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第8話 裏通りに赤いドレス

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 酒場の入口から飛び込んで来たのは一匹の灰色の子猫だった。僕はその子猫をどこかで見たような気がした。子猫は、酒場の客の間をぬって僕たちに向かって駆け寄ってきた。

「レオパルト! やっぱりここだったニャ!」

 レオパルトと呼ばれた大猫は、するどい爪のある手で頭を掻きはじめた。

「なんや、ユートか。ちゃうねんで、ワイはただ飲んでるんとちゃうんやで。ワイはこの兄ちゃんと大切な話をやな…。」

 ユートという名前らしい子猫はレオパルトの話を手をふってさえぎった。

「その話じゃないニャ! またアイゼ院長が無茶をし始めたニャ。すぐに戻るニャ!」

 酔っていたはずのレオパルトは巨体を素早く起こして席を立った。

「兄ちゃん、話はまた今度や!」

 一方的に話を打ち切り、出て行こうとしたレオパルトは思い出したかのように僕に耳打ちした。

「夜は青シャツ野郎に気いつけや。あと、ここのお勘定たのむわな。」

 それだけ言い残すと、二匹のデコボココンビの猫たちは慌ただしく走り去っていった。


 僕はしばらく呆気にとられていたが、とりあえず運ばれてきた料理を食べることにした。それは魚料理で、なかなか美味しかった。


 僕が酒場の外に出るともうすっかり夜だった。

 夜空を見上げると僕がいた世界と同じような月が出ていたが、大きさが二倍くらいあった。今夜は雲が多いようで、大きな月は風に流れる雲の間で隠れんぼをするかのように見え隠れしていた。
 表通りで野宿をするわけにもいかないので、僕はハンドライトを手にして人気のない通りを選んで進んでいった。しばらく行くと、僕は裏通りのようなところに出てしまった。
 地面は整備されておらず、所々の石畳が割れたり欠けたりしており、中には汚い水たまりがあり異臭がする箇所もあった。

 その辺りにある建物はみすぼらしい小屋でもまだ良い方で、ただの板切れを立てかけただけのものもあった。目つきの悪い猫が道の端々にうずくまっており、縄張りがあるのか僕が通るたびにシャーッと威嚇された。
 凶暴そうな猫がいない場所を探して歩くうちに、僕はどんどん裏通りの奥に入って来てしまっていた。
 こんなことなら、かなり怪しかったがあの大猫の言う仕事とやらの話を聞けばよかったかもしれないと僕は思った。

 僕が後悔しながら引き返そうかどうか迷っていると、前方に松明のような灯りが複数見えた。大猫の忠告を思い出し、僕は慌ててライトを消して近場の物陰に身を隠した。ちょうどまた月が雲に陰って都合が良かった。
 松明の一団は、大猫が言っていた青シャツかもしれなかった。格好は昼間の赤シャツ兵とほぼ同じで、腕には例のマークの腕章をして長い剣を背中に装備していた。

 僕が見ていると、その一団は裏路地の子猫たちを押さえ込んで無理矢理に箱に押し込めると、運んで行ってしまった。僕は思わず銃に手をやったが、多勢に無勢なので思いとどまった。

(子猫をどこに連れて行ったのだろう?)


 青シャツ兵たちをやり過ごすと、僕は歩みを再開してようやく空いている場所を見つけた。木箱が落ちていたので僕は椅子の代わりにして座り、バックパックと銃を地面に置いた。
 もう夜も遅いがそれほど寒くないのだけは救いだった。知らない猫の街の裏路地でひとりでいると、無性に誰かと会話したくなってきた。以前の僕では考えられないことで、なぜかユキさんの笑顔を思い出した。

 僕は眠くなってきたのでバックパックから銀色の保温シートを出してくるまり、そのままウトウトと眠ってしまった。


 凄まじい悲鳴が聞こえてきて僕は目が覚めた。いくぶんげんなりしながらノロノロと僕は立ち上がった。おそらくもう真夜中ごろだった。
 また月が雲の切れ目から出てきて、月明かりに照らされた人影が路地の向こうからすごい勢いで走ってきた。


「た、助けて! お願い!」


 叫びながら走って来たのは胸元が開いた真っ赤なドレスを着た人間の女性だった。こんな裏通りには完全に場違いな人で、僕は目を丸くした。彼女ははだしで走って来て、足は泥や血でひどく汚れていた。その顔は涙や汗で濃い化粧が崩れまくっていた。

 ドレスの女性は燃えるような赤い髪を振り乱しながら、まっしぐらに近づいてきて、僕を楯にするかのようにして身を隠そうとした。その女性が異常に取り乱している理由が僕にはわからなかった。

「どうされたのですか?」

 赤いドレスの女性は一瞬、僕の格好を見て怪訝な顔をしたがすぐに自分が来た暗闇の方向をまっすぐに指差した。

「奴に、奴に殺される! お願い! 助けて!」

 状況が全く飲み込めなくて、僕は女性が指差した先にライトを向けた。目をこらした僕は、信じられない光景を見てライトを落としそうになった。

「あれは…黒猫!?」

 ちょうどまた月が陰り出した。

 徐々に深くなる闇の中から足音を立てずに悠然と歩いてくるその黒い姿に対して、僕は全身を貫く冷たい恐怖に必死で耐えながら身構えた。
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