版なので一応当時の新聞のようなものだが、ざっと勝蔵の活動内容について触れている。ちなみに「ヤンレイ」というのは単なる掛け声のようなものだろう。
細かいところはさておき概要だけ言えば、甲州から逃れて岐阜の水野弥太郎の世話になり、平井の雲風亀吉の世話にもなり、そのあと亀吉と京都へ出て出世のきっかけをつかみ、天皇の行幸に供奉して東京に下った、といった内容になっている。
当時のかわら版が勝蔵の細かな経歴など知るはずもなく、赤報隊に参加したことや四条総督と共に東北戦線に加わったことは書いてない。また武藤藤太との関係にも触れていない。とはいえ、大筋ではまずまず合っていると言っていい。
特に最後の部分、
「黒駒勝蔵が天皇の東京行幸に供奉した」
ということが当時のかわら版で取り上げられていることは重要であろう。
行列は尾張、三河、遠江と過ぎて駿河へ入り、駿府も過ぎて次郎長のいる江尻も過ぎた。むろん次郎長が勝蔵に対して何か手を出すはずもない。
そして富士川までやって来た。岩渕河岸で渡し船をしばらく待つ。
この日はたまたま日本晴れ。ここから富士山がよく見える。
富士山を眺めている勝蔵のところへ深刻な表情をした猪之吉がやって来た。
「隊長、おりいってお願いがあります」
「何だ?」
「俺、東京へ行ったら軍隊を辞めたいんです」
「ほう。そりゃまた急な話だな。せっかく天朝様の武士になれたのに、もう辞めちまうのか」
「実は俺……、お八重殿と……、いや、お八重と夫婦になるんだ」
「そうか」
「それで、東京に着いたら軍隊を辞めて、甲州へ帰って堅気になろうかと……」
「そいつはダメだな、猪之吉よ」
「ああ……、やっぱり……」
「東京に着いたら、なんて悠長なこと言ってねえで、ここからまっすぐ甲州へ帰って、お八重のところへ直行してやれ」
「え……?」
「除隊手続きのことは俺のほうで何とかしておく。さあ、さっさと帰国の準備をしろ」
「勝兄ィ!」
「猪之吉。お八重を幸せにしてやれよ」
「はい!必ず」
そして勝蔵は綱五郎の遺髪を猪之吉に託して、墓を建てることも任せた。
このあと猪之吉は富士川沿いを甲州へ向かって、猪のように突っ走って行った。
勝蔵は猪之吉の背中を見送った。
その向こうには春のやさしい青空のもと、神々しくも清らかな富士山がそびえ立っている。
新政府軍全体の戦死者は七人。仙台藩軍の戦死者は四十六人。
悲惨じゃない戦死者などいるはずもないが、この日すでに城中では降伏の方針が決まっていたにもかかわらず、そのうえで戦死した仙台藩の四十六人は、とりわけ悲惨である。まるで「降伏のためのいけにえ」となった感すらある。
五日後、仙台藩は新政府に対して正式に降伏した。
そのころ仙台の外港にあたる松島湾には榎本艦隊が集結していた。
周知の通り、彼らはこのあと箱館(函館)へ行って翌年の春まで抵抗をつづけることになる。
これに仙台藩士の星恂太郎率いる額兵隊が加わった。額兵隊は星が結成した洋式兵制の部隊で、この戦争の期間中に出陣の準備を整えていたのだが、いざ出陣しようとした矢先、いきなり降伏が決まってしまった。それで、隊の一部の者が藩から脱走して榎本艦隊へ身を投じたのだ。
余談だが五稜郭落城の寸前に新政府軍から最後の手向けとして榎本軍に酒樽が贈られた際、毒が入っているのでは?と恐れて誰も手をつけようとしなかったところ、平気でそれを飲んで皆を安心させたのが、この星恂太郎である。
ただし、このとき松島湾にいた榎本艦隊はボロボロの状態だった。
江戸湾を出発したあと、八月二十一日の深夜に房総沖で暴風雨に遭遇して艦隊は四散。マストが折れるなど損傷した船も多く、開陽丸ですら舵が壊れて流されてしまった。急場しのぎとして開陽丸は樽を取り付けて舵の代わりにするという有り様だった。四散した艦隊は三々五々松島湾へやって来たのだが、美賀保丸と咸臨丸はついに到着しなかった。
美賀保丸は暴風雨のあと銚子犬吠埼の黒生浦に流れ着き、座礁沈没した。この船には伊庭八郎をはじめ旧幕府兵およそ六百人が乗っており、沈没時に十数人が水死した。そして上陸に成功した兵士たちの境遇も、新政府軍に討伐された者、投降した者、逃亡した者と様々な運命をたどり、とにかく部隊は壊滅の憂き目にあった。
