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第4話 黒と灰の世界

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 ゴゴゴゴ、と聞き覚えのある重たい音が響く。
 それに混じって、まるで砂を投げつけられたかのような細かい痛みが肌を撫でる。

「ん……」

 耳と肌に感じる不快感で、俺は目を覚ました。

 目の前には巨大な滝。
 それが凄まじい音と水飛沫を上げている。
 
 不快感の正体はこれか……
 と気付くと同時に、俺の意識は一気に覚醒する。

「確か、有原に落とされて、それから……」

 俺は慌てて滝の流れ落ちてくるその上、どこまでも伸びているぽっかりと空いた大穴を見上げる。
 穴は果てしなく広がっていて、どれだけ目を凝らしても光は見えない。
 完全な暗闇だ。

「そうだ。暗闇の中を落ち続けて、最後にこの滝壺が見えたんだ」

 あまりにも長く落ちるので、もしかして底なんてなくてブラックホールの中みたいに別空間に飲み込まれてこのまま彷徨い続けるんじゃないのか……
 なんて思った頃に終着点であるこの滝壺の明かりが見え、そこからは無我夢中で風を起こして何とか落下に抗ったのだ。

「下が水だったおかげもあって、何とか生きてはいる……が」

 確かに、生きてはいる。
 だが、言い換えればそれだけだ。

 時間の感覚がなくなる程ダンジョンを落ち続けたのだ。
 恐らくこの場所は、人類が誰も足を踏み入れたことない程に深い。

「下層よりも下、深層ってとこか? どっちにしろ地獄以外の何物でもないな……」

 思わず、全身に身震いが走る。

 ダンジョンは出現するモンスターの強さで上層、中層、下層と分けられている。
 厳密には上層の中でも階を降りるごとに強くなっていくのだが、そういう多少の変化ではなく、層が変わる時は明確にここから先はレベルが違う、と区別が付くのだ。

 ダンジョンによって難易度は違うが、下層はトップの冒険者でも進むのが難しい。
 確かここ旧歌舞伎町ダンジョンでも、下層はいまだに攻略されていないはずだ。
 その下、極稀に存在する深層ともなれば、世界でも未だ攻略された例はない。

 それが示すものとは、つまり死だ。

 死。その一文字が頭をぶん殴られたみたいに、脳に重たくのしかかる。
 全身から冷や汗が吹き出す。

 何もしなければ俺はここで死ぬだろう。
 ――そんなの、冗談じゃない。
 
 俺は血が出そうな程強く噛み締めて、ゆっくりと立ち上がる。

「……とにかく、上を目指さないと」

 こんな開けたところにいては、モンスターに見つけてくれと言っているようなものだ。
 俺は足音を殺して、ダンジョンへと続く横穴へと慎重に歩き出す。
 だが、

「……は?」

 意を決して進んだ横穴の先。
 そこに広がる景色に、俺は思わず自分が置かれた状況も忘れて惚けてしまった。

 そこにあったのは、黒と灰の世界だった。
 
 見慣れた都会の空よりも遥かに高く広い灰色の空から降り注ぐ、黒色の灰。
 灰は地に、木々に降り積り、果てしなく続く世界の全てを黒に染め上げる。
 そして、すべての中心には天を突き抜ける巨塔が聳え立っていて。 
 ダンジョンというよりも、まさしく世界というべきものがそこには広がっていた。
 
「なんだよ、これ……」

 俺と、洞窟の入り口付近だけがダンジョンの青白い光に包まれていて、まるでこちらが異物だと言われているかのようだ。

「ダンジョンの構造が変わるなんて話、聞いた事もないぞ……?」

 下に行くほど広くなったり、罠が増えたり、モンスターが強くなったりはするが、地形そのものが完全に変わるというのは聞いたことがない。

 こういうフィールド型のダンジョンもあるにはあるが、その場合は最初からそうで、迷宮が草原と森に切り変わるなんて前代未聞だ。

「穴の底が別のダンジョンに繋がっていた……とか?」

 ダンジョンは未知の世界だ。何が起こっても不思議ではない。
 だが、俺の知る限りこんな形状のダンジョンは国内どころか世界にもないはずだ。

 そんな風に考えに耽っていると、不意に空から降り注ぐ黒い灰がまるで雪のようにちらちらとゆらめきながら俺の手の甲に落ちる。
 その途端。

「——っづぁ!? なんだこれ、肌が……」

 形容し難い不快感を伴った激痛が走り、灰が落ちた場所にはぽっかりと小さな穴が空いていた。
 まるで強烈な酸だ。

「この中を進まなくちゃならないのか……?」

 更なる絶望が俺の胸中を満たす。
 
 けれど、逆に今ので確信した。
 ここは恐らく人類未到達の深層だ。
 でなければ、触れる者を溶かす灰が降り注ぐなんて極悪すぎるギミックがあるはずがない。

「進むしかない、か」

 俺はゆっくりと、死の降り注ぐ世界へ足を踏み出した。

 風スキルを使って降り注ぐ灰を散らし、唯一地上へ続いていそうな中央の巨頭に向かって歩き出す。
 
 どこかでモンスターに遭うかもしれない。間違えて灰を踏んでしまうかもしれない。
 そんな恐怖に襲われて、一歩一歩が鉛のように重たい。
 それでも、俺は足を止めなかった。
 
