坂の上の本屋

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坂の上の本屋には父がいる

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 3年前、両親が離婚した。そのとき私は小学生、姉は中学生だった。
 父が突然「脱サラして、坂の上にある本屋を引き継ごうと思うんだ」などと言い出したからである。そしてそれはすでに会社を辞める手続きをした後で、本屋側の手続きもすべて済ませた事後報告であった。

 父は少し変わった人で、真面目な顔をしながらも、たまにそういう突拍子もないことをかます人だった。でもそういうよくわからないところをひっくるめて、母は父を大いに好いて結婚していたから、大抵は笑ってすまされてきたのであった。
 だがあの日は様子が違った。母は握り拳を震わせ、そして声を震わせて怒った。
「あなたはどうしていつもそう、なんでも勝手に決めてしまうんですか。家族なんですから、大切なことは話し合ってから決めてほしいんですよ。私たちは、あなたのお供の犬や猿や雉じゃないんですよ」
と。
「……俺は桃太郎か」
 思わず言ってしまった父に、歯を食いしばっていた母は耐えかねたのかポロポロと涙を溢し、しまいにはわあわあ声を上げて泣き出してしまった。

 姉と私は、母の怒る姿も泣く姿も人生で初めて見た。母は父のことが大好きな人で、大抵のことは笑って流してきたのだから。
 これは由々しき事態に違いなかった。私は母に引っ付いた。我に返ったように、姉も母に引っ付いた。
「お父さん、この話の流れで『桃太郎か』はよくないよ」
「うん、真面目に話してるのに今のはないわ。謝ったほうがいい」
 謝ったが、母の怒りは冷めなかった。
 それはそうだ。すべてを勝手に決められた後なのだ、謝られたとて現実はなにも変わらない。
 両親の離婚は、限界に達した母との大喧嘩(といっても、俯き謝る父を泣きじゃくる母が一方的になじり続けただけだったが)の末に出た結論だった。

 我々姉妹は母に引き取られ、予定よりひと月早く、そして予定と違い父抜きで、母方の祖母の家へと引っ越した。それは、父が引き継ぐと言った坂の上にある本屋の3軒隣にある、古びた一軒家であった。

「お父さーん、駄目だよもっとファッション誌とか置かないとさ。若い子が来てくれないよ?」
 学校の帰りに本屋に寄るので、なんだかんだで父とはほぼ毎日会っている。
 姉も祖母も、そして母もここで本を買う。なぜなら、家がこの3軒隣だからだ。他にも本屋はあるが、学校の向こう側で遠回りになるからちょっと面倒くさい。
 離婚しているというのに、あのときの大喧嘩(といっても、母が一方的に怒り狂っただけだったが)が嘘のように、父も母も顔を合わせれば昔と変わらず穏やかな世間話をしたりするし、たまにだが家族で一緒に食事もする。
 まるでなにごともなかったかのようだが、3年前まで家族で住んでいた坂の下の一軒家にはもう別の家族が住んでいるし、本屋に寄った後の私も坂は下らず、反対方向へと歩いて祖母の待つ家へと帰るのだった。

「ねーえ! お父さん! 聞いてるー??」
「……聞いてるよ、雑誌だっけ?」
「そう! 少ないよー、もっと増やそうよー」
首は振らずに手をはためかせた。こういうとき、父は必ず首ではなく手を振る。首を振ると、本が読みづらくなるからだ。
「いらないいらない、そんなもん。いいんだよ、どうせ立ち読みするだけで誰も買いやしないんだから」
「そんなことないでしょ、ちゃんと買う子もいるったら」
はいほら私もお客さんだよお会計して! とレジにテレビ雑誌を置くと、父は組んでいた足を下ろし本に栞を挟み、どっこいしょとおじさんくさい掛け声を呟き立ち上がった。

 はいどうも、と言いながらレジに立つと、眉間に皺をよせ呆れた声を出した。
「テレビの本? テレビ欄なら新聞に書いてあるよ……」
「新作ドラマの特集が見たいんだもん。ていうか見てよ表紙! カッコいいでしょ、私この俳優さん推してるの! 次のドラマの主演やるんだよ!」
はいちょうどお預かりします、と慣れた手つきでレジを打ち、レシートを渡され私は財布にしまった。
 以前に「娘なんだしさー、タダにはならないの?」と訊いたら、「いつでもタダで読めると思ったら、きっとなんにも読まなくなるよ」と言われてしまった。(意味わかんない)と思いながら、結局私はきちんと払い、父もキッチリお釣りをくれる。

