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1. 現在 そして 学生期へ ~無知~
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『四大精霊の愛し子 ~自慢の家族はドラゴン・テディベア・もふもふ犬!~』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/954271435/276632074)の番外編、爺様目線です。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
遠くの方で、シャン……シャン……と馴染みのない金属音が微かに響く。澄み切った浄化の波長が薄っすらと幾重にも押し寄せた。
≪……ディラヌー……無事……か?≫
漸く意識を取り戻し、傍にいる筈の聖獣に何とか話し掛けようとする。だんだんと視界もはっきりしてきた。
腹が立つほどに清々しいこの空気。夜が明けたのだろう。人が殆ど訪れることのない禁忌の山は、王都の背後にありながらも俗世の喧騒を全身で拒絶しようとしていた。
なんじゃこれは。
足元には、老いた醜い男が両目を見開いたまま横たわっている。胸まで伸びっぱなしの白いひげ。口元には血糊。全身を包むのは蒼い闇の色に染まった外套。
これは――ワシの死体か。
あと三年は寿命が残されているのではなかったか。あれ程何度も調べたではないか。復活させた古代魔術の一つ、肉体の寿命を調べる高等技法。成功したと思ったのに、それすら勘違いだったというのか。
情けなさ過ぎて、笑えてくる。全ての労力と時間と情熱を注ぎ込み、生涯を捧げ、足掻きに足掻いて到達した地点がこの程度。愚かじゃ……愚か過ぎる。
そうは思わぬか、ディラヌー?
灰色の猫を探そうとするが、身体が動かない。肉体を見下ろして空中に浮かんだまま。まだ身体の感覚が残っているのだ。そしてその『身体』とやらは、金縛りに遭ったように微動だにしなかった。
だが背後には、ここ数年自分をじっと見守っていた相棒の気配が伝わってくる。いや、『見張っていた』と言うべきか。
最果ての国ヴァーレッフェ史上、最も偉大な魔導士シャンレイ様が契約した聖獣。
ワシが契約を交わして以来、周囲は惜しみない称讃を送ってきたが、あれは聖獣の気紛れと情けの御蔭であって自分の実力ではない。
危険な契約獣の召喚魔術に手を染めたのは、研究に行き詰ったからだ。独りで腐敗した神殿の連中に対抗するには限度がある。何の手立ても功を成さず、年月だけが手の平から零れ落ちていく。
イチかバチか。一年を費やし、命懸けで描いた魔法陣に現れたのは、自分よりも遥かに強大な魔術と魔力を持つ聖獣だった。
今ここで死ぬ訣にはいかぬのだ、自分にはどうしても正さなければならない過ちがある、それさえ叶えばどう喰われても文句はない。
魂を鷲掴みにされるが如く途轍もない恐怖を久方ぶりに感じ、歯を食い縛りながら、必死に拝み倒した。
≪聖女、死んだ、おまえのせい≫
そうだ。ワシが殺した。
≪神殿、死んだ、おまえのせい≫
そうだ。ワシが汚した。
≪正せ、この国、滅びる、前≫
海のように深い青の双眸が、冷ややかに念話で命じてきた。それが後に皆がこぞって褒めそやしてくれた契約の真相だった。
……すまない、アルリーネ。
日々、祈るように何度も唱えた愛おしい名前。真相を知れば、誰もが断罪し、唾棄するであろうこの愚か者を、果たしてお前なら許してくれるだろうか。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
つくづく愚かで、つくづく怖いもの知らずの若造だったと思う。
魔導学院を首席で卒業し、すぐさま神殿の魔導士として頭角を現したあの頃、自分は歴史に名を残す賢者になるのだと信じて疑わなかった。