その中で伊庭八郎は、箱根山崎の戦いで左手首を切断されていたため不自由な体ではあったが、なんとか上陸して逃げのびた。そして、それでも節を曲げずにふたたび箱館へ向かい、のちにそこで戦死する。
そして咸臨丸は、三本マストの内二本を切り倒して暴風による転覆は避けられたものの、もはや満身創痍で戦線離脱を余儀なくされていた。蒸気機関が壊れたままなのは前に触れた通りで、とにかく残り一本のマストを使ってなんとか下田港へたどり着いた。
そこへ同じく艦隊からはぐれた蟠竜丸がやって来て、両船ともに修理をするため清水港へ移った。下田港には新政府軍の船も入ってくるため、田安亀之助に七十万石で与えられた駿河の清水港へ避難したのだ。
とはいえ榎本艦隊は「脱走艦隊」であり、駿府の徳川家としてもこの二隻の扱いに苦慮した。とりあえず蟠竜丸は蒸気機関の修理が終わった九月十一日、清水港を出発して再び松島へ向かった。
一方、咸臨丸は半死半生の状態でとても戦線復帰は望めず、隊員およそ二百人は上陸して脱走したことを徳川家に謝罪し、謹慎することに決めた。そして咸臨丸の武装も取り外し、船体の修理と留守番のために二十人ほどが船内にとどまった。艦長の小林文次郎は上陸したため副艦長の春山弁蔵が残留組の責任者となった。
ところが九月十八日、新政府軍の富士山丸、飛龍丸、武蔵丸の三隻が清水港へやって来た。
富士山丸はかつて幕府艦隊の旗艦をつとめたこともあり、幕府時代は咸臨丸の僚艦であったのだが「江戸開城」の降伏条件として新政府に引き渡されていた。
そしてこの三隻の新政府軍は、いきなり咸臨丸に対して砲撃を開始した。この攻撃を指揮したのは柳川藩だった。
咸臨丸には武装もなく、春山たち船員には戦う意志もなかった。
それなのに新政府軍は問答無用とばかりに咸臨丸へ兵を送り込んで春山たち二十数人をことごとく虐殺した。そしてその死体をすべて海へ投げ捨てた。
一体どのようないきさつからこのような蛮行におよんだのか、まったくの謎である。
戊辰戦争中、各地の戦場で見られた傾向ではあるが「賊軍」の戦死体を勝手に埋葬するのはご法度とされていた。そのため波間に漂う春山たちの死体に手をつけようとする者は誰もいなかった。特にここは戊辰戦争によって打倒された徳川家の地元なのだから、なおさらである。
このとき清水次郎長が敢然と立ち上がった。
「事の良し悪しは俺には分からねえ。だが、こんな仁義に外れた仕打ちは放っておけねえ。漁師の皆も『海がこんな様子じゃ漁もできない』と困っていなさる。お上が何と仰せになろうと構うこたあねえ。おい、大政。皆で手分けして、あの幕臣の方々の遺体を引き上げてこい!」
こうして次郎長の命令によって子分たちが小船に乗って沖へ漕ぎだし、見つけた遺体をすべて回収した。
回収したのは春山弁蔵、春山鉱平(弁蔵の弟)、長谷川得蔵、長谷川清四郎(得蔵の弟)、今井幾之助、高橋与三郎、加藤常次郎の七人の遺体だった。
そしてその遺体を向島という、次郎長たちの地元から見て巴川の向かい側にある砂浜の、松が立っているところに埋葬した。
この次郎長の勝手な行動に対し、新政府からお咎めがあるのを恐れた徳川家は次郎長を駿府へ呼び出して事情聴取することにした。
次郎長と面談したのは駿府藩の幹事役・山岡鉄太郎である。
「かりにも朝廷から賊軍とされた者を、お主はどのような了見で勝手に弔ったのだ?」
これに次郎長が答える。
「ご時世によって賊軍となったとしても、罪があるのは生きてるあいだのことだけで、死ねば皆、仏でしょう。官軍のムゴいなさりようを放っておけなかったから、やったまでのことでございます。もしこれが悪いとおっしゃるのなら、どのような罰でも受けましょう」
もとより山岡自身も次郎長のやったことをそれほど悪いことだとは思っていなかった。というよりも、むしろ「良くやってくれた」とさえ思っていた。そして次郎長の言葉を聞いて「この男は大したものだ」と感じ入った。
次郎長と山岡の関係はこの時から始まり、これ以降、ずっとつづくことになる。
この「咸臨丸と次郎長」の事件は、次郎長にとってその名を高める大きな出来事だったというだけでなく、山岡鉄舟という、後に明治政府内で重きをなす人物の後ろ盾を得る、そのきっかけになったという点でも次郎長にとって人生最大の事件だったと言えよう。
