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しおりを挟む「……人の結婚を、あんな風に広めるなんてあんまりだわ」
「まだ怒っているのか?」
「!」
怒りに任せてつい口に出してしまえば、かすかな笑い声と共に、そっと髪を撫でられて背後から抱きしめられた。気づかなかったが、彼も起きていたらしい。
顔だけで振り返ると優しい触れるだけのキスが降ってくる。シアはころりと寝返りをうってエルナドに向き直った。
「そうよ、怒っているわ。相変わらず、あなたは気にしてらっしゃらないのね?」
そう、エルナドのこの態度もシアの怒りの原因のひとつなのだ。
もうひとりの当事者である彼が一緒に怒ってくれていれば、溜飲も下がるし王だってあんなに調子に乗って広めなかったかもしれないのに、と。
ぽす、と手でこぶしを作って愛しいその胸を軽く叩くと、また笑い声がしてシアはむすっとした。昨日肌を重ねたままのその素肌に飛び込み、批難もこめてぎゅうと抱きつく。
結婚してからのこの一年で、エルナドはずいぶんと感情豊かになった。以前は目を緩めるだけだったその笑みは、シアとふたりのときにはよく声を上げるようになったし、怒りも悲しみも比較的素直に出してくれるようになった。といってもエルナドが怒ることなどめったにない。そしてシア以外には、相変わらずの鉄面皮だけれど。
「きみは、意外とこういうことにかけては繊細なんだな」
「……意外と?」
そう言って自分の白金の髪を梳いてくる夫を、シアはムッと眉を寄せて見つめる。
しかし彼の言いたいこともわかる。そもそもの出会いのときからそして現在に至るまで、シアはエルナドにたしなめられ、心配され、時には蛮勇を叱られ、庇われながら生きているから。
「でも、最初はあなたも王様に怒っていたでしょう?」
「確かに、きみとの結婚にまつわる全てが、王の手のひらの上だったことについては面白くないと思っている。だが……」
「だが?」
「こうして私とシアの話が国中に広められていれば、他所からシアに手を出そうとする男はいなくなるだろう、と言われて、それはいいことだと判断しただけだ」
エルナドの言葉にシアは目を丸くした。
確かにあるときからエルナドからヴィンスフェルト王への怒りが消えたと思ったけれど、そんな理由で?
「そんな、理由で?」
思わず声に出すと彼は静かに頷いて、また、かすかに笑った。
「わたしに手を出す人なんて、いないと思うわ?」
「……。きみがそう思っているのなら、それでいい」
そう言って強く抱きこまれ、直接肌と肌が触れあう。続けて頭を撫でられて少し子ども扱いされている気がするけれど、彼に撫でられるのは好きなので、されるままになっていた。
ちらりと抱きしめられたまま、上目遣いに彼を見ると、言葉よりも雄弁な優しい瞳が見つめてくる。
思い返せば、最初に出会ってからずっとそうだった。
彼の瞳はとてもおしゃべりだ。思っていることをすぐに伝えてくれる。
黒に染まるその瞳の奥、藍色の光が優しくまたたくとき、シアは彼に愛されているのだと強く思う。困っているときのまたたきや、身体に触れてくるときのどこか少年のようなまっすぐな色。
けれど彼とは長い付き合いのはずのニグラードの使用人たちと話していても、「坊ちゃんの表情はわかりにくいですから」と言われることが多く、そのたびにシアはきょとんとしてしまうのだ。
こんなに分かりやすいのに、と思うが、それを口にしたことは一度もない。
妻である、わたしだけが知っていればいい。
ふふ、とそんなことを思い返して微笑むシアに、エルナドは少しだけ眉を顰めた。
「どうした」
「ううん――あなたが好きだなって、あなたと出会えてよかったって、改めてそう思っただけよ」
奥に青碧を潜ませる長い黒髪、藍の虹彩を宿した漆黒の瞳。
怜悧な顔立ちと他者を寄せ付けない雰囲気と長身も相まって、エルナドの外見は冷たく研ぎ澄まされた刃のように、美しくてどこか遠い。
けれどその鋭さの裏にある温もりを、わたしはもう知っている。
愛しい人。わたしの、誰よりも大切な夫。
「……シア」
ふいに呼ばれ、そっと視線を上げる。
「エルナド様?」
彼は少し眉をひそめ、優しく、けれど少しだけ咎めるような口調で言った。
「様付けはやめよう、とこの間話し合っただろう。もう夫婦なのだから」
注意するその言葉の裏に、たまらない甘さを感じてわたしは微笑む。
「……ふふ、そうね。ごめんなさい、エル」
頬が自然にゆるんでしまう。そしてそっと触れあう唇。
言葉はいらなかった。すべてが互いの眼差しの中にあるから。
「今日もお忙しいの?」
「休みだ、王城にもいかなくていい」
「……え? 本当に!? 嬉しいわ! わたし、あなたとしたいこと沢山あるの、聞いてほしいお話も」
「……そうか」
そっと髪を掻き上げられてこめかみに口づけられる。熱い唇とその仕草に、ぞくりと背中がざわめいてシアは静かに瞳を閉じた。
「でも、お話はあとにするわ」
紫の潤んだシアの瞳が、期待に満ちた色を乗せて目の前の愛しい漆黒を見つめる。
「いいのか?」
「ええ。あなたから欲しいものも、沢山あるもの……」
恥じらいながら囁くシアの頬に、エルナドの指先が触れた。
昨日も一晩愛し合ったというのに、身体はまだ彼を求めている。
そしてそれは、きっと彼も。
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