 ——このまま、死ぬわけにはいかない。

 胸の奥で激情がマグマのように煮えたぎる。

(人生の大半を踏みにじられて、必死に掴んだ夢すら奪われて。挙句恐怖に飲まれて死ねと? ――冗談じゃない! 死ぬならあいつが死ぬべきだ)

 気付けば、頭の中で喉を枯らすほどに吠えていた。
 穴に落とされてからずっと、怒りが俺を満たしていた。

 最後まで他人に虐げられたままで人生を終わらせてなるものか。
 あいつを、有原を、今まで俺が受けた苦しみを味わわせて殺してやりたい。
 その復讐心だけが俺を突き動かしていた。

 ……とはいえ。
 どれだけ復讐の炎に駆られようと、俺は俺。
 所詮は最弱スキルを、彼らの行為を甘んじて受け入れ続けて来たいじめられっ子に過ぎない。
 感情一つでどうにかなるなら、十年以上もいじめられてなんかいないのだ。

 やがて、無情な現実が襲い来る。

 「あれは……?」

 絞り出すように一歩ずつ進んでいた俺の行く手に、不意に巨大な影が現れた。
 体長5メートルはありそうな、禍々しい黒に紫の宝石があしらわれた二本の角が生えた巨大な牡鹿。

 やばいやばいやばいやばい。あれは絶対やばいっ!
 遠目に見るだけでも寒気が止まらなくなる。
 生き物としての格が違う。

 幸い牡鹿は悠然とした気品ある足取りで歩いていて、俺に気付いた様子はない。

 灰で視界も悪いし、気付かれずに済むか……?
 とにかくバレないうちに引き返そう。うん、それがいい。
 そう思って一歩後ずさりをしたその瞬間。

 牡鹿の角に付いている紫色の宝石が、こちらを
 眼光が開いて、ぎょろっとした不気味な目玉がぐるりと一回転した後、背後にいる俺をじっと見つめる。

「やばい、逃げ――」

 本能が危険を察知して全速力をでその場を離れようとしたが、もう遅かった。
  
 牡鹿はその気品ある動きのまま滑らかに空間を蹴る。
 あまりの美しさに、俺はまるで世界がスローモーションになってしまったかのような感覚に陥る。
 否、ある意味でそれは正しかった。
 牡鹿の動きは俺の何倍も俊敏だった。
 ゆったりと駆けているように見えたのは、俺がそれを知覚できなかったからだ。

 牡鹿は俺の目の前まで来て「フォーン」と、まるで全てを拒絶するかのような美しい声で一鳴きすると、次の瞬間。

 ゴッ。

 振り下ろされた前足によって、俺の右半身がごっそりと抉り取られていた。

「へ……? う、うわあああああああああああああああああああああtっ!!!」

 何が起きたのかは、痛みによって理解した。
 今まで生きて来た中で感じたことの無い痛みと呼んでいいのかさえ分からない異常な刺激と熱さに、俺はパニックになった。
 昔軽自動車に跳ねられて足を骨折したことがあるが、そんなのは比じゃない。
 
 死ぬ……死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
 ここに居たら、こいつの前に居たら死ぬっ!

 もはや余計な事は考えられず、死にたくないという、ただそれだけの想いで俺は全力でその場から離れた。

 無我夢中で風スキルを使いまくって、とにかく逃げる。
 体を何度もきりもみさせながら近くの森に逃げ込んで、そこでは木々にガンガンと身体中をぶつけながら、闇雲に逃げ続ける。
 多分色んな所の骨が折れてる気がするが、それ以上の痛みがずっと身体を焼いているから気にならなかった。

「はぁ、はぁ……どうにか逃げきれた、か……?」

 木のうろに寄りかかりほっと安堵の息を吐くも束の間。

「——っぐ、ぐああああああああああああああああっ!」

 俺の身体に激しい痛みが走る。

 牡鹿にやられた右半身だけじゃない。
 手に、腕に、足に、耳に。
 全身のあらゆる場所が黒灰を浴びて溶かされている。
 
 更に、

「ごれ、は……」

 ゴボっと、勢い良く口から血が噴き出される。
 反応の鈍い腕で服をまくると、腹から胸にかけてがドス黒く染まっていた。

「そうか、灰を吸い込んで――!」

 気付いた今も、木々の隙間から落ちる灰を俺は吸い込み続けていた。
 慌てて口を覆おうと動くも、両手共に反応が鈍い。
 というか右腕はもうない。

「……ここ、までか」

 さっきからずっと頭がガンガンして、めまいが止まらず視界がぐるぐる回っている。
 焼けるような痛みはずっとそこにあるのに、背中だけが雪山に放り出されてしまったかのように寒い。

 死がゆっくりと迫って来るのを感じる。

「クソ。復讐も叶わず、このまま無様に野垂れ死ぬのが俺の人生だってのかよ……」

 悔しさで唇を噛み切る。目から熱い涙がこぼれる。
 
 そのまま呆然と全てを呪いながら死んで行くのだろう……と、思った時だった。

 どこからともなくキーンと、飛行機が頭上を通り過ぎた時のような甲高い音が鳴り響いく。
 音は一瞬にして俺の頭上まで来ると、そこで止まる。
 
「なんだこれ……? 蝙蝠……?」

 頭上に現れたのは、やたらと羽が大きく胴体が豆粒くらいしかない異形の蝙蝠。
  
 そいつらは、死にかけの俺を更に追い詰める存在だった。
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