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第10話 路地裏の戦い(2)

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 相手は僕を殺す気満々だった。

 
 これ以上の説得は時間の無駄かもしれなかった。
 でも、武器を捨てればいくら何でも丸腰の相手には手を出さないだろうと僕は考えた。僕は銃を捨てて手を上げようとした。

 そう思いかけたその時、何だか奇妙な気持ちが突然、僕の中にわき起こった。


(何が何でもこの敵を倒さなければならない!)


 その気持ちはどんどん強くなってきて、ついには僕の恐怖心をこえてしまった。僕は地面の上でくるりと反転すると、銃を乱射した。僕の動きを予想していたのか、敵には弾は一発も当たらずにかるくかわされていった。
 ついに弾がきれて、僕は銃を捨ててアーミーナイフを抜くと、敵に猛然と襲いかかった。でも、僕が次々と繰り出すナイフの刃は敵にかすりもしなかった。敵はなぜか反撃せずに、ひらりと華麗に身をかわすばかりだった。
 攻防でお互いに激しく動き回るうちに、敵は地面の割れた石畳に足をとられてよろめいた。


(チャンスだ!)


 僕の頭の中ではBGMが大音量で鳴り響いていた。僕はナイフを敵に向けて突き出した。
 だが、それはフェイクだったのだ。敵はナイフを楽にかわして器用に僕の腕を持ってナイフを叩き落とし、そのまま僕は腕をねじ上げられてしまった。思っていたよりも敵は華奢だったがすごい力で、僕が全力をこめても全く動かなかった。
 それでも激しく暴れようとする僕に、敵は腹に強烈なひざ蹴りを加えてきた。たまらず僕は腹を押さえて地面に崩れ落ちた。両膝で立っていると、ヘルメットの上に長剣の斬撃を叩き込まれた。

 僕の目の前が真っ暗になり、ゴーグルとヘルメットが吹き飛んだらしいとわかるまで数秒かかった。あまりの衝撃で僕はフラフラになり、またもや地面にどさりと倒れてしまった。尚も起き上がろうとすると、僕の目の前に剣先が突き出されていた。


「もうやめておけ。死ぬぞ。」


 敵は静かにそう言うと、僕に剣を突きつけたまま反対の手を持ち上げ、ゆっくりとコートのフードを外し、覆面も取り去った。ちょうどその時、また雲が動いたのか月明かりが夜の闇を追い払った。

 その覆面の下にあらわれた神々しいまでの美しさに、僕は息を呑んだ。


 月明かりに輝く漆黒の長い髪。
 透きとおるような肌。
 冷たいが青空のように澄んだ瞳。
 完全に整った形と配置の鼻。
 魅惑的な唇に浮かべている氷のような微笑。

 ただ圧倒的に美しいだけではなく、なにか荘厳な雰囲気を彼女は漂わせていた。頭に猫の耳はなかったが、間違いなく彼女はこの世界の『黒猫』だった。
 僕のいた世界の黒猫も美しかったが、この人は全くの別人だった。

 僕はしばらくの間、その美しさに心を奪われたかのように見惚れてしまったが突然、またあの

(敵を倒さなければならない!)

 という強い衝動に駆られた。僕は両手で黒猫の剣先を掴んで思い切り引っ張った。手のひらが裂けて血がしたたり落ちるのもお構い無しだった。これはさすがに予想外だったのか、黒猫は体のバランスを大きく崩し、チッと舌打ちした。

 なんとか寝技に持ち込めば勝てる見込みがあるかもしれないと思い、僕は血まみれの手を気にせず黒猫に組みつこうとした。でも、黒猫は優雅な動きで姿勢を持ち直すと、逆に僕の懐に潜り込み、勢いを利用して僕を投げ飛ばした。
 地面に叩きつけられ、僕の全身に激痛が走ったが、すぐに立ち上がると僕はまた黒猫に襲いかかろうとした。


「仕方ないか…。」

 黒猫はつぶやき、こちらに向かってきた。すれ違いざまに長剣が一閃し、立ち位置が逆になった時、僕は自分の四肢と腹部に深い刀傷を受けていることに気づいた。
 斬られた瞬間が全く目にも見えなかった。まさに神業としか思えず、強烈な痛みが追いついてきて、僕はその場にくずれ落ちた。

 
 石畳に広がる血だまりの中に僕は倒れていた。

 このままだと確実に死ぬだろう量の血が僕の四肢に刻まれた傷口から流れだしていて、傷あとは焼けるように熱かった。

 刀傷を押さえる僕の手はまっ赤に染まり、止血の効果はあまりなさそうだった。肝心の応急手当てのキットはバックパックの中だったが、それが置いてあるわずか数メートル向こうは絶望的に遠かった。

 うす汚い路地裏で荒い呼吸をしながら仰向けで倒れている僕は、せめて最期に相手の顔をもう一度よく見ようと首だけを起こそうとしたが、もうその力もほとんど残っていなかった。

 こんな時なのに、僕はなぜかうす笑いを浮かべてしまった。僕の頭の中で、オンラインゲームの戦闘中の音楽が鳴り響いているからだった。
 もうすぐそれはエンディングの曲に変わるのか、と僕は思った。


(どうしてこんなことになったのだろう。僕以外の誰かのせい?
 いや、今まで真剣に生きてこなかった僕のせいかもしれない。)


 ゆっくりと相手が全く足音を立てずに僕のほうへ近づいてきた。
 その口元に冷たい微笑を浮かべながら、血がしたたる細身の剣を持って、相手は僕を凍てつくような眼で見おろしていた。

 仰向けのまま、僕は見ることができた。
 全身黒ずくめの姿のこの世の者とは思えないほど美しい少女の顔を、長い黒髪を、満月のように丸い瞳孔を。

 僕は自分の状況を忘れて相手に見惚れてしまった。
 見ていて身ぶるいするほど美しいのに、獣のような印象を受けるのは何故だろう、幻覚かなと僕は思った。

 相手は、死にかけながら笑みを浮かべる僕を無表情に見つめていた。僕を蔑んでいるのか憐れんでいるのかわからないがどちらでも無いような気がした。

 僕ひとりがいなくなっても、この世界では誰も悲しまないにちがいなかった。
 それどころか僕の存在自体を誰ひとりとして気にもしていない。
 それはどちらの世界でも同じだと僕は思った。

 少女がゆっくりと剣を振り上げたので、僕はゆっくりと目を閉じた。


 幻聴かもしれないが、舌なめずりの音が聞こえたような気がした。
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