 私が指し示した表紙を見て、父は顎に手を当て首を捻った。
「若い芸能人って、皆して似たような顔してないか」
「そんなことないよ……。おじさんってすぐそういうこというよね、やめなよおじさんくさいから」
れっきとしたおじさんなんだから仕方ないだろ、と肩を竦められた。
「テレビの本じゃなくて、たまには小説とか読んだらどうだ。
 お母さんなんか、お前くらいのときはたくさん読んでたよ。アイドルの話なんてされたことなかったけどなぁ」
「!? ちょっと! この人、アイドルじゃないよ!? お父さんが言ってるのは私が前に推してた人でしょ! この人は俳優さんなの!」
「俳優もアイドルもおじさんには区別つかないよ」
確かに顔はアイドル並に綺麗なんだけどさ、と私が言いかけると、
「袋は? いる?」
「うん」
はいまいどあり、と渡され私は紙袋を小脇に挟んだ。父は欠伸をかみ殺しレジ後ろの椅子へと座り直した。
 改めて本を開こうとしていたので、私はレジに両肘をかけ顎を乗せた。

「こんなのんびり店番しててさ、万引きとかされないの? お父さん本読むと周り見えなくなっちゃうじゃん」
「残念なことに、棚からゴッソリなくなってるときがある」
「げーっ最悪!」
「まさしく、げーっ最悪! だよ。腹も立つし商売あがったりだし困ったもんだ。その代わりその苛立ちは、捕まえたやつに全部ぶつけることにしてるから」
泣こうがわめこうが親が頼もうが暴れようが、父は構わず警察と学校に通報し出禁にする。次来たら殺すとまで言う。
 近隣の学校の人間はそれを知っているから、どんなに悪ぶっていてもここで万引きなんてしない。たまに捕まるのは、大抵どこかよそから来た人だ。
「お父さんて、坊主憎けりゃ袈裟ごと坊主を八つ裂きにするタイプだよね」
「ひどい言われようだな……。寂れた本屋狙うような犯罪者風情に、情けをかけてやる義理はないだろ」
と足を組み直した。

 店内は狭かった。本棚を置きすぎて通路が狭いのだ。ずっと前からだ。
 これは祖母に聞いた話だが、父も母もこの地元育ちで、いま私が通っている中学に通い、そして姉の通っている高校に通っていたそうである。
 学年も違うため、父と母は学校内ではまるで関わりがなかったそうだが、ふたりともたまたまこの本屋に通っていたそうだ。
 DVが原因で離婚した実母から口酸っぱく「男は優しくないと駄目よ」と言われ続け、暴れる実父しか身近な男の記憶がなかった若い頃の母は、周りの男が皆、大きく恐ろしく見えていたそうな。
 されど本屋へ行くと、鼻歌混じりのおめでたい男子学生がいたらしい。
 本棚を見上げる学ラン姿の、いつもご機嫌なその横顔に、鼻歌混じりに店を出て行くその楽しげな後ろ姿に、若かりし母はコロッとやられた。
 どうもうちの学校の先輩らしい、ふたつ上らしいというのはなんとか突き止めたものの、内気な母は一度も彼に声がかけられなかった。彼が中学を卒業した日も、そして高校を卒業していく最後の日でさえも、店を出て行くご機嫌な姿を見つめ見送るだけで精一杯だったのだ。
 ……告白どころか、一度も、声すら掛けられなかった。
 きっと自分の意気地のなさに嫌気がさしたんだろうね、自分の卒業式でもないのに泣きながら帰ってきたんだよ、とミカンの皮を口に含みながら祖母は言った。

 もしまた会えたら、もしも出会えたら、きっと自分から声を掛けよう、と母は心に決めていたようだ。

 いつもの習慣で、春休み明けも母は本屋に向かった。
 そして運命を確信する。件の彼は卒業後も同じ本屋にいたのだ。
 大学生となりアルバイトとして雇われていた彼は、本屋のびっくりするほどダサいエプロンを身につけ、されど相変わらずどこか楽しげな様子でバイト業に勤しんでいた。