生家は名門中の名門だ。父本人は政治にも社交にも才のない宮廷貴族の端くれだったが、母が水の選定公家当主の妹、両家共に親戚からは何人もの上級魔導士を輩出している。そして何より、父方は傍系だが、偉大な魔導士シャンレイ様を祖先に持つのだ。
母方の伯父である選帝公が方々に手を回してくれた御蔭で、学院を卒業後も面倒な聖女探しに駆り出されず、ひたすら好きな研究に没頭出来た。
多くの魔導士が全国各地へと送り出され閑散となった神殿で、普段なら上級魔導士に遠慮しなければならない稀覯本閲覧室へ自由に出入りし、神殿の奥に封印された魔法陣や魔術にも取り組める。
そうして見つけた秘術中の秘術。決して偶然などではない、これは自分の才があってこその快挙、と鼻高々だった。
「カドック様! 私めが、時間稼ぎをする術を見つけました!」
あの日、直属の上司は聖女様の部屋で、地方に送り出された魔導士たちの報告を淡々と読み上げていた。
どこそこの地で聖女が見つからなかったと聴かされても、目の前に腰掛けた聖女様が何か指示出来る話ではない。ただの慣習である。
年老いた聖女は質問する間も与えられず、困ったように皺だらけの手で膝の上に坐るヒキガエルを撫でていた。
断っておくが、本来は水の精霊の眷属といえば小さな青い蛙だ。間違ってもこんな薄汚れた色の、でこぼこと荒削りの醜い生き物であって良い訣がない。
「詳しく聞かせよ、シャンレイ」
そう、自分は偉大な魔導士の名を受け継ぎし者。こんな形式だけの報告よりも、よっぽど素晴らしい報せを持参してやったのだ。
上司のカドックも詰まらない業務を放り出し、先を促してくれた。
「こちらをご覧ください。私が禁書庫で見つけました、光を作り出す古代魔術でございます」
魔石を組み合わせ、ここをこうすれば光の柱になるのでは、と書面に描いた魔法陣を指差しながら説明する。
「だが光だけでは無理だ。精霊を捕まえなければ」
「はい。そちらも完璧でございます。神殿の最奥に封印されておりました秘術を利用すれば宜しいのです」
すっかり感嘆の声を挙げる上司の横で、老婆は相変わらず困ったように微笑んでいた。
「あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……」
「何をおっしゃっておられるのです。もしこのまま新たな聖女が見つからなければ、アヴィガーフェやシャスドゥーゼンフェが攻めて来るやもしれないのですぞ。
いえ、このままではすぐさま戦となるでしょう。これは画期的な発見です」
流石は上司だ。老婆と違って、話が早い。
魔術によって動物の死骸を『精霊の眷属』として見せかけ、偽の光の柱を上げて、新たな聖女が見つかったと発表すれば、世の安寧は保たれる。
即座にこの案へ理解を示した上司はやはり同じ貴族の一員。生まれた時から選ばれし者として、常に他国の動向まで見据え、何を切り捨てるべきかが判っている。
それに比べて、この老婆のなんと無教養なこと。北方の名もなき村で生まれ育った女ときたら、いつも我々貴族の顔色を窺い、まともな意見の一つも言えやしない。
老いさらばえた貴女などもう月に戻って頂いてよいのですよ、と心の中で嘲った。
「シャンレイ、他の者には報せたのか」
「いえ。まずはカドック様に、と思いまして」
聖女がこの場に居たのは数に値しない。
「そうか、最優秀生だけはあるな。機転が利く」
一瞬だけカドックの瞳が怪しげに光ったような気もしたが、見間違いだろうと片付けた。自分の父より少し若いこの上司は、神殿での地位こそ半ばだが切れ者として名を馳せている。
神殿長自らが聖女探しに出て行った今、実権を握っているのはこの男だ。小煩い魔導士評議会の目を盗み、自分の魔術を実際に試すには、彼の承認と助力が不可欠だった。