さらに言うと天田愚庵も明治に入ってから山岡の門人となり、その山岡の紹介で次郎長を知ってのちに次郎長の養子となり、次郎長の名を高めるのに最も貢献する『東海遊侠伝』を書くのである(ただし天田は三年後に養子を辞める)。
そして翌明治二年には向島に埋めた春山たちの墓を建てることになり、墓石に山岡が揮毫した「壮士墓」の文字が刻まれ、その墓石が現在も当地に残っている。また明治二十年には興津の清見寺に旧幕臣の榎本たちが中心となって「咸臨丸殉難碑」を建立する。
ちなみにこういった侠客による「賊軍の戦死体の埋葬」というと次郎長以外にもいくつか事例がある。前にも少し触れた会津の小鉄は鳥羽伏見で戦死した会津兵を埋葬した。また箱館で榎本軍の戦死体を埋葬してのちに碧血碑を建てたのは柳川熊吉という侠客で、さらに上野で戦死した彰義隊を円通寺に埋葬したのは三河屋幸三郎という侠客である。
どれも「官軍」からの処罰を恐れず勇敢におこなった義挙である。
そろそろ場面を東北へと戻す。
米沢藩と仙台藩が降伏したことによって東北戦争は終わりが見えた。
それからほどなく、とうとう会津藩も降伏した。九月二十二日のことである。
つづいて庄内藩と盛岡藩も降伏し、東北戦争は終了となった。そして榎本艦隊は箱館へ向かった。
四条総督の軍勢はしばらく仙台に留まっていた。責任者の処罰や武器の回収など様々な戦後処理をおこなうためである。その間、勝蔵たち親衛隊が四条総督の警護に就いていた。
東北の鎮定作業をひとまず終えた四条総督は十月末に軍勢を率いて仙台を出発し、東京へ向かった。もちろん勝蔵たちも一緒だ。
そして十一月十四日、東京に凱旋した。
この頃すでに江戸は東京と改称し、年号も明治となっている。
しかも明治天皇は東京に行幸して東京城、つまり元の江戸城に入っていた。
九月二十日、ちょうど駿河で咸臨丸の事件が起きた直後ぐらいに天皇は京都を発輦(出発)し、そのあと東海道を下って駿府を通り、十月十三日、東京に着輦(到着)した。
天皇はしばらく東京に親臨(滞在)したあと、十二月八日に東京を発輦して京都へ還幸することになった。
そして、信じられないような話だが、この京都への天皇還幸に、四条少将配下の勝蔵たち徴兵七番隊も供奉することになったのである。
この天皇の京都と東京の往復は「東京遷都(奠都)」への布石という意味合いもあるのだが、これまで御所の外へ出ることがほとんどなかった天皇を民衆の目に触れさせて「天皇による御一新」を印象づけるためにおこなわれた一大行事でもあった。
その晴れの行事に、ついこの前まで「博徒の親分」だった勝蔵が「御親兵」として供奉するのである。
まさに空前絶後である。
ただし当然ながら行列の大半は諸藩の兵が占めており、勝蔵たち徴兵七番隊は行列の殿として一番最後についていく。それでも名誉であることに変わりはない。勝蔵は馬に乗り、黒駒一家の連中を従えて行列の最後尾を進んでいった。
十二月といっても現代の暦でいえば一月から二月へ移る頃にあたり、一番寒い季節だ。東海道なので雪が積もるという事はなかったようだが、風は身を切るように冷たい。とはいえ、寒いの冷たいのと言っている場合じゃない。天皇の行列に供奉しているのだ。一瞬たりとも気を緩めることはできない。
この行列を駿河で眺めていた次郎長も、まさか行列に勝蔵が混ざっているとは想像もしなかったであろう。もし勝蔵に気がついたとしても、もちろん半年前の再会の時と同じく、手も足も出なかったであろうが。
十二月二十二日、天皇は無事京都に着輦した。それで勝蔵たちも、ようやく責任の重圧から解放された。
と思いきや、三ヶ月後、ふたたび東京行幸がおこなわれることになり、今度も勝蔵たちが供奉することになったのである。
東京行幸はこれが最後となり、以後、事実上、東京が日本の首都になる。
そして勝蔵たちの徴兵七番隊は「東京第一遊撃隊」と名称を変更することになった。
立てつづけに行幸に供奉する勝蔵は、まさに「御親兵の親衛隊」とでもいった栄達ぶりであった。
明治二年三月七日、現在の暦では四月十八日、まだ桜の花が残っている京都の町から天皇の行列が発輦。以後、京都は千年以上にわたる都の地位を失うことになる。
今回も御幸の道は東海道。
桜舞い散る春うらら、といった東海道を勝蔵はまたもや行列の最後尾からついて行く。
この明治初め頃に発行された「新板甲州、黒駒勝蔵評判くど記」というかわら版がある。