 これを逃したら、一生後悔してしまう。声を掛けると決めた母は、まずなんと声を掛けるべきかについて、本屋で小一時間悩んだ。
 ロクに読みもしないのに、母は彼におススメの小説を訊くことにした。だが話したこともないのである、やっぱり無理だわ明日にしよう……と涙目で店を出かけたら実母にぶつかった。
 目に涙を浮かべた娘を見て目を丸くし、
「あらあなたなんにも買ってないじゃないの、なにか買いに来たんじゃないの?
 あっ! どうせ恥ずかしくて探してる本の場所が訊けなかったんでしょう、いいわお母さんが店員さんを呼んであげる、でも自分で訊くのよ?」
と捲くし立て、すみません店員さーーんと声を掛けたのが母の想い人、そう、若かりし頃の我が父である。
 何を探しているわけでもないんです、なにかおススメの小説はありますか……とモソモソと訊かれた父は目を輝かせ、あれこれととんでもない量を勧めはじめた。その笑顔に押されるように、母は勧められるものを勧められるままに買ってしまったそうである。
 雑誌ばかり見てまともな読書習慣のなかった母は、その日からその山を必死になって読み耽った。一冊読み終わるたび、バイト終わりの父をつかまえ、丁寧に感謝と感想を述べた。父は「もう読んだの、おススメした甲斐があるなぁ」とそれはそれは喜んだ。
 ――あの、よかったらまた、おススメを教えてください……。
と、母は言った。
 母は父と話したい一心で本を読んでいた。それは、母なりのアピールであった。
 だが父はびっくりするほどニブい人で、そんな健気な母を(この子はすごい読書量だな、俺も負けていられない)と思っていたそうである。馬鹿じゃん。
 そんなこんなで仲良くなり、付き合い、そして結婚に至ったそうだ。
 この話を飽きもせず幾度となく繰り返す祖母は、この話をしている時だけは色んな不安が吹き飛ぶのか、いつも本当に嬉しそうで得意げである。
 だって私は恋のキューピッドなのよ、素敵でしょう? と誇らしげに胸を張る。

 つまりこの本屋は、いわば両親の思い出の場所というやつである。
 娘の私としては、そんな場所に自分が通っていることがなんだか気恥ずかしくも感じるが、変わり者の父と穏やかな母らしい良い出会いだと思う。

 ここは、父が子供のころからの気に入りの本屋だと聞いている。学生の頃はもちろん、社会人になっても、母と結婚して姉や私が生まれてからも通い続けた場所だ。
 姉と私が「ねー! お父さん、なにか本を買って」と言うと、父はどれだけ熱中していようが本から顔を上げ「よし、自転車を準備しなさい」と言い立ち上がるのだった。
 汗だくになりながら立ち漕ぎで坂を上ると、そこにはお爺さんがひとりでやっている寂れた本屋があった。
 学校に近い本屋だからと学生が喜ぶような漫画や雑誌をたくさん置いていて、姉や私のような子供も来るので絵本も置いていて、でも父のような小説好きも喜ぶようにと話題の新書も必ず入荷していた。
 狭い店内に犇めき合うよう並んだ本棚を眺め、そこに詰め込まれた本を見やる父の横顔はいつも子供のように楽しそうだった。
 私も姉も、別に父のように本が好きだったわけではない。父似と言われる私たちだが、その辺は母に似ていた。
 本が欲しいと言うと父が喜ぶから、本屋に行くと父が嬉しそうだから、どんな本を選んでも父が褒めてくれるから。私たちが好きなのはあくまで父であり、本と本屋は間接的に好きなだけだったのだ。

 本屋のお爺さんは優しい人だった。小さな子供には帰りに飴をくれたし、傘を忘れた学生にはビニール傘を貸し、店じまいの時間が過ぎても雨宿りをさせてあげたりしていた。
 万引きした学生がいても、泣いて謝ると「もうこんなことしたら駄目だよ」と言って警察には引き渡さなかった。何度同じ子に万引きをされても、謝ると放免にしてしまうのだった。そのうち、万引きはどんどん増え、本の扱いも雑になり汚されたり破られたりするようになった。
 お爺さんはもうおじいさんだったから、走って逃げられると追い掛けられない。それに、謝罪の言葉や更生を信じて許したものを裏切られると、やっぱり傷つくらしかった。
 子供の私の目から見ても、年々元気を失い、小さくなっていくように見えた。

「……いやぁ、もう年だしね。店を畳もうかと思うんだ。君にはとってもお世話になった。いままでたくさん通ってくれて、本当にありがとう」
と言われた父は、母にも相談せずお爺さんを説き伏せて店を継ぐことにし、勤めていた会社まで辞めてしまった。
 父が最初にしたのは、万引き少年を片っ端から捕まえることだった。泣こうがわめこうが土下座しようが、怒りに燃えた目をして「自業自得だろう」と突っぱねた。
「~~大人げないオッサンだな! 前の爺さんは許してくれたぞ!」
と少年が逆ギレすると、
「大人げなくて結構だ、俺は万引きをするやつが殺人犯より嫌いだ。次また来たら俺がお前を殺す」
と言い放ち、ちょうど到着した警察にドン引かれ、そして「気持ちはわかるけど殺害予告は駄目です」と怒られていた。