「聖女様もこのことは他言無用に願います」
男の口調こそ穏やかだったか、椅子に腰掛けた聖女を見下ろす目は有無を言わさぬ威圧感があった。無言で頷く聖女のなんと不様なこと。
かつて暮らした貧しい村の色褪せた肩掛けを後生大事に羽織り、田舎臭い大靴で無骨な足元を覆っている。季節毎に帝国シャスドゥーゼンフェから特注の布地を取り寄せている自分の祖母ならば、目に入れることすら拒否するであろう。
神殿を動かしているのは魔導士であって、聖女はお飾りに過ぎない。古の時代においては聖女なぞ存在せず、魔導士の前身である神官たちが神殿を切り盛りしていた。本来あるべき姿に戻るべきなのだ。
古代神殿の復興という崇高な夢に酔いつつ、自室に戻った。もうすぐ各地方から戻って来る上級魔導士たちも、この話を耳にすれば、さらに自分に一目置かざるを得まい。
もしやシャンレイ様の生まれ変わりではないのか、と子供の頃からよく言われたものだ。古代の秘術を復活させた魔導士ともなれば、否応なしに称賛の声も高まるだろう。
しかし何事も過信は禁物。万全を期すためにも、次は過去世を特定する魔術の研究をしてみるか。
いやいや、カドック様にご相談して、さらに神殿が必要とする魔術開発を優先すべきだろう。市民からの嘆願書なんざどうでもいいが、王宮側の魔道具開発要請は物によっては大金になる。
分厚い魔術書に手を伸ばしかけたとき、夕陽に染まった扉を上品に叩く音がした。
「只今開けます」
慌てて向かうと、廊下に立っていたのはカドック様の三女、メルヴィーナ様だった。
熟れた唇に潤った瞳、輝く太陽の金髪。まるで女神が降臨したのかとも見紛う美しさである。加えて洗練された優雅さに、隠しきれない知性。上司が常々『最愛の我が姫』と呼ぶのも頷けるというもの。
「お部屋にお招きしてくださらない?」
宮廷社交界の注目の的である少女は、返事を待たずに扉と自分の間からするりと中へ入って来る。甘く高価な造花の香りが鼻腔をくすぐった。
本が積み重なったこの部屋には、まともに坐れる場所がない。本来は来客をもてなす為の丸机と椅子から本の山と衣服を取り除き、寝台に移動させた。
「すみません、男の独り暮らしでして。一応、週に何度かは家の者が掃除に来るのですが」
「お気になさらないで。父の執務室も書類や本で足の踏み場がありませんもの」
小鳥のように可愛らしい笑い声を上げながら、持ってきたバスケットを机に置くと、グラスと瓶を中から取り出した。
「お父様ったら、ここ最近は神殿にずっと籠りっぱなしで家にも帰らないでしょう?」
「それは……神殿長や副神殿長の代行もなさっておいでですし」
「損な性分よねぇ。責任感が強過ぎるのだわ」
「優秀過ぎるのですよ」
「ふふ。貴方は判ってくださるのね」
メルヴィーナ様はこちらにもう一つの開いた椅子に坐るよう促し、真紅の液体をグラスに注ぐ。妙齢の乙女がこの部屋の主のように振る舞う様子は、悪い気がしなかった。
「これね、本当は父への差し入れだったのだけど」
「え、申し訳――」
「いいの。父が貴方に持って行って欲しいって。
なんでも凄い発見をされたのですって? この国を救う素晴らしい計画だとか」
カドック様の執務室や城の舞踏会では、彼女と出会ってもすれ違い様に軽く会釈するだけだった。だが今日はまるで英雄でも見るかのように、頬を赤らめてくれる。
「いえ、僕なんて。ただ先輩方がいらっしゃらなくて、空いた書庫や奥の部屋で研究し放題だったというか。あ、勿論、通常の業務はこなした上でなんですが」
「父も申しておりましたわ、貴方はお仕も完璧だって。自分の後を任せられるのは貴方くらいだって」
そんな大した者では。気恥ずかしくなって、グラスの液体を一気に飲み干した。勧められるままに、さらに注がれた酒に口を付ける。
いつもより妙に喉が焼けたが、女性と一対一で緊張しているせいだろう。
