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(97)十字路
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あれからもう何日経っただろう。
スイレンが来る気配は全くない。
やっぱりガイアを連れてくるなんて無理だったのかな…。
それとも最初からそんなつもりはなかったとか。
なんとか自力で城を抜け出して、彼に会いに行くしかない。
私は、部屋で暇つぶしにとメイドが持って来てくれた刺繍に挑戦していた。
何もしていないと、嫌なことばかり考えてしまうから。
丸いわっかのような枠の中にピンと布を張って、そこに色糸を付けた針を刺していろんな模様を描いて行く。
刺繍は貴族の子女のたしなみだとかで、趣味にしている人も多いとか。
貴族のサロンでは刺繍の展覧会なども行われているそうだ。
だけど刺繍なんて初めてで、なかなかうまく行かない。
自分の女子力のなさにトホホ…となった。
見かねたメイドがステッチの仕方とか教えてくれたけど、見よう見まねでやっているうちに誤って刺繍針で自分の指を刺してしまった。
「痛っ…!」
「大丈夫ですか?すぐに手当てを!」
メイドは慌てて席を立った。
指先に鋭い痛みが走り、見ると血が出ていた。
私は思わず指を舐めた。
舐めた後の指を見ると、不思議なことに、刺した痕も痛みも消えていた。
「あれ…、痛くない」
舐めたらすぐ治った…?
なんだろう、これ。
後でちょっと検証しておこう。
私は薬を取りに行くと言って部屋を出て行こうとしたメイドを呼び留めた。
「大丈夫。もう平気だから!」
安心させようとメイドにそう言ったのに、部屋の隅に控えていたカミルが大声で怒鳴った。
「何をしている!早く薬を持って来い!サラ様の大事なお体に傷が残ったらどうする?おい、メイド!貴様、怪我をするようなものを持ってくるな!」
カミルはそう言って、メイドを酷く叱りつけた。
酷い言いがかりだ。
「…も、申し訳ございません…!」
「彼女のせいじゃないわ。私が不器用なだけよ。そんなに叱らないで」
「いいえ。サラ様に少しでも危険が及ぶようなことは許してはおけません」
「そんな大げさな…」
カミルに追い立てられるようにしてメイドは部屋を出て行った。
まだ怒りが収まらないといった感じで、彼は苛ついている。
なんだか皇帝に似て来たような気がする。
まだ若いのに、今からこんなんじゃ、将来が心配になっちゃうな…。
「お一人でこのようなことをなさっているのはやはりよろしくありません。サラ様にはお話相手が必要だと考えます。そのように皇帝陛下に進言しておきます」
「え…?いいよ、そんなの」
そう断ったつもりだったけど、それからしばらくして皇帝が私の部屋に女の子を連れてやって来た。
「サラ、これはフライン伯爵家の令嬢シリルという。近く、皇宮に上げておまえの側近にするつもりだ」
「シリル…さん?」
シリルという子は小柄で愛想の良い美少女だった。
年は私と同じか一つ下くらいに見えた。
だけどその名前、どこかで聞いた気がする。
どこで聞いたんだっけ…?
「初めまして、サラ様。シリル・フラインと申します。この度皇宮に上がることを許され、サラ様のお傍にお仕えさせていただく栄誉をいただきました。どうぞお見知りおき下さいませ」
シリルは軽やかに挨拶した。
彼女からは貴族独特の威圧的な感じはしなかった。
「シリルはおまえと同じようにマルガレーテの企みで陥れられ、精神の病にかかって都を離れていたのだ。おまえとは年も近いし、何より母上のお気に入りだった娘だ。話し相手にはちょうど良いだろう」
あ…!
そうか、シリルってマルガレーテから聞いた話に出てきた人だ。
確か行方不明とか言ってた気がするけど、そうじゃなかったんだ。
「シリルの父、フライン伯爵は余の強兵策の協力者でもある。現在は皇都警備隊を取り仕切っている武門の家なのだ」
「警備隊…?」
「そうだ。もしおまえが外出したいというのならシリルを連れて行くが良い。警備隊の連中が必死になって守ってくれるだろう」
「はい。こたびのことで、父が私専属の護衛隊を組織してくださいましたの。少し物々しくはございますが、安心していただけると思います」
シリルは微笑んで私に会釈をした。
ということは、この人は皇帝に協力的な臣下の娘ということだ。
それは大事にするわけだ。
よく見ると皇帝の背後に控えているカミルは、さっきからずっとシリルを見ていて、心なしか頬が赤い気がする。
カミルはこういうお姫様タイプが好みなんだろうか。
「ってことは、街に出かけてもいいんですか?」
「ああ、構わん」
「陛下も…ついて来たりします?」
「いや、余は公務がある故同行は出来ぬが…何だ、ついて来てほしいのか?」
「い、いいえ。いいです、結構です!」
「フッ、時間があれば出向いてやろう」
「来なくてもいいですってば!」
私と皇帝のやり取りを、シリルは驚いたような表情で見ていた。
きっと皇帝相手に無礼だとでも思っているんだろう。
その通り、この時のシリルは内心複雑な思いを抱えていた。
サラという娘の無礼な振る舞いに、なぜ皇帝は怒らないのかと疑問に思っていたのだ。
物怖じしない態度、言葉遣い。
この国で皇帝とこんな風に対等におしゃべりできる者は貴族にだっていない。
普通なら無礼者と一刀のもと断じられるだろう。
皇帝は機嫌を損ねるような振舞をした相手には女だろうと容赦はしないと聞く。だが今の皇帝は彼女の生意気さを楽しんでいるようにさえ見える。
スイレンからサラの話は聞いていたし、皇帝が夢中になっている女性だという認識はあった。
皇帝だけでなく、アレイス王国の王子まで虜にする異界人の女性。
それを聞いていたシリルは、どれだけ妖艶な美女なのだろうと、彼女なりに勝手に想像していた。
ところが今、目の前にいる女性は、決して派手な美女というわけではなく、むしろ地味な部類に入ると言っていい。
美しい黒髪と黒い瞳が印象的で、どこか異国を感じさせる顔立ちだが、女性を容姿で選ぶことの多い皇帝にしては、珍しい選択だと言わざるを得ない。
だが、シリルは感じていた。
サラは、あきらかに異質だった。
理屈ではない、纏うオーラのようなものが違う。
異界人だからなのだろうか、不思議な存在感のある女性だと思った。
何より、普段あまり笑わない皇帝が、こんな風に女性と会話をして笑顔を見せるということが信じられなかった。シリルと一緒に居る時だって、こんなに笑うことはない。
―この娘には勝てない。
シリルはそう直感した。
それでも夜毎、皇帝を慰めているのは自分だという自負がある。
愛人でもいいから、傍に置いてもらいたい。
そう願わないではいられなかった。
「じゃあ、明日、出掛けてもいいですか?」
「明日だと?随分急ではないか」
「べ、別に…いいじゃないですか」
私が言うと、皇帝は眉をしかめた。
怪しまれたかな?
そう思った時、思わぬ援護射撃があった。
「陛下、良いではありませんか。明日なら私も同行いたしますわ。父に言って、警備隊を出していただきますし、心配はいりません」
「…そうか?」
皇帝はシリルを見て、表情を緩ませた。
その時、私は皇帝とシリルがそういう関係であることを悟った。
「陛下、私もついて参ります。微力ながらお二方をお守り致します」
カミルもそう申し出たので、皇帝は態度を変えた。
「…わかった。ではカミル、何かあればすぐに報告せよ」
「はい、陛下」
シリルのおかげで助かった。
ふと、シリルと目が合った。
彼女はにこやかに微笑んでみせた。
嫌味な感じはしない。
同じ貴族でもマルガレーテとは対極にあるお嬢様だと思った。
少なくとも、皇帝の寵愛を得るために私を消そうと思うような人ではなさそうだ。
それだけに、彼女の朗らかな笑みを見ながら、私は内心ざわざわしていた。
別に、皇帝のことは恋愛対象ではないから、こんなことを言うつもりもないけど、私に好きだとか愛しているとか言ってくる一方で、この人を抱いているってどうなの?
本当に私のことを好きなら、どうして他の人を抱いたりできるの?
上流階級の人の倫理観が違うのはわかっているし、皇帝なんだからきっと後宮とか持って毎日違う人を抱いたりもするんだろう。でも私は、他の子を抱いた手で触れられるなんて考えるだけでも嫌だ。
それで好きとか言われても、絶対無理。
…遊び人だったガイアだって、私以外の女はもう抱かないって言ってくれた。
恋人ってそういうものじゃないの?
シリルはどう思っているんだろう。
この人も貴族だから、これが普通のことだと思ってるんだろうか。
見る限り、皇帝もまんざらでもなさそうだ。
私なんかより、シリルの方がずっとお似合いだと思う。
…よそう。
皇帝が誰と寝ようと私には関係のないことだ。
それよりも私にはやることがある。
皇帝とシリルが去った後、私は自分の部屋のバルコニーの手摺に白いシーツを掛けた。
それがサンドラから指示された、外出する前日の夜に行う合図だった。
カタリナからの伝言は、なんとしてでもアンゼル市内の大通りへ出掛けろ、というものだった。
日時は私が決めろと言われていたけど、なかなかタイミングがなくて結構時間がかかってしまった。急に明日出かけたいと言ったのは、一刻も早く決行したいという思いがあったからだ。
外出した後の具体的な内容は知らされていないけど、こんなところでじっとしているよりずっとマシだ。
翌日、宣言通り私は皇都アンゼルの中心部へと出掛けた。
晴天に恵まれたこの日、アンゼルの目抜き通りを中心に、一キロメートル以上に渡って市場が開かれていた。
そこには多くの市民や貴族たちが行き交い、値引き交渉したり商談したりする声が飛び、大盛況となっていた。
そんな人だかりの中、私は大勢の警備兵に囲まれてゾロゾロと大名行列みたいに歩いていた。
行列が歩みを進めると、市民たちは道を開けて脇に寄り、一斉に立ち止まってお辞儀をした。奴隷たちは土下座をさせられている。
私の後ろにはカミル、隣にはシリルがいる。
シリルの傍には日傘を差しかける侍女が付き従っている。
カミルはさっきから露骨にシリルばかりを目で追っている。わかりやすいなあ…。
最初、カミルは私たちに輿に乗るよう提案したのだけど、恥ずかしいからと断固拒否したので、徒歩で移動することになったのだ。
実はこれもサンドラからの指示の一つだった。
並んで歩いていると、シリルが話しかけて来た。
「サラ様はなぜ陛下のお心を受け入れませんの?あんなに愛してくださっているのに」
「…私には心に決めた人がいるんです。だから無理なんです」
「その方はどこにいらっしゃいますの?」
「…今は他の国に…」
「何か約束でもなさっていらっしゃるとか?」
「…いいえ」
「それは…心許ないことですわね」
シリルは少し悲しそうな表情をするだけで、押しつけがましく私を責めたりはしなかった。
行列は人々を掻き分けながら大通りを練り歩いて行く。
カタリナからの伝言では、大通りを中央の十字路に向かって歩けと言われているだけだった。
そこで何が起こるのかはわからない。
私が辺りを気にして歩いていると、ちょうど十字路に差し掛かった。
すると、どこからともなくグレープフルーツくらいの丸い果実が道を転がって来た。
果実を一つ拾い上げた兵士は、持ち主を探してきょろきょろと辺りを見回した。
すると、今度は大量の果実が私たちに向かって次々と転がって来た。
兵士たちはおろおろし、転がってくる果実を拾ったり避けたりして隊列が乱れた。
そうしていると、今度は十字路の前方から爆発音がした。
周囲はパニックになって、大勢の人々が大通りを逃げ惑った。
「何だ、一体どうした?」
カミルが声を上げて行列の前方へと確認しに走って行った。
あたりが騒然となる中、どこかで悲鳴が上がった。
「馬車が暴走しているぞ!危ない!避けろ!」
誰かの叫び声がしたかと思うと、十字路の脇の道から馬車が猛スピードで突っ込んできた。
警備兵らもそれを避けようとして馬車の前から逃げた。
その道の真ん中には、逃げ遅れた私一人だけが取り残された。
馬車は、私に向かって突っ込んできた。
「サラ様、危ない!」
警備兵に守られ、脇に逃げていたシリルが私に向かって叫んだ。
馬車は私の目の前スレスレのところを通過しようとした。
その時突然、馬車の扉が開いた。それと同時に中から飛び出してきた手に腕を掴まれ、馬車の中に引きずり込まれた。
「きゃあっ!」
扉が閉まると私を乗せた馬車は更にスピードを上げて通りを走り去った。
「サラ様!警備兵、後を追って!早く陛下に連絡を!」
シリルの叫び声が遠ざかって行く。
馬車は猛烈な勢いのまま走行して行った。
遠くでまた爆発音がした。
一体何が起こったの…?