そこに勝蔵の出世ぶりについて書いてある。
以下、それを引用する(読みやすくするため若干修正してある)。
「上之巻-白いサア黒いは、世の善悪と数多大方の言い慣わして、世にも稀なる出世の鑑、所はいづこと尋ねてみれば、国は甲州八代郡、沼津街道御坂のふもと、城を真下に黒駒村に、いまだ由(由緒)ある百姓なるが、何も不足のなき身であれど、娑婆の例えの三道楽に、迷い込んだるこの一筋に、博打渡世でその日を送る。
音にその名は勝蔵と言うて、わが身大事の子分をとりて、昼夜限らず博打の渡世。今はお上の厳重ゆえに、住居慣れたる故郷に住めず、何処なりとも棲家はならぬ。めぐりめぐりて美濃路へ入り、岐阜の名高き弥太郎どのへ、足をとどめてしばしの間、数多子分と休息いたす。(中略)
下之巻-子分サアエ、大勢皆引き連れて、美濃を立ち出で三河の国へ。ここに名高き雲風どのへ。たどる人数は七十五人。時の一礼みなあい済めば、さあさあがれと雲風どのも、言えば一同そのお言葉に、さればご免とわらじを取って、酒や肴で一座の騒ぎ、美濃や甲州の話も長し、そこで雲風申さることに、甲斐の兄弟、貴殿もわしも、博打渡世の身分であれば、狙う火口へ並べた的、度胸定めて京都へ上り、たとえ京都の下役であろと、下知につくなら身の大慶と、そうじゃそうじゃと勝蔵どのも、数多子分を引き連れまして、京の都へとたちのぼる。
どこをあてどもなき身であれば、宿屋住まいでしばしの間、時も時かや、よい折りも折、こんど東京へ御天子様が、御下向なされるその供どもに、仰せつけられ勝蔵どのは、冥加至極と喜び勇み、数多子分を皆狩り集め、名字池田と拝領いたし、勝之進とて三百人の、武兵頭でこと厳重に、お駕籠脇やら、御前の供で、長い道中東海道を、日々の駐輦(天皇の滞在)さてはなやかに、花の東へお下りなさる。
ここに稀なる出世の鑑。ヤンレイ」
かわら版なので一応当時の新聞のようなものだが、ざっと勝蔵の活動内容について触れている。ちなみに「ヤンレイ」というのは単なる掛け声のようなものだろう。
細かいところはさておき概要だけ言えば、甲州から逃れて岐阜の水野弥太郎の世話になり、平井の雲風亀吉の世話にもなり、そのあと亀吉と京都へ出て出世のきっかけをつかみ、天皇の行幸に供奉して東京に下った、といった内容になっている。
当時のかわら版が勝蔵の細かな経歴など知るはずもなく、赤報隊に参加したことや四条総督と共に東北戦線に加わったことは書いてない。また武藤藤太との関係にも触れていない。とはいえ、大筋ではまずまず合っていると言っていい。
特に最後の部分、
「黒駒勝蔵が天皇の東京行幸に供奉した」
ということが当時のかわら版で取り上げられていることは重要であろう。
行列は尾張、三河、遠江と過ぎて駿河へ入り、駿府も過ぎて次郎長のいる江尻も過ぎた。むろん次郎長が勝蔵に対して何か手を出すはずもない。
そして富士川までやって来た。岩渕河岸で渡し船をしばらく待つ。
この日はたまたま日本晴れ。ここから富士山がよく見える。
富士山を眺めている勝蔵のところへ深刻な表情をした猪之吉がやって来た。
「隊長、おりいってお願いがあります」
「何だ?」
「俺、東京へ行ったら軍隊を辞めたいんです」
「ほう。そりゃまた急な話だな。せっかく天朝様の武士になれたのに、もう辞めちまうのか」
「実は俺……、お八重殿と……、いや、お八重と夫婦になるんだ」
「そうか」
「それで、東京に着いたら軍隊を辞めて、甲州へ帰って堅気になろうかと……」
「そいつはダメだな、猪之吉よ」
「ああ……、やっぱり……」
「東京に着いたら、なんて悠長なこと言ってねえで、ここからまっすぐ甲州へ帰って、お八重のところへ直行してやれ」
「え……?」
「除隊手続きのことは俺のほうで何とかしておく。さあ、さっさと帰国の準備をしろ」
「勝兄ィ!」
「猪之吉。お八重を幸せにしてやれよ」
「はい!必ず」
そして勝蔵は綱五郎の遺髪を猪之吉に託して、墓を建てることも任せた。
このあと猪之吉は富士川沿いを甲州へ向かって、猪のように突っ走って行った。
勝蔵は猪之吉の背中を見送った。
その向こうには春のやさしい青空のもと、神々しくも清らかな富士山がそびえ立っている。
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