瓶に描かれた模様をもう一度確かめる。貴族の間で今流行りの高級葡萄酒で、伯父の家に行くとよく飲ませてもらった。味が異なるのは仕入れ商人が違うからだろうか、帝国産は管理の具合で同じ銘柄でも………………。
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遠くの方で、シャン……シャン……と馴染みのない金属音が微かに響く。澄み切った浄化の波長が薄っすらと幾重にも押し寄せた。
≪……ディラヌー……無事……か?≫
漸く意識を取り戻し、傍にいる筈の聖獣に何とか話し掛けようとする。だんだんと視界もはっきりしてきた。
腹が立つほどに清々しいこの空気。夜が明けたのだろう。人が殆ど訪れることのない禁忌の山は、王都の背後にありながらも俗世の喧騒を全身で拒絶しようとしていた。
なんじゃこれは。
足元には、老いた醜い男が両目を見開いたまま横たわっている。胸まで伸びっぱなしの白いひげ。口元には血糊。全身を包むのは蒼い闇の色に染まった外套。
これは――ワシの死体か。
あと三年は寿命が残されているのではなかったか。あれ程何度も調べたではないか。復活させた古代魔術の一つ、肉体の寿命を調べる高等技法。成功したと思ったのに、それすら勘違いだったというのか。
情けなさ過ぎて、笑えてくる。全ての労力と時間と情熱を注ぎ込み、生涯を捧げ、足掻きに足掻いて到達した地点がこの程度。愚かじゃ……愚か過ぎる。
そうは思わぬか、ディラヌー?
灰色の猫を探そうとするが、身体が動かない。肉体を見下ろして空中に浮かんだまま。まだ身体の感覚が残っているのだ。そしてその『身体』とやらは、金縛りに遭ったように微動だにしなかった。
だが背後には、ここ数年自分をじっと見守っていた相棒の気配が伝わってくる。いや、『見張っていた』と言うべきか。
最果ての国ヴァーレッフェ史上、最も偉大な魔導士シャンレイ様が契約した聖獣。
ワシが契約を交わして以来、周囲は惜しみない称讃を送ってきたが、あれは聖獣の気紛れと情けの御蔭であって自分の実力ではない。
危険な契約獣の召喚魔術に手を染めたのは、研究に行き詰ったからだ。独りで腐敗した神殿の連中に対抗するには限度がある。何の手立ても功を成さず、年月だけが手の平から零れ落ちていく。
イチかバチか。一年を費やし、命懸けで描いた魔法陣に現れたのは、自分よりも遥かに強大な魔術と魔力を持つ聖獣だった。
今ここで死ぬ訣にはいかぬのだ、自分にはどうしても正さなければならない過ちがある、それさえ叶えばどう喰われても文句はない。
魂を鷲掴みにされるが如く途轍もない恐怖を久方ぶりに感じ、歯を食い縛りながら、必死に拝み倒した。
≪聖女、死んだ、おまえのせい≫
そうだ。ワシが殺した。
≪神殿、死んだ、おまえのせい≫
そうだ。ワシが汚した。
≪正せ、この国、滅びる、前≫
海のように深い青の双眸が、冷ややかに念話で命じてきた。それが後に皆がこぞって褒めそやしてくれた契約の真相だった。
……すまない、アルリーネ。
日々、祈るように何度も唱えた愛おしい名前。真相を知れば、誰もが断罪し、唾棄するであろうこの愚か者を、果たしてお前なら許してくれるだろうか。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
つくづく愚かで、つくづく怖いもの知らずの若造だったと思う。
魔導学院を首席で卒業し、すぐさま神殿の魔導士として頭角を現したあの頃、自分は歴史に名を残す賢者になるのだと信じて疑わなかった。
生家は名門中の名門だ。父本人は政治にも社交にも才のない宮廷貴族の端くれだったが、母が水の選定公家当主の妹、両家共に親戚からは何人もの上級魔導士を輩出している。そして何より、父方は傍系だが、偉大な魔導士シャンレイ様を祖先に持つのだ。