「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」
揺れる馬車の中で、私を抱き起した男性はそう声を掛けて来た。
「手荒い真似をして申し訳ありません」
私にそう謝罪したのは、ウォルフだった。
スイレンが来る気配は全くない。
やっぱりガイアを連れてくるなんて無理だったのかな…。
それとも最初からそんなつもりはなかったとか。
なんとか自力で城を抜け出して、彼に会いに行くしかない。
私は、部屋で暇つぶしにとメイドが持って来てくれた刺繍に挑戦していた。
何もしていないと、嫌なことばかり考えてしまうから。
丸いわっかのような枠の中にピンと布を張って、そこに色糸を付けた針を刺していろんな模様を描いて行く。
刺繍は貴族の子女のたしなみだとかで、趣味にしている人も多いとか。
貴族のサロンでは刺繍の展覧会なども行われているそうだ。
だけど刺繍なんて初めてで、なかなかうまく行かない。
自分の女子力のなさにトホホ…となった。
見かねたメイドがステッチの仕方とか教えてくれたけど、見よう見まねでやっているうちに誤って刺繍針で自分の指を刺してしまった。
「痛っ…!」
「大丈夫ですか?すぐに手当てを!」
メイドは慌てて席を立った。
指先に鋭い痛みが走り、見ると血が出ていた。
私は思わず指を舐めた。
舐めた後の指を見ると、不思議なことに、刺した痕も痛みも消えていた。
「あれ…、痛くない」
舐めたらすぐ治った…?
なんだろう、これ。
後でちょっと検証しておこう。
私は薬を取りに行くと言って部屋を出て行こうとしたメイドを呼び留めた。
「大丈夫。もう平気だから!」
安心させようとメイドにそう言ったのに、部屋の隅に控えていたカミルが大声で怒鳴った。
「何をしている!早く薬を持って来い!サラ様の大事なお体に傷が残ったらどうする?おい、メイド!貴様、怪我をするようなものを持ってくるな!」
カミルはそう言って、メイドを酷く叱りつけた。
酷い言いがかりだ。
「…も、申し訳ございません…!」
「彼女のせいじゃないわ。私が不器用なだけよ。そんなに叱らないで」
「いいえ。サラ様に少しでも危険が及ぶようなことは許してはおけません」
「そんな大げさな…」
カミルに追い立てられるようにしてメイドは部屋を出て行った。
まだ怒りが収まらないといった感じで、彼は苛ついている。
なんだか皇帝に似て来たような気がする。
まだ若いのに、今からこんなんじゃ、将来が心配になっちゃうな…。
「お一人でこのようなことをなさっているのはやはりよろしくありません。サラ様にはお話相手が必要だと考えます。そのように皇帝陛下に進言しておきます」
「え…?いいよ、そんなの」
そう断ったつもりだったけど、それからしばらくして皇帝が私の部屋に女の子を連れてやって来た。
「サラ、これはフライン伯爵家の令嬢シリルという。近く、皇宮に上げておまえの側近にするつもりだ」
「シリル…さん?」
シリルという子は小柄で愛想の良い美少女だった。
年は私と同じか一つ下くらいに見えた。
だけどその名前、どこかで聞いた気がする。
どこで聞いたんだっけ…?
「初めまして、サラ様。シリル・フラインと申します。この度皇宮に上がることを許され、サラ様のお傍にお仕えさせていただく栄誉をいただきました。どうぞお見知りおき下さいませ」
シリルは軽やかに挨拶した。
彼女からは貴族独特の威圧的な感じはしなかった。
「シリルはおまえと同じようにマルガレーテの企みで陥れられ、精神の病にかかって都を離れていたのだ。おまえとは年も近いし、何より母上のお気に入りだった娘だ。話し相手にはちょうど良いだろう」
あ…!
そうか、シリルってマルガレーテから聞いた話に出てきた人だ。
確か行方不明とか言ってた気がするけど、そうじゃなかったんだ。
「シリルの父、フライン伯爵は余の強兵策の協力者でもある。現在は皇都警備隊を取り仕切っている武門の家なのだ」
「警備隊…?」
「そうだ。もしおまえが外出したいというのならシリルを連れて行くが良い。警備隊の連中が必死になって守ってくれるだろう」
「はい。こたびのことで、父が私専属の護衛隊を組織してくださいましたの。少し物々しくはございますが、安心していただけると思います」
シリルは微笑んで私に会釈をした。
ということは、この人は皇帝に協力的な臣下の娘ということだ。
それは大事にするわけだ。
よく見ると皇帝の背後に控えているカミルは、さっきからずっとシリルを見ていて、心なしか頬が赤い気がする。
カミルはこういうお姫様タイプが好みなんだろうか。
「ってことは、街に出かけてもいいんですか?」
「ああ、構わん」
「陛下も…ついて来たりします?」
「いや、余は公務がある故同行は出来ぬが…何だ、ついて来てほしいのか?」
「い、いいえ。いいです、結構です!」
「フッ、時間があれば出向いてやろう」
「来なくてもいいですってば!」
私と皇帝のやり取りを、シリルは驚いたような表情で見ていた。
きっと皇帝相手に無礼だとでも思っているんだろう。
その通り、この時のシリルは内心複雑な思いを抱えていた。
サラという娘の無礼な振る舞いに、なぜ皇帝は怒らないのかと疑問に思っていたのだ。
物怖じしない態度、言葉遣い。
この国で皇帝とこんな風に対等におしゃべりできる者は貴族にだっていない。
普通なら無礼者と一刀のもと断じられるだろう。
皇帝は機嫌を損ねるような振舞をした相手には女だろうと容赦はしないと聞く。だが今の皇帝は彼女の生意気さを楽しんでいるようにさえ見える。
スイレンからサラの話は聞いていたし、皇帝が夢中になっている女性だという認識はあった。
皇帝だけでなく、アレイス王国の王子まで虜にする異界人の女性。
それを聞いていたシリルは、どれだけ妖艶な美女なのだろうと、彼女なりに勝手に想像していた。
ところが今、目の前にいる女性は、決して派手な美女というわけではなく、むしろ地味な部類に入ると言っていい。
美しい黒髪と黒い瞳が印象的で、どこか異国を感じさせる顔立ちだが、女性を容姿で選ぶことの多い皇帝にしては、珍しい選択だと言わざるを得ない。
だが、シリルは感じていた。
サラは、あきらかに異質だった。
理屈ではない、纏うオーラのようなものが違う。
異界人だからなのだろうか、不思議な存在感のある女性だと思った。
何より、普段あまり笑わない皇帝が、こんな風に女性と会話をして笑顔を見せるということが信じられなかった。シリルと一緒に居る時だって、こんなに笑うことはない。
―この娘には勝てない。
シリルはそう直感した。
それでも夜毎、皇帝を慰めているのは自分だという自負がある。
愛人でもいいから、傍に置いてもらいたい。
そう願わないではいられなかった。
「じゃあ、明日、出掛けてもいいですか?」
「明日だと?随分急ではないか」
「べ、別に…いいじゃないですか」
私が言うと、皇帝は眉をしかめた。
怪しまれたかな?
そう思った時、思わぬ援護射撃があった。
「陛下、良いではありませんか。明日なら私も同行いたしますわ。父に言って、警備隊を出していただきますし、心配はいりません」
「…そうか?」
皇帝はシリルを見て、表情を緩ませた。
その時、私は皇帝とシリルがそういう関係であることを悟った。
「陛下、私もついて参ります。微力ながらお二方をお守り致します」
カミルもそう申し出たので、皇帝は態度を変えた。
「…わかった。ではカミル、何かあればすぐに報告せよ」
「はい、陛下」
シリルのおかげで助かった。
ふと、シリルと目が合った。
彼女はにこやかに微笑んでみせた。
嫌味な感じはしない。
同じ貴族でもマルガレーテとは対極にあるお嬢様だと思った。
少なくとも、皇帝の寵愛を得るために私を消そうと思うような人ではなさそうだ。
それだけに、彼女の朗らかな笑みを見ながら、私は内心ざわざわしていた。
別に、皇帝のことは恋愛対象ではないから、こんなことを言うつもりもないけど、私に好きだとか愛しているとか言ってくる一方で、この人を抱いているってどうなの?
本当に私のことを好きなら、どうして他の人を抱いたりできるの?
上流階級の人の倫理観が違うのはわかっているし、皇帝なんだからきっと後宮とか持って毎日違う人を抱いたりもするんだろう。でも私は、他の子を抱いた手で触れられるなんて考えるだけでも嫌だ。
それで好きとか言われても、絶対無理。
…遊び人だったガイアだって、私以外の女はもう抱かないって言ってくれた。
恋人ってそういうものじゃないの?
シリルはどう思っているんだろう。
この人も貴族だから、これが普通のことだと思ってるんだろうか。
見る限り、皇帝もまんざらでもなさそうだ。
私なんかより、シリルの方がずっとお似合いだと思う。
…よそう。
皇帝が誰と寝ようと私には関係のないことだ。
それよりも私にはやることがある。
皇帝とシリルが去った後、私は自分の部屋のバルコニーの手摺に白いシーツを掛けた。
それがサンドラから指示された、外出する前日の夜に行う合図だった。
カタリナからの伝言は、なんとしてでもアンゼル市内の大通りへ出掛けろ、というものだった。
日時は私が決めろと言われていたけど、なかなかタイミングがなくて結構時間がかかってしまった。急に明日出かけたいと言ったのは、一刻も早く決行したいという思いがあったからだ。
外出した後の具体的な内容は知らされていないけど、こんなところでじっとしているよりずっとマシだ。
翌日、宣言通り私は皇都アンゼルの中心部へと出掛けた。
晴天に恵まれたこの日、アンゼルの目抜き通りを中心に、一キロメートル以上に渡って市場が開かれていた。
そこには多くの市民や貴族たちが行き交い、値引き交渉したり商談したりする声が飛び、大盛況となっていた。
そんな人だかりの中、私は大勢の警備兵に囲まれてゾロゾロと大名行列みたいに歩いていた。
行列が歩みを進めると、市民たちは道を開けて脇に寄り、一斉に立ち止まってお辞儀をした。奴隷たちは土下座をさせられている。
私の後ろにはカミル、隣にはシリルがいる。
シリルの傍には日傘を差しかける侍女が付き従っている。
カミルはさっきから露骨にシリルばかりを目で追っている。わかりやすいなあ…。
最初、カミルは私たちに輿に乗るよう提案したのだけど、恥ずかしいからと断固拒否したので、徒歩で移動することになったのだ。
実はこれもサンドラからの指示の一つだった。
並んで歩いていると、シリルが話しかけて来た。
「サラ様はなぜ陛下のお心を受け入れませんの?あんなに愛してくださっているのに」
「…私には心に決めた人がいるんです。だから無理なんです」
「その方はどこにいらっしゃいますの?」
「…今は他の国に…」
「何か約束でもなさっていらっしゃるとか?」
「…いいえ」
「それは…心許ないことですわね」
シリルは少し悲しそうな表情をするだけで、押しつけがましく私を責めたりはしなかった。
行列は人々を掻き分けながら大通りを練り歩いて行く。
カタリナからの伝言では、大通りを中央の十字路に向かって歩けと言われているだけだった。
そこで何が起こるのかはわからない。
私が辺りを気にして歩いていると、ちょうど十字路に差し掛かった。
すると、どこからともなくグレープフルーツくらいの丸い果実が道を転がって来た。
果実を一つ拾い上げた兵士は、持ち主を探してきょろきょろと辺りを見回した。
すると、今度は大量の果実が私たちに向かって次々と転がって来た。
兵士たちはおろおろし、転がってくる果実を拾ったり避けたりして隊列が乱れた。
そうしていると、今度は十字路の前方から爆発音がした。
周囲はパニックになって、大勢の人々が大通りを逃げ惑った。
「何だ、一体どうした?」
カミルが声を上げて行列の前方へと確認しに走って行った。
あたりが騒然となる中、どこかで悲鳴が上がった。
「馬車が暴走しているぞ!危ない!避けろ!」
誰かの叫び声がしたかと思うと、十字路の脇の道から馬車が猛スピードで突っ込んできた。
警備兵らもそれを避けようとして馬車の前から逃げた。
その道の真ん中には、逃げ遅れた私一人だけが取り残された。
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「サラ様、危ない!」
警備兵に守られ、脇に逃げていたシリルが私に向かって叫んだ。
馬車は私の目の前スレスレのところを通過しようとした。
その時突然、馬車の扉が開いた。それと同時に中から飛び出してきた手に腕を掴まれ、馬車の中に引きずり込まれた。
「きゃあっ!」
扉が閉まると私を乗せた馬車は更にスピードを上げて通りを走り去った。
「サラ様!警備兵、後を追って!早く陛下に連絡を!」
シリルの叫び声が遠ざかって行く。
馬車は猛烈な勢いのまま走行して行った。
遠くでまた爆発音がした。
一体何が起こったの…?
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