 店内をプラプラしていたら、窓にぽつりと雨粒がついた。見る間にしとしとと降りだしてしまった。
「ねぇお父さーん」
「まだいたのか、早く帰りなさい。おばあちゃんが探しに出ちゃうだろ」
両親の離婚前から、祖母は誰かを心配してその辺を出歩き、迷子になってしまうことがあった。
 年を経るごとに、その頻度は目に見えてさらに増えていた。皆で家にいても、雨だから孫ちゃんたちを迎えに行かなくちゃ、娘ちゃんにお弁当を渡しに行かなくちゃと言って、どこかへ出て行こうとする。
 そんな大変な最中に父が脱サラをキメてしまったものだから、受け入れられる現実の許容量を越えた母は泣いてしまったのだ。
 いま思えばあのときの父の判断は、母の負担を減らしたいというのが理由のひとつにあったのだと思う。離婚してからも、一緒になっておばあちゃんを探してくれるのが何よりの証拠だった。なんなら、会社員のときより本屋になってからの方が、張り紙をして店を閉めて探しに出られることが多くなった。
 父に連れられる祖母は「あぁよかった、優しい人で。どうかあの子をお願いします、あの子はあなたのことが大好きなんです。あっ、私が言ったってことは内緒ですよ」と父の手を握ってお願いしていたりする。
「……もちろんです、なんにも心配はいりませんよ」
と応える父はいつも変わらず、優しかった。
 きっと、私たちの生まれるずっと前にも、同じやり取りをしたことがあったのだと思う。

「ほらほら、雨が強くなってきたじゃないか」
「可愛い娘が濡れたら可哀想でしょ、雨宿りくらいさせてよ」
溜め息を飲み込む音は、すぐに雨音に掻き消えた。

「――お父さん」
「うん?」
「お母さん、もう怒ってないよ。言いすぎたって言ってた。
 あの日はおばあちゃんがなかなか見つからなくて、いつもよりずっと疲れてたんだって。いつもはお父さんも探しに行ってくれるのに、なんで今日は連絡がつかないんだろうって思ってたら、帰ってきて突然あんな話が出たから腹が立っちゃったんだって」
「……わかってるよ、大丈夫」
じゃあなんでさ、と思った。

「ここはお母さんにとっても大事な場所だったのにって言ってた。
 私もね、この本屋さん好きだよ。
 別に本屋さんのままでいいんだよ、お父さん。さっさとお母さんと再婚しなよね」

 父は本から顔も上げなかった。
「……あれはきっかけになっただけなんだよ。
 お父さんは、また同じことをしてしまう気がする。あんなに温厚な人をあんなに怒らせて泣かせるなんて、よくなかった」
どこかでずっと、勝手しても許してくれるって思ってたんだろうな、傲慢なことだ、と言った。
「えーー? シレっとした顔してたじゃんっ」
「シレっとして見えたのか。怖すぎて声も出なかったんだよ」
お母さんが怒るとこなんて初めて見たから、と言われて笑ってしまった。お父さんすら見たことがなかったのか。
 本棚に手をかけ通路の向こう側を覗き込むと、父の趣味なのか、海外作家の棚が幅を利かせていた。はたして売れるのかなーと心配になった。この辺の学生は、こういったものはあまり読まない気がする。

「……。どうもさ、お父さんはちょっと勝手がすぎるみたいなんだ」
「え!? やだー、お父さんてば! 今頃気づいたの?」
「うわ……、お母さんが来てるのかと思った。ソックリじゃん、コワ」
水の滴るそれを傘立てに挿しながら、目を丸くして姉が入ってきた。
 その手にはもう一本傘があり、ずいと私に差し出した。
「あんた傘忘れたでしょ。
 3軒先なんだから、このくらいの雨は走りなさいよね。おばあちゃんが心配して、探しに行くって言い出して大変なんだから」
「だって、こんな雨の日にお父さん一人にしたくないんだもん。寂しいでしょ、雨だとお客さんだって来ないしさ。私がいる方がお父さんだって嬉しいよねー?」
「はいはい。嬉しい嬉しい」
「ほら! お父さんすっごい喜んでる!」
姉は私の手を取り、携えて来た傘を無理やり持たせた。
「いいから帰るよ。明日は私が来るんだから、もっと嬉しいよねー」
じゃ、またねお父さん、と姉は私を引っ張りながらバイバイと手を上げた。
 父がぼそりと呟いた。
「君たちって優しいしいい子なんだけど、自己肯定感がすこぶる高いよね……」
振り向いて口を開いたのは同時だった。

「「誰に似たと思ってるんですかー?」」

Fin.
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