母方の伯父である選帝公が方々に手を回してくれた御蔭で、学院を卒業後も面倒な聖女探しに駆り出されず、ひたすら好きな研究に没頭出来た。
多くの魔導士が全国各地へと送り出され閑散となった神殿で、普段なら上級魔導士に遠慮しなければならない稀覯本閲覧室へ自由に出入りし、神殿の奥に封印された魔法陣や魔術にも取り組める。
そうして見つけた秘術中の秘術。決して偶然などではない、これは自分の才があってこその快挙、と鼻高々だった。
「カドック様! 私めが、時間稼ぎをする術を見つけました!」
あの日、直属の上司は聖女様の部屋で、地方に送り出された魔導士たちの報告を淡々と読み上げていた。
どこそこの地で聖女が見つからなかったと聴かされても、目の前に腰掛けた聖女様が何か指示出来る話ではない。ただの慣習である。
年老いた聖女は質問する間も与えられず、困ったように皺だらけの手で膝の上に坐るヒキガエルを撫でていた。
断っておくが、本来は水の精霊の眷属といえば小さな青い蛙だ。間違ってもこんな薄汚れた色の、でこぼこと荒削りの醜い生き物であって良い訣がない。
「詳しく聞かせよ、シャンレイ」
そう、自分は偉大な魔導士の名を受け継ぎし者。こんな形式だけの報告よりも、よっぽど素晴らしい報せを持参してやったのだ。
上司のカドックも詰まらない業務を放り出し、先を促してくれた。
「こちらをご覧ください。私が禁書庫で見つけました、光を作り出す古代魔術でございます」
魔石を組み合わせ、ここをこうすれば光の柱になるのでは、と書面に描いた魔法陣を指差しながら説明する。
「だが光だけでは無理だ。精霊を捕まえなければ」
「はい。そちらも完璧でございます。神殿の最奥に封印されておりました秘術を利用すれば宜しいのです」
すっかり感嘆の声を挙げる上司の横で、老婆は相変わらず困ったように微笑んでいた。
「あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……」
「何をおっしゃっておられるのです。もしこのまま新たな聖女が見つからなければ、アヴィガーフェやシャスドゥーゼンフェが攻めて来るやもしれないのですぞ。
いえ、このままではすぐさま戦となるでしょう。これは画期的な発見です」
流石は上司だ。老婆と違って、話が早い。
魔術によって動物の死骸を『精霊の眷属』として見せかけ、偽の光の柱を上げて、新たな聖女が見つかったと発表すれば、世の安寧は保たれる。
即座にこの案へ理解を示した上司はやはり同じ貴族の一員。生まれた時から選ばれし者として、常に他国の動向まで見据え、何を切り捨てるべきかが判っている。
それに比べて、この老婆のなんと無教養なこと。北方の名もなき村で生まれ育った女ときたら、いつも我々貴族の顔色を窺い、まともな意見の一つも言えやしない。
老いさらばえた貴女などもう月に戻って頂いてよいのですよ、と心の中で嘲った。
「シャンレイ、他の者には報せたのか」
「いえ。まずはカドック様に、と思いまして」
聖女がこの場に居たのは数に値しない。
「そうか、最優秀生だけはあるな。機転が利く」
一瞬だけカドックの瞳が怪しげに光ったような気もしたが、見間違いだろうと片付けた。自分の父より少し若いこの上司は、神殿での地位こそ半ばだが切れ者として名を馳せている。
神殿長自らが聖女探しに出て行った今、実権を握っているのはこの男だ。小煩い魔導士評議会の目を盗み、自分の魔術を実際に試すには、彼の承認と助力が不可欠だった。
「聖女様もこのことは他言無用に願います」
男の口調こそ穏やかだったか、椅子に腰掛けた聖女を見下ろす目は有無を言わさぬ威圧感があった。無言で頷く聖女のなんと不様なこと。
かつて暮らした貧しい村の色褪せた肩掛けを後生大事に羽織り、田舎臭い大靴で無骨な足元を覆っている。季節毎に帝国シャスドゥーゼンフェから特注の布地を取り寄せている自分の祖母ならば、目に入れることすら拒否するであろう。
神殿を動かしているのは魔導士であって、聖女はお飾りに過ぎない。古の時代においては聖女なぞ存在せず、魔導士の前身である神官たちが神殿を切り盛りしていた。本来あるべき姿に戻るべきなのだ。
古代神殿の復興という崇高な夢に酔いつつ、自室に戻った。もうすぐ各地方から戻って来る上級魔導士たちも、この話を耳にすれば、さらに自分に一目置かざるを得まい。
もしやシャンレイ様の生まれ変わりではないのか、と子供の頃からよく言われたものだ。古代の秘術を復活させた魔導士ともなれば、否応なしに称賛の声も高まるだろう。
しかし何事も過信は禁物。万全を期すためにも、次は過去世を特定する魔術の研究をしてみるか。
いやいや、カドック様にご相談して、さらに神殿が必要とする魔術開発を優先すべきだろう。市民からの嘆願書なんざどうでもいいが、王宮側の魔道具開発要請は物によっては大金になる。
分厚い魔術書に手を伸ばしかけたとき、夕陽に染まった扉を上品に叩く音がした。
「只今開けます」
慌てて向かうと、廊下に立っていたのはカドック様の三女、メルヴィーナ様だった。
熟れた唇に潤った瞳、輝く太陽の金髪。まるで女神が降臨したのかとも見紛う美しさである。加えて洗練された優雅さに、隠しきれない知性。上司が常々『最愛の我が姫』と呼ぶのも頷けるというもの。
「お部屋にお招きしてくださらない?」
宮廷社交界の注目の的である少女は、返事を待たずに扉と自分の間からするりと中へ入って来る。甘く高価な造花の香りが鼻腔をくすぐった。
本が積み重なったこの部屋には、まともに坐れる場所がない。本来は来客をもてなす為の丸机と椅子から本の山と衣服を取り除き、寝台に移動させた。
「すみません、男の独り暮らしでして。一応、週に何度かは家の者が掃除に来るのですが」
「お気になさらないで。父の執務室も書類や本で足の踏み場がありませんもの」
小鳥のように可愛らしい笑い声を上げながら、持ってきたバスケットを机に置くと、グラスと瓶を中から取り出した。
「お父様ったら、ここ最近は神殿にずっと籠りっぱなしで家にも帰らないでしょう?」
「それは……神殿長や副神殿長の代行もなさっておいでですし」
「損な性分よねぇ。責任感が強過ぎるのだわ」
「優秀過ぎるのですよ」
「ふふ。貴方は判ってくださるのね」
メルヴィーナ様はこちらにもう一つの開いた椅子に坐るよう促し、真紅の液体をグラスに注ぐ。妙齢の乙女がこの部屋の主のように振る舞う様子は、悪い気がしなかった。
「これね、本当は父への差し入れだったのだけど」
「え、申し訳――」
「いいの。父が貴方に持って行って欲しいって。
なんでも凄い発見をされたのですって? この国を救う素晴らしい計画だとか」
カドック様の執務室や城の舞踏会では、彼女と出会ってもすれ違い様に軽く会釈するだけだった。だが今日はまるで英雄でも見るかのように、頬を赤らめてくれる。
「いえ、僕なんて。ただ先輩方がいらっしゃらなくて、空いた書庫や奥の部屋で研究し放題だったというか。あ、勿論、通常の業務はこなした上でなんですが」
「父も申しておりましたわ、貴方はお仕も完璧だって。自分の後を任せられるのは貴方くらいだって」
そんな大した者では。気恥ずかしくなって、グラスの液体を一気に飲み干した。勧められるままに、さらに注がれた酒に口を付ける。
いつもより妙に喉が焼けたが、女性と一対一で緊張しているせいだろう。
瓶に描かれた模様をもう一度確かめる。貴族の間で今流行りの高級葡萄酒で、伯父の家に行くとよく飲ませてもらった。味が異なるのは仕入れ商人が違うからだろうか、帝国産は管理の具合で同じ銘柄でも